一旦停止、合掌、発進。
ほとんど毎日車で通る道に、大願成就を標榜するきんきらきんの観音様が祀られている。仏を祀る、という言い方が宗教的に正しいかどうかという議論はひとまず措いておいて頂きたい。ともかく、そういう「ののさん」がいてなはる、わたしはその前を毎日通る、ということだ。ちょうどそこが一旦停止の標識がある三叉路の角で、当然わたしは必ずブレーキを踏むのだけれども、停止した瞬間観音さんを向いて合掌し、どうかどうか宜しくお願いします、と血まなこで祈りを捧げ、而してのち車を発進させるという日課を、そうね、半年ばかり続けたことがある。一両年前の、三月から九月にかけてのことである。きんきらのホトケさんというのは、古ければ古いほど黒ければ黒いほどよいという日本の拝仏観からすれば見るだになんか胡散くさくてご利益も期待できなさそうなのであるが、構うことなくわたしは祈った。わたしの友人などは受験の年、伏見桃山の某喫茶店前にあった似非ダビデ的男子裸像に、通学バスの中から朝な夕な「第一志望に合格しますように」と手を合わせていたと言うから、放っておくとひとは何でも拝み始めるものなのかもしれない。
で、何をそんなに拝んでいたのか。わたしの書いた小説が筑摩書房主催の太宰治賞の一次選考を通ったため、うおお、この調子でなんとかも少し上まで行かんだろうか、一丁宜しくお願いしますと、かなり真剣に祈っていたのである。無為徒食のわたしに、なにか箔がつくようなことがあればよいのに! と思っていた。それは認証欲求というやつなのだろう、そして賞金も非常に、非常に魅力的だった。
太宰賞の二次選考にはあっさり落ちた。一次の発表があった二週間後に判明したから、血眼祈祷開始からすぐのことである。まあ、残念無念でへなへなになった。しかし本当にしんどかったのはそのあとで、ちゃんとした出版社に、一応は小説の態をなしている、ということを認めてもらったのだからと変な自信がついて、その原稿に少々手を加え、よその新人賞に送ってからのことだ。六月締切り、九月発表というスケジュールのその新人賞に五月半ばに原稿を送ってからは、車窓を通して観音様に送る祈祷ビームもより悲愴なものとなっていった。原稿を発送した翌日の手帳にわたしは、「なんとかなれ、と思うけどこんな調子で9月まで行くのかと思うとすげーイヤだ。疲れそう。落胆も果てしなくなりそう」と書いている。ほかの日にも、「どうせまた駄目なんだろうと思うと滅入る。駄目だとなって滅入った時のことを思うと滅入る」と書いていたりする。暗いわ! 七月になると、観音菩薩相手に「通ったら五千円奉納します」などと、仏様をカネでつろうとまでした。おんあろりきゃそわか。
ただ不思議なもので、発表前の一週間くらいになるとまああかんやろう、と妙に醒めた、諦めた気持ちになっていて、ひょっとするとそれは自己防衛の精神の機能だったのかもしれない。落胆しすぎてどうかする、とかならないための。ここで引き合いに出すのも実以っておこがましいが、山本七平さんだったか誰だかが、戦争中一兵卒として乗り込んでいた艦が沈められそうになって、ああもうだめだと観念したときは全然怖くなかったが、その後もしかしたら命だけは助かるかもしれない、という状況に転じたときに襲ってきた恐怖感がものすごかった、ということを言っていた。ほんの少しでも望みがあるというのは一面残酷なものだと思う。期待がなければ失望も絶望もない。だからわたしは己を守るために先に期待を捨てたのではないだろうか。
実際わたしの書いた『山田のはなし』を読んでくれた人にしてみれば、この出来で賞金てオイ、と思われることだろう。やろうなあ。知ってる。それは知ってる。だから、あんなしょうむない小説のことでそんなに思い悩むなんてオイ、とその上さらに思われるだろうこともわかっているので、はっきり言ってこの話はするのが恥ずかしいし、自分でも何故そのときの心のあり様を今さら告白しているのか全く分からない(まあそもそも自分が日々こうして色々と作文していることの動機自体ちっとも分からない)のだが、『山田のはなし』を書いていた間の体験はちょっと特別で、その特別さに引きずられて書き上げた後のこともこうして書きとめておきたくなったのではないかと思う。
あれはわたしが書きはしたけれども、考えたのはわたしではなく、ある日降ってきた話なのだ。斜め後ろの低いところから降ってきた。そういう目に遭ったのは初めてだったし、その後も今のところない。わたしはそれを記録しただけだった。
もうこの頃は、三叉路の観音様にそこまで熱い視線を送ることはしていないけれども、一旦停止の際はともあれ合掌、最低でも目礼はする。願は叶わなかったけれども、「その節はご迷惑をおかけしました」感だけは一杯一杯なのだ。
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