提督閣下の茶色弁当
我々兄妹は、大正九年生まれの我らが祖母のことを「ヨシ子提督」と呼んでいた。畏敬と親愛の念を込めてそうしていた。もっと正確には、スタン・ハンセンに与えられた「世界の不沈艦」という称号を、我々は祖母にまんま流用し、「世界の不沈艦・ヨシ子提督閣下」と言っていたのだった。しかしよく考えてみるまでもなく、これでは船そのものを指すのか船乗りの方を指すのか意味が分からない。あたしらバカだから。ほかにも、閣下には「ハマの大魔神」という異名があった。閣下の出里が海辺であり、家のあったのがその村の中でもハマ(海沿い)・ムカイ(中部)・ゴウ(山寄り)の三地域のうちハマに属していた上、姓もハマグチだったということに因んだ一名である。
まさに大魔神と呼んでも過言ではない、頼もしきタフなばあさまであった。
わたしが小学二年生のお正月、父が神戸で事業をはじめてそちらに寓居を構え、生活能力ほぼ皆無の父の日常を支えるべく母がそれに同行して両親は神戸、年寄りと子どもは大阪に残るという、父親単身赴任ならぬ夫婦諸共赴任、親子別居生活が始まった。閣下はこのとき六十九歳、いまの七十老人はみんな髪も染めていて全然老人なんていう感じがしないが、我らが大魔神さまは還暦の時点ですでに老人らしい老人で、総入れ歯だったし、猫背だったし、総白髪だった。十年前嫁に譲った台所に、それでも閣下は再び立つこととなったのである。
当初の目論見では経営が軌道に乗れば数年中に大阪を引き払って神戸に移る算段だった。しかしながら諸行は無常で予定は未定である。ふたを開けてみなければわからないことが満ち溢れ、わたしが中一になった正月に、大地震が起きる。父の仕事場は激しい火災で甚大な被害のあった地区にあり、火は免れたものの全壊した。近所の人たちもたくさん亡くなられ、NHKの死亡者速報を見ながら、父が「ああ、○○さんも、××さんもや」と呟いていたのを覚えている。なぜ父と母が助かったのかというと、地震のあったのが月曜の早朝で、土日に大阪に帰ってきていた両親がまた新しい一週間のために神戸に向けて出発する直前の時間だったからだ。父は尼崎周辺でガスが漏れているという情報を聞いて様子を見ていたが、それが大丈夫らしいと分かるとすぐに、一人で50CCのスクーターに乗って自分の仕事場に向かった。避難所になっていた地域の小学校の体育館に何日も寝泊りし、体育館の中に入れた人とそうでなかった人とが激しく言い争い、救援物資の毛布一枚をめぐって大きな揉め事が起こるのを見た。そしてそのあと長い鬱になった。ばーさんとふたりの子どもは、引越どころではなくなったのだった。
結局我々家族が一つの家でまた暮らすようになったのはわたしが二十歳になる四日前のことで、足掛け十二年、閣下はわたしと兄の面倒を見てくれた勘定になる。
生来穏やかな性格の兄においては大したことはなかったが、わたしは盗んだバイクで走り出しこそしないものの(そういう趣味がなかったし、第一行き先もわからぬ外出など願い下げだ)だれの言うことも聞かず当然うちの手伝いもせず、隙あらば学校を休み、毎日ぷんすか怒ってばかりの絵に描いたような反抗期を送り、今わたしが過去にかえれたならばうちのワゴンRで軽めに轢いてやりたいくらいだが、閣下はそれをも受け流した。
後年閣下が認知症になって、いろんなことが不自由になっていったときに、わたしはちょっとばかり手助けをした。知った人はわたしのことを孝行者だと随分褒めたが、あれは孝行でもなんでもないただの罪滅ぼしのようなもので、実際のところわたしは閣下と遊んでいただけである。そして罪滅ぼしは永遠に不足である。
閣下はその十二年の長きにわたって、我々二人に三度三度のご飯を作ってくれたのであるが、特筆すべきは中学・高校期のお昼のお弁当だ。閣下手製の弁当は、フタを開ければ茶色。いつも茶色。安定して茶色。そう、それは「提督閣下の茶色弁当」。たまさかブロッコリーなどが入っていると動揺してもっぺんフタをしてしまうくらいに日々あやまたず茶色だった。それはもう、信頼と実績の茶色なのだ。箱寿司のごとくぎゅうぎゅうと押し込まれたご飯の段には海苔の佃煮、あるいは醤油まぶしの削り節。おかずはというと、鶏の唐揚げ、根菜の煮しめに奈良漬が少々。またある日はバターで焦がした玉子焼きに金平牛蒡。じゃこ天、牛肉のしぐれ煮なんていうのもあった。今の季節ならまず間違いなく、蕗と昆布の醤油だきが連日ご飯にのっていたはずだ。
わたしはこの茶色弁当を堂々と食べていた。中高生の特に女子は彩りの悪いお弁当を恥ずかしがって隠す、なんて話を聞いたことがあるが、わたしはなんせ、中三にもなると完全に女子を降りていたので毎日が一人弁当、ひどいときは三時間目くらいで、誰に見られるでもなく(いや見られてたかもしれへんけど)「きゃー、おばあちゃん、今日の煮豆ギリギリやわー!」なんて、そうだ、豆は足がはやいのだ、弁当に入れるには不向きなのだ、一瞬納豆かと思った、だがそれをも必ず完食して帰っていた。現在のわたしの胃腸が非常に強いのは、このとき鍛えた素地があるからではないかと密かに推している。とにかく、閣下の弁当は、大変おいしかった。
わたしにはある計画があって、我が子に毎日弁当を作らねばならない日が来たらば、そのときは「日替わり一色弁当」にしてやろうと思っている。例えば赤の日はパプリカ大量投入の酢豚とスライストマトと梅干ご飯。緑の日はチンジャオロースと菊菜の胡麻和えとえんどう豆ご飯。黄色の日は無論玉子焼きにたくあんだ! デザートに蜜柑をつけよう! キャラ弁がどうした?! みんなと同じで面白いか?!(世界のニナガワの声でどうぞ) さあ、そうして母亡きあとは、姉弟しておかあはんの単色弁当の思い出話で盛り上がれ。わたしと兄が今そうしているように。めっちゃ楽しいで。保証する。
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