自助論
スコットランド人のスマイルズという人が書いた『西国立志編』別名『自助論』という本には、物事は始めるまでが大変なのであって、一旦手をつけてしまえば九割は成功したのとおなじである、というような意味のことが書かれているらしい。らしい、というのはこれが孫引きだからで、しかもこの孫引きすら記憶が正しいのかやや心もとない。確かめたいが孫引きが載っている本もいま見当たらないし、実は原本も一時ちゃんと持っていたのだが、それを読まないまま数年前古本屋に売ってしまったのは増加の一途を辿る蔵書に対してその許容量に限りのある本棚の整理を迫られたからで、三十過ぎて『自助論』を読むか? と自問するに、わたしの脳は「恐らく否」と言った。それが今になってこれだから、ああ、書籍というのは手元に置いておいてナンボだなあ、とつくづく思う。
前置きが長くなった。「事は着手すれば九割成功」という論についてである。
頷けないことはない。冬場お手水に行きたくなったときなど、ホットカーペットから立ち上がるにこの言葉を噛みしめる。意味が違う? いやいや、そうして自分を叱咤するのだ。少々面倒なことがあっても、やりかけたらあとはスイスイ、と自分に言い聞かせて何とか動き出すようにしている。
けれども以下のような場合はどうか。
わたしは掃除・片付け・整理整頓が大の苦手である。非常に。乱雑な空間をどうとも思わないというまで太くはないが、いや、そこまで太くないからこそ「ああ、片付けなあかん」「今日こそ何とかせねばならん」という、散らかった箇所自体が発してくる無言のプレッシャーが煩わしく、苦手意識が増幅してゆくのだと思うけれども、わたしは「出したものを元の場所に戻す」ということすらなかなか出来ない人間なのである。なんかの病気か? そんならそのほうがいっそのことラクだ。
ところが、母屋に住まう義理の両親はわたしと正反対のザ・几帳面、「その日の汚れその日のうちに」の国からこんにちは。息子であるわたしの夫がそうでないということがまず以て信じられないが、まあ仮にそんな男なら初手からわたしを娶ることもなかったであろう。とにかく、母屋はいつも片付いている。大変きれいである。わたしたちが使っている離れとはまさに別世界として存在している。その母屋で、我々親子は昼食と夕食をとり、お湯を借り、つまり一日の半分はそちらで生活している勘定になる。当然我々は母屋を散らかす。ただ、わたしは怒られたら厭なので、離れは好き勝手にしているが母屋ではそれよりもやや真面目に生きている。離れから母屋に持ち込んだものも、離れでのように「一旦出したら永久放置」というような扱いにはせず、だらだらとではあるが回収している。どういうことかというと、例えばグラタン用の耐熱容器を離れの戸棚から母屋の台所へ持って来るとする。夕食にグラタンを拵え、それを使用する。食べ終えて洗い、かごに伏せる。これが一日目。翌日、母屋の食卓の脇にグラタン皿は仮置きされている。昼食を作っている最中に、そうそう、これ離れに持って帰らな、と気付いて勝手口付近に移動。同日わたしが敏活であれば、グラタン皿は速やかに離れに運搬されるが、大体六四であくる日に持越しである。三日目、満を持してというかいい加減というかもはやこれまでというか、皿はようやっと離れに運ばれる。他にも離れの方に運ぶべき荷物があったりすると、とりあえず片手を空けて離れの引き戸を開けなければならない。その時皿は一旦下駄箱の上に置かれる。さあ、ここからが長い。いやもう充分長かったぜ、というご意見を大音量で聞きつつ。我が領内に入ったらこちらのもので誰に叱られる心配もなくなってしまい、下駄箱の上のグラタン皿は数日をそこで過ごす。もはやオブジェ化する。下手をすると次回のグラタンまでそのままだ。ところがひとが来るとか、さらに下駄箱の上に何か置きたいとか、よんどころない事情が出来したとき、皿は再び帰郷のチャンスを手にする。帰りなんいざ。皿は離れの台所に戻ってくる。懐かしの戸棚まではあと少しだ。それでもあのオバハンはなかなか戸棚を開けない。食卓でさらに数日。戸棚の真下の電子レンジに置かれてさらに数日。これはもう、大名行列並みに遅い。とまりとまりで日が暮れて一年経っても戻りゃせぬ。食器のほか、衣類、図書、便箋や香水などの雑貨においても同じ現象が見られる。目的地に漸近する片づけもの。
事は着手してもこんなふうになる場合がある。多分わたしだけだと思うが。
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