とりあえず喰え



 自分がこれから食うものを写真におさめようという手合いがいる。昨今非常に多い。わたしのパート先のうどん屋にすら、いる。SNSなどでのちのち公開するハラがあるからであろう、わたしはやってないからよくわからないのだけれど。


 料理の載った皿が来る。何はともあれ一枚撮る。他人の趣味であるから、こんなことを言う筋合いでないのは重々承知の上で申し上げるが、さもしい姿だと思う。第一なんか行儀が悪くない? ということはあれですか、つまりおたくさまは明日のウンコを写しているいらっしゃる、と指摘して、無意味に底意地の悪さを発揮したくなる。


 自分の食事を写すその根性は、SNSでの発表を前提とした場合、自慢が半分、ケチが半分だと見ている。こんなん食べてん! 見て! ええやろ! というのが半分。こーんなにステキなものを食ったことを忘れたくない、是が非でも、次の日便所に流してお仕舞い、ということにしたくない、というのが半分。


「いつぞや北海道へ旅したら、景色を見ないで、写真ばかりとっている観光客が山ほどいた。」


 この一文ではじまる「ニッポン写真狂時代」というコラムを山本夏彦氏が書いたのは昭和四十年代のことだ。


「旅は『記憶』のためにするものではない。彼らは忘れることを恐れすぎる。〈中略〉/それを恐れて、写真にとって、本当は忘れてあとかたもないものを、写真がここに残っているから、たしかに記憶していると思うのは、現代の迷信の一つである。」(中公文庫『茶の間の正義』)


 夏彦さんは、こと旅行だけでなく読んだ本についても言及し、こんなことをおっしゃる。


「本というものは、晩めしの献立と同じで、読んで消化してしまえばいいものである。記憶するには及ばないものである。/誰が去年の今月今夜の献立を記憶しているであろう。馳走は食べて血となり肉となればたりる。本も同様、食べて忘れ去っていいものだと、勝手ながら私は思っている。/その能力がないくせに、何もかも記憶しようというのは欲ばりである。忘れまいとするのはケチである。」(同)


 ところがここに、献立をも記録し忘れまいとする輩が出現したのだ。


 写真の話だからついでにするが、来日する外国人俳優や凱旋帰国するスポーツ選手なんかを目当てに空港くんだりまで出かけてゆく人々がいる。人込みを分け、各々爪先立ちになってデジカメやスマホをかざし、意地でもそこにおさめようと押し合いへし合いしている。みんな、血眼で手元のモニターを見ている。必死である。わたしは不思議で仕方がない。


 なんで肉眼で見いひんの?


 液晶を通して彼らを見るならば、テレビやネットで見ているのと変わりはあるまい。ダウンロードしとけばいい。「見に」きたんちゃうの? あんたら。「写しに」きたの? 己が網膜に、焼き付けたいとは思わないのか。実に疑問だ。


 話を戻して、自分の献立を撮影する行為について。本当に単純に、いっぺん言ってやりたいのだ、


「しょーもないことしてんとちゃっちゃと食べえ」


 万城目学もイタリアでリストランテの女主人から、パスタは出来上がったそのときから一秒ごとに不味くなっていく(から早く食え)、と言われた話をエッセイに書いていた。それは「永遠の真理」である、と万城目氏は結んでいたように記憶している。


 久し振りに会った従弟(男前)が、彼女と別れたと言っていた。


「なんでやったん?」とわたしが聞くと、年若い従弟(男前)は、


「飯をさあ、撮るねん。カメラで」


 と顔を顰めて答えた。ああ、とわたしは深く頷いた。従弟(男前)も大きく頷いた。我々はしばし無言で頷き合った。血は水よりも濃し。血族、という言葉が実感せられた瞬間であった。



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