偽名生活
しばらくぶりに連絡を取り合って高校時代の友達のUちゃんに会ったとき、開口一番、
「わたしのケータイの電話帳には、誰やか分らん人が登録されてる!」
と言われた。
「ひとはわりと信じる」という拙文でも書いたが、わたしは高校の頃から「遠藤イブ」という偽名を使って生活していた。別段目的はない。わたしの旧姓が「遠藤」であったことから、何となく思いついて「遠藤イブ」=ENDIVE、エンダイブと名乗ったらそれがあっさり受け入れられたのだった。我が校では、わたしの入学した頃から、それまで例年生徒に配布されてきた全校生徒の名簿が廃止され(在校生・卒業生による各種業者への売却がかねて問題になっていた)、同じクラスか部活にでもならない限り、同級生のフルネームを知る機会がなかったのだ。だから、卒業するその日までわたしのことを本当に「イブ」だと思っていた子も実際いたし、本名を知る友人らの間でもそれは通称として定着し、わたしはみんなから普通に「イブ」「イブちゃん」と呼ばれていた。席替えのあみだくじにも「イブ」とだけ署名しておけば、後日ちゃんと「遠藤は2列の4番目」とか、結果発表があった。年賀状も、「遠藤イブ様」で届けられてきた。
くだんの友人・Uちゃんのケータイには、それで、わたしのことが「遠藤イブ」と登録されていたのだが、Uちゃんははたと思ったのだ。
「よくよく考えたら、じぶん灘君と結婚したからもう遠藤ちゃうし、遠藤ちゃうかったらもうイブでもないし、だいたい元々イブちゃうし、つまりコレ誰でもないやん、って!」
わたしもあまりに長い間(結局結婚するまで)「イブ」として暮らし続けたため、時折り本名を呼ばれるとぎょっとしたり、ややもすると数秒間自分のことだと気付かなかったりしたものだ。最近ようやく慣れた。
名前というのは不思議なもので、わたしが「イブ」を名乗っていた間はいかにも「イブ」っぽい振る舞いをしていたように思う。どういうのが「イブ」っぽいのかと問われればまったくもって、説明しようもないのだが。
偉大なるナンシー関が面白いことを書いていて、自分が「ナンシー」と名乗っていることについて、小学三年生の子供たちに向けた文章の中で、以下のように言っている。
「ナンシーとはいえわたしは日本人です。いろいろな理由があって、ナンシーと名乗っています。その理由は、今は言えません。でも、みなさんも一度『ステファニー』とか『アンジェリーナ』とか『セバスチャン』、『パンチョ』といった名前で友達どうしよび合って生活してみてもらえれば、その理由がわかるかもしれません」(『3年の学習』読者のみんなへの「メッセージ」/角川文庫『なにをいまさら』収録)
わたしは特になんの理由もなく、イブと名乗り、生活していたのだが、ずっとそれをやめなかった、ということに対する説明は、ナンシー関女史の書かれたこの文章の後半を借りれば十分である。
わたしはすでに灘乙子となり、Uちゃんの言ったとおり、もう遠藤でも元よりイブでもないのだが、Uちゃんに会えばやっぱりわたしは「遠藤イブ」で、一緒に広東風海鮮焼きそばを食べたり、お茶を飲んだり、げらげら笑ったり、したのだった。
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