愛しい人よ 我々の夏は、いまや過ぎてしまった 、愛しい人よ
すっかり忘れていたのである、夏が終われば秋になり、そのうち冬が来ることを。そして、馬上の冬は、実の冬よりももっと早くにやって来ることを。
わたしが何の話をしているのか、察しのいい方はもうおわかりだろう。
原付の話である。
寒いのだ。原付に乗るのが。
原付が直った喜びのあまり、夫にも自らすすんで「タバコ切れたん? 買うてきたろか?」などと申し出て、免許取りたての高校生(四割がヤンキー)か免許はないが動かし方を覚えたばかりの中学生(全員ヤンキー)のように原付で出掛けたがっていたわたしだったが、あまりにも長いこと乗らなかったので、「冬の原付ライド」というこの世の地獄の存在を忘れ去っていた。
原付というのは、見ての通り乗り手がむき出しなのだった。風を遮るものは、何もない(ピザ屋や銀のさらのアレを除く)。まだ来てもいないはずの冬将軍が、十月半ばにもなれば燈ともし頃、だいたい十七時から翌午前八時までのパートタイムでまずその影をあらわし、早くも戦いの火ぶたは切って落とされるのである。戦いといっても相手は将軍、形勢は乗り手の防戦一方、日に日に着るものは分厚くなり、下馬してのちの動きは鈍くなる。
そうである。なぜ自分が、女子大生時代にステキな圧縮ウールのピーコートやツイード生地のスカートなどと一切無縁で過ごしたのか、ひいてはそのことに勢いを得て、さらにモテから果てしなく遠ざかったのかを今思い出した。
わたしは、毎日原付に乗っていたのだ。原付に乗って、通学していた。冬は当然寒い。実際の気温以上に寒いのである。ボタンで留めるような締めの甘いコートや、膝が丸出しになるスカートなど、選択意識の片端にすら上ってこなかった。毎日毎朝、念頭にあるのは防寒防寒防寒。ただその二文字のみであった。
泉州の生ける伝説、プロ女子の世界ランカー、はー太郎・ザ・グレイトがミニスカートからのぞく膝小僧に両肘をのっけて、男から貢がれたCOACHのストラップをぶら下げたケータイで、これからさらなる貢ぎものを持ってくる予定の男どもにがんがんメールを打っている横で、自腹で大枚をはたき手に入れた登山用シュラフと同素材で出来ている薄型高性能ジャケット(*現在にいたっても愛用中)の素晴らしさについて、
「すごいやろ?! 寝袋とおんなじモンで出来てるねんで! 家で洗えるし!」
などと恍惚と語りまくるわたしを生温かい目で見守ってくれていた友人各位は実のところ、腹の底ではそのありさまを一体どう思っていたのであろうか。どう思っててん?! これを読んでるじぶんら、怒らへんからあとでメールで送ってきなさい! ていうかそのとき一言なぜ言わない? 優しさにもほどがある。
ともかくも、そう、冬は、原付に乗る者の身にはすでにそこに迫っているのだった。車体の黄色も、どこか空元気のように見えてしまう。二人の恋は終わったのね、という越路吹雪の歌声が耳にぼんやり聞こえてきた。ほんとにほんとに哀しくて、目の前が暗くなる。
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