第2話 マウンティングメスゴリラ




 「ドンペリ、いただきましたーーーーー!」

店内の明かりがスゥッと一瞬落ち、次の瞬間、ファンファーレのような音が鳴る。チカチカと明滅するライト。それを合図に、ストレートパーマで髪の毛の両側をサラサラと流したヒカル君がマイク片手に僕のテーブルへと近づいてくる。サーチライトのようにぐるりと店内を彷徨ったライトの明かりがまっすぐにこちらへと伸びる。

 僕は、雛子さんの前に跪いて、手の甲に唇で触れる。ヒカル君とシャンパングラスを持った黒服君がテーブルの横に到着するのに合わせて立ち上がり、手渡されたシャンパングラスを受け取る。店内が、わぁっと沸き立つ。

音割れのするマイクを斜めに構えたヒカル君がリズミカルにコールする。

「なんと! 素敵な雛子姫がシャンパンを入れてくださいましたーーー! 従業員、シャンパングラスを持って集合!」

 雛子さんは、いつも通りのナチュラルメイクでフワフワと微笑んでいる。人畜無害、草食動物、安全第一、のようなこの笑顔の下に隠された素顔を僕はうっすらと知っている。 

 僕。藤川綾人。三十三歳。職業、ホスト。一応このお店ではナンバースリーの座をいただいている。

にっこりと営業スマイルを返して、僕はグラスを掲げてみせる。店中のホストがテーブルの周りに集まりシャンパンコールが始まる。

「今夜も」

「今夜も!」

「素敵な」

「素敵な!」

「雛子姫が」

「ハイ! ハイ! ハイ! ハイ!」

「美味しい」

「アリガト」

「シャンパン!」

「サイコー!」

「入れて! 入れて! 入れて! 入れて! くれました!」

「ハイ!」

……シャンパンコール。通称シャンコとも云うのだけれど、一定の値段以上のシャンパンをお客様が入れてくださるとホスト一同でコールをするアレだ。ホストクラブ、といえばシャンパンコール、というイメージもあると思うけれど、僕の勤めている店も例外ではない。シャンパンコールは店によって掛け声も節回しも違う。大学生の頃、サークルの飲み会なんかでイッキコールというのがあったけれど、あれに色々なパターンがあるのと同じだ。ちなみにホストクラブにもイッキコールはある。うちのお店では入れてもらったシャンパンはこうしてホスト全員で少しずつ飲むことになっているから、イッキ自体、お客様に「あんたイッキしなさいよ。」と言われた時以外はすることはない。もっとも、そんなたちの悪い遊び方をする人は、あまり好きじゃない。イッキすればボトルが空くし、ボトルが空けば新しいボトルを入れてもらえる。売上には確かに貢献するとは思うのだけれど、僕はそういうことを人に強いる人というのがあまり好きではない。お客様として来られる限りは、最大限夢をみて帰ってもらいたいとは思うから頑張って接客はするけれど、ね。

「雛子」

「ハイ!」

「姫に」

「感謝!」

「感謝!」

「感謝!」

「俺たち」

「一同」

「心も」

「体も」

「あなたの」

「姫の!」

「ために」

「ために!」

「捧げます!」

シャンパンコールが終わると乾杯。グラスをあおる。

清涼感のあるスッキリとしたアルコールが喉を通り抜けていく。雛子さんはそんな僕たちを眺めて満足そうに目を細めて、足を組み替える。こういう仕草に、雛子さんの隠れた女王様気質が覗いている気がする。ただ、地味目でナチュラルメイク、シンプルなファッションに身を包んだ、一見少女然とした雛子さんの見た目に騙される若いホストも多い。  

いま、シャンパンコールの音頭を取ってくれていたヒカル君もその一人だ。僕はチラと横目で雛子さんの様子を伺い、彼女が機嫌を損ねていないことを確認する。

 お客様にもホストにも色々なキャラの人間がいる。

僕は、ホストとしては決して王道ではない。年齢的にもホストとしては限界間近だ。それでもなんとかナンバーに入っていられるのは、ひとえに応援してくださるお客様のおかげだと思っている。けれども、お客様をただの金づるとしか見ていないホストも勿論いるし、金のためには土下座もする、と公言している奴もいる。或いは、疑似恋愛を求めてやってくるお客様とイロコイと呼ばれる疑似恋愛関係を築いて店に通わせるホストもいる。まぁ、トラブルになるのが一番多いのがこのイロコイ営業をするパターンなのだけれど。はたまた、オラオラと言われる上から目線でお客様を口説く人もいる。

 星の数ほどいる様々なキャラクターのホストが、自分を求めてくれるお客様と時間を過ごす場所。それがホストクラブだ。千差万別の様々なニーズをお客様はかかえている。それを見誤ると決していい接客はできないし、お客様も満足はしてくれない。勿論、次の指名も、ない。つまり僕たちは、その方が何を僕たちホストに求めていらしているのか、どんな方でどんな風に接して欲しいと思っているのか、それを探っていかなくてはならないのだ。

「雛子さん。ありがとうございます」

コールを終えたホスト達が、グラスを空け、それぞれに雛子さんに会釈し、自分のテーブルへと散っていく。僕は雛子さんの隣に座り直し、改めてシャンパンで乾杯する。シャンパングラスは綺麗な泡を立たせるため、底に小さな傷が初めからつけられている。わざわざ作られたいびつさが、こんな美しさを生むのだと知った時、僕は何故だかひどく切なくなった。その理由を僕はまだ見つけられないままだ。

 隣に腰掛けた僕の膝に手を置いた雛子さんは「ねぇ?」と囁くような声色で僕に問いかける。上目遣いに僕の顔を覗き込む仕草には、明らかな計算が垣間見られる。普段、雛子さんはボディタッチを頻繁にする方ではない。こんな風にベタベタと触れて来たり、やたらと顔を近づけて来たりするのにはそれなりの理由がある。雛子さんが体を寄せると薔薇の濃厚な香りがした。秋口までは金木犀の香水をつけていた雛子さんは、冬の訪れとともに薔薇の香水に香りを変えていた。

「薔薇。この前まで金木犀だったのに」

くん、と一度鼻を鳴らしてみせると、雛子さんはクスリと笑った。

「そうよ。うちは冬場は薔薇のラインを推しているから。本来、薔薇は初夏の花なんだけれど、香り自体が濃厚で甘いから、冬の方が香りとして映えるのよね。だから、うちでは冬に薔薇の香りの製品を多く出すようにしているの。レンジ君もつける?ダマスクローズのローズ・オットーベースの香りを特別に調香してあげるわよ」

「僕なんかにでも似合います? 薔薇の香り。」

「そうねぇ……」

少し考えるそぶりをして雛子さんはグロスだけを塗った唇を指先で押さえてみせる。

「レンジ君はウッディな香りの方が似合うかな。とりあえず、防虫剤の匂いをさせて来なければいいわ。あなたの場合」

「え〜。防虫剤の匂いはさせてませんよぉ」

「レンジ君はなんだかそんなことをやらかしそうなのよねえ」

「お恥ずかしい」

「そういえば、神室君なら薔薇でも似合いそうよね。なんか、ベル薔薇って感じじゃない?せっかくだから、また連れて来なさいよ」

「……どこにですか?」

「ここ」

「それは……勘弁してください……」

うふふ、と小首を傾げて微笑む姿にはあどけなささえ漂う。しかし、照明が落とすその影にはきっと小悪魔の細くて長くて先の尖った尻尾が顕現しているに違いない。

神室君、と云うのは、僕の家に居候している同居人。そして、大学時代の友人で、初恋の人、だ。僕は別にゲイと云うわけではなく、おそらくバイセクシュアル。男女問わず、魅力的な人には惹かれてしまう。ちなみに、神室君、こと神室奏志は勿論男で、まったくもって僕に対してそんなつもりはない人だから、僕は日々、初恋を拗らせている。

「あ、ほら。やっぱりまた見てる」

 奏ちゃんをお店に連れてくる、なんて悪趣味も甚だしいことを云って退けた雛子さんは、

わざと僕の耳元に唇を寄せて笑った。振り返るわけにはいかないけれど、背中に視線を感じる。そう。雛子さんは別のお客様に見せつけたくて、今日はこんなにベタベタと僕にボディタッチをしているのだ。大人気ない、とは思うけれども、女心とはそんなものなのだろうか。僕の背中側にいるのは麻耶さんというお客様だ。いつも、濃い目のメイクをしてきっちりと髪を巻きお店にいらっしゃる方で、バリバリのキャリアウーマンだ。彼女からすれば、一見少女然とした雛子さんがこんなホストクラブで遊んでいることが非常に苛立つようで、しばしば僕を間に置き、こうした冷戦が繰り広げられているのだった。真実を言えば、雛子さんは、彼女に勝るとも劣らないキャリアの持ち主で、オーガニック化粧品の会社を一代で築き上げた女社長だ。本質的な部分で二人は非常によく似ていると思うのだけれど……。

 ホストクラブではこういったお客様同士の対抗心を煽って売り上げをあげることも多い。今日も、そもそも麻耶さんの席に付いていた僕を後から来た雛子さんが指名し、ドンペリを入れることで引き止め今に至っているのだ。それにしても、空気が痛い。視線が痛い。帰りたい。……とはいえ、勿論帰れないのだけれど。このパターンの場合、往々にしてどちらがアフターに僕を連れ出すか、で再び高度?な駆け引きが行われる。僕としては、二人ともそれぞれに素敵な女性だし、毎日お仕事をとても頑張っている方たちだから、少しでも楽しんで帰っていただきたいのだけれど……。こんなにバチバチと火花の散るようなやりとりをさせてしまうことが申し訳なくなる。あー。僕がプラナリアで二つに分裂できればいいのに。なんて、詮方ないことをぼんやりと思い浮かべる。

深々とため息をつきたい、けれどそれをごくりと飲みくだし、精一杯の笑顔を浮かべた僕のもとに若手のトウマ君が笑顔でやって来た。

「レンジさん。ご指名です」

……ああ。胃が、痛い。






 夜というのは少しずつ色を変え朝になるものだと、僕はこの仕事を始めてから知った。深く艶やかなベルベットの手触りの夜空は、やがて徐々にその色を浅くし、軽やかな綿のような朝へと姿を変える。夜空に朝の気配が漂い始める明け方四時に酩酊した僕はタクシーを降りた。雛子さんと麻耶さんの鞘当ての毒気に当てられて、今日は悪酔いしてしまった。気を抜くと世界がグラグラと揺らぐ。本当の世界はこんな風にグラグラとしているんじゃないかな、なんて地動説を唱えたコペルニクスを酔っ払いの仲間に引っ張り込もうと試みる。

 カチリと鍵を回すと奥から近づいてくる足音。玄関灯のスイッチに片手を置いた我が家の家政夫氏が欠伸混じりに出迎えてくれる。

「おー。おかえり。今日遅かったんやなぁ」

「あ〜。奏ちゃーん。ただいまぁー」

おぼつかない足元で革靴を脱ぎ捨て、大きな黒猫に抱きつこうとしたら、すかさず足蹴にされる。奏ちゃんはまるで黒猫だ。髪も目も真っ黒で、着ている服もほぼ黒。ソファで丸まって寝ていると、この人の前世は猫だったに違いない、と思えるほどだ。

 足蹴にされてもめげずに後ろから奏ちゃんの頭のてっぺんの匂いを嗅ぐと、雛子さんの云うような薔薇の匂いではなくて、ほのかな石鹸の匂いがした。あからさまに厭そうな顔をして、じろりと僕を睨んだ奏ちゃんは、ひょいと手を伸ばしてチェーンロックを締めた。

張り詰めていた神経が解けると、一気にアルコールが体を巡り始める。ふわふわと揺れる視界。僕はどうも、千鳥足になっていたようで、奏ちゃんが心配そうに眉を顰めた。

「なんや。ヘロヘロやんか。ほんまもう、しゃあないなぁ」

よっこいせ、とおっさんくさい掛け声で僕の体を支え、歩けるか? と優しい声が問う。

「うん。大丈夫〜。ちょっと厭な飲み方したから、悪酔い、したみたい」

「楽な格好になってその辺にいとき。水持って来たるわ」

「ありがとう〜」

ふわりふわり……ぐらりぐらり、と視界が揺らぐ。幸い吐き気はまだないけれど、もう一押しされれば、完全にアウト。明らかに悪酔い。

 僕は奏ちゃんに支えられながら、どうにかリビングまで辿り着き、そのままスーツを脱ぎ捨て、べしょりとその場に潰れた。床暖房で暖かいフローリングが気持ち悪い。揺りかごに放り込まれ、グルングルンと体を回されているように感じる。

 最近、胎児に戻ってリラックス、なんて云う怪しげなヒーリングサロンがあるみたいだけれど、僕は胎児には戻りたくないな、と頭の片隅でぼんやりと思う。絶対に酔う。冷たい空気を吸いたい。

 ぱく……と鯉のように口を開いてみたけれど、空気が足りない。気持ち悪いなぁ、プロなのに何をしているんだ、僕は。と今年もう何度目かわからない一人反省会を頭の中で繰り広げつつ、床に大の字になって寝転がる。

ひたひたと裸足の足音が近づき頬に冷たいペットボトルが押し当てられた。

腫れぼったい瞼を押し上げるとしゃがみこんだ奏ちゃんがいた。

「コップやと水零すやろ。これ飲んどき」

「うん」

「ほんま、体壊さんようにせなあかんで。仕事とはいえ。人間の体なんて思うとるより脆いもんなんやから」

 ほら、と体を起こしてくれる腕の中で、僕は水を飲み干し、そのまま意識がフェードアウトしていった。





 久しぶりに罰金だ。

僕は床に横になったまま、流氷の上の海象よろしくぐったりと体を投げ出していた。二日酔いというのは本当に辛い。なったことがない人にはあの辛さはわからないだろう。頭はガンガンするし、世界はグラグラと心許なく揺れる。体の置きどころがないくらいにだるくて気持ちが悪い。

目が覚めた時、脱ぎ捨ててあったスーツは片付けられ、下着姿で床に行き倒れていた僕には毛布と掛け布団がかけられていた。外した記憶のないメガネはきちんと外されて、床の上からでは手を伸ばしても届かないテーブルの上に置かれている。スーツに突っ込んだままにしていたスマホはご丁寧に頭の真横に置いてくれてあった。

 風邪で熱があるので、と薄っぺらい嘘をつき、欠勤する旨を伝えてスマホを置く。メールが何件か来ているみたいだけれど、今は目を開けることすら辛い。

「いい歳こいて二日酔いとか何してんねん。ほんま」

ぶつくさと文句を言いながら、奏ちゃんが僕を覗き込む気配がする。少しだけ目を開けてそのチェシャ猫のような表情を盗み見て、僕はもう一度目を閉じる。

「う〜……気持ち悪い。吐きたいけど吐くものもない……」

「まぁ二日酔いってそんなもんやんな。あるあるや」

「奏ちゃん〜……。気持ち悪い。頭痛い。もうお酒なんて飲まない」

「……それ、二日酔いになると必ず思うやつや。なんか、俺も二日酔いの時に、いっつも『あー。患者さんってこないにしんどいんかな。明日から優しくしよう』って日々の行いを反省したもんやわ。もう酒なんて二度と飲まん、ってほんま思うよな」

くつくつと喉を鳴らしながらも、全面的に同意を示した我が想い人は、テーブルの上に置きっ放しになっていた女性誌を手に取り興味なさそうにペラペラとめくる。僕たちは……っていうか僕は、かな? 今の仕事をするようになってから、新聞三紙と適当な女性誌、あとは雑誌を何種類か、は必ずチェックするようにしている。奏ちゃんの手にあるのもその中の一冊だ。

「とりあえず楽になるまで寝えや。水ちゃんと飲んで」

「奏ちゃん。楽になるお薬は〜?」

「アホか。ないわ」

笑いまじりに答えた奏ちゃんはそのあと少し懐かしそうに続けた。

「あれやで。医局旅行なんかの時にさ、バカみたいに飲む奴もおるんよ。せやから、旅行に行く時は、ほんまはあかんねけど、生理食塩水の点滴を持っていってな、酔い潰れた奴に点滴するんやんか。それくらいしか、二日酔いを早く治す方法ってないからな。ここに点滴はないし、自力で水分とってもらうしかないな」

クスッと笑って、女性誌で僕を扇ぐ。生温い風が申し訳程度に送られてくる。

「アルコールを分解するお薬が欲しい……」

「アルコール自体やなくてアセトアルデヒドの所為なんやけどな。綾人のアルデヒドデヒドロゲナーゼが頑張ってくれるように祈っとくわ」

あるでひどでひどろげなーぜ……呪文みたいな単語がぐるぐると頭を回る。寝ろ、と言われても、気持ち悪すぎて、ただ体が泥のように崩れていきそうになる。うつらうつらと眠るでもなく胡乱な意識の淵を辿りながら、僕は夢を見る。

 奏ちゃんが僕の家に来て、もうすぐ半年だ。夢と現のはざまで僕はあの時の光景をリプレイしていた。

 夏の暑い日だった。まだ僕の起床時間までは間がある正午前。アブラゼミがうるさいぐらいの大声で合唱していた。この夏ばかりの生命を燃やし尽くすかのように。ドアを開けると、うゎぁんと耳鳴りするほどの蝉時雨が襲いかかってきた。一瞬、その勢いと日差しのまばゆさに目眩を覚えた僕の目の前に、黒い鍋を抱え、大きなカバンを下げた奏ちゃんが立っていた。

 奏ちゃんは心臓外科医だった。僕と奏ちゃんは大学生の時に知り合った。奏ちゃんは医学部、僕は文学部の学生だった。心臓外科医として順調にキャリアを重ねていたはずの彼が、何故平日の昼間にここに立っているのか。僕には瞬時には理解できなかったけれど、その時の奏ちゃんの所在なさげな立ち姿に何かがあったんだ、と直感的に悟った。

 あの時の奏ちゃんは真夏の陽炎みたいに、瞬きをすると消えてしまいそうで、僕は寝ぼけた頭をどうにか叩き起こした。会うのは三年ぶりのことだったけれど、困ったように笑ってみせる奏ちゃんはなんとなく心許なくて、僕は一抹の不安を感じた。

(ちょっと泊めてもらえへん?)

らしくない笑い方をする奏ちゃんに僕は心の柔らかい部分をぎゅっと強く握られるようだった。少し冷ややかな印象を与える切れ長の目には疲労の色が浮かんでいた。

(追い出されてんか)

笑い話のように言いながら玄関先に立ち尽くすその人が僕を頼ってくれたことを、僕は少し誇らしく思った。家賃でも滞納したのか? と尋ねると、軽やかな笑い声をあげて「ちゃうわ」と答えた。なんで? とそれ以上、その時の僕は聞けなかった。てっきり一緒に暮らしていた誰かと喧嘩でもしたのか、と思ったから。

実際はそんな浮ついた話ではなかったんだけれど。

 鍋の中身はカレーだった。

なんでカレーを持ってこんなところにいるの? と僕たちはひとしきり笑った。

奏ちゃんの作ったカレーはとても、とても美味しかった。

カレーを食べながら、奏ちゃんはまた笑った。

 ぱらり、と紙をめくる音がする。奏ちゃんは僕がうとうとし始めたのを見ると、巣のようになっているソファの向こうに姿を消した。先刻手にしていた僕の資料用の雑誌でも読んでいるのかな。そんなことを思いながら、僕はまどろみに溶けた。





 とっぷりと日は暮れ、目を覚ますと室内は夜に満ちていた。

どうしてお酒に負けた時の眠りはこんなにも浅く、休息らしい休息を与えてくれないのだろう。酷い倦怠感。どれくらい眠っていたのかわからないけれど、カラカラに乾いた喉は水分を、と訴えていた。

「……奏ちゃん?」

なんとなく、本当になんとなくだけれど、あのまま奏ちゃんが消えてしまったんじゃないか、なんて妄想に駆られて僕は名前を呼んだ。面倒臭そうな「ぁあん?」と云ういつもの返事はなくて、僕は不安になる。

不安になる必要なんてない、と言われればそれまでなのだけれど……。奏ちゃんはいい大人なんだし、手に職もある。貯金もないわけではない、って言っていた。だとすれば、或る日ふらりとこの部屋から消えてしまってもおかしくはない。おかしくはないんだけれど……僕は、今の奏ちゃんから手を離してはいけない、と。そう、なんとなく。本能的に感じていた。

 例えば、死期を悟った野生の動物は、自ら姿を消すと云う。諸説あるけれど、群れをなす生き物の場合、自らが死ぬとその屍を食料とする肉食動物が匂いを嗅ぎつけて来てしまい仲間が危険に晒されるから姿を消すのだと云う。或いは、食物連鎖の頂点近くに君臨する大型肉食獣も同様に死を悟ると姿を消す。これは、体が弱った時、野生の生き物ならば、どこか安全な場所に身を潜めて傷が、病が癒えるのを待つより他ないからだと云う。百獣の王のライオンですら。ならば今、心に深手を負った奏ちゃんが消えてしまって、そして二度と会えなくなってしまったとしても不思議はないように思えて、僕は時々どうしようもない気持ちに襲われる。

 夜に満たされた部屋の中、静寂だけがそこにあった。

ペットボトルのミネラルウォーターを流し込んで、立ち上がる。

世界はもうぐるぐるとは回らなくて、あくまでも地動説を主張するように僕の足元を支えていた。

「奏ちゃん?」

もう一度。名前を呼ぶと、夜に溶けたソファに僕は目を凝らした。うちに来てから、奏ちゃんはソファかソファの前の床で眠っている。本物の猫みたいに。古い革のソファは随分くたびれていて、その柔らかな革に人影が沈み込んでいた。

 よく耳をすませると、微かな寝息が聞こえた。

「……奏ちゃん」

ソファの上で丸まったまま返事はない。

僕はなんだか、全身から力が抜けていくようで、ソファの前にへたり込んだ。そして、気持ち良さそうな寝息を立てる奏ちゃんの髪にそっと触れる。しなやかな黒い髪が指の間からさらりと落ちる。

ソファにもたれて夜に沈んだ部屋にじっとしていると、背中から寝息に合わせたリズムが伝わる。誰かが一緒にいる、ということ対する憧れなんて感じたことはなかったし、一人の暮らしは快適で、人に合わせて暮らすなんて真っ平御免だと思っていた。それなのに、今、僕は、犬や猫を飼う人の気持ちや、結婚する人の気持ちが少しだけわかった気がした。 

それくらいに、背中から伝わるリズムは心地よく、この人がここにいてくれることが、幸せだ、と感じた。

 奏ちゃんは時々、とても遠くを見つめながら呟く。

(人間なんて、いつか死に行くものだから、悔いのないように生きなあかんな)

……と。

それは、誰でもない自分自身に言い聞かせる言葉で、その悲痛な響きに僕はいつもチクリと胸を刺される。人生は一度きりだ、とか、やりたいことはやっておかないと、とか、昔からそういうキャッチフレーズを謳った雑誌の特集や広告はよく目にする。ごくごくありふれた、当たり前の言葉だ。

ただ、決定的に違うのは、奏ちゃんの言葉の最果てには、命の消える瞬間が存在して、今が良ければ、とそんな刹那的な享楽を唆すフレーズとは真逆の、どちらかというと、お寺でお坊さんが話す言葉みたいな虚無感に満ち満ちている、と云う点だ。同じ言葉なのに、雑誌やテレビが唆す言葉はきらびやかな輝きをまとっているのに、奏ちゃんのそれは静寂を求める深い青に満たされた水のようだった。

 室内を侵食した夜は窓越しの世界へと連なり、僕はソファにもたれたまま開けっ放しのカーテンの向こうを見つめる。都会の夜は星よりも人工の光の方がキラキラと鮮やかに輝いている。視力が0.1しかない裸眼で見る夜空はぼんやりと滲んでいた。僕は奏ちゃんの言葉を思い出していた。

この人工の光も、そして、人工の光の眩さにかき消されそうな星の光も、いつかは消滅してしまう。人の命に限りがあるように、全てのものには終わりが来る。だとすれば「いま」「ここに」在ることが、奇跡みたいなもので、いつかは終わるその日までに、僕たちはどれほどのことを知り、どれだけの人に出会うことができるのだろうか。会いたい人とどれだけの時間を共有し、言葉を交わし、時を重ねることができるのだろうか。

 子供の頃は、世界の全てをいつか知ることができる、と信じていた。けれど、それはあまりにも果てしなく、僕はまだ世界のかけらすら知ることができずにいる。奏ちゃんの云うように、全てのものがいつか死に行くのであれば、僕は、僕たちは、果たしてその命が尽きるまでにどれだけのことを見て、聞いて、感じて、知ることができるんだろう。

 ただ生きているだけでは出会えないたくさんの感情や物語を知るために、見たこともない世界を出来事を知るために僕は本を読む。誰かの人生という物語に触れたくて僕は働く。

そんななかで、会いたくて、知りたい人が、今そばに居て、時間を共有できることに僕はひっそりと感謝した。背中からは、規則的な寝息が聞こえていた。






 真新しいコートのポケットに両手を突っ込み、黒猫が背中を丸めた。

十一月ももうすぐ終わる頃。

まだ冬将軍の到来には少し間があるはずなのに、このところひどく冷え込む。鍋と大きなカバン一つだけで我が家に転がり込んできた大きな人型をした黒猫……こと、奏ちゃんは、流石に着のみ着のままの夏衣装では事足りなくなって、仕方なしに僕のコートを羽織っている。残念ながら流石に僕のコートでは奏ちゃんには大きすぎて、あまりにもブカブカと不恰好で、Tシャツのように大は小を兼ねる、とは問屋が卸してくれなかった。でけえ、と文句を云う奏ちゃんの姿をみて僕はひとしきり笑い、勿論、彼は恐ろしく不機嫌になった。

巻きつけたマフラーの下、もごもごとくぐもった声がぼやく。

黒いウールのチェスターコートに僕が巻いたペイズリーのマフラーが妙におっさんくさい。……そうか。この柄をこんな風に巻くと、おっさんぽくなるんだなぁ、なんて他人事のように観察する僕のコートの背中を誰かがぎゅっと掴んだ。

「ふぁ?」

僕はつんのめりそうになって、車で言えばエンストしたみたいな勢いで足を止める。中島みゆきの歌ではないけれど、遠巻きに眺められることはあっても、直接的かつ物理的に引き止められることはあまりない。ていうか、経験上、ない。

足を止めた僕の前に顔を覗かせたのは、雛子さんだった。

「レンジ君。それに神室君も」

「あっ、雛子さん」

 こんにちは、と云うべきか、こんばんは、と云うべきか、少し悩んで僕は「こんにちは」と条件反射で営業スマイルを浮かべる。

「お。雛ちゃん。久しぶりやね」

 隣で着膨れた奏ちゃんが片手を上げる。

 何故、僕のお客さん(それも太い!)と僕の想い人が知り合いなのか、と云うと、奏ちゃんがうちに転がり込んだ直後に起きた、小さな事件がきっかけなのだけれど、それ以後、二人は意気投合したようで時々遊んでいるらしい。僕からすると、色々と複雑な気持ちではあるんだけれど、二人の関係は二人だけのものだから、僕が口を挟む権利はない。

「ちょうどいいところで会えたわ。ちょっとお茶しない?」

 お茶しない、と誘う口調ながら、その手はしっかりと僕のコートの袖を掴んでいる。雛子さんのshall we? は、Let usとほぼ同意だ。

さらさらにブローされたセミロングの髪を揺らして、雛子さんは微笑む。この笑顔は選択を相手に委ねているのではなく、決定事項として従うことを要求しているのだ、と、僕は長い付き合いから知っている。雛子さんが僕を指名するようになってから、そろそろ十年近い。その間、僕をずっと支え続けてくれているのだ。彼女は。

するりと自然な仕草で腕を絡めた雛子さんに連れられ、僕たちは小さな喫茶店に滑り込んだ。





 カウンターが五席にテーブル席が二つ。席が全部埋まっても十人と少しで満員になってしまう小さなお店には有名なシャンソン曲が流れていた。

「よかったわ。こんなところで会えて。ちょっと困っていたから相談したかったのよ」

 勝手に「ブレンドとチーズケーキを三つずつ」とメニューも見ずに注文した雛子さんは明るい枯葉色をしたオーバーサイズのコートを脱ぎ、壁に吊るしてあったハンガーに掛けた。奏ちゃんはコートを着たまま、僕がぐるぐるに巻いたマフラーを外している。

「神室君、服を着てるんだか、服に埋もれてるんだかわかんないわね。それじゃあ」

 口元に手を当て、くすくすと笑う雛子さんは、さらりと「今度なにかプレゼントしてあげる」と云って、スマホに何やら打ち込む。この人の「今度」は社交辞令ではなくて、本当に近い未来のことを指している。僕も、ホストとして雛子さんには育ててもらった、と自負している。

「ところでね」

 珈琲が運ばれてくるのを待ちきれない様子で、雛子さんはテーブルの上で指を組み合わせると身を乗り出した。

「ちょっと困っていて、相談に乗って欲しいのよ」

「なんなん? 俺でも役に立つんやったら聞くけど」

 奏ちゃんは、プレゼント云々のくだりはすっぱりと黙殺して、雛子さんを見つめ返す。僕は奏ちゃんの切長の目が二回瞬きするのを横から盗み見る。

「んー。役に立つかはわからないんだけど。部外者の意見を聞きたいのよ」

「部外者。てことは、なんや仕事か家庭のトラブル?」

「そうね。半ば仕事、半ば家庭ってとこかしら」

 雛子さんは四十代後半、四捨五入すれば五十に手が届く年齢だけれど独身だ。けれど、本人はそのことを全く気にしてはいないし、自分の仕事に誇りを持って、且つそんな生活を楽しんでいる。ホストと遊ぶにも飽くまでそれはあそびと割り切っているから、余計な色恋を持ち込むことはしないので、上客中の上客と云っていい。いくら払いが良くても、色恋や枕(枕営業のことだ。性的行為を求めるお客様も中に入るのだ)を求めるお客様は、他のお客様との兼ね合いもあって、決していい客とは云えない。

「これ、ちょっと見てもらっていい?」

 雛子さんは、スマホの画面を操作して、LINEのトークを表示させる。

 一番上のグループ欄には『双葉高校』と書かれている。

 双葉高校と云えば、都内でも有数のお嬢様学校で、近年は進学校としても名前を知られている女子校だ。

「雛子さん、双葉高校のご出身なんですか?」

 まさか今、高校生のはずはないから、双葉高校、というグループ名からすると、雛子さんは双葉高校の卒業生なのだろう。

「そうよ。もう三十年も前だけどね」

「高校時代って、今思うと『えー、そんな昔やった?』て感じするやんな。俺ももう十五年も前のことやもん」

「早いわよ〜。十五年があっという間に三十年になるんだから」

 トークの画面には他愛のないやりとりが連なっている。

 子供のお受験の話。美味しかったランチのお店。夫の昇進。オススメの化粧品。

 女性の会話というのは、高校生の頃も今も変わらない、ということなのだろう。

 雛子さんは、Hinaという登録名のようで、時折友人たちに相槌を打つ程度で、特段会話の中心になることもなく、グループのやりとりを見守っているようだった。

「でね、この子。望月梨恵っていうんだけど」

 Mochiと表示されているアイコンを指差すと、プロフィール欄が開く。そこには、絢爛豪華な花々に囲まれた派手な顔立ちをした美女がこちらを向いて微笑んでいた。

「わたし、この子のドッペルゲンガーに会っちゃったみたいなの」

 艶やかな笑みたたえた写真を見つめ、僕は首を傾げた。



 雛子さんの話によるとこうだった。

 望月梨恵という女性は高校時代はそれほど目立つ少女ではなかったが、このLINEグループが作られた二年前の同窓会に現れた時には、今のアイコンにあったような、派手やかな美女に変身していたのだそうだ。二十数年ぶりに会った旧友のあまりの面影のなさに一瞬みんなが「誰?」と囁き合ったそうだが、整形をし、化粧の勉強をしたのだ、と云われればその通りだった。確かに身長や体つきは昔とあまり変わっていなかったし、それになにより高校時代の思い出を語り合ううちにそれが望月梨恵その人だと、同級生たちも納得した。

 俳優ばりの旦那さんとの写真を見せ、今は品川区のタワーマンションで暮らしていると語り、へぇ、そうなのね、と雛子さんは適当に相槌を打ったという。

 彼女はLINEグループの中でも発言の回数が多く、それはいずれも豪華な食事やアフタヌーンティーの話だったり、夫と出かけた仲睦まじい様子を惚気る話だったり、或いは、新作や限定の持ち物を自慢する話だったり、生活は順調で楽しく暮らしている様子を伺わせるものだったという。

 ところが、先日、雛子さんがたまたま品川に仕事で赴いた時。

 LINEグループでちょうど望月梨恵が品川駅でアフタヌーンティーをしているというので「じゃあ、一緒にお茶しましょう」と雛子さんが何の気なしに誘いをかけ、彼女がいるはずの有名ホテルのラウンジに足を伸ばした。しかし、その投稿を見ていなかったのか、既に彼女はいなかった。行き違いなんてよくあることだし、と望月梨恵の食べていたものと同じアフタヌーンティーセットを摘んでいると「ごめんなさい! もう食べ終わったので帰っちゃった。またご一緒させてね」とメッセージが入ったという。ここまでは別段おかしなこともなかった。写真にもおかしなところはなく、運ばれてきたアフタヌーンティーのメニューは望月梨恵のアップした写真と同じものでだったし、このラウンジに彼女がいたことは間違いはなさそうだった。

 それからしばらくして。

 LINEグループに難波天子という女性からの投稿があった。

 それは、望月梨恵がしばしば写真をアップしていた、どこに行っても人目を惹くほどの男前の夫が別の女性の肩を抱く写真だった。なんてん(恐らく難波天子なので、なんてんなのだろう)と表示された女性は「Mochiさんの夫が浮気をしているかもしれない。大丈夫?」と続けていた。

 望月梨恵は「他人の空似よ」と夫婦の仲睦まじい写真をアップした。

 その二週間後、今度は望月梨恵から雛子さんに直接連絡が入った。「このまえのお詫びにお茶でもしない?」との誘いだった。別に高校時代それほど仲が良かったわけではないけれど、断る理由もないので、雛子さんは品川にあるタワーマンションを訪れた。

 広々とした室内には生花がたくさん飾られ、よく片付いていて生活感をほとんど感じなかった。おそらく古いコールポートの百年ほど前のものだろうアンティークのティーセットでアフタヌーンティーが振る舞われた。お手伝いさんだという五十半ばくらいの女性が細々とした気配りでとても素敵な時間を過ごした。室内には特におかしな箇所はなく、アッサムのミルクティーは香りも豊かで、家でこんな優雅なアフタヌーンティーができるのはいいわね、と雛子さんは正直に褒めた。それから、夫との関係について大丈夫か? と問うと、あれは自分の夫ではないもの、と、望月梨恵は笑っていたという。

 望月家を辞して、名刺入れを忘れてきたことに気づいた雛子さんは、仕事上も必要なものだし、と慌てて取りに戻ったが、どれだけチャイムを押しても誰も出ず、LINEで「名刺入れを見つけたら送って欲しい」と頼むと、後日、名刺入れだけが送られてきた。



「でね、その後、街中で彼女を見かけたから声を掛けたんだけど、すっごい似てる他人だったみたいで、邪険にされちゃってね。なんだかこう、もやもや〜っとしてるのよねぇ」

「で、連絡も取れないんですか?」

「なんだか気になったし、何回か遊びに行っていいか? って聞いたんだけれど、わたしも意外と忙しいじゃない? タイミングが悪いんだとは思うんだけれど、それから一度も会えてないのよ」

「ふぅん」

「だって、もしわたしが見かけた彼女がドッペルゲンガーだったら、本人と出会っちゃったら大変じゃない」

ドッペルゲンガーに会うと死ぬ、なんて云うでしょう? と、雛子さんは極めて真面目な顔をして云った。

くたびれた革のソファに沈み込み、身を丸めた奏ちゃんはコートを着たまま、うぅん、と唸った。

「なんや、釈然とせえへんし、気持ち悪い話やね。ドッペルゲンガーねぇ」

誰しも耳にしたことのあるその単語を奏ちゃんはしみじみと声に出して噛み砕く。超常現象や伝承の一部として語られるその言葉はやけに非日常的で、得体の知れない不気味さだけを残し上滑りしていく。

「自分にそっくりな人がいる、って物語なんかだとありがちな設定だけど、そうそういないよねぇ。最近はデジタル画像をいじれば写真だけなら簡単にそっくりさんはできるみたいだけど」

「クラブに貼ってあるレンジの写真も修正入ってるものね」

「ちょっと、雛子さん」

 唐突に自分に矛先が向けられ僕は慌てる。

「ま、本物の方がいい男だから問題ないわよ。誰も彼も、あんな人造的なお目目ぱっちりのお人形さんみたいな顔が好きなわけじゃないんだから」

 ふふ、と笑った雛子さんは頬杖をつく。

間接照明が映す観葉植物の影が壁に美しい幾何学模様を描いている。

ランダム再生のステレオからはジュ・トゥ・ヴが流れていた。

「そういえば、芥川龍之介もドッペルゲンガーに会ったんじゃないか、っていう俗説があるよね。それで自殺しちゃった、っていう。あとは……エドガー・アラン・ポーの小説でそんなのがあったような気がする」

 ふと思い出したことを口にすると、奏ちゃんは唇を尖らせた。

「へぇ……。俺、その辺のことはさっぱり詳しくないんやけど、オカルト小説か? それ」

少々ではなくデリカシーのない奏ちゃんの言葉に、僕は口をとがらす。

「オカルトじゃないよ。どちらかというと、ミステリかなあ」

「ふぅん。なるほどね」

「そんなわけで、二人にこの謎を解いて欲しいの。なんだかすっきりしないんだもの」

 そう云って、雛子さんは可愛らしく笑った。






僕は勤労感謝の日、と銘打たれた祝日を挟んでの繁忙期をどうにかやり過ごし、十日ぶりの休日の朝を堪能していた。

基本的にホストクラブはみんながお休みになる前日からお休みの間忙しくなる。 

折角のかき入れ時に休むのも馬鹿馬鹿しいので、祝日を挟んだ前後の日は出勤するホストが大半だ。代わりにしっかりかき入れた二日後に、僕は休みをとっていた。

今日のブランチはフレンチトーストにサラダ、有無を言わさぬたっぷりのカフェオレ。サラダボウルに盛られたトマトの赤とほうれん草の緑が鮮やかだ。フレンチトーストは卵の黄色。カフェオレは柔らかく白い。

 朝だと云うのに……いや、もう昼だけれど、カロリーたっぷりの食事をとりながら、僕たちは『その』話をしていた。

前日から漬け込んでおいた、と自慢げに胸を張るフレンチトーストは、甘くてふわふわで、口に入れると溶けていく。最近は有名ホテルのレシピもネットで公開されているそうで、一度作ってみたかったんだ、と奏ちゃんは嬉しそうに笑った。

奏ちゃん曰く、外科医には料理好きが多いらしい。手術と料理が少し似ているから、だという。確かに、正しい材料をそろえて、正しい調理方法、正しい手順で料理をするのは手術と共通点があるように思う。その人のセンスや経験でアレンジができるところもそうなのかもしれない。

寝起きに差し出されたミント水を一気に煽ると体の細胞という細胞が喜んでいるみたいだった。

 雛子さんにばったり会ってから十日。依頼ごとは全く進展する気配がなかった。

 というのも、そもそも僕と奏ちゃんはその『望月梨恵』という女性に面識もなくて、頭の中で事件? というか、雛子さんの相談事を考えるより他、解決する手段はなにもなかったからだ。

 それに、僕は僕で毎日仕事に出ていて、帰るとばたんきゅぅだったし、奏ちゃんは奏ちゃんで喫茶店『ホトトギス』へ修行に出ていたから、何かを調べるにしても、その時間がなかった。

「いただきまぁす」

「はいよ。イタダキマス」

ナイフとフォークで朝御飯、なんて奏ちゃんがうちに来るまではありえないことだった。ていうか、そもそもこんなにのんびりと朝御飯を食べることもなかった。

「奏ちゃん、いつもこんな朝御飯食べてたの?」

「まさか。仕事ん時はその辺にあるもんを適当に食べとったよ。買い物に行ける時に材料を買い込んできてな、作り置きしとった」

「マメだよねぇ」

ふわふわのフレンチトーストにナイフを入れる。昨日から漬け込んでいた、と云うだけあって、中までしっかりときれいに色づいている。添えられた生クリームをのせて口に運ぶと、甘くて香ばしいフレンチトーストの味が口いっぱいに広がった。

「今は時間だけはあるからな。フランス映画みたいな朝御飯てやってみたかったんよ。白いレースのカーテンが風に膨らんで、窓の外に青空。金髪碧眼の美人がシャンパン片手に優雅なブランチ。ええやん?」

「確かに〜。あ、でも、金髪碧眼の巨乳美人じゃなくてごめんね〜。僕で」

「せやな」

「うわ。ひっどーい。そこは、おまえでよかったよ、でしょ!」

奏ちゃんがこんなロマンチストみたいなことを云うのが少し意外で、器用にナイフとフォークを使う黒猫を盗み見る。相変わらず綺麗な人だ。昔から奏ちゃんは綺麗だった。決して女性的というわけではなくて、なんというか、存在がしゃんとしていて綺麗なんだ。伸びた背筋とか、どこか遠くを見るような少し温度の低い眼差しとか、ぶれがないんだ。

お行儀が悪いと怒られてしまいそうだけれど、食卓に肘をついて顎を支える。少し伸びた髭が手のひらにチクチクとした。……うん。金髪碧眼の映画に出てくるような美女にはなれないよねぇ。と独りごちて僕は顎を撫でた。

「それはそうとね」

 僕は、仕事の合間にネットから拾ってきた知識を引っ張り出す。

「ドッペルゲンガーって『その人の魂が抜け出たもの』って思われていてね、だから、死の前触れとして肉体と魂がわかたれて現れる、なんて考えられていたんだって。魂だけだから、ドッペルゲンガーは会話ができないのが特徴なんだって」

「ほぉ。そうなんや」

「或いは、死神が死を告げに来る時に姿を現す、その仮の姿が本人のもの、なんていう小説もあったはずだよ。どちらにしろ、ゴシック文学の世界観だから怪奇趣味に溢れてるけどねぇ」

 かちゃかちゃとカトラリーが小さな音を立てる。まるで高級ホテルのルームサービスみたいだ。これで部屋がもうちょっと綺麗だったら完璧だったのに。残念ながら僕の住む中古マンションの部屋は生活感に溢れている。

 カフェオレボウルを両手で包み込み、一口啜った奏ちゃんは首を傾げる。

「ほな、その、望月なんとか云う人のドッペルゲンガーはその人が死にそうやったから現れたってことか? そしたらその人はもう死んどるってこと? あまりに非科学的やろ」

「うん。僕もまさかそんなことは思ってないよ。でも、そっくりな他人、もしくはそっくりな人間、って考えたら、どうなんだろう?」

「せやな。それに……」

 不意に僕に顔を寄せた奏ちゃんがぼそぼそと低く囁いた内容に僕は目を丸くした。

「そんなことあるかな?」

「とりあえず、雛ちゃんに囮になってもらわんと、これは俺らだけやと埒があかんわ」





 夕方。

 秋の日は釣瓶落としと云うけれど、十八時前だというのにとっぷりと日の暮れた新宿駅の改札口に僕と奏ちゃんは居た。

 僕は来る途中に買った黄色い百合のブーケを見下ろす。

 こんな花を人に渡していいのか、少し躊躇いはあったけれど、もし僕たちの推測があながち間違っていないのならば、この花は彼女にとても相応しい。

 流れる人波の中から、小柄で華奢な女性が泳ぐようにして僕たちの方にやってくる。

 紺や黒といった暗い色になりがちな冬の装いの中、このまえとは違う、ゴブラン織のハーフコートが鮮やかだ。首元にはカシミアの赤いマフラー。足元もゴブラン織が貼りつけられた、レトロなイメージのローヒールを履いている。コートと同じ生地を使っているところを見ると、おそらくオーダーメイドだろう。この人はサラリとそんなことをする。

 僕が声をかけるより前に、奏ちゃんが片手をあげて雛子さんに声をかけた。

「雛ちゃん、仕事おつかれ」

「お待たせ。レンジくん。神室君」

「雛ちゃん、こんな高い服、やっぱり俺、貰えへんよ」

「高くないわよ。レンジにはもっと貢いでるしね。今日のお店に合わせて設たんだから、大人しくもらっておいてよ。わたしの立場だってあるんだから」

「うーん……まぁ確かに、俺もスーツなくなってしまったしな」

「いいじゃない。よくない過去ごとさようならで」

 ふふふ、と含み笑いを漏らす雛子さんに、奏ちゃんは、ありがとう、と頭を下げた。顔をあげた奏ちゃんは、雛子さんのゴブランのコートに目をやって、「そのコートも素敵やね」と褒める。

「いいでしょー。ゴブランなんだけど、どぎつくないし、あったかいのよね。難点はちょっと重たいことかしら。……あら、その花」

 雛子さんは僕の手元に目を止め、キッとそれを睨みつける。

「あっ、これは雛子さんにじゃないので」

「わかってるわよ。そんなものわたしに渡したら引っ叩くわよ」

「はい」

 僕は神妙な顔をして頷く。僕は以前、この花を雛子さんに渡してひどい不興を買ったことがある。

 前回の事件ですっかり意気投合した奏ちゃんと雛子さんは、幾分緊張する僕を他所に、楽しそうに談笑している。それにしたって、今日の奏ちゃんはいつも以上に男前で、僕は思わず見惚れる。前言通り、雛子さんからほぼ無理矢理押し付けられたロロピアーナの生地で仕立てられたセミオーダーのスリーピースは決して大柄ではない奏ちゃんにぴったりで、羽織ったハーフコートの美しいラインも相俟って、まるで英国紳士のようだ。

 ホストと失業中の家政夫氏と女実業家。そんな少しおかしな取り合わせでも、人混みの駅を行き交う人たちは誰一人僕たちを気にすることもない。

 お金持ちもそうでない人も、ホストも実業家も、ニートも主婦も。いろんなバックグラウンドの、それぞれに抱えるものも違うたくさんの人たちがいま、この場所にいるんだと思うと、僕はとても不思議な気持ちになる。

 人生の中で出会うことのできる人なんて限られていて、もしかして、誰かと出会うことは奇跡のようなものなのかもしれない。僕と奏ちゃん、奏ちゃんと雛子さん、雛子さんと僕。それぞれに出会わなければ、人生はどう変わっていたんだろう。少なくとも、僕は雛子さんと出会わなければホストにはなっていなかったと思う。

 そんなささやかな感慨を抱きながら、待つこと十分。

 雛子さんが痺れを切らし掛けた時、人混みの中に、一際艶やかな人影が現れた。

 栗色の髪をきっちりと内巻きにし、足元にはピンヒール。一目でそれとわかるブランドものの高級なロングコートは袖口に毛皮があしらわれている。濃い化粧と長い爪には派手なネイル。ヒールの音も高らかに近寄ってきた彼女は、甘くて濃密な香水の匂いをさせながら、値踏みするように僕たちを見つめた。

「こんばんは。望月梨恵です」





 挑むような視線が絡みつくのを誤魔化して、僕は営業スマイルでやり過ごす。

「初めまして。レンジです」

 黄色い百合のブーケを手渡すと、彼女はそれを手にして、艶やかに笑った。

「まぁ、百合。薔薇の次に好きな花なの。いい香り」

「そうですか。それは良かったです」

 微笑みかける僕の隣で奏ちゃんが面白そうな顔をしているのが気に食わない。仕事をしているところを見られたくないんだよね。本当は。それでも、そんなことを悟らせないのがプロだから、僕はそのまま、望月梨恵さんの顔を覗き込んだ。

「今日は急遽お願いしたのに、来ていただいてありがとうございます」

 僕の声を追いかけるように、雛子さんが声をかけた。

「もちさん、ありがとうね」

 目下、僕たちは、ドッペルゲンガーの謎を解くための作戦を敢行中だった。

 まずは、あの情報だけでは僕たちにはなんの判断材料もなく、情報が少なすぎるため、雛子さんを交えて、望月梨恵その人に会わせてもらうことにしたのだ。

「友達が急に来れなくなっちゃってね。折角の一つ星でしょ。四人で予約を取っていたし、あなただったらこういうお店にぴったりかと思って」

「いいえ、真宮さん! ありがとう。こんな素敵なお店にお誘いいただいて。嬉しいわ。何度か行ったことはあるけれど、とても美味しいお店よね」

「流石。あちこち行かれてるんですね」

 僕は相槌を打つ。彼女は幾分得意げに顎をあげる。

 その様子を奏ちゃんと雛子さんがしれっとした目で見ている。

 想定の範囲内、と顔には書かれていて、この二人が楽しんでいるのが見て取れる。

「あ、そうだ。レンジ君。今日はもちさんをエスコートしてあげなさいよ。わたしは神室君にエスコートしてもらうわ」

 小悪魔そのものの笑みを浮かべた雛子さんは奏ちゃんの腕に自分の腕を絡める。一瞬ムッとしそうになる僕の狭い心をどうにか治めて、僕は望月梨恵さんに微笑み掛けた。

「それじゃあ、今日は僕がエスコートさせていただきますね」

「まぁ、ありがとう」

 少し高飛車にも聞こえる高い声で云うと、彼女は僕の手に自らの指を絡めた。

「旦那様に怒られませんか?」

「大丈夫よ。あの人はあの人ですもの」

 意味ありげなその言葉を置いて、僕たちはタクシー乗り場へと向かった。





 高いピンヒールを履いた彼女は、タクシーを降りる時にいささかわざとらしくよろめくと僕に縋りついた。

「ごめんなさい」

 そう云うと、付け睫毛の上からガッチリとマスカラで覆った視線を雛子さんに流す。こういうやりとりや仕草を僕は嫌と云うほど知っている。店で。つまり彼女は、雛子さんに対し、優位性を示そうとしたのだ。

 しかしながら、今日の作戦のブレインは奏ちゃん、ステイクホルダーは雛子さん、僕はその駒に過ぎない。雛子さんは口元だけ笑みながら、目は笑っていない。うん、怖い。

 僕はその視線からするりと逃れ、形上、望月梨恵さんをエスコートする。ちらりと盗み見ると、奏ちゃんが雛子さんの手をとるのが見えた。

 入り口でコートを預け、メートル・ド・テルに案内された半個室の席に着く。

 光量を落としたライトの下でテーブルの上に置かれたキャンドルが揺れている。大きな窓の外では中庭の緑がダウンライトで照らされ、美しい絵画のようだ。

 予め頼んであったコースがアルコールとのペアリングで並べられていく。

 シャンパンではなく、梅酒がアミューズと共に供されると、望月梨恵さんは、薄らと笑った。

「あら、シャンパンじゃないのね」

「そうね。このお店は日本の食材やお酒を取り入れたフレンチが評価されているから。この時期でも梅酒なのには驚いたけれど。もちさん、以前に来られたときはどうだった?」

「さあ、どうだったかしら。覚えていないわ。シャンパンだったと思うんだけど」

「お店ごとのペアリングって楽しいわよね。個性が出て」

 にっこりと笑ってみせる雛子さんが怖い。この店には幾度か同伴したことがあるけれど、シャンパンが出てきたことは一度もない。スパークリングの梅酒やシェリー、エルダーフラワーシロップと白ワインのサングリア風のカクテルが出てきたこともある。その時々の食材に合わせて、ユニークなアペリティフを出してくれるのだ。

 つまり、この店に何度もきたことがある、とアピールしていた彼女は実はこの店に来たことなんて一度もないと云うことになる。

 本日のメインの肉料理、真鴨とトリュフのパイ包みが出る頃になると、望月梨恵さんはほろ酔いといった様子の潤んだ瞳で僕を見つめた。

「それにしても男前ね。真宮さんの彼氏?」

 きっと最初から僕と奏ちゃんが何者か気になっていた様子の彼女は、酔いに任せて、といった風にそう切り出した。

「彼氏ではないわ。そうね、お友達。素敵でしょ。二人とも」

「あなた以外とやるのね。結婚は? しないの?」

「しないわよ。今の生活が楽しいもの。もちさんこそ、旦那さんとのご関係、大丈夫なの? このまえ、なんてんさんがおかしな写真あげていたけれど」

「ああ、あれは私の夫じゃないもの」

「旦那さん、なにをされてるの?」

「心臓外科医よ。だからあんな時間にあんなところにいるはずないのよ」

 家事などしたことがない、と云うような長い爪に施されたネイルを見つめる。それにしても、心臓外科医って、と僕は奏ちゃんをちらりと見る。奏ちゃんは半年前まで心臓外科医だった。トラブルに巻き込まれて現在ニート、もとい我が家の家政夫をしている。それにしても偶然というのは恐ろしい。

「どちらの病院ですか?」

「えっ?」

 そんなことを聞くのか、と言わんばかりの目で奏ちゃんを眺めた望月梨恵さんは、口元にうっすら笑みをはいて、有名な大学の名前をあげた。

「へぇ、そなんや」

 それ以上、特になにも言わず、奏ちゃんはパイ包みを口に運ぶ。

「雛ちゃん、この鴨、美味しいなぁ」

「でしょ。二ヶ月おきくらいで来ると、メインが変わるから毎回楽しみなのよ。レンジ君は置いておいてまた一緒に来ましょうね」

 自分でエスコートをさせておきながら、ほんのりとヤキモチを焼いている様子の雛子さんが可愛い。

 そこから後は、彼女の夫とやらの話が延々と続いた。料理上手で男前で優しくて誠実で……そんな男が本当にこの世にいるのか、と問いたくなるほど完璧な夫の話を望月梨恵は次から次へと話す。合間に、今の職場にいる『使えない』男たちの話を織り交ぜながら。テンポ良く語られる言葉たちは、軽やかに見えて、どろりとした悪意が滲み出しているようで、僕はその声を耳に入れないようにしながら、舌に神経を集中させ、深く、複雑な味わいを堪能する。ペアリングの赤ワインはピノノワール。あまり詳しくはないけれど、最高のマリアージュだ。

「そう云えば、雛ちゃんは高校生の頃はどんな子やったん?」

 グラスのステムを三本の指で持ち、奏ちゃんが僕の隣に座った望月さんに声をかける。

「成績も良くて、可愛くて、確か生徒会の役員もやっていたわよ」

「今と変われへんのやな」

「ちょっと、やめてよね。変なこと聞くの」

 雛子さんは、子供のように頬を膨らませる。年齢不詳の外見と相俟って、あざとくも可愛らしい。そんな雛子さんを冷めた目で見つめた望月梨恵さんは、あからさまに作り物の笑みを浮かべ、すぐにそれとわかるお世辞を云う。

「目立っていて、羨ましかったわ」

「じゃあ、望月さんはどんな高校生やったん?」

「私は目立たない子だったわ。真宮さん、覚えてないでしょ。私のことなんて」

「うーん。名前は覚えてたけど。わたし、そもそも他人にあんまり興味がないから」

 肩を竦め悪気もなく云う雛子さんに、奏ちゃんがクスッと笑う。

「流石やわ」

「だってそうじゃない? 自分にとって眩しいくらいに楽しいことややってみたいことがいっぱいあるのよ。人の目なんて気にしていられないわよ」

「雛ちゃんが昔も今も変わらんのはわかった」

 奏ちゃんと雛子さんのやりとりに、イライラとした様子で望月さんは指先を擦り合わせている。自分の話題になったかと思いきや、爪弾きにされたのが堪えたようだ。雛子さんを睨む目は女の目をしていた。

「あっ、思い出した」

 睨まれて思い出した、と云うには幾分わざとらしく、雛子さんは両掌を胸の前で組み、これまたわざとらしく小首を傾げて見せた。

「もちさん、左利き、矯正したのね」






 その日。

 なぜか、僕は奏ちゃんと男二人で、アフタヌーンティーに来ていた。

 出勤前の僕と、一応スーツを着た奏ちゃんの男二人が、昼下がりのホテルのティーラウンジで向かい合う姿を、面白そうに眺める視線が突き刺さる。

「あの、奏ちゃん。デートに誘ってくれるなら、こんな人目につくところじゃなくても」

「は? その頭の中の花畑、一回除草した方がいいええんやないか? なんでデートなん」

「だって、アフタヌーンティーって……」

 もごもごと呟く僕を冷たい目で一瞥した奏ちゃんは、聞こえよがしに溜息をつく。

「あのさ、俺かて、アフタヌーンティーを楽しみたいことやってあるん。そんなん云うんやったら、次から誘わへんぞ。綾人」

「え、やだ。一緒に来る」

 大きなプレートの上に置かれたナフキンを膝の上に広げると、ウェルカムドリンクのシャンパンが運ばれてくる。金彩の施されたプレートが下げられ、代わりに、馴染みのあるシャンパングラスが目の前に置かれる。

 喉をするすると落ちていく繊細な泡に目を細め、奏ちゃんは、ふぅとひとつ吐息をはいて、チラリと時計を見た。

「一時半か」

 窓際の席は女性の団体客で占められていて、それぞれ歓談に勤しんでいるのが少し離れた席からも見て取れる。一人で来ているお客さんもいないわけではなく、そのうちの一人に僕は望月梨恵さんの姿を重ねた。

 アフタヌーンティーは元々、イギリスでお腹の空いたある貴族の女性が始めた習慣だと言われている。当時のイギリスでは、たっぷりの朝ごはんを食べた後、社交の場でもある遅い夕ごはんまでの間、食事らしい食事を食べる慣習がなかったそうだ。そこで、ある貴族のご婦人が、紅茶を飲むときについてくるフィンガーサイズのお菓子を食べることで空腹を紛らわせることを思いつき、そこから次第に、一人ではなく数人で紅茶とお菓子を楽しむようになったという。

 運ばれてきた華奢な細工の施されたシルバーのケーキスタンドには、一番下の段にサンドイッチと小さなカップに入ったポタージュが、一番上の段にはキラキラと輝くフルーツをたっぷりとあしらったタルトと、一口サイズの三角形をしたパイ、生クリームの上に真っ赤な苺ののったプティフールが並んでいる。二段目には本来ならばスコーンがのっているはずなのだけれど、スコーンどころかお皿自体がない。

「あれ? スコーンは?」

「ここのティーラウンジでは、スコーンは焼き立てを出してくれはるんやって。ウェルカムドリンクのタイミングで焼き始めるって予約した時に云うてはったわ」

「へぇ。それは楽しみだね!」

 飲み終えたシャンパングラスの代わりに、ポットに入った紅茶がサーブされる。

 僕はダージリン、奏ちゃんはアールグレイ。

 ゆらりと湯気の立ち上るティーカップを手元に引き寄せると、一口飲んで、一番下のお皿からサンドイッチを摘む。鼻に抜ける香りが心地いい。

「焼けるまで、どれくらいの時間がかかるんやろうなあ」

 歌うような口調で呟き、奏ちゃんも小さなカップに入ったポタージュを一息に飲み干した。

 邪魔にならない程度の音量で流れるクラシックに、女性たちの声が時折、重なる。

 平日の昼間、例えば、今日がお休みの人もいるだろうし、或いは専業主婦、僕のように夜のお仕事の人や、奏ちゃんみたいに人生の夏休み中の人。それぞれに違う人生を生きている人たちが、ほんのひととき、ここで羽根を休めている。日常の延長にありながら、非日常的な優雅な時間。アフタヌーンティーの人気が出る理由がほんの少しわかる。

 楽しそうに会話をし、アフタヌーンティーに舌鼓を打つ女性たちの幸せそうな顔を僕はぼんやりと眺める。

「なんか、いいねぇ。こういう時間も。僕もお客さんにこんな風に笑っててほしいなぁ」

「まぁ、どっちも癒しなんやろうな」

 奏ちゃんはニヤリとチェシャ猫のように笑う。

「お、お待ちかねのスコーンが来たみたいやで」

 視線の先を追いかけると、お皿とシルバートレイを持った、メイド服を模した制服姿の女性がこちらにやってくるところだった。目があった僕は思わず会釈する。

 僕たちの席まで来た彼女は、二枚並べたお皿に二種類のスコーンとクロテッドクリーム、ジャムを置き、ケーキスタンドの二段目に滑り込ませた。

「お待たせいたしました。当ラウンジ特製の焼きたてスコーンになります。お熱くなっておりますので、お気をつけてお召し上がりください。また、こちらに添えさせていただきました、クロテッドクリームとジャムはお好みに合わせてお使いくださいませ」

 丁寧にお辞儀をする彼女を、奏ちゃんが「あの……」と呼び止める。

「はい、なんでございましょうか」

「教えてもらいたいんですけど、このスコーンは、必ず、こういう風に出てきはるんですね? 例えば、別のセットで頼んだら、焼きたてと違うんが出てくる、なんてことはないんですよね?」

 極力丁寧な標準語を使おうとしているのはわかるけれど、関西の訛りがはっきりと出た、怪しい標準語を話す奏ちゃんに、僕は吹き出しそうになる。そんな僕をチラッと横目で見て、店員さんが微笑む。

「左様でございます。当ラウンジのこだわりで、やはり焼きたてを召し上がっていただきたいため、仮にスコーン単品でご注文いただいても、そこから焼成させていただいております」

 にっこり、と云う形容詞がぴったりな笑顔を浮かべ、彼女は丁寧に説明してくれる。

「なるほど。ありがとうございます。ようわかりました。美味しいスコーン、楽しませてもらいます」

 その笑顔に釣られたように、奏ちゃんもにっこりと彼女に笑いかけた。と、店員さんは頬を染めて俯く。

「ご、ごゆっくりお楽しみくださいませ」

「はい。おおきに」

 思わず滑り出した関西弁に、彼女はもう一度花の開くような笑みを浮かべて去っていった。その後ろ姿を見送った奏ちゃんは、「一時五十分」と小声で呟いた。

「さ。ほな、残りのアフタヌーンティーを堪能しよかね」

 先程までとは違う悪戯っぽい色に瞳を輝かせ、楽しげにティーカップを傾けた。






 十二月の街は、俄かに華やいでどことなく忙しなくなる。クリスマスと大晦日が一挙にやってくるからだ。

 タクシーの中から眺める表参道のイルミネーションは華やかで、映画かなにかのワンシーンを切り抜いたようだ。雛子さんは僕の指に華奢な指を絡めて凭れかかる。

「なんか疲れるわねぇ」

「そうですね」

 僕は肩に押し当てられた雛子さんの髪をそっと撫でる。

「雛子さんも無理しちゃダメですよ」

「えー。無理なんてするわよ。面白いこととか、やりたいこととか、まだまだいっぱいあるもの。時間が足りないわ。それに……疲れているのは、仕事の所為じゃないわ。これよ」

 身を起こした雛子さんは小さなバッグからスマホを取り出し、画面をスクロールする。

「もう、あることないこと……じゃなくて、ないことばっかりよく思いつくわよね」

 件の『双葉高校』のグループラインには、望月梨恵の書き込みが並んでいた。そこには名前こそぼかしてあるものの、どう見たって雛子さんとわかる人のことを、面白おかしく書き込まれていた。『若い男を二人もはべらせて。色ボケにも程があるし、それでうちの夫に勝ったつもりなのかなw結婚する気がないんじゃなくて、できないの間違いだと思う』『事業もうまく行ってないんじゃない? 女社長なんて言ってるけど。服も地味、ナチュラル系って年齢によるよね。もう、ナチュラルじゃなくて貧相。せめて鞄くらいいいものを持てばいいのに。いいお店に誘ってもらったけど、浮いちゃっててかわいそうだった』『昔は目立ってたけど、今目立たないのは自分の方』『私の仕事が忙しくて、なかなか時間があかないのをわかってるくせに、私を誘ってくるなんて、人の時間には値段があるの。それとも、自分より成功している人と一緒にいることで自分をよく見せたかったのかな?』『昔っからそうだけど、人の真似ばっかりする人だったよね。私が買ったばかりのグロスを見せてあげたら、次に会った時、同じもの持ってるんだもん。あの店だって、しょっちゅう行ってるみたいなことを言ってたけど。私が教えてあげたからじゃないの。恥ずかしくないのかな。もう友達やめた方がいいよね』

 書き込みには、うん、とか、そうだね、みたいな相槌が所々にあるものの、マウントを取ろうとするのがあからさまな彼女の態度には同意しかねる、といったムードが漂っている。

「とりあえず、答え合わせしよや」

 タクシーの助手席に座った奏ちゃんがフワァ、と欠伸をしながら僕たちに声をかけた。

 ホストの同伴に何故かおまけ付き、という不可思議な状況で、僕たちはとある店に向かっていた。その店は以前、雛子さんが望月梨恵さんのドッペルゲンガーと出くわした場所からほど近いところにあるカフェだった。

 今日も変わらぬナチュラルメイクに、裾にファーがついた大ぶりのポンチョを羽織った雛子さんをエスコートして店に入った僕たちに「いらっしゃいませ」と聞き覚えのある声がかけられた。入ってきた客が誰かを見てとるや、踵を返し、裏に入ろうとする女性の二の腕を雛子さんが掴む。

「い、いたいっ」

「そんなに痛いわけないでしょ。軽くしか掴んでないんだから」

「警察を呼ぶわよ」

「別にいいけど。それよりちょっとお茶しましょうよ」

 僕たちを睨みつける女性の胸元には『大久保』の名札があった。




「まいっちゃったわね」

 座るなり、雛子さんは目を瞬かせながら『望月梨恵』を名乗っていた女性に話しかけた。

「まさかなにもかも偽物なんてね!」

 先日と同じように濃い化粧をして、香水の匂いを漂わせた『大久保なにがし』は、目を逸らす。

「あなたは望月梨恵じゃない。本当は? 大久保……なんて云うのかしら?」

「……私は望月梨恵よ。あなたの同級生でしょ」

「じゃあ、問題。わたしたちが高校生の時、売店の一番人気だったメニューはなんでしょう」

「そんなくだらないことに答える義理はないわ」

「あるわよ。だって、あなた偽物だから。答えられないでしょ」

 可笑しそうに笑いながら、雛子さんは足を組みかえる。

「大久保なにさんか知らないけれど、あなたは本物の望月梨恵から依頼を受けた偽物。そうでしょ」

 華やかな顔を歪ませ、自称・望月梨恵は唇を噛む。

「なんでそんなくっだんないことをしなきゃならなかったのか、わたしには理解できないけど、あなたたちは『双葉高校』の同窓会でみんなを騙すことにした。それは、望月梨恵が完全な成功者であるかのように装って見せること。違う?」

 雛子さんの問いにも無言で、彼女は目を逸らす。

「そんな義理だてする必要ないじゃない。それとも契約に反すると罰金でもあるのかしら? あ、ちなみに、あなた……じゃなくて、本物の望月梨恵の夫に関することも全部嘘ね」

「……証拠は? 全部あなたの憶測でしょ。真宮さん」

「証拠? どの証拠から聞きたい? とりあえず、あなたはただ本物の望月梨恵から頼まれた共犯者。庇い立てする必要なんてどこにもないんじゃない?」

 鈴の鳴るような声で、くすくすと笑いを漏らしつつ、雛子さんは相手を静かに嬲る。女の戦いは怖い、と僕は無言で運ばれてきた紅茶を飲む。

「あ、あなたも紅茶でも飲めば?」

 座るように促されると、自称・望月梨恵は、渋々といった様子で椅子に腰を下ろした。

 それを合図に、奏ちゃんがふわぁ、ともう一度欠伸をして、低くて艶やかな声で話し始めた。

「ここからは俺が説明するわ。まず、あんたは、どんな経緯でかは知らんけど、望月梨恵のふりをすることになった。その最初が同窓会やったて云うことやから、多分、虚栄心か劣等感かまぁそんなとこやろな。その辺りのことは、ニセモンのあんたにはわからんやろな。それにどう云う契約であんたが動いていたんかも俺にはわからん」

 自称・望月梨恵は奏ちゃんをきつい目で睨みつける。

「あんたらはいくつものミスをした。まず、本物の望月梨恵がホテルでアフタヌーンティーを楽しんでいたところに雛ちゃんが立ち寄ろうとしたところからや。雛ちゃんが行った時には望月梨恵の姿はなかったってことやけど、そらそうや。そこにいたんは、あんたやなくて本物の望月梨恵やったんやから。望月梨恵のアップした画像には後ろに時計が映っとって、雛ちゃんが到着する十分前や。この時点で、ケーキスタンドの皿はほぼ全て手つかず。雛ちゃんが同じアフタヌーンティーセットを食べ始めたのが」

 これ、と奏ちゃんは雛子さんのスマホに表示された撮影時刻を指差す。

「本物の望月梨恵が撮影した時間より十五分後や。ほな、十五分でこれだけのもんをすっかり食べて帰れるか、云うたら、余程急いでかきこまんと、食べ終わらへんやろな。それに、ここのアフタヌーンティーは焼き立てのスコーンが後からサーブされる。様子を見ながら出してくれはるんやけど、出てくるんは大体十五分から二十分後や。お客さんが席についてから、焼き始めるて云うてはったしな」

 僕は奏ちゃんの説明に、先日二人で行ったアフタヌーンティーのことを思い出していた。そのためにアフタヌーンティーに行ったのか、と合点がいく。そういえば、あの時、お店の人とお話ししていたっけ。

「つまり、雛ちゃんと望月梨恵さんは同じ空間でアフタヌーンティーを楽しんでいた。それやのに、雛ちゃんが彼女に気づかなかったのはなんでか。それは、雛ちゃんたちの知る望月梨恵……つまりはあんたやな……ではない本物の望月梨恵がそこにおったからや」

 偽・望月梨恵は無言のままだ。

「ま、この件に関しては、あんたは知らんことやろから。コメントのしようもないやろね。で、この一件があったから、本物の望月梨恵は思いついたんやろうね。雛ちゃんを利用することを」

 と、雛子さんが、あっ、と声をあげた。

「見つけた!」

「ほんまか。雛ちゃん、綾人。追っかけろ」

「え? えっ。うん」

 唐突に「追いかけろ」と云われた僕は、テーブルに足をぶつけ、大きな音が店内に響く。素早く駆け出した雛子さんを追いかけ、その指差す方を見ると五十代半ばくらいの女性が、その格好とは不釣り合いとも見える、有名ブランドの鞄を両手で抱え、小走りに逃げようとするのが目についた。僕は忠実な犬よろしく、人波を交わしながら女性に駆け寄ると、前に立ち塞がった。後から追いついた雛子さんは、息を切らせながら彼女を捕まえる。

「見つけたわ。もちさん。いいえ、望月梨恵さん」

 僕と雛子さんを爬虫類のような目で舐め回すように見た女性は、観念したように肩を落とした。



 先刻の喫茶店に戻ると、奏ちゃんは優雅な仕草でアップルパイを食べていた。

 偽・望月梨恵は無言で顔を背けていたが、僕と雛子さんに伴われた女性が店内に入ると、ふん、と鼻で笑った。

「あーあ。バレちゃった」

 けばけばしい女性の一言に、年齢相応に草臥れた女性は彼女を睨んだ。

「あんたの演技が下手だからよ。この大根役者。だから売れない女優のまま終わっていくのよ」

「は? あんた、いい加減にしなさいよ。あんたのくだんない見栄にこっちは付き合ってやったんじゃない」

「その分、いい思いしたでしょ? あんたの身分じゃ一生縁のないような、いいお店で美味しいお料理を食べて。いい洋服を着て。金まで払ってやったんだから」

「ふっざけんじゃないわよ。このクソアマ。人のこと馬鹿にすんのもいい加減にしろよ」

 偽・望月梨恵と本物の望月梨恵の言い合いをしばらくは冷めた目で見つめたいた奏ちゃんは、言葉が荒くなってくると、双方を両手で制した。

「はい、そこまで。口汚い言葉使とると、それが身にしみてまうで」

「ああ、あんたは、真宮のイロよね」

 にぃっと唇を釣り上げた本物の望月梨恵の表情はどこまでも醜かった。人間って、顔の作りの美しさだけじゃなくて、表情の美しさもあると思う。同じように、皮の美醜を上回る醜い表情だってある。僕はそんな表情を見て、悲しくなった。

「品のないこと云いなさんな。俺は、雛ちゃんの友達やけど、そういう関係ではないわ」

「金で飼われてるくせに。よく云うわよ」

 あ、それは僕です、とボソッと心の中で呟くのに止めて、僕はやりとりを静観する。

「残念やけど、ちゃう。俺は神室奏志。そっちの偽もんの方とはこの前、会うたけど。あんたの旦那さん、心臓外科医なん?」

「ええ。そうよ。そう。私の夫は心臓外科医よ。準聖堂大学病院で働いているわ」

 振られた問いに本物の望月梨恵は胸を逸らす。彼女は、奏ちゃんの掘った落とし穴に真っ逆さまに落ちていく。

「それ、真っ赤な嘘やんな」

「何言ってるの? 失礼な人ね。金で飼われてる男はなんでも真宮の言うことを聞く従順な犬ってわけね」

「せやから、俺はただの友達。お金でしか友達が買えへん人にはわからんかもしれんけどなぁ」

 ちくり、とやり返した奏ちゃんは、端の折れた名刺を彼女の前に置く。

「俺、半年前まで心臓外科医やってん。心臓外科医の世界ってなぁ、狭いねん。どこの大学のどの先生とか、ある程度わかってくるもんなんやわ。望月って苗字の心臓外科医は準聖堂にはおらへん。準聖堂におるツレにも聞いたけど、今も昔もそんな人おれへん、て返事やったわ」

「だ、だって私の夫の名字は中村だもの。そうよ。中村よ?」

「ふぅん。ほんまに?」

「ええ」

「ほなこれ見てみ」

 奏ちゃんが示したスマホの画面には、どう見たってヨボヨボのおじいさんの画像が写っている。

「この方、中村光一郎先生。今は第一線から引退してはるけど。日本の心臓外科の黎明期を支えた先生やわ。ちなみにもう天寿を全うされてお空の上やけど」

 その写真を横から覗き込んだ雛子さんは、とぼけた様子で、奏ちゃんのスマホと自分のスマホを見比べる。

「へぇ。旦那さん、竜宮城にでも行ったの?」

 雛子さんの手の中にあるスマホには、偽・望月梨恵と俳優ばりの男前が頬を寄せた写真が表示されている。

 ギリギリと音がするほど歯噛みした本物の望月梨恵は、ようやくそこで観念した様子で乾いた声で笑った。

「そうよ。この女もこの男も偽物! 私が本物の望月梨恵よ」

 奏ちゃんは、ひょい、と肩を竦め、本物の望月梨恵を睨みつけている偽物と、それから自分が本物だと名乗りを上げた本物の望月梨恵を順に見つめた。

「雛ちゃんをタワマンのアフタヌーンティーに誘ったのは、偽物を本物と信じ込ませるためやったんやないかと思う。偽物の望月梨恵の、虚構の優雅な生活を見せたかったんやないかな。あんたが使った部屋は、タワマンにはよくあるゲストルーム。あんまりにも生活感がなくて綺麗やった、って聞いたから、そこのマンションの管理会社に問い合わせてもろたんや、雛ちゃんに。忘れ物をしたって云うてね。そしたら案の定。あんたらが会うた部屋は客が来たときに泊まれるようにマンションに準備されとるゲストルームやったってわけや。そん時に居ったんが、そっちの偽もんの人と、お手伝いさん。ゲストルームを借りるには、居住者が鍵を管理人から借りて入らなあかん。つまり、お手伝いさんか偽もんのどっちかがあのマンションに住んでなあかん。なら、偽もんがそこまでんことする必要はないやろから、必然的に、その時おったお手伝いさんが、本物の望月梨恵さんてことになる」

 雛子さんは「ありがとう、神室君」と囁いて腕組みをした。

「それにね、ひとつ星のお店に行ったとき、わたし思い出したのよ。あなたって、左利きだったでしょ。昔、隣の席になってぶつかった時に、ものすごく怒られたのを思い出したの。『左利きの人間への配慮が足りない』って。それなのに、お店で見たあなたのテーブルマナーは右利きだった。矯正した可能性もあるとは思ったけれど、あの時点であなたのこと疑ってたから、ああ、やっぱりこの人、偽物ね、って思ったわ。それより、なんでこんなくだんないことをしたの? それこそ、この偽物さんにお金を払っていたわけでしょう?」

 そうよね? と、偽・望月梨恵に声をかけると「そうよ」と吐き捨てるように彼女は答える。

「その女は、自分をよく見せるために、あたしを雇ったのよ。あたしの本当の名前は大久保志野。女優よ」

「はっ、女優なんてよく言ったものねぇ。この店でアルバイトしないと食べていけないような場末の女優の癖に。テレビに映ったことがあるのはエキストラくらいじゃないの? だから私が『援助』してあげたんじゃない」

 吐き捨てるように云った本物の望月梨恵は、唇を歪めて笑う。醜い笑顔。

「一回十万。確かに悪い話じゃなかったわ。SNSは一切やらない、この女の色々な……細かいことまで覚える、街中で誰かに声をかけられても絶対他人だと言い切る、面倒だったのはそれくらいかしら。この女になりきってしまえば、別段演じることに不都合はなかったし、それにその女が云うように、美味しいものを食べて、綺麗に着飾って、セレブの気分を味わうのも悪くはなかったわね」

 やけっぱちのように言い捨てる偽・望月梨恵を僕は痛々しい思いで見つめていた。そして、思わず僕は、好戦的に雛子さんを睨む彼女の頭をそっと撫でた。

「あなた、それだけ上手に演じることができるのに。もったいないよ」

 ハッとしたように顔を上げた偽・望月梨恵こと大久保志野は、一瞬大きく目を見開いてから、慌てて目を逸らす。

「女優なんだから。当たり前でしょ」

 小さな声は、少しだけ嬉しそうだった。






 結局、ドッペルゲンガーは偽物だった。

 お嬢様が多く、進学校でもあった『双葉高校』で、望月梨恵は当時から色々な鬱屈した思いを抱えていたようだ。自分より華やかで可愛い同級生や、自分より才能のある優秀な同級生に対する劣等感を、彼女はずっと心の中で育ててきた。

 自分と同じものをたまたま友人が持っていると「自分の真似をした」と攻撃したり、自分が憧れているお店に友人が行ったと聞くと「その店を教えたのは自分なのに」と非難したりするのは昔からだったらしい。

 二年前の同窓会の時、二十数年会っていない同級生達との再会を前に、彼女は鏡の中に映る年齢相応に歳を重ねてしまった自らの顔を見つめ、思いついたのだという。自分より若く、美しい女を身代わりにすることを。

 そこで、あのカフェで働いていた、売れない女優の大久保志野に近づき、彼女に依頼したのだ。

 自分の身代わりとなることを。

 大久保志野も最初は断ったのだと云う。けれど、サブスクで高価な鞄や靴、衣装を身につけて、普段では縁のない高級なお店に行く、という普段の生活ではありえないシンデレラのような体験にすぐに夢中になった。しかも、犯罪を目的とするのではなく、ただ、望月梨恵の虚栄心を満たすためだけのものだったから、気持ちも楽だった。

 SNSには、美しく着飾った大久保志野の写真を望月梨恵のものとしてアップした。美魔女、として旧友たちは望月梨恵をもてはやした。

 しばらくすると、同じ劇団の中で一番男前な役者を連れてきてくれ、と頼まれた。大久保志野とその役者、二人が顔を寄せ合った写真を「夫との写真」と望月梨恵は嘯いた。

 実際のところ、彼女の夫は普通の事務員で、落ち着いた五十代の男性だった。

 若さ、美しさ、それから金銭的な余裕。そんなものをひけらかすことで、彼女は虚栄心を満たしていたのだろう。それは、全て偽物だったのだけれど。

 そんな彼女にとって、雛子さんは、憎くてたまらない存在だったようだ。自分の好きなことを追いかけ、いつも自然体で、そのくせ、地位もお金も見た目の美しさも兼ね備えていた雛子さんが。

彼女には見えていなかったんだろう。雛子さんが自分の夢や理想のためには、さまざまな犠牲を払いながら努力していることなんて。勿論、雛子さんは僕たちにもそんなことを見せはしないから、これは憶測に過ぎないけれど。

 だから、一番羨ましい相手の雛子さんより優位に立つことで、自分を満足させようとしたのだ。彼女は。それも、SNSという虚飾の世界でマウントをとる、という形で。

 僕は溜息をついて、マフラーに首を埋めた。

 僕の生きる世界も虚飾の世界で、きっとお客様の中にも僕たちの中にもたくさんの嘘がある。どこまでが真実で、どこからが嘘で。曖昧なそのはざまを僕たちは今日も泳ぎ続ける。

 同伴の姫の腰を抱いて店のドアを開けた僕の視界の隅に、黄色い百合が揺れていた。





 黄色の百合の花言葉は『偽り』





                                     了

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