意地悪頂上決戦
テニスのルールを知らない。
父は中学時代テニス部に入っていて、市長杯か何かで優勝したとかいう話を聞いたし、母も昔軟式テニスをちょろっとやっていたというので、わたしが小さい頃には近所のテニス場に二人で行ったりもしていた。感慨深いな、おい! 当時は仲良しだったのだ! 兄は兄で小学校の頃、そのテニス場で開かれていたテニス教室に数年通っていたし、わたしだけがテニスとはほぼ全く無縁の生活を送ってきたのである。
ほぼ、と言うのは、高校のときに数回だけラケットを握ったことがあるからで、それは選択科目だった「Lスポーツ」という、いわば「通常課程のプラスアルファ体育」を履修していたときのことだ。選択科目でLスポーツを取るのは、体育系の大学や学部を目指す生徒か、机の前に座りたくないという生徒のどちらかで、言わずもがなであるがわたしは後者だった。
その授業では様々なスポーツをかじったが、そうした科目の選択制が始まったのがその年から、つまり初めての試みだったため、はっきり言って先生の側もやり方がグズグズで、とりあえずいろいろさせてみっか、というテキトーさ加減が生徒の我々にも丸分かりだった。しかも、真面目に体育学部を目指している、ごっつ運動できる子ぉらと、筆記の勉強やりたない、という希望だけで集まってきたすかたんどもで二極化している受講層。そんな状況で習ったテニスが、何かの実になるはずもない。ルールも教わらぬまま、とりあえずネットを挟んで近くにいた者と打ち合いをする、ただそれだけ。それだけだった。第一全くのどどどどど素人同士ではラリーすら成立しないのである。「打ち合い」にすらならない。そういえば『エースをねらえ!』も全巻読んだことがあるが、お蝶夫人のありえなさばかりが記憶に残っているだけである。いけませんわよ、ひろみ。
だからわたしは、テニスというのは、あの白い枠の中で、黄色の球を、1バウンドまでで打ち合う、ミスったら失点するらしい、ということしか知らない。サーブ権が何回まであるのかも、何点取ったら勝つのかも知らない。第何セット、というのもわからない。一試合何セットあるのか。
それでも、今までに何度もテレビのテニス中継を見ている。無論通しで頭から終わりまで見たりはしない。ただ、ザッピング中に「あ、やってる」と思った瞬間別チャンネルにしてしまうサッカーなどに比べて余程見ている、ということだ。テニスは、「あ、やってる」と思ったら手を止めて、しばらくぼんやり眺めることがある。テニスはおもしろい。わたしのような人間にも、おもしろいのだ。四大大会。あれは世界意地悪王決定戦である。
凡そ球技というものは敵の隙をついて手薄の方、相手の嫌な方へボールを打ち込んだり持ち込んだりするものばかりなのだから、そういう意味では全ての球技がつまるところ意地悪の応酬であると言える。しかし中でもテニスが抜きん出て、クッションもオブラートもない剥き身の意地悪合戦に見えるのはなぜか。
まず基本的に一対一の戦いであることが考えられる。それは見たまんまの、個人対個人の力と計略のぶつかり合いだ。それに比べて団体競技では、個人個人の思惑自体よりもそれをつなぐこと、連繋が上手く機能するかどうかに目が行くし、最終的にゴールしたのはA選手だけれどB選手のアシストなくしては、というように、たった一人の力では得点もおぼつかない。この、常に伏線とも言うべき得点に至るまでの状況を複数の人間が担っているということは大きい。前半わずか五分にXが犯した痛恨のミスを、後半五分でYが帳消しにするかもしれない。味方の投手の大量失点を次のイニングで仲間が倍にして取り返すかもしれない。ところがテニスは、得点しても一人なら失点しても一人、咳をしても一人、試合開始から終了まで自陣に立つのは自分だけなのだ。たった一人が己の才覚と裁量だけで、相手の嫌なところへ嫌なところへ打ち込み続けるのである。
テニスのように、ネットを挟んでモノを打ち合うというスポーツは色々あるが、卓球、その名もテーブル・テニスがそんなに意地悪合戦! な感じに見えないのはフィールドの狭さと速過ぎる動きが要因ではないかと睨んでいる。テニスにおいては対戦者同士の距離があの広いコートの幅分だけ必ずあり、そのことがボールのやり取りをある程度じっくり眺められるスピードのものにしているが、卓球の、あの近さでなされる高速のラリーは、球技というよりももはやど付き合い、意地悪などを通り越した身も蓋もないパンチの応報のように見える。
テニスのあの、男子ならシャツの白襟、女子なら真っ白のスコートをひらつかせ、旧大宗主国・えげれす発祥ですけど、なんしかハイソサエティーちゅうやつね、という匂いをぷんぷんさせているザーマスな雰囲気も、意地悪味の上塗りに一役買っていると思う。意地悪というのは優雅さを伴うものである。意地悪から優雅さを抜くと、それは単なる嫌がらせになる。嫌がらせというのは、どこか必死で、なおかつ暗い。バドミントンというのも、ネットをなかにしてラケットでモノを打ち合うというのは同じだが、バウンドさせずに一発で打ち返さなくてはいけないというのは卓球同様せわしないし、展開も早いし、打ち合っているのが「羽」というのもなんだかなあ。
テニスはそうだ、1バウンドでリターンでもいいがボレーもOK、というのがなんかヒドイ。あのネットぎわのボレーというやつは、見るものを虚脱させるとりわけ意地の悪いプレーだ。ようやっとの態でそれを拾いに行っても、続くリターンが彼/彼女の頭上をこれでもかー! という勢いでかすめてゆく。うわあ、あんなんされたらむっさイヤやろな、とアホのように思う。
個人的な所感だが、球を打つときに唸る選手は優雅でないので、まあ主にシャラポワのことをわたしは念頭に置いているのだけれども、そうした人のテニスはやはり意地悪ではなく嫌がらせに見える。だいたい身長が180cm以上もあって、あの肩幅と筋肉で、「妖精」とは片腹痛いと長年思っていた。ありていに言うと、女子のタイプとしてキライなんである。シャラポワが。
先にテニスは基本一対一であると書いた。だがテニスにはご存知のとおりダブルスもある。当然ダブルスなら、二名を団体と呼んでいいのかわからないが、ともかく個人競技ではなくなる。しかし不思議なことに、ダブルスになってもテニスの意地悪味は減少しない。むしろ男女混合ダブルスなどは、隣り合う家の夫婦同士がお互いおとなりさんにいけずをしているような、よりえげつない風情すらある。なぜなのだろう。いま少し時間をかけて考えてゆきたい。
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