オートマチズム



 前回「形」という駄文を書いたあと、米原万里さんのエッセイに「オートマチズム」というのがあるのを偶然読んで知った(中公文庫『真夜中の太陽』収録)。


 行動心理学で謂うところのダイナミック・ステレオタイプ=「固定化された行動様式」、米原さんはジーコの言葉を引いてそれを紹介していた。


「日本人選手には、攻撃のアイディアがないと言われているが、それは違う。彼らに不足しているのは、オートマチズムだ。ブラジルでも、その他どこのサッカー先進国でも選手たちは攻撃のいくつもの基本的な型を徹底的に叩き込まれていくんだ。それが時と場合に応じて無意識に自動的に演じられるほどに自分の習性=第二の本能にしていく。天才的ひらめきもアイディアも実はその中から生まれる」



 どうですお客さん。


 まるではー太郎のことではないか。好きな色を聞かれた時には迷わずベビーピンクと答え、箸より重いものは持てず、つまらない話にもすごいねーと微笑み、当然酒は飲めないあの人である。「そうしているうちに、実際そんなふうになる」と言った、あの人を見よ。


 そうしているうちに、実際そんなふうになる。


 あまりにも名言なので二回言うてみた。



「思えば、サッカーに限らず全てのスポーツ選手たちが、このオートマチズムを身につけるためにこそ日頃の厳しいトレーニングに勤しんでいる。良いコーチとは、できるだけ短時間に最大限効果的に多数の優れた型を自動的になるほどまでに叩き込む術を持った人のことだ」


という米原さんの文章を読んでまず考えるのは、天才というものの存在である。はー太郎は、コーチもなしにその技を獲得したのであって、天賦の才というのはつまりこれかと察せられる。加えて、「ある年齢を過ぎれば、自分のことを教育するのは自分」という曽野綾子女史の言葉なども思い起こされ、はー太郎の場合、いわば自分のコーチは自分、しかも名コーチだったわけだ。


「叩き込むのは、非の打ち所のない正しい型でなくてはいけない。間違った型を習得すると修正するのに、身につけたときの十倍のエネルギーを労するからね」


 米原さんは再びジーコの言葉を引き、エッセイを締めくくっているが、自分を顧みるにまあそらもう間違った型であると自信を持って断言できる型ばかり身につけていて、なにかそういう研究機関などが存在するのであれば自分を一サンプルとして提供したいくらいである。


 反射的に、自動的に、くどい柄のシャツを見ると買い、何かにつけて「それは食えるんですか?」と尋ね、とりあえず大関熱燗、どのようなものをお探しですかとにこやかに問うてくる下着売り場の店員さんには「丈夫なヤツ」と答え、くどい柄のシャツを見ると買い、その気になれば一人でも焼肉屋に入り、咆える犬にはやかましわと怒鳴り、くどい柄のシャツを見ると買う。


 もう治らないわ。

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