第26話 異常こそが日常

悠華は、自分がおかしいことはわかっていた。普通を装うこと、それが当たり前になっていた。

強要され続けた普通。普通ではない環境下での普通とはなにか。

聞いたところで、相手から明確な応えなど得られない。

周りを注意深く観察して得た普通。

普通とはなにか。それは、答えなど最初からなかった。


『目立たないこと、周りに溶け込むこと』


それは、容易いようで、すごく難しい。

見せかけの、ハリボテ。古い言い方なら掘っ建て小屋。わかりやすく言えば、プレハブ。


いつかは剥がれて、丸裸になる。

そんな恐怖と裏腹で。それでもしがみつく。


昔はこんな器用に立ち回れなかった。

失敗ばかりして、頭でっかちな認識ばかりが塵のように積もっていた。

学習装置なんてもの、頭には搭載されていなくて。何をしても上手くいかなかった。

叫ぶほど声も出せなくて。心で叫ぶしかなかった。


『おまえには否定する資格なんてない』


言葉は呪いのように絡みつく。

出来損ないのレッテルは、更に重圧をかけてきた。

周りの人は皆、自分より幾分か出来がいい。

そう思い込むには十分で。

自分を最底辺に位置づけることに事欠かなかった。

これより悪くなんかならない。 そう思えば思うほど泥濘ぬかるみはまり、底なし沼にズブズブと沈んでいく。

悲痛な叫びは喉から先には出ず、誰の耳にも届かない。

呪いの言葉は蝕み続け、気がついたときには手遅れだった。


抵抗することすら、罪悪に思えた。


悠華は何も忘れてはいなかった。

整形した華代にだって気がついた。

それを伝える勇気などなかった。

触れてはいけないと思った。


華代にされるがままになった自分を忘れたことはない。仕方のない状況下だった。お互い、尋常ではなかった。あの状況ではあの選択しかなかった。


整形するくらい辛かったのだと気がつけなかった。親友だったのに。

親友だったのに、何も知らなかった。

お互い、家庭のことは言わなかったし、聞くこともしなかった。聞かなければ言わなくていい。心配させなくない。

きっとお互いそう思っていて。

一緒にいつもいて、向かい合っているのにどこかよそよそしくって。


人が怖いのに、人といたくて。

いつかダメな部分が剥がれて、バレて落胆される。そんな恐怖と背中合わせの日々。

でも、一人ではいたくなかった。


寂しかったのかもしれない。

否定されて、蔑まされて、言葉なんて選んでもらえなくて。

泣きたいのに、泣き方も知らなくて。

涙は勝手に出るもので、制御の仕方なんてしらない。


最初はなんだったろう?


0点を取り続けたとき?


親に殴られた。蹴られた。


忘れ物をしたとき?


担任にはたかれた。


それは、されることが当たり前だと思っていた。自分が悪いからだと。

一度躓つまずいたら、何度も繰り返して。

そのために物理で粛清された。

一人、寝るときに布団をかぶって震えた。

止まらない涙の理由なんてわからなかった。

ただただ怖くて怖くて。

痙攣のような震えは全身に伝染した。


朝になれば、いつの間にか止まっていて、日常を始める。


それを繰り返して、いつしか大人になっていた。……心は止まったまま。


怒鳴られるたび、叩かれ蹴られるたび、理不尽でも自分を責めた。

そうさせた自分が悪いのだと。

そんなことをさせてごめんなさいと、泣きながら謝った。

相手は悪くないのだ。そんな状況になったのは、自分の要領の悪さが、誤解させるような言葉や行動が悪いのだと。


だから、未だに誰も責められない。

自分の説明不足、配慮が足りなかった所為。


観察し、何を求めているか、今何が必要か、どうすれば円滑に進むか。

……やっと、報われた気がした。


『奏以さんありがとう』


そう言われることが増えた。

しかし、すべて社交辞令に聞こえた。

きっと褒め合いが普通のあり方なのだと。


少しずつ変化していく。

それが、恐怖と並行していることにも気が付かずに。

自分がわからなくなる。

そんな感覚を覚えるたび、次に目覚めると違う考え方をし始める。


『ゲシュタルト崩壊』


繰り返し無意識下で行われる変動。

気がつかずに性格が変わっていく。


変わらないのは記憶、感覚。

まるで絵巻物を見ているような。

それを見て覚える。

周りからは変格を悟られない。


分かった瞬間、また崩れる。

慣れてしまうと笑いが零れる。

キチガイじみた笑いを上げる。

壊れていく、崩壊していく感覚さえも視覚化されていく。


それでも、平常心に似た空虚な日常を送り続ける。

当たり前になっていく。恐怖が日常化されていく。

恐怖を感じないことが不安になる。

定期的に恐怖を覚えないと不安定になる。

恐怖を求め始める。

狂気的に壊れていくことで、平常心を得ていく。


優しくされる、褒められる。

それさえも恐怖で、萎縮してしまう。


『痛いのは嫌だ』


そう思っても、痛みを伴わないと生きている実感がわかない。


転ぶ。転倒する。頭を打ちつける。暴力を受ける。怪我をする。事故に遭う。


刺激を求め始める。

愛情はときに狂気的でなければ、不安になる。なのに、許容を超えれば、這ってでも逃亡する。


何が何だかわからなくなる。


『たすけて』


心が叫ぶ。助けなど来ない。

わかっていても、なお、叫ぶ。

抜け出したい、逃げたい。

普通でありたい。


もう後戻りできないほどに崩壊している精神。

頼ること、甘えることを知らずに生きてきた生きた屍には、本当の当たり前な幸せなどわかるはずもなくて。

精神が歪み、病んでいることに気がついたときには取り返しがつかなくて。


他人に言わずに生きてきたことが幸いしたのか、否か。

人に迷惑をかけずにすんでいた。


だから、愛の意味を理解できないまま、飢え壊れた臆病者ができあがった。


──そのハリボテな装甲を今、剥がさんとする存在が現れた。


戸惑い、心の奥底で逃げ場所を求める。

けれど、彼は──薫はきっと逃がしはしないだろう。

人を否定できない、抵抗できない悠華を侵食していく。

知らない感覚を与えようとする。

甘さを伴った優しさ。悠華には未知のものだった。


親からは逃げ仰せたのに、元彼からも逃げ仰せたのに。


元彼たちから逃げられたのは、蛯名が関わっているとは知らずに。

遊里のネット書き込み。

遊里は薫だと思っているが、それも蛯名だった。

あまりネットサーフィンなどしない悠華だからこそ、データ改竄をしてプロテクトされていることに気がついていない。

守られていることさえ知らない。


自分の価値を見い出せないでいるのだから。

知ったら、そんなことをしてもらえるような人間ではないと恐縮、萎縮してしまうだろう。

自分のプライバシーを侵害されているとは思わずに。


他人を肯定し、自分を否定する。

その、呪いに似た概念は根強く、覆すにはよほどのことがないと無理だろう。

幼いころから、無意識に洗脳され続けた。

相手にとっては何気ない、軽い気持ちで言った言葉だったかもしれない。

十人十色、受ける側の取り方次第で如何ようにも変容していく。

優しい人は恐れているか、仮面か。


悠華の場合、否定され続けた弊害からか、自らを否定しても他者から否定されるのを恐れる。

人に寄り添う生き方をしてこなかった。偏った愛情により変質し、嫌われることを極端に恐れている。

恐怖や刺激を無意識に求めながら、人に嫌われることがこわい。矛盾した心。

それこそが人間の本質といってしまえばそれまで。

だが、悠華のそれは異常レベルだとはわかっている。

わかっている、理解している。

人間は誰しも、恐怖と共存している。


──悠華のそれはあまりにも極端で、哀しい現状だたった。

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