第3話 夜の青の底
第三話
1
「綾人っ。風呂入れって言うてるやろ!」
僕の朝(正確には昼過ぎだけど)は、奏ちゃんの怒鳴り声で始まった。
「このクソ寒い中、シャワーだけってどういうことや?風呂入って温まれ云うたやんか!」
「うう……。奏ちゃん、寒い……。」
べろり、と布団をめくられると、冷気が肌を刺す。
開け放たれた窓のそばでカーテンがはたはたと風に揺れている。
「換気中や!せやから風呂に入ってこい。」
「やあだよう。僕、お風呂嫌いなんだから〜。お布団返してよう。」
布団の端を握りしめ、残りわずかな温もりを搔き集めるように僕は体を丸めた。
「あかん。おまえ、放っとくと風呂に絶対はいらんもん。なんでそんな風呂嫌いなんよ?」
仁王立ちで腕組みをする奏ちゃんは、自分だけはちゃっかりモコモコとしたパーカーを羽織っている。ずるい……。
「ほれ。寒いやろ。入ってこい。風呂。」
「……奏ちゃんが頭洗ってくれるなら入る……。あ、できれば体も……。」
「しばくぞ。ボケ。」
吹き込んでくる風は真冬のそれで、寝ぼけた頭を一気に叩き起こすほどに冷たい。肌が寒さに粟立ち始めたから、仕方なしに僕は握りしめていた布団の端を離した。
僕が観念したと見ると、奏ちゃんはにたりと性悪猫のように笑った。
「料理で使た柚子の皮も入ってるから、しっかりあったまってこいよ。」
……本当に。奏ちゃんには敵わない。
僕はお風呂が嫌いだ。湯船に浸かるのは一ヶ月ぶりくらいになる。一応シャワーは浴びているから、汚くはない。と、思う。
そもそも欧米人には湯船につかる習慣がないんだから、僕がお風呂につからないからって別に問題ないはずだ。
僕がお風呂を嫌いなのには理由がきちんとある。
昔々のその昔には僕だってお風呂に毎日入っていた。
あれは中学生の時。
多感な?時期だった僕は、それまでにも増して本の虫になっていた。
物心ついた頃から本を読むのが好きで、グリム童話や日本の昔話は小学校に上がるより前に読み尽くしていて、幼稚園の帰り道にお菓子を買って、と他の子達がせがむように僕は本を買って、と母親にせがんでは子供向けのいろいろな本を買ってもらい、お菓子を食べるように本を読んだ。
一番最初の記憶に残っているのは『ガラス山の魔女たち』と云う本だ。今では絶版になってしまっているみたいだけれど、小学校の図書室で一番最初に読んだその本は、それまでのどこか教訓めいた『善きこと』を宿した本とは少し違った。勧善懲悪の世界観とは違う、みんなが少しずつ我儘で、それぞれに幸せを探しているだけなんだ、って云う当たり前だけれど、それまでの物語の中にはなかった世界が小学校一年生の僕には新鮮だった。大人になってからもう一度読んでみたいと思った時には絶版になっていて、もしかしたら、ストーリーは少し違っていたのかもしれない。けれど、今でも題名もはっきり覚えているくらい、僕にとっては印象的な本だった。
そうして、学級崩壊していた小学校四年生の時には、ほぼ一年、ずっと……。小学校の図書室にこもりきりで本を読んだ。ルパンもホームズも明智小五郎も、太宰治も芥川龍之介も川端康成も。
家でも学校でも下手をすると登校時間も、そして……お風呂に入っている間も本を読んでいた。兎に角、本の中に広がる世界が面白くて、楽しくて、僕は夢中だった。
そうして、中学生になったある日。
僕にとっては忘れられない悲しい事故が起きたんだ。
その日も僕は本を読んでいた。
お風呂に入りながら読んでいた本は忘れもしない太宰治の『斜陽』だった。本を片手にいつも通りにお風呂に浸かっていた僕は、あろうことか……本を湯船の中に落としてしまった。
慌てて拾い上げたけれど、文庫本のページは水を吸いふやけ、乾かしてみたもののゴワゴワになってしまったそれはめくることもできなくなってしまっていた。大好きな本だったから、僕はとても……悲しかった。
それからだ。
僕がお風呂を嫌いになったのは。
ただでさえ視力が落ちて、眼鏡がないと世界がぼやけるようになっていた僕は、お風呂の中で本を読むのも困難になっていたから、それからお風呂に入るのをやめた。お風呂に入っている間は本を読めなくなってしまうから。
結果、春も夏も秋も冬もシャワーで済ます、と云う欧米人なら別段誰からも文句を言われないような生活をするようになった。残念ながら僕は生粋の日本人で、我が家の家政夫氏は僕より更に規範的でお風呂を愛する日本人だった。
物語はそもそも人間が紡いだ世界だ。
人間の言葉で紡がれた世界だ。
僕はその世界にずっとずっと夢中だった。文字だけの世界が僕の住処のようになっていた。中学生の時にいじめられたこともあって、僕はますますその世界に没頭していった。
今も勿論。本は好きだし、そこで描かれている世界に僕はすぐに夢中になる。
でも、以前の僕は、今よりずっともっと他人に興味なんてなかった。
いじめっこの語る自分勝手な理由や、先生達の話す教訓という前例に基づいたありふれた話に何の興味を持てたというんだろう。
未完成な中学生という生き物の自己本位で先の見えない所謂『中二病』っていうやつはどれもこれも似たり寄ったりで、そんなことよりも剣と魔法の世界を竜と一緒に旅する主人公の話のほうが僕の心をときめかせたし、「厭なんです、あなたの行ってしまふのが。」と熱烈な愛を綴った高村光太郎の『智恵子抄』に体中の血が逆流するほど興奮した。
そう。はっきり言って、不完全な人間なのは僕も一緒だったんだ。
自分が莫迦にしていた中学の同級生達と同じように。
僕は人間に興味がなかった。
……大学生のある日、奏ちゃんに出会うまでは。
奏ちゃんに出会ったのはいわゆる『合コン』の席だった。
同じ大学の永田君という少しチャラい感じの男の子に誘われて……正確には、永田君が誘っていた子がドタキャンした、とかなんとかで、何度か一般教養の講義で言葉を交わしたことのある僕に白羽の矢がたってしまったのだ。
僕たちが通っていた大学は総合大学というやつで、医学部の学生も二年生の半ばまでは一般教養科目を履修することになっていた。僕は経済学部の学生で、奏ちゃんと永田君を含む他の合コンの面々は医学部の学生だった。僕は大学でも暇さえあれば本を読んでいたし、正直、合コンなんかに全く興味なんてなかった。まぁ、だからこそ、その席に誘われたんだと思う。見た目にもそこそこ地味で、そのうえ自分たちの狙った女の子を奪われるリスクもない、そんな人畜無害な人種だったから、彼は僕を誘ったんだろう。
実際僕は、流行りのお店にも、お酒を飲むことにも、女の子たちの気をひくことにも、何一つ興味なんてなかった。むしろ、僕はそんな席に連れて行かれることよりも、いま手にしている本の続きの方がよほど気になっていたし、実際、その合コンの席でもお互いが挨拶を始めるまでずっと本を読んでいた。
奏ちゃんは永田君が連れてきた目玉商品だった。僕が頭数合わせの木偶の坊だとすれば、奏ちゃんは女の子達の興味を引くための、悪く云えば見世物みたいなものだった。
僕の隣に座った奏ちゃんは今になってみると大概不機嫌な顔をしていたように思う。尤も、僕はその頃、他人になんて興味なかったから、奏ちゃんが口を開くまで隣に座っている人がどんな人かすら見もしないで、手にした本を読んでいた。
「神室です。頼まれたから来たけど、品評会は好きやないんで。」
低く滑らかな声がさらりと吐き出した毒に僕は隣に座った小柄な青年を初めてじっと見つめた。真っ黒な髪と切れ長の真っ黒な瞳、黒いざっくりとしたニットを着た奏ちゃんは、やっぱりあの時も黒猫みたいだった。その席にいた女の子の誰よりも綺麗な顔をしている、と僕は思った。女の子達は確かうちの大学の音楽学部の学生だったはずだ。それぞれにまだ幼げな容貌にメイクを施し、着慣れていないことが一目でわかる背伸びした服を着ていた。奏ちゃんの吐いた毒に彼女たちがひそひそと、それでも上擦った様子で言葉を交わしていたのを僕は妙にはっきりと覚えている。
個室居酒屋、と云うのが売りの店で、僕たちは男五人、女五人の大所帯で8畳程の和室で当たり障りのない……例えば、大学のどの教授は優しいだの、どの試験は楽勝だの云う愚にもつかない話を肴にビール、チューハイ、焼酎、日本酒、と酒を飲んでいた。
終始つまらなさそうにしていた僕の隣の席に座った青年は、焼酎の水割り片手に、黙々と枝豆を食べていた。女性陣は最初こそは事あるごとに彼に話を振っていたけれど、あまりにも素っ気ない態度に、そのうち、自分たちの話をうまく拾い上げてくれる永田君や他の二人との会話に夢中になっていった。
事件が起きたのは、みんなが慣れないお酒にへべれけになった頃だった。
僕たちはみんな二十歳そこそこで、お酒を上手に飲む、なんてまだわかっていなくて、自分のペースとか自分の限度とか知りもしないで、雰囲気に流されるまま杯を重ねていた。
『合コン』なんかに興味もなかったはずの僕も例に漏れず、日本酒はいつの間にか水のように感じられ、気づけばお銚子がずらりと並んでいた。
突然、頬を真っ赤にしていた女子学生が、呻き声を上げてばたりと倒れた。
飲みさしのグラスに入ったカシスオレンジの淀んだ紫が、テーブルから落ちてぐしゃりと潰れた。ガラスの割れる音が店内に響いて、僕たちは青ざめた。
何が起きたのか把握できないうちに、医学部の男子学生たちは女子学生を取り囲んだ。
脈をとるそぶり。体を膝に抱え起こし、ゆさゆさと何度も揺すっては名前を呼ぶ。その子の名前は忘れてしまったけれど、一緒に合コンに来ていた女の子が青ざめた顔で友人の名を連呼していた。力なく投げ出された手が、体を揺さぶれるとそれに合わせてグニャグニャと動くのがなんだか死を連想させて、気持ちが悪かった。
そんな中、奏ちゃんは折りたたみ式の携帯をポケットから取り出して、救急車を呼ぼうとしていた。
「おい!まてよ!まだ救急車が必要なほどかどうかわからないだろ?それに……俺たちだって医者の卵なんだから、少しは介抱くらい……。」
女子学生の体を抱えていた大柄な学生が救急車を呼ぼうとする奏ちゃんを怒鳴りつけた。
僕は、あの時の奏ちゃんの凍るような冷ややかな眼差しを今もはっきりと覚えている。
別の一人に携帯を取り上げられた彼は、女子学生をさらに揺さぶろうとする男子学生の肩をゴンッと蹴り飛ばした。蹴られた方の学生は、意識もないままの女子学生を畳の上に横たえて、奏ちゃんに殴りかかった。明らかな体格差がある相手に殴られた奏ちゃんはそのまま居酒屋のテーブルの上に突っ込んで、お銚子が何本も割れた。
「ってぇなぁ。アホかお前!何が医者の卵や。んなもんな、俺らはまだ受精卵にもなってへんわ!何ができるんや?あ?おい。そこのメガネ。お前、はよ救急車呼べ!」
「呼ぶ必要ないっつってんだろ!」
「呼べ!」
食べ残しの乗ったお皿が並んだままのテーブルに体を押し付けられたまま、奏ちゃんは僕を見た。大柄な学生は奏ちゃんの襟元を片手で握り、拳を振り上げる。
「お前な!この子が死んだらどうするんや。俺らはまだなんもできん、ただの学生や!甘ったれた自己満足の為に、人の命を弄ぶな。中途半端な知識や技術で、人を救えるはずなんてないやろ。思い上がんなや。」
吠える奏ちゃんを拳が襲う。
僕は、慌てて携帯で119をダイヤルする。
火事ですか?救急ですか?と云うアナウンスすらもどかしかった。
青ざめた顔で横たわった、まだあどけない顔立ちの女子学生と、殴られるままになっている小柄な青年のために。
「勝手なことすんなよ!お前、医学部じゃないんだろ。」
奏ちゃんを殴っていた男子学生は、今度は僕に矛先を向けようとした。
と、組み伏せられていた奏ちゃんの膝が、男子学生の股間をがーん、と蹴り上げるのが見えた。
殴られて頬を腫らしたまま、奏ちゃんは僕に顎をしゃくった。
早くしろ、とでも言わんばかりに。
股間を押さえてうずくまる男子学生の体の下から、するりと抜け出した奏ちゃんは女子学生の仲間に声をかけた。
「この子、なんて名前やったっけ。誰か、この子の家に連絡入れたって。」
僕をこの場に誘った『永田君』が女子学生の脈をとっていた。
「一応、脈は触れてる。息もしてる。」
「メガネ!救急車は?」
「えっと、五分くらいでくるみたい。」
「上等や。ありがとな。」
股間を押さえ痛みに悶えていた男子学生が、僕たちを睨みつけていた。
「……神室。お前の所為で、俺たちの応急処置が間に合わなくてこの子に万が一のことがあったらお前の責任だからな!」
ブルドッグが呻るみたいにして吐き出された言葉に、奏ちゃんはゾッとするほど綺麗に微笑んだ。殴られてパンパンになった顔で、それなのに、その笑みが恐ろしく艶やかで、あの冷ややかな眼差しとセットで今も僕の記憶に刻み込まれている。
「吠えるなカス。どうせ今のお前じゃなんもできひん。俺も永田も今枝も、や。」
意識のない友人の脇で泣きじゃくる女子学生の背を撫でながら、僕は見惚れていた。
その人、に。
結局、その女子学生は急性アルコール中毒、と云うやつで、救急車で僕たちの在学する大学の付属病院に運び込まれ、ことなきを得た。
合コンの参加者は全員、大目玉をくらい、大柄な学生と奏ちゃんの二人は殴り合いのペナルティも加算され、一週間の停学処分を申し渡された。
停学明けの日。
梅雨入り前の穏やかな晴れた日だった。
初夏の日射しが眩しくて、中庭の池はキラキラと光を反射していた。
教室で呼び止めた奏ちゃんの顔は、まだ腫れぼったくて、目と口のあたりは内出血の紫がくっきりと残っていた。
ベンチに座った奏ちゃんは「停学で済んでよかったわ。」と笑った。
「あんた、あの時、ちゃんと救急車呼んでくれてありがとな。助かったわ。」
「んーん。僕、経済学部だしねぇ。できることってそれくらいしかなかったし。それより、顔、痛そうだねぇ。」
「痛いな。ほんま、あのカスの金玉、潰れるくらい蹴っておけばよかったわ。」
綺麗な顔とは程遠い悪態をつきながら、奏ちゃんは肩を竦めた。初夏の風が大学の裏にある国有林から、植物の芽吹きの香りを運んでくる。
「ええと、神室君、下の名前は?」
「は?」
「いや、なんかこう、面白いなぁって。」
「何がよ?」
紙パックのりんごジュースを飲みながら、奏ちゃんは怪訝そうな顔をした。真っ黒な瞳には初めて家族以外の人間に興味を持った『僕』の顔が映っていた。『僕』はいつも鏡の向こうにいる『僕』よりも楽しそうで、優しい顔をしていた。自分のことなのに、僕はそんなことにすら「面白いなぁ。」と思ってしまう。
そうだ。人間っていうのは、ひとつの物語なのかもしれない。
生まれた時から重ねてきた時間、経験、その人の性格。そんないくつもの章から成り立つストーリー。だとしたら、人間っていうのはとてもとても面白いものなのかもしれない。
本を読むのと同じかそれ以上に、人間は、もしかすると。
「なんだろう。人間って、面白いなぁって。」
「あんたのがだいぶおもろいやろ。それ。」
目を丸くした奏ちゃんが噴き出す。
噴き出してすぐに、あいてて、と頬を片手でさすって、それもまた可笑しくて、僕たちは笑った。
「奏志。奏でるに志す、で『ソウシ』や。
「僕は、藤川。藤川綾人。もしよかったら、僕と友達になってもらえないかな?」
は?と、素っ頓狂な声を上げて、奏ちゃんは、痛いとかおかしいとか言いながら大笑いした。笑いすぎてえづくくらいに、奏ちゃんは笑い転げた。
「あんた、おもろいな。だいぶおもろいわ。翻訳物の映画以外でそんな台詞を真顔で言うやつ初めて見たわ。ええな、気に入ったわ。」
よろしく、と差し出された手は思ったよりずっと冷たかった。
僕は、心の温かい人は、手が冷たい、なんて云う俗説をふと思い出した。
2
濡れた髪を拭きながらリビングに戻ると、換気されていたはずの部屋は暖房で暖められていた。
「ええやろ。たまには風呂にゆっくり浸かるのも。」
ニヤニヤとチェシャ猫みたいな人の悪い笑みを浮かべた奏ちゃんはエプロンで手を拭きながら僕を見上げた。僕は素直に頷く。それにしても、お風呂に浮かんでいた柚子のおかげか、体の芯からぽかぽかする。
テーブルの上にはシンプルなお粥と薬味、温泉卵と湯気を立てる茶色い液体が並んでいる。出汁の香ばしく食欲を誘う香りに、柚子がほんわりと顔を覗かせている。
お風呂に入っていた柚子の皮はこれの副産物か、と合点が行く。
ほかほかの体で椅子に腰掛けた僕の前に梅干しの乗った小皿が置かれる。
「たまには胃に優しい朝飯。」
エプロンを椅子の背にかけ、自分もするりと向かいの席に座る。
綺麗に花開いたお米はきちんと炊かれたお粥の証拠だ。
「お好みで柚子風味の鰹出汁とそこにある薬味を入れて食え。」
ほいよ、と差し出されたレンゲを受け取ると、お腹がきゅう、と鳴った。
クリスマスからこっち、接客業や販売業の人間にとっては最大の繁忙期で、もちろん、僕も例外ではなく、12月の20日から既に7連勤している。浴びるようにお酒を飲み、揚げ物多めのクリスマス仕様の食べ物を食べ、胃もたれは頂点に達していた。お風呂とこのシンプルな朝ごはん(しつこいようだが、僕にとっての朝で、時計の針はとうに昼を回っている)は、奏ちゃんなりの僕へのいたわりなんだろうな。
「一応、お粥も少しだけ味ついとるから、一口食べてから自分で味は整えてや。」
「うん。ありがとう!」
こうして向かい合わせでテーブルに座り、奏ちゃんとゆっくりごはんを食べるのも久しぶりだ。この繁忙期に突入してから、ほぼ毎日、同伴とアフターで家には帰れても、抜けきらないアルコールと慢性化した胃もたれ、短い睡眠時間のせいで、奏ちゃんとはおはようとおやすみ、くらいの言葉を交わすことしかできなかった。
故に、今のこの朝御飯は僕にとってとてつもなく贅沢で幸せなひとときだ。
「茶粥にしてもよかってんけどな。ちょっと飽きるんよな。そのほうが胃には優しかったかもしれへんけど。」
猫舌の奏ちゃんは湯気の立ち上るお椀を前に、手持ち無沙汰に頬杖をつく。
「なんしか、おまえ、体壊さんようにせんと。」
「そろそろ深酒と睡眠不足が祟る年頃だしねぇ。」
湯気で曇る眼鏡が役に立たないと判断し、外したそれをテーブルに置く。ぼんやりとはしているが、真っ白に曇ったレンズ越しの世界よりは幾分マシか。
「本も新聞もゆっくり読めないし。奏ちゃんはお風呂に入れって云うし。」
レンゲで掬ったお粥を吹き冷ましながら、僕は向かいに座るチェシャ猫のほうを見る。眼鏡を外した世界はすべての輪郭が曖昧で存在の実感がない。僕はなんだか不安になって、頬杖をつく奏ちゃんの右腕に指先で触れた。
……ああ……大丈夫だった。
急に触れられた奏ちゃんは、一瞬ピクリと腕の筋肉をこわばらせたものの、不満げに鼻を鳴らした。
「おまえが風呂に入らへんのが悪い。貴重な休みなんやから、しっかり体を休めろよ。」
「えー……だって、お風呂疲れるよぅ。本読めないし。」
「風呂でくらい本読むのやめろよ。」
「やだよぅ。人生の中でクリアな意識でいろんなことに向き合える時間なんて本当に短いんだから!僕はもっといっぱい知りたいんだよぅ。時間が足りないよ!」
「まぁ……たしかになぁ。」
心なしか輪郭の滲んだ声で奏ちゃんが半ば同意を示す。
凜とよく響く低い声が視界と同じように滲んだことに僕の心がざわりと震える。
「人間って、動物やしね。いつか必ず死ぬものやし。こうしている今だって、俺もおまえも徐々に死へと向かってるんやしな。」
「ちょ……ちょっと、奏ちゃん。急に怖いこと云わないでよ。」
「怖かないやろ。事実や。……死ぬまでに何ができるか、自分の生きた証がなにかひとつでも残せるんか。それを考えるほうが余程怖いで。」
「奏ちゃん。何言ってんの……やめてよ。」
つん、と鼻の奥が痛くなる。まずい。泣きそうだよ。ぼやけた視界と少し心許なげな奏ちゃんの声色にまるで世界が遠のいていくような孤独感がこみ上げる。奏ちゃんは昔からそうだ。時々、不意に割れた硝子の破片みたいに鋭い切っ先で僕の心を突き刺す。意図するとせざるとに関わらず、仔猫の鋭い爪は、戯れるただそれだけで皮膚を切り裂く。そう、そんな風に、ね。誰かを傷つけようとして振りかざされる刃ではなく、ほんの些細な瞬間のなにげない一言が時として真実を射抜き、そのまま僕の心を貫くんだ。
僕は触れていた奏ちゃんの右腕をぎゅっと強く握る。薄い服地の下の腕は思ったより筋肉質でしなやかに僕の手になじんだ。大丈夫。奏ちゃんは此処にいる。
「……ッて。痛い。アホ。」
「あ。ごめん……。」
力を緩めると、ぬくもりがするりと掌から抜け出していく。心許なさだけが手元には残される。僕は仕方なく手を引くと、お椀を見つめた。
「あああもう。折角、飯作ったんやから、めそめそしてんとはよ食べ。」
「……うん。」
僕はお粥をレンゲでぐるりと混ぜ、一口、口に放り込んだ。お米の甘さがほろほろと口の中でほどけていく。トロトロの衣を纏ったお米は、甘くて、優しくて、優しくて……僕はやっぱり泣きそうになった。
食べ物に人格があるわけじゃないけど……ていうか、そもそも人じゃないんだけど、茶碗蒸しやお粥は味も存在感も優しいし、タイカレーは潔いけれど強気で、焼き鳥は頑固なイメージがある。僕は、お粥の甘く優しい味を舌で転がしながら、そんなお粥を僕のために作ってくれた優しい人を想った。奏ちゃんがどんな気持ちで先刻あんなことを云ったのか僕にはさっぱりわからなかった。けれど、こんな風に、僕の体を思いやって、こんなに優しい味のお粥を僕の為に作ってくれる奏ちゃんは、やっぱりとてもとても優しい人だ。この優しい人が無造作に投げつけたガラスの破片みたいな言葉はまだ僕の心に突き刺さったままだったけれど。
「奏ちゃん〜。お粥、美味しい。」
涙と熱さで鼻声になりながら感謝の意を伝えると、奏ちゃんが嬉しそうにくくっと喉を鳴らす。眼鏡をしていない世界はやっぱり輪郭が曖昧で奏ちゃんの表情は見えない。ちくちくと胸はまだ痛む。けれど、お粥のやわらかな甘さが傷んだ胸にゆっくりと染み渡っていくようで、少しだけ、痛みは和らいでいた。
3
買い出しに行く、と云う奏ちゃんに半ば無理矢理ついて家を出る。黒いチェスターコートも、それからこの街の景色にも奏ちゃんは随分と馴染んだ。それがなんだかとても嬉しく思えて、僕は奏ちゃんの腕に手を絡める。
「奏ちゃん〜。手が冷え冷えになるから手繋いで!」
「はぁ?アホか。」
ふん、とそっぽ向いたチェシャ猫は両手をポケットに突っ込み背を丸める。
あ。ずるい。手を隠した……。
「けち!」
「ケチちゃうわ!おまえ、手袋しとるやんか。」
「手、繋いでくれるなら手袋外すもん。」
「やなこった。てか、そもそも動機から嘘偽りやん!」
かつかつ、とブーツがアスファルトにリズムを刻む。
仕事納めは大体明日29日か30日、というところが多いだろうに、昼下がりの街は意外に人影も多く、賑々しい。
歳末バーゲン、と赤白で染め抜かれたのぼりがそこかしこにはためいている。
ああ、師走の街ってこんな雰囲気だったよね、と毎年のことなのに、どこか他人事のように感じながら、妙に現実感のないまま商店街を眺める。
僕の住む街の商店街は、銀座みたいにハイブランドが軒を連ねるようなやつではなくて、少し小洒落た時計屋さんやカフェの隣には八百屋さんやお魚屋さんが当たり前のように共存する不思議な空間だ。買い物帰りのおばちゃん達がたこ焼き屋さんの前で井戸端会議を開いるかと思えば、大型チェーンのCD屋さんや本屋さんがすました顔で立ち並ぶ。生活の匂いとよそ行きの顔。その両方がうまい具合に溶け合って、この街のどこか垢抜けきることのできない雰囲気を作り出している。
歩くうちにほどけかけた奏ちゃんのマフラーを後ろから巻き直してあげると、チェシャ猫は「んー。」とうなり声をあげる。
「昨日も今日も大晦日も元旦も同じ24時間のはずやのにな。なんや、不思議やんな。」
「ん?なにが?」
「同じ24時間やのに、扱いがこんなにちゃうことが。クリスマスでもそうやろ。その日だけホテルはアホみたいに高いし、その日に合わせてみんながチキンとケーキを買いに走り、クリスマスソングに浮き足立つ。大晦日やってそうやん?同じように朝になれば太陽がのぼって、夜になれば沈む。それやのに、その日だけが特別、って。なんや、不思議なんよね。」
「またそんなややこしいこと考えてる〜。」
僕は奏ちゃんの横顔を覗き込む。
「毎日が平坦すぎると、『今』の価値を忘れちゃうから、たまにはイベントごとでめりはりつけるほうがいいんだよ。僕たちきっと。」
「綾人は店で嫌って云うくらいにメリハリついてそうやけどな……。」
「……うん。」
まぁ確かにお店はカレンダーに記されたいろんな祝祭日に併せてイベントごとをあれこれ催してはいる。イベントごとがあれば、その度にお客様は『普段とは違う』ことを楽しみにいらっしゃる。その最大にして最凶のイベントがこのクリスマスから年末、新年にかけてなんだけれどね。
「綾人、次休みいつやっけ?」
「元旦はお休みだよ〜。」
「んー……なるほど。」
不意に奏ちゃんが手を伸ばし、僕の頭をぽんぽん、と二度軽く撫でる。
「ほんま、おまえ倒れんようにせなあかんで。」
「えへへ。」
少しだけ心配そうな顔をする奏ちゃんの気持ちが嬉しくて、胸の奥がほんのり暖かくなる。僕は奏ちゃんのポケットに手をねじ込むと、その手を握りしめた。奏ちゃんの指先はやっぱりとても冷たくて、その氷のように冷え切った温度が手袋ごしに伝わった。振りほどこうとされるかと思った指は素直に握りしめられたままで、嬉しさよりも微かな違和感が胸を過ぎる。
俯いたまま奏ちゃんがぽつりとつぶやく。
「俺も……久しぶりやなぁ……。こんな年末年始て。大体、仕事しとったしなぁ……。」
「あ……そ、か。」
零れた言葉は重力のままにアスファルトの上にぼとりと落ち、砕けた。
その響きは冷やりとした指先の温度とおなじくらいに冷たく色を失っていて、普段のからかうような軽やかさの欠片も感じられなかった。目を伏せた奏ちゃんの頼りなさげな姿が僕の中に不安の種を播く。そんな僕の気持ちなんて奏ちゃんに届くはずもないのだけれど、ね。人間って本当に不便だ。言葉にしないと、行動にしないと、気持ちのひとつも伝えられないんだから。
僕はただ、ポケットの中で奏ちゃんの手をぎゅっと握った。
「なぁ……なんやほんま、俺、なにしてんねやろな。ごめんな。綾人。いつまでもずるずるとおまえに甘えて、居候しつづけて。ほんま、ごめんな。」
今にも消え入りそうな儚い笑みを薄く唇にはいて笑ってみせる姿が痛々しい。僕は必死で言葉を探す。
「なにいってんの?!僕、奏ちゃんが居てくれるの嬉しいんだけど!寧ろ、ずっと居て欲しいっていうか……。おかげで美味しいごはんを食べられるし、昔よりずっと健康的な生活になったんだよ!それに、さ。奏ちゃん、今までずっと、ずっと頑張ってきたんだから、大人の夏休みだよ。」
「……真冬やけどな。」
「休み始めたのは夏だから夏休みでいーじゃん。そんなとこだけ細かいとそのうちに禿げるよ?!」
奏ちゃんがうちに来てからも時折求人情報らしいものをパソコンで見ているのは知っていた。医者の求人がどうなっているのかは知らないけれど。ちらっと見えてしまった感じだと、この地域での求人数は少ないみたいで、募集している科も限られているみたいだった。
僕は奏ちゃんのつむじをつついてみる。まだまだ禿げそうにもないけれど、白髪を一本だけ見つけてしまう。抜いたらきっと怒るよね。
「奏ちゃんが禿げたら悲しいな……僕。ねえ……額から後退していくのと、てっぺんからなくなっていくのと、どっちがいい?」
ばっ、と顔をあげた奏ちゃんはつむじを掌で覆う。
「うっさい。俺の髪よりおまえの髪の方がやばいわ!確実に。ってか、ハゲる前提で話しすな!アホ!」
ふんっ、と鼻を鳴らすと、奏ちゃんの指がするりと僕の手から抜け出した。離れようとする指を捕まえようと伸ばした手を、パシリと奏ちゃんがはたく。
「どさくさ紛れに手ぇ繋ぐな。暑苦しい。ガキやないんやからな!」
「冬だしいーじゃん。あったかいよ?」
「やだよ。」
にぃっと唇の片側をあげてチェシャ猫みたいな顔をしてみせた奏ちゃんは八百屋さんの前で足を止める。
金時人参、三つ葉、椎茸。
順に指さしていた奏ちゃんが、何かに気づいたように僕を見上げた。
「な。綾人んちのお雑煮って何はいってた?」
「ん?うちのお雑煮〜?」
「うん。お雑煮ってさ、地方によって全然中身ちゃうやろ。おまえんちのお雑煮ってどんななんやろって思ってさ。」
うちのお雑煮、と口の中で反芻してみる。僕としては、奏ちゃんがうちで作ってくれたらそれが『うちの』お雑煮なのに……と、また槍のような反論が降り注ぎそうなことを心の中で呟く。そんな僕の内心をよそに、チェシャ猫はにやにやと笑う。
「折角やから、正月はお雑煮二種類作ろうぜ。うちのお雑煮と、綾人んちのお雑煮。」
「いいね!贅沢!」
「……云うほど贅沢ちゃうやろ……。なんしかおまえんちのお雑煮の材料も買うてこ。」
僕は白菜を指さしかけて躊躇する。
……ねえ。白菜まるまる一個って大きすぎない?
両手に抱えるほど大きな白菜を前にして、僕は奏ちゃんを振り返る。
「これ、食べきれなくない?」
「でっけーなあ。こんだけでかいと延々と白菜やな。せやけど、それで298円ならめっちゃ安いんちゃう?」
僕たちのやりとりに、八百屋のおかみさんが胸を張る。
「お得でしょ?鍋パーティーでもしなさいよ。余ったら漬け物にすればいいじゃないの。」
薄手の茶色いダウンを羽織ったおかみさんの言葉に奏ちゃんは低く唸る。
「せやね。白菜はなんなと使い道あるしなぁ。」
奏ちゃんは思案するように口元を指先で撫でる。
まぁ、僕は食べる専門なんだけど……。
「ほなさっきのと、白菜で!」
「まいど。」
千円札を二枚、おかみさんに手渡すと、白いビニール袋がぱつんぱつんになるくらい大きな白菜と、残りの野菜を詰め込んだビニール袋を手渡された。僕は奏ちゃんの手からビニール袋を奪い取る。
「ん。持つで?」
片眉をひょいとあげて、奏ちゃんは手を差し出す。
その手をどちらかというと握りたいんだけどな、と思いながら僕はかぶりを振る。
「だってまだ買い物するでしょう〜?」
「うん。肉とか肉とか肉とか買わな。」
「って、肉ばっかじゃん。」
くすくすと笑い合いながら歩き出した時だった。
「センセイ!神室先生!」
ぴたり、と奏ちゃんの足が止まる。
毛を逆立てた猫のように目を細め、ぐるりと商店街を見回す奏ちゃんに向けて、緑色の巨大な塊が駆け寄ってきた。その勢いと大きさに僕は思わず奏ちゃんの体を背中の後ろに押し込む。
思ったより軽快な足取りで走ってきた人は、僕たちの前でぴたりと立ち止まり、荒い息を吐きながら、もう一度「センセイ!」と奏ちゃんを呼んだ。
「……な…っ!」
「神……室、センセイ。おひさし……ぶりです。」
巨体に似合わない高いトーンの声。黒縁の少し古くさい眼鏡に、明るい緑色のダウンジャケットを着た体は見事にまん丸だ。身長は奏ちゃんと同じくらいあるから女性にしては大柄なほうだ。
「み、深山主任?!」
「ちょ……はぁ……ちょっと待って……くださいね。わたくし……はぁはぁ……息が切れてしまいました。」
「あ……うん。見たらわかる。」
「センセイとよく似た方だな……と、はぁ……思ったら……はぁ……センセイでした。」
「そりゃ俺やしな。」
目を丸くして唖然とする奏ちゃんはなかなかレアだ。
「あのっ……先生?」
どうにか息が整い始めた様子のぽっちゃりとした女性は、体とは裏腹に高い声で奏ちゃんを呼ぶ。その響きにどことなく誇らしげな色を浮かべて。
「ん?」
「あのときの、患者さん。」
「……あのとき……?」
「ええ。あの胸腔鏡の手術の方。」
奏ちゃんが息をのむ気配がした。
体がピクリと震える。
僕はそんな奏ちゃんと、どことなく明るく柔らかな雰囲気を醸し出している女性を順に見比べる。にこにこ、と音がしそうなほどの笑顔を浮かべた女性は、ポケットから出したハンドタオルで額を拭った。
「あの方、意識が戻られたんです。」
「…………!」
奏ちゃんは一瞬目を大きく見開いた。
唇が何か言いかけるように軽く開いて、言葉を見つけあぐね、ふっと吐息を漏らす。
深い深い吐息。
師走の空に唇から紡がれた白い吐息が溶けていく。
色のない、白い白い頬を、水滴がぽたりと流れ落ちていった。
俯き、奏ちゃんは片手で目元を覆った。
「先生が助けたんですよ。」
深山主任、と呼ばれた女性はふっくらとした掌で静かな涙を流す人の肩を優しく撫でた。
奏ちゃんは一度かぶりを振る。
「……ちゃう。それは……あの人には生きる力があったんや……。せやけど、助かったんやな……。ありがとう……教えてくれて。」
よかった、と消え入りそうにか細い声がこぼれおちた。
僕は初めて、奏ちゃんが流す涙を知った。
4
「へたくそは外科医やめろ、って部長に云っちゃったんですよ。」
深山主任は笑いながらクリームソーダをストローで飲んだ。
僕と奏ちゃんが買い物の途中に時々立ち寄る喫茶店に僕たちは居た。
道ばたで不用意に泣いてしまった奏ちゃんを引きずり、深山主任と呼ばれていた大柄な女性をエスコートし、商店街から脇道に一本入ったこの喫茶店で僕たちはお茶をすることにした。
泣いたカラスが笑った……ではないけれど、先刻まで泣いていた奏ちゃんはすっかりいつものペースに戻って、ふん、と鼻を鳴らす。
「俺の前の勤め先の手術室の看護師さん。」と店に入った奏ちゃんはぶっきらぼうにそのふくよかな女性を紹介した。ちなみに僕のことは「友達の藤川。」とだけごくごくごくシンプルに紹介してくれた。
ほほほ、と口元に片手をあてて笑う様に嫌味は無くて、むしろコミカルな愛らしさがある。
人好きのする笑顔に僕もなんとなく力が抜ける。
そして、主任さんは軽やかな口調で話し始めた。
奏ちゃんが何故、病院をやめたのか。何故、うちに居候するに至ったのか。聞きたくても聞けなかったことを。軽やかだけれど、決して軽んじているわけではなくて、その喋り方は不思議と人にその重さを感じさせない、というだけのことで。ああ、きっとこの人はとてもいい看護師さんなんだろうな、と思う。医者や看護師というのは、命というとてもとても重いものを扱う仕事だ。けれど、その重さをむやみやたらに人に押しつけるのではなくて、ある程度持ちやすい重さにしてから渡してくれる。この人の話し方にはそんな力がある。奏ちゃんもそうだ。
「しゃあないやろ……日本は、アメリカなんかと違て、どんなに下手くそでも自分が心臓外科なり脳神経外科なりやりたい、って云やぁ、心臓外科でも脳神経外科でもなれてまうんやもん。一定割合で下手くそが紛れこむ。」
「まぁ、手のきれいな先生もみえますけど、あまりお上手ではない先生もみえますしね。」
深山主任は大きな体を丸め、鮮やかな緑色に浮いた白いアイスクリームをスプーンですくい、嬉しそうに口へと運ぶ。
「手がきれい?」
僕は聞き慣れない言葉に、思わず奏ちゃんの手をじっと見つめる。確かに奏ちゃんの手はきれいだけどさ。
「あらあら。ごめんなさい。手がきれい、っていうのは、手術手技に無駄がなくて、手術がお上手なことなんですよ。」
にこにこ、と笑顔のまま、存在感抜群の看護師さんが教えてくれる。
「神室先生もとてもきれいな手術をされていましたよ。」
「……あのじじいよりはな。」
珈琲を一口啜った奏ちゃんが唸る。
「わたくしたち、先生のなさったことに全員賛同してましたよ。まさか先生がクビにされてしまうなんて、もう信じられませんでした。」
「あーな。俺もこんな仕返しされるなんてことまで想定してへんかったわ。」
その日。奏ちゃんが助手に入っていた手術でその事件は起こった。
『ワニ口。』
『はい。』
パシッと小気味よい音がして執刀医……奏ちゃんにとっては許せないだろうその人……の手に指示された機械が渡された。水色のディスポの手術衣を纏った外科医の目は一斉にモニタに注がれる。長い棒の先にクリップみたいなものがついているんですけどね、と深山主任は両手を30cmほど広げてみせた。
『先生、ちょっと。視野がよくないです。』
カメラ……といっても、僕たちの知るような写真を撮るためのアレじゃなくて、胸腔鏡や腹腔鏡といった内視鏡手術で使う小型の、これも長い棒みたいなやつだけれど……の角度を奏ちゃんが少し変える。
早期肺癌の手術を内視鏡で切除する手術だった、と深山主任は語る。
どんなことにも長所と短所がある。人間だってそうだけどね。
この手術の長所は傷が小さくて済むこと。それから普段はなかなか観察しにくい細かな部分までカメラでよく見えること。短所はカメラで見えない部分があることと、手術自体がとても難しいこと。まだ四十代だった患者さんが体に大きな傷がつくことを嫌った所為もあって、このときは胸腔鏡での手術が選択されたという。
それと、心臓外科医の奏ちゃんが呼吸器外科の手術に入っていたのは別に珍しいことではなくて、一部の病院では胸部外科、というくくりで両方を担っていることも多いんだって。
執刀するのはそれぞれの専門医だけれど、助手で手術の手伝いをすることはよくあるんですよ、と深山主任は云う。
『神室、勝手に視野を変えるな。』
明らかに非難めいた口調で執刀医が怒鳴る。
奏ちゃんは努めて事務的にすみません、とだけ返答した。
ワニ口、と云われた鉗子が組織を挟み、時折、プーッと云う電子音がして少しずつ焼き切っていく。
僕たちが思う手術、ってなんとなくよく切れる刃物で切り進んでいくイメージだけれど、実際、外科医の代名詞みたいなあのメスで切る箇所なんて限られていて、皮膚くらいなんだってね。現実には、電気メスを使って焼灼切離っていう方法で焼いて止血をしながら切っていくんだって。
プーッ、プーッ、と電気メスに通電する音が繰り返される。
画面の中では組織がゆっくりと切り進められていく。
ハッとしたように奏ちゃんが顔を強ばらせた。
『先生、その陰に肺動脈の枝が……。』
『黙ってカメラを構えていろ。失礼な奴だ。』
執刀医がそう言った次の瞬間。
視界が真っ赤に染まった。
手術室にいた全員が息を飲んだ。
モニタが映し出す世界は、先刻までの鮮明な組織の画ではなくて、ただただ赤い血の海だったそうだ。
『神室!おまえが余計な口をきくから、手元が狂った!とっとと手術から降りろ!おまえのせいだぞ!』
顔を真っ赤にした執刀医が怒鳴り散らす。
元々、激高しやすいタイプの医者でね、と深山主任はその朗らかな表情を僅かに曇らせた。
『とにかく吸引。それからボリューム入れて。麻酔科、申し訳ない。ポンピングで時間稼いで。すぐに開胸手術に移行する。心肺組んで。仰臥位にできるように人呼べ。それから、羽多センセ呼んで。』
カメラをポートと呼ばれる穴から抜いた奏ちゃんはてきぱきと指示をだしたそうだ。執刀医の怒りを完全に黙殺して。
その時に、その人を助けるためにするべきことを。
胸腔鏡では止血が不可能だと判断した奏ちゃんは、早々に患者の救命の為に、開胸手術に移行することを提案したという。
でも、その対応が、執刀医のプライドをいたく傷つけた。
しかも、相手が悪かった。執刀医は胸部外科の部長。つまりは、奏ちゃんの上司。
結局その患者さんは一命をとりとめた。
けれど、大量の出血と肺動脈損傷による一時的な低酸素の影響のダメージで、手術終了後も目を覚まさなかった。
ICUで眠ったままの患者さんを見つめる奏ちゃんに、執刀医は食ってかかったそうだ。
『おまえのせいでこの患者はこんなことになった。わかっているのか?おまえ、責任はとれるのか?』と。
深山主任の話を聞く限り、言いがかりも甚だしいと思うんだけど、執刀医はそう詰ったそうだ。
奏ちゃんはしれっとしたいつもの様子だったそうだけれど、それが勘に触ったんだろうね。執刀医は奏ちゃんのスクラブの襟元を掴み、なおも奏ちゃんに罵声を浴びせていたらしい。
その時に振り払おうとした手が、執刀医にあたってしまったことと、そのあとに奏ちゃんが言い返した一言が決め手になってしまった。
『うるせえ!下手くそ。下手くそは外科医やめろ。患者がかわいそうや。』
……と。
まあ、いかにも奏ちゃんのいいそうな台詞で、僕は深山主任からその言葉をきいたときに、少しだけ笑ってしまった。
つまらなさそうにそっぽを向いたまま、奏ちゃんは足を組み替えた。
黒い革のブーツがコツン、とテーブルの脚に当たった。
まだほんの少し赤みの残った目元を細めて、我関せず、といった風に窓の外を見つめるチェシャ猫。
……素直じゃないんだから。
「まぁ、なんや。よかった。助かってくれて。」
遠くを見つめたまま、ぽつりと奏ちゃんは呟いた。
深山主任はまん丸の顔ににっこりと笑顔を浮かべる。
「本当に!先生が居てくださったからです。」
「どうだかね。」
素っ気ない奏ちゃんの態度にも別段動じる風もなく、うふふふ、と深山主任が笑う。
「先生、相変わらずですね。よかったですわ。」
「なにがや?」
チラッとだけ視線を向かいの席に座る福福しい人に投げかけ、奏ちゃんは片眉をあげた。
「先生がお元気そうで。」
「そう?」
「今はどちらにみえるんですか?」
あ、と思う暇もなかった。
容易に想定できる展開だった。
奏ちゃんの横顔からは感情の色は読み取れない。
でも、でもさ。平気なはずなんてないんだ。
だって……奏ちゃんは、患者さんの命が助かったことに涙を流すくらい……。
「俺?俺は今はただのニートやな。こいつンちに居候させてもろとる。」
「え?」
「ま。たまには長い夏休みも欲しかったし。」
……嘘つき。
それは先刻、僕が嘯いた安っぽい言葉だ。
相変わらず人形みたいに整った横顔にはなんの表情もうつさない。
「ええもんやで。ニート。毎朝こいつの飯作って、今までできなかった『生活』をして。久しぶりに季節ってもんを感じたわ。だんだん日が短くなっていくんとか、街路樹が紅葉して、散っていくんとか。アブラゼミの声がヒグラシの声に変わって、いつの間にか消えていくんとか。子供んときみたいに季節が変わっていくのを感じて、あたりまえに毎日三食、飯作って、食って。ちゃんと寝て。他人の命のことと違て、自分のこと考えて。俺らが仕事しとった時、全部どっかに忘れてたような毎日を過ごしとんで。意外に快適や。」
ふふ、と唇だけで笑んでみせ、ひどく柔らかな口調で奏ちゃんは呟く。
「昔さ、研修医ん時だったかな。二ヶ月くらい、殆ど病院に住んでて、久しぶりに家に帰るのに病院を出たら、急に季節が変わっとってさ。あんとき、驚いたんよね。いつの間にか、季節を感じることもなくなって、毎日、次の手術のことと、術後の患者のことしか考えへんようになっとったなぁ、って。あたりまえの『生活』さえ、俺らは忘れててんな、って気ぃついたわ。」
組んだ指先で口元を隠し、傷だらけのテーブルを見つめる。
そんな顔をして、傷ついてないなんて、そんなの嘘だ。
僕は、テーブルの上で拳を握る。
言葉を探す僕より前に、深山主任がぴしゃりと奏ちゃんの言葉を遮った。
「なにやってるんですか!先生はそれでいいんですか?らしくないですよ!」
「は?らしくないって、主任さん、俺の何を知ってるん?」
瞳が射抜くように鋭く光る。
氷の刃のような冷たい眼差しで目の前に座る女性を睨み付け、奏ちゃんは鼻先で嗤った。
普通の女子なら怖じ気づくほどのきつい視線にも動じず深山主任は、鼻息も荒く身を乗り出す。
「知ってますよ。先生の手術を。患者さん思いのお医者さんだっていうことも。実は真っ直ぐなのに、照れ屋さんだっていうことも!先生は心臓外科医でしょ。何やってるんですか?その手は患者さんを救うためのものじゃないんですか?」
「盛大な理想論やな。俺の手はただの手や。患者が生きるか死ぬかなんて、そいつの治る力次第や。どんだけええ手術したって、死ぬやつは死ぬ。神の手なんてもんは存在せぇへんし、手術がどれだけ上手やったって、意味なんてないんや。」
「ありますよ!先生がいなかったら、あの方は助かりませんでした。わたしたち看護師は知っていますとも。その手は、患者さんを救うことができる手なんです。」
奏ちゃんの視線が一瞬だけ揺らぐ。
「神室先生は、ちゃんとしたお医者さんですよ。先生には患者さんを救う義務があるんです。人間には持って生まれた役割があって、先生はお医者さんとして人を救うのがその役割だとわたしは思いますよ。」
「……欺瞞や……。」
はぁああああああ、と盛大な溜息をついた深山主任の頬は熱弁をふるった所為か紅潮していた。
「あんなことくらいで何を情けないことおっしゃってるんですか!」
「あんなことくらい、でも、あのくそじじいが手を回してるんかしらんが、俺がトラブルで病院をやめたことが広まっとる。それもめっちゃ脚色されて。俺が手術に失敗して、医療訴訟で訴えられかけて逃げたことになってんねんぞ?!せやから、どこも俺のことなんか欲しがらへん。日本のシステム云うんはそんなもんなんや!」
淡々と奏ちゃんは言葉を紡ぐ。組んだ指先は血の気を失い真っ白になっていた。微かに震えるその手に僕は思わずそっと手を伸ばす。冷えた指先が悲しい。
「だからってそんな風評に負けるなんて、先生らしくないです。その手を患者さんの為に使わないなんてバチがあたります。担うべき役割を担わないで、救うべき人を救おうともしないのは怠慢だと思いますよ。」
光のない、透明な硝子みたいな奏ちゃんの瞳に、深山主任はゆるく首を振った。
「子供みたいにいつまでも拗ねてるんじゃありませんよ。」
よっこいしょ、とかけ声とともに大柄な体を持ち上げた彼女は鮮やかな緑色のダウンジャケットを羽織り、両手を腰に当て、奏ちゃんをじっと見つめた。奏ちゃんを見つめるつぶらな瞳はまるで手のかかる子供を見つめる母親のそれのようだった。
「とりあえず、もうひとつご相談したいこともありますから、また病院にいらしてくださいね。」
「行くわけないやんか。」
低く唸る奏ちゃんを可笑しそうに見やり、深山主任は僕の方に視線を移す。
「藤川さんでしたよね。先生がご面倒をおかけしますけれど、よろしくお願い致しますね。本当に、神室先生は子供みたいなところがありますしね。それから、わたくし、今は救急におりますのよ。手術室で長時間の手術におつきあいするには、少し体が重たくなりましたから。」
バチン、とウインクまでおまけされて、僕は目を白黒させた。
「あ、はい。あ……あの。」
「はい?」
「ありがとう、ございました。」
「あらあら。何もしていませんよ!子供が待っているんで帰りますね。また。ごきげんよう。」
チャーミングな笑顔を残し、体に似合わぬ軽やかな足取りで去って行く後ろ姿を見送ると、僕は思わず深々と溜息をついた。
なんだか一日分の元気を吸い取られたようだった。
紙のように白い横顔の奏ちゃんはじっと目を伏せたまま、鮮やかな緑色の後ろ姿に視線をちらとも移さず、ただ中空を見つめていた。
真っ黒な瞳はどこまでも深い夜に飲み込まれてしまったかのようだった。星さえも見えない夜。北極星さえ見失った瞳は闇夜を彷徨っていた。
5
年末の営業ははっきり云って地獄、だ。
クリスマスから延々とイベントが続くこの時期は、記憶が曖昧になるくらい忙しいし、体もボロボロになる。カウントダウンイベントが終わって、最後のお客様をお送りしてから、店のみんなと初詣に行くのが恒例で、お店からそう遠くない神社に昨年一年の感謝と、今年一年の幸福を祈りに行く。僕は無宗教の人間だけれど、こういう風習って悪くないなと思う。神様の存在は兎も角として、何かを祈ったり感謝したりする気持ちを持つのって、時として僕たちは忘れがちだから。
眠気のピークを越えて、白んだ空の下、ふらつく足元を叱咤しマンションに帰る。
刺すような冬の冷たい空気が、そのくせどこか心地良い。一年が終わって、新しい一年が始まる。
奏ちゃんの云うように、同じ二十四時間なのに……同じ一分、同じ一秒なのに、どうして昨日と今日ではこんなに感じ方が変わるんだろう。一年の区切りだから、っていうのが理由だとしたら、一日が変わる新しい朝を迎えるたびにこんな気持ちになれればいいんだろうなぁ。一分、一秒……その瞬間だって、僕たちの上にはその時間は降り積もり、一瞬前とは変わり続けているんだから。
さすがにこの時間じゃ奏ちゃんも寝ているだろうな、と思いながらそっとドアを開けると小さな歌声が聞こえた。
懐かしい、聞き覚えのある旋律。
低い声がなぞっているそれはカーペンターズの名曲だった。
ドアを開けたまま、暫くその歌を聴いていると、ふ、と淋しさがこみ上げてきた。
僕はもどかしく靴を脱ぎ捨てて、部屋に駆け込むと、奏ちゃんの姿を探す。
突然、バタバタと駆け込んできた僕に、いつになく驚いた様子で彼はその切れ長の目を見開いた。
「あ、びっくりした。帰って……。」
僕はそんな奏ちゃんを両腕の中に抱き込んだ。
そんな悲しい歌、お正月に歌っちゃダメだよ。
虹だって越えられる。夢だって、失った昨日だって手にいれることができる。
僕の勢いに押されたように、奏ちゃんは紡ぎかけた言葉を途切れさせる。頭半分ほど低いところにある伸びた髪の毛に僕は鼻先を埋めた。
「なん?どした?」
少しくぐもった声が肩先から響く。
眼鏡が湿気で曇る。
うまく言葉にできない先刻の淋しさをもてあましていると、奏ちゃんの手が僕をあやすように軽く背中を叩いた。
「……一年がんばったな。おつかれ。」
やわらかな口調。
「奏ちゃん。」
年も変わった。
夜ももうすぐ明ける。
それなのになんでそんなに悲しい歌を歌うの?
突然の抱擁に驚いた様子でおとなしく抱き込まれていた奏ちゃんが笑う。
「とりあえず、離せ。」
笑い混じりに奏ちゃんは僕から離れようとする。
「やだ。」
「やだちゃうわ。帰ってきたら、雑煮食おうと思ってたんだよ。ほら、離せって。」
「やだ。」
ふぅ、と呆れたように吐息をひとつ漏らすと奏ちゃんは体の力を抜いた。
腕の中にある人の存在を確かめるために、僕は更にきつくその体を抱きしめた。
「相変わらずおかしな奴やな。」
優しく背中を叩く掌。
一年が終わっても、新しい一年が始まっても、始まらない同じ明日を無意識に奏ちゃんは求めているんじゃないか、なんて考えすぎかも知れないけれど。
「ほら。あけましておめでとう、やで?一年よう頑張ったな。」
なだめすかすみたいな奏ちゃんの声はどこまでも優しくて、なぜだか僕の方が泣きそうになった。
「奏ちゃんも。あけましておめでとう。今年もよろしく。」
ぎゅっと抱きしめた体の存在を僕は腕の中に確かめる。
このまま消えてしまうんじゃないか、なんていう愚かな想像をかき消すように。
「年が変わったンやから。雑煮でも食って。もう年越しそばの時間でもないしな。」
「……うん。お店でね、みんなでカウントダウンの後にお蕎麦、食べるんだよ。奏ちゃんもちゃんと食べた?」
「俺は食べへんけどな。」
「……食べて。」
「あほか。年越えたわ。」
「……じゃあ、年越しちゃった蕎麦。」
「あほやな。」
くつくつと喉を鳴らす人一倍優しいチェシャ猫が愛おしい。
神様がもしいるのならば、僕はこの人の明日が、新しい年が、この人にとってどうか幸せなものであってください、と祈りたい。ううん、祈るよ。
「先刻の曲、なんだっけ?」
奏ちゃんの髪の毛からは僕と同じシャンプーの匂いがした。不思議だけれど、同じ匂いのはずなのに、つけている人の体の匂いと合わさると自分のそれとはまた違うように香る。
「なんやっけ。題名は忘れたな。」
からりと笑い、なんてことなさそうに奏ちゃんは云う。
「ふっと浮かんだだけや。意味はないで。」
せや、と少し緩んだ腕の中から体を逃した奏ちゃんがパンツのポケットからスマホを取り出した。
画面に眼を落とすと、奏ちゃんの表情が軽く強ばる。
それから、先刻までの柔らかな口調とはうって変わった、プラスティックみたいに無機質で色を失くした声が呟いた。
「雑煮食ったら、俺ちょっと出かけてくるわ。」
「え?どこ行くの?」
「行ってもおもんないとこ。」
「僕も行く。」
不意に感情を消した横顔に厭な感じがする。
「おまえ疲れてへろへろやん。子供ちゃうし着いてこんでええわ。」
「やだ。行く。」
「やだちゃう。寝てろ。」
「やだ。」
やだよ。そんなの。
そんな顔をしているくせに、大丈夫なんて思えない。
僕だって、この何年も。たくさんの人を見てきた。
傷ついた人も。自分をよく見せようと必死で嘘を重ねる人も。人を騙そうとする人も。虚勢を張る人も。淋しい人も。優しい人も。いろんな、いろんな人を見てきた。
だからわかる。
全然大丈夫そうじゃないよ。今の奏ちゃんは。
いい年をした大人の男について行く、なんて過保護すぎるのかもしれないし、迷惑かもしれない。でも、本当に厭ならば、振り払ってでもでかければ良い。
そうしないのはなんで?
「帰りに初詣に行こう?だから、僕も行く。」
奏ちゃんはそんな僕の提案に深々と溜息をついた。
「……あー、もう。好きにしや。とりあえず、雑煮食べよ。折角の正月なんやから、さ。」
「うん。」
僕たちの新しい年はそんな風にして始まったんだ。
そう。
それは新しい年、新しい時間の始まり。
新しく始めるための。
時間が過ぎれば自動的に新しく始まる「明日」ではなくて、新しく始める「明日」のために。奏ちゃんは……そして僕も、歩き出す。
正月の青空はどこか白々しくて、清々しい淋しさに満ちていた。
6
毛を逆立てた猫のようにどこかピリピリとした空気を纏った奏ちゃんが向かったのは病院だった。
白く四角い無機質なコンクリートの建物が人工的な緑の奥にそびえ立っている。人の手で植えられた常緑樹で作られた緑地帯は冬だというのにプラスチックめいた美しい緑をしている。寒々しい正月の空の下、そこだけ切り抜かれた白。屋上には鏑木総合病院、と大きな看板が立っている。
奏ちゃんの元勤務先の病院だ。
「な。着いてきたかておもろいことないって云うたやろ。」
色の無い声がするりと忍び込む。
「ううん。奏ちゃんが働いてた場所なんだ〜ってちょっと新鮮。」
「……おまえ、しばしばめっちゃ前向きやんな。」
「後ろ向いててもいいことないしね。」
「せやな。」
チェスターコートのポケットに両手を突っ込んだ奏ちゃんは病院の裏手へとその歩を進めた。
「病院ってさ、滅多に来ないからなんだか新鮮だね。でも、もうちょっとあったかい感じだったらいいのにな。冬には淋しいね。」
「冬限定やろ。それに真っ赤な外観の病院なんて行きたい思うか?ネオンライトがついとってさ。」
「うっわー!ラブホみたい。」
「せやろ。別に建物の外観がどんなやったとしても、内側で正しい医療が提供されてたら病院としてなんも問題なんてないんやけど、実際は外側のイメージになんぼでも人の評価なんて左右される。残念ながら人間には固定観念云うもんがあって、ある程度そのイメージを踏襲せなあかんのさ。そう簡単にはイメージ言うもんは変われへん。」
「そうだね〜。僕はでも、ラブホみたいな病院って楽しそうだと思うけどなー。」
「いややわ。そんなん。」
くすっと少しだけチェシャ猫が笑った。
僕はその様子に嬉しくなる。
ラブホ風ではないけれど、物珍しさに辺りを見回しながら奏ちゃんのあとをついて行く。
緑地帯の遊歩道から舗装されていない細い小道へと逸れ、フェンスの裏へと回り込む。焦げ茶色の少し湿った土の上には足跡がひとくみ、裏手へと真っ直ぐに向かっていた。その足跡を追うようにして僕たちは病院の裏へとそぞろ歩いた。ざくざく、とブーツが粗い小石を踏む音が響く。
緑地帯の作られた青々しい緑とは違う、冬の少しくすんだ低木の緑。
本来の冬らしい色彩の横を通り抜けると、おざなりに舗装されたアスファルトの駐車場が広がっていた。コの字型をした建物の影に職員駐車場があるなんて、パッと表から見ただけではわからなかった。
「……病院に何か用事があったの?」
僕は半歩ほど前を歩く奏ちゃんの背中に尋ねる。
間髪入れずに奏ちゃんは「ない。」と短く答えた。
「え?ないのに来たの?」
僕は思わず足を止めた。
用事もないのに元の勤務先に……おそらくは近づきたくもないだろう場所に来るってどういうこと?
なんで……?と僕が口にするより速く、奏ちゃんの苦々しげな呟きが耳に届く。
「呼び出されたんや。」
小さな溜息をひとつおまけして、振り向いた奏ちゃんは肩を竦めた。
お正月だからか、駐車場に停まっている車はまばらだ。それでも八階建ての病院を見上げると四角いいくつもの窓と行き交う人影が見えた。
そういえば、奏ちゃんも云っていたっけ。
例年だったら病院にいた、って。
目を細め、僕と同じように病院を見上げながら奏ちゃんはスマホを耳に押し当て、着いた、とだけ云うと何やら騒がしいのを完全に無視して電話を切り、ポケットにつっこむ。
「あの三階で働いてた。」
ぽつり、と低い声が呟いた。
「どのへん?」
「ちょうどここから見える。棟の右側や。」
クリーム色のカーテンがひかれた窓がいくつか並んだ辺りを奏ちゃんは顎で指し示した。
僕の影に心なしか身を隠し、ひっそりと奏ちゃんは笑った。
北風が吹き抜け、僕はマフラーに首を埋めた。
「心臓血管外科とか脳神経外科とかさ、そういう生命にその場で直結するような科の病棟は手術室から近いとこに病棟があることが多いんや。あそこの窓だけ小さいやろ。あそこが手術室。」
と、奏ちゃんはコの字の左右を繋ぐあたりを示してみせる。
確かに、他の窓に比べて一回りほど小さな窓が並んでいる。
手術室、って云われても僕にはテレビで見るような陳腐なイメージしか思い浮かばなかった。
風が一陣、吹き抜けた。
刺すように冷たい風が黒い髪を攫った。
くしゃくしゃになった伸びた前髪が表情を隠す。
頓着する様子もなく、奏ちゃんはじっと空を仰ぐように病院の白い壁を見つめていた。
無声映画のコマ送りに失敗したような奇妙な静寂。
それに耐えかねた僕が口を開こうとした矢先に、かしましい声が少し遠くからきこえてきた。
「センセ−!」
その甲高い声には聞き覚えがあった。
白衣のボタンが弾けそうな体の割に軽やかな足取りでやってくるのは先日会った看護師の深山さんだった。他にも数人。同じ白衣に身を包んだ女性と丈の違う白衣を着た男女が笑いながら歩いて来る。
「先生が来るって云ったら人数増えちゃいました。」
あはは、と深山主任が軽やかに笑う。
この人は本当に体以外全てが軽やかだ。声も笑顔も。
好感の持てるその笑顔に僕は「こんにちは。」と軽く会釈を返した。
「はぁ?」
くるりと振り向いた奏ちゃんの肩をかけよってきた白衣の若い男が掴んだ。
「先生。ひどいっすよ。いきなりいなくなって。俺、指導医がいなくなって困ってるんですよ?」
「佐藤……。元気そう、やな。」
「ほんと。面倒なオーダーを時間外に出す人がいなくなって、最近仕事が楽になりました。」
僕と同じかそれよりも背の高い、半袖白衣の男性が笑いながら奏ちゃんに声をかける。
きゃいきゃいと数人の看護師さんたちが交互に声を投げ、そのたびに奏ちゃんはひとりひとりに言葉を返す。
「……そ、か。みんな元気そやな。正月やのにえらい人数おるな。」
ふっと張り詰めていた奏ちゃんの空気が緩む。
ああ、奏ちゃんは此処で働いていて、必要とされていたんだな、と改めて僕は感じた。そんな様子に目頭が熱くなって、慌てて瞬きをして誤魔化す。
「相変わらず顔だけは綺麗なんだからー。私なんてどれだけお手入れして保ってると思ってるの〜?」
笑いながら濃いめの化粧をしたナース服の女性が奏ちゃんの頬をつつく。
「顔だけ云うな。心も綺麗や。」
「口は悪いけど!」
すかさず入ったツッコミに、奏ちゃんを囲んだ面々が笑う。
「真島ちゃん、うっせーよ。」
真島、と呼ばれた看護師がおかしそうに笑った。
「先生、ちょっと痩せました?」
「どやろ。わからん。」
「ま!わたしなんて全然痩せないのに!」
深山主任の言葉に一斉に笑いがおきる。
「てか、用があるから来いって散々LINE送ってきたんは主任さんやろ。何かあったん?」
首を僅かに傾げて、ちらりと深山主任の顔を伺う奏ちゃんの様子はいつもと変わらない。
静かに他人事のような顔をして佇む白い病院の建物の裏側で、僕はそこだけ生き生きと弾むような雰囲気に少しだけ微笑んだ。
「ええ、ええ。そうなんです。センセイだったら、謎を解いてくれるんじゃないかしら、と思いましてね。」
「は?謎?」
そうだよね、と口々に彼らが言葉を交わしあうのを僕は見つめる。
「実はね、」
深山主任が口を開きかけた刹那、真島という看護師の胸ポケットでPHSが鳴った。彫りの深い顔立ちにきっちりとメイクをした彼女の顔が引き締まる。
周囲の人たちにも緊張が走るのが僕にも伝わる。
「……はい。68歳、男性。突然の胸痛。レベル低下。バイタルは?……はい。サチュレーション、83。血圧左右差あり。はい。はい。」
電話の相手の言葉を復唱しながら、真島さんは最初に奏ちゃんに声をかけた医師らしい男性に目配せする。
「麻痺は?あと発症時刻。今の血圧左右とも。O2開始してルート確保できればさせろ。何分で着く?」
ぼそっと奏ちゃんが呟く。
「麻痺はどうですか?確認できる範囲で結構です。」
真島さんがその言葉に頷き返し、電話の向こうに問いかける。
白衣の男は緊張した面持ちで耳をそばだてている。
「麻痺、明らかにはなさそうです。はい……はい。」
「佐藤、おまえ、今日の当番?」
「はい。」
若い医師が奏ちゃんの言葉に頷く。
「いけるな。」
「はいっ。」
「笠原さん、多分輸血も必要なるから、血液センターに在庫の確認。取り寄せは確定するまでせんでええ。佐藤は上の奴に一報入れて、すぐ戻って検査出し。オペ室もすぐ動けるようにだけしとき。」
「はいっ。」
くいっと奏ちゃんが顎をしゃくると、佐藤と呼ばれた医師が奏ちゃんに右手を差し出した。
「先生。ここじゃなくてもいいから、外科医、辞めないでください。先生は俺の師匠ですから。」
差し出された手をじっと見つめた奏ちゃんはその右手をパシッとはたき、チェシャ猫のように笑う。
「……考えとくわ。……それより、はよ行け。救急車が来るまでに出来ることしとき。」
「はい!」
青年は姿勢を正し、一度深くお辞儀をすると、踵を返し駆けだしていく。
「おまえらもはよ戻って。患者が来るで。」
「はい。」
先生、またね。と手を振りながら若い看護師たちが走り出す。
半袖白衣のひょろりと背の高い男が目を細め、じゃ、と手をあげる。
「あと、心電図とエコーも準備しといたってな。笠原さん。」
「おっけー。先生もちゃんと医者しろよ!」
奏ちゃんが軽く手を上げ返すと、笠原という青年が大股で去って行く。
電話を切った真島さんは先刻とは打って変わった厳しい表情で奏ちゃん向き直る。
「もー。先生ってば、根っからの医者なんだから。思わず指示聞いちゃったじゃない。私も戻って準備するわね。先生、深山主任から聞いたけれど、とっとと働きなさいよ。腕が泣くわよ。」
じゃあね、と手を振る姿に奏ちゃんは少しだけ口角をあげてみせる。
「真島ちゃんも。皺増えるし、あんま怒ったらあかんで。」
「もー。減らず口!」
もう一度名残惜しそうに手を振り、真島さん、と呼ばれた看護師も駆け出す。
あとには、僕と奏ちゃん。それに深山主任だけが取り残されていた。
慌ただしい現場の雰囲気に、僕はいつのまにか詰めていた息を吐き出す。
吐息は冬の寒さに白く染まり、そのまま溶けて消えていく。
「主任さんは行かんでええの?」
「わたしは明けですから。」
深山主任は、ほほほ、と笑って胸を張った。
「年越し当直か。」
「ええ。先生とも何度か年越し致しましたね。先生の買ってきてくださったお肉で年越ししゃぶしゃぶしましたでしょ?今年はお肉もなくて、病院のお食事だったんで、年越しの楽しみがありませんでしたよ。」
「そんなん知らんがな。」
くつくつと奏ちゃんが喉を鳴らす。
猫のような仕草。
すべてを阻むような無機質な白い壁は、命を守る壁でもあるのかな、なんて僕はふと感じる。
「それより、なんなん?なんか用事やったんちゃうん?」
「ええ。」
それがね、と云いながら、深山主任は駐車場の一角に置かれた花束を指さした。
オレンジのガーベラと淡いピンク色をしたダイヤモンドリリーの花束。
鮮やかな色彩は、灰色のアスファルトのモ中、一種異様な存在感を放っていた。
「なんやあれ。」
「……このところずっとなんですよ。」
「誰か落ちたん?」
「縁起でもない!そんな事故も事件もありませんよ。」
駐車場の奥まったスペースで病院の建物からは1番離れた場所にその花はぽつんと置かれていた。
奏ちゃんは目を細め、じっとその花束を見つめている。
「あそこ、誰か車置いてる?」
「いいえ。歩道の先ですから。ちょうど誰も置いていない場所なんです。」
「ふぅん。いつからあるの?」
「二週間くらい前だと思います。ほぼ毎日。片付けても片付けても、朝になると置いてあるんです。」
胸の前で腕を組み、花束を見つめていた奏ちゃんはゆっくりとその鮮やかで異質な色彩に向けて歩き始める。深山主任と僕は顔を見合わせ、その後をついて行く。
静かな正月の朝。
吐息が白い。
この空間で、僕も奏ちゃんもそしてあの花も異質だ。
人は、人の体は、異物を異物と認識し排除しようとする力を持つ。今この、アスファルトと白すぎるほどに白い無機質な建物が作り出すモノトーンの世界の中で、僕たちは明らかに異物だ。おまえたちは異物なのだと無言で威圧する。
冷たく張り詰めた空気の中をするすると泳ぐようにして、この空間の中で尤も異質な存在感を放つ花束の元に僕たちは辿り着いた。
花弁はまだ瑞々しくて、その花束が置かれてそう時間は経っていないことを語っていた。
一抱えほどもある大きな花束。
よく事故現場などに備えられる花とは趣が明らかに異なっている。
どちらかというと、僕が同伴のお客様に渡す花束に近い。
「なぁ、綾人。これ何の花?」
しゃがみ込み、花束を見つめたまま奏ちゃんが僕に問いかける。
「んと、オレンジのほうがガーベラ。白っぽいピンクのがダイヤモンドリリー。」
「ま。藤川さんお詳しい。」
「こいつ、たらしやかんな。」
「ちょっと、人聞きの悪いこと云わないでよぅ。僕、賞味期限切れのホストなだけだもん。」
「あら、そうなんですねぇ。」
数度瞬きをして深山主任さんがにっこりと笑う。
「深山さんもよかったら遊びに来てくださいね。」
「営業すんな。」
くくっと低く喉の奥で笑いながら呟く声が聞こえた。
よ、と小さなかけ声とともに立ち上がった奏ちゃんは、ぐるりと周囲を見回す。
口元に指先をあて、瞬きすらせず、なにかを捕まえようとするかのように、鋭い眼差しで。
「この花、いつも何時くらいに置かれてるん?」
「どうでしょう……置くところを見た人は誰もいないんですよ。……それを捕まえることができれば、先生にご相談するまでもなかったんですけれど、七時前には毎日置かれているんです。」
「ふぅん。」
「わざわざこんなことの為に、警備員さんに居ていただくわけにもまいりませんしね。」
「せやな。」
「今までにどんな花が置かれてたん?」
「あまりお花の名前はわからないし、毎回わたくしが見ているわけではないんでいくつかしかわからないんですけれど、薄紫のいい香りのするお花とか、ああ、薔薇もありましたよ。真っ赤な薔薇でした。あ、クリスマスの折りは、あのほら……クリスマスによく町中で見かける赤い葉っぱ。あれが鉢植えではなくて、花束……と申しますかね、葉束?になって置かれていました。」
「葉束……ホウレンソウちゃうんやし……。」
「いえいえ、ちゃんと花束みたいにラッピングされていましたよ。」
ふぅ、と唸った奏ちゃんの視線が花束と病院の建物をゆっくりと行き来する。
白い指先の間に覗く唇が寒さに紅く色づいている。
「鉢植えやないんやなぁ。」
呟いた言葉と一緒に吐き出された吐息が冷えた空気に溶けていった。
夜を映したように真っ黒な瞳が数度瞬く。
この顔は何かを考えている時だ。
いま、奏ちゃんは、細い糸みたいな情報達を頭の中で編み上げている。きっと。
「主任さん、次いつ夜勤?」
「明後日です。」
「その日、顔出すわ。また連絡する。」
心なしか柔らかい眼差しで奏ちゃんは主任さんをちらりと見て微笑んだ。
じゃ、と手をあげ歩き出した背中を、僕は慌てて追いかけた。
「お待ちしておりますね!」
投げかけられた朗らかな声に、僕は足を止め会釈をする。
ふっくらとした手を振るふくよかな人は、母親が子供を見つめるような優しい眼差しで僕たちを見送ってくれていた。
7
ホストにとっての三十四歳というのは賞味期限切れも甚だしい年齢だ。
うちのお店は比較的ホストの年齢層が高いけれど、それにしても、僕もいいおっさんだと思う。幹部で役職付きとはいえおっさんはおっさんだ。、ホストクラブは基本的に若いスタッフが多くて、幹部連中だけでも一人を除いてみんな僕より年下だ。
何度かあがろうと思ったこともあったのだけれど、僕を指名してくださっているお客様には太客と呼ばれるお金を多く使ってくれる人が多くて、お店からも慰留されて、今もこうしてホストを続けている。未だにナンバーを張れているのもそんなお客様達のおかげだ。
でも、そろそろ限界かな、とも思う。
二十代の頃に比べて明らかに体力が落ちているし、下の子達からの追い上げもある。綺麗な引き際もナンバーを張ってきた立場上、必要なことなんじゃないかな、って。
引き留めてもらえるうちがきっと花だ。
うちのお店は大晦日のカウントダウンイベント終了後の元旦はお休み。二日からお正月の特別営業になる。クリスマスに雛子さんから贈られた仕立ての良いスーツを着て、ネクタイを締める。鏡の中のボーッとした顔の男が、少しだけマシに見えるから馬子にも衣装とはよく言ったものだ。
こうやってきちんとした格好をして自分を整える意味も、僕が知らないことや今まで見向きもしなかったたくさんのことを知る価値も、ホストとしてお客様から学んだことだ。
お客様は僕と過ごすためにお金を払う。僕と過ごす時間に価値がつくんだ。それならば、僕は僕自身にそれに見合う価値を持たせなければならない。身なりを整えることも、会話のソースを常に蓄えておくこともとても大切なことだって、きっとホストにならなければ気づかなかった。
奏ちゃんにとってお医者さんが天職だとすれば、僕にとってホストも或る種の天職だったんじゃないかなって思う。接客がうまいから、とかじゃなくて、欠けたとこばかりの僕が足りないことや必要なことを学ぶための、天職。
胸ポケットにポケットチーフをさして、鏡の中の男を見つめる。
ホストになった頃より、いくらかはマシな顔をするようになったよね。きっと。
僕にとって今年が最後のシーズンになると思う。
僕を育ててくれたお店とお客様にきちんとお礼をしていく、そんな一年にしなくちゃ、ね。
今日はボラボラも開いていないから、自分で髪の毛を適当にあげたけれど、これでいいかな……。
「ねー。奏ちゃん〜。」
「ん?」
ソファに沈んでいた黒い人影がのそりと身を起こす。
寝癖のついた髪を片手でかき上げた奏ちゃんは今日も誰より美人だ。……と、僕の目には映る。ほんと、僕って奏ちゃん大好きなんだよねえ。
「髪の毛これでおかしくないー?」
「ええんちゃう?」
「あ、全然見てない〜。」
「見たって。」
ふわぁ、と欠伸をしながら伸びをする様はやっぱり見事に黒猫だ。
「それで口開かなきゃ、それなりにホストっぽく見えるからおっけー。」
「えー!口開かないとお仕事にならない。」
「おまえさ、仕事中もその口調なの?」
「概ね……そうだよぅ。」
「なんつーか……マニアックな客、多いんやな……。」
「もー。そんなことないよう。お仕事はちゃんとしてるんだからねー。」
ハイハイ、と軽く流した奏ちゃんは、コートハンガーから僕のコートを手にとる。
「今日は早めに帰るから、置いていかないでね。僕も行くんだから。」
「んー……。」
手渡されたコートを羽織ると、奏ちゃんの手が襟元を直してくれる。その手を奪って指先にキスすると、奏ちゃんは冷ややかな目で僕を睨んだ。
「アホ。」
「ありがとう。奏ちゃん。」
「おまえ……スイッチ入ると別人みたいなるよな。」
「そう?」
握ったままだった奏ちゃんの手がするりと逃げるのを少し残念に思いながら、時計をちらりと見る。そろそろ出勤しなくちゃいけない。
奏ちゃんがもう一度病院に行くと云っていたのは明日の朝。
今日の仕事が終わったら急いで帰ってこなくちゃ。
「奏ちゃん、いーい?絶対置いていかないでね!僕も行くんだから!」
「はいはいはいはい。行ってこい。気ぃつけてな。」
トン、と背中を叩く軽やかな手に送り出され、僕は家を後にした。
8
仕事あがりに待ち合わせた僕たちは、未明の病院前にタクシーで乗り付けた。
3:47
早朝というにはまだ早すぎ、深夜というには遅すぎる時間。
深い夜は艶やかなベルベットの質感で空を覆っている。
指でなぞることが出来れば、きっと吸い付くように滑らかなんだろうな。
自分についた煙草とアルコールの匂いを気にしながら救急入り口の外に出てきた深山主任から鍵をうけとり、駐車場に止められた一台の車の中に僕たちは潜り込んだ。
外に立っているより幾分かはマシとはいえ、恐ろしく寒い。
「流石にこの時間は寒いねぇ。」
「せやから来んでよかったのに……。」
「それは、やだ。」
「ほら。」
奏ちゃんは肩から提げていたトートバッグから大判のマフラーとカイロをみっつ僕に手渡す。
「頼むで風邪ひかんといてな。医者がついとって風邪ひかせたら、カッコつかねぇ。」
「うん。馬鹿は風邪ひかないっていうから大丈夫〜。」
マフラーを広げ、頭からかぶると少しだけ寒さがマシになる。封を切ったばかりのカイロはまだぬくもりにはほど遠い。
「ねー。奏ちゃん。寒いからこっち来て。」
「厭や。」
「僕、寒いのに。」
「うん。せやからカイロもマフラーも渡したやろ。」
「カイロまだ冷たいもん〜。」
「そのうちぬくなる。」
ちぇ、ケチ。と呟いた横で奏ちゃんはニットキャップを脱ぎ、僕の頭に無理矢理かぶせた。
「それでちょっとはぬくいやろ。」
奏ちゃんはといえばいつものコートの下にもこもこのパーカーを着込んで、僕のあげたマフラーをぐるぐる巻きにしている。
「とりあえず、ここで待機や。」
「現場を押さえるんだねえ。」
「それが1番手っ取り早いやろ。それに……。」
何か思うところがある様子で、奏ちゃんは口元を掌で覆った。
病院の窓はこのまえ奏ちゃんが教えてくれた三階の窓からだけ仄かな白い灯りが漏れている。今もあの窓の向こう側では、生きるために、命を救うために必死で戦っている人がいるんだ。
夜の中にぼんやりと白く浮かんだ大きな建物は、それだけで僕にとっては畏怖すべき対象のように思えた。
「張り込みの刑事さんとか、新聞記者の人とかってすごいね……こんな寒い時にも張り込んだりするんだよね。きっと。」
「せやなぁ……。それもすごいし、今そんなことを思いつくおまえもすごいわ。」
「え?そう?」
「しっかし、真島ちゃんの車、芳香剤きっついな。」
「真島さんっていうと、このまえの看護師さん?」
「せや。流石に寒空の下で突っ立ってるのはきっついし、ちょっと中に居らせてって頼んだんや。ここは医師用の駐車場やから、真島ちゃんの車をここに回してもらえるんは、年末年始の人がおれへん間だけや。今日しかチャンスはない。」
それに、俺も余計なやつに会いたないしな、とひっそりとした声が追いかけてきた。見えない小さな棘が胸を刺す。
黒々とした夜空には星も殆ど見えない。繁華街の光の残渣が細やかな星達の存在をかき消す。眩しすぎる華やかな光は、淡く細やかな輝きを覆い隠し、深い闇に沈めてしまう。
太陽は月を隠し、月は星を隠す。星はそして、人の手が灯した光にさえも。
「奏ちゃん、あの小さい建物なに?」
暗闇に目が慣れてくるといろいろなものが目に入るようになる。どれも無機質な直線で形作られた小さな建物がふたつ。その手前、職員通用口だと先日奏ちゃんが教えてくれた扉の向こう側にも飾り気の無い扉が見えた。
「あそこの建物はボイラー室、隣がゴミ捨て場。」
「あっちは?」
「ああ……あれは亡くなった人を送り出す為の扉や。」
「え?」
「病院やからね。失われる命もあるんや。病院から帰る時は他の患者さんの目につかんようにちゃう扉からお見送りするんや。」
当たり前のことだけれど、助かる人ばかりではないという事実はひどく重かった。
「どんなに手を尽くしても助からん人もいる。結局は患者さんの生きる力があるかどうかだけなんやないかな、って虚しくなることもあったわ。」
「……そんな。」
「俺らが今此処にこうして居てるのは奇蹟みたいなもんや。生きてることも、なんの障害もなく当たり前に明日が来ると思うてることも。命ってなんやろ、って思たことが何度もある。心臓が動いていたら、呼吸をしてたらそれだけで生きてるってことなんやろか。生きてるってなんやろう。俺らのしとることはなんなんやろう、ってな。」
淡々とした低い声がしんと冷えた車中に沈んでいった。
僕は返すべき言葉を見つけられずに、うん、とだけ答える。
「手術にはさ、必ず手術適応っていうんがあるんよ。病気の程度もやけど、心臓の機能、呼吸機能、癌だったら転移の程度、癌細胞のタイプ、他に治療の方法があるかどうか、たくさんの条件がある。そのなかで、ふるい落とされる症例もある。手術もできない人もいる。手術を完璧にして、そのうえで助かる人だけを選んでるんや。患者の生きる力を担保にして俺らは手術してる。」
「うん。でもそれは……。」
仕方の無いことじゃ、と言いかけて僕はそれを飲み込む。
仕方ない、じゃすまされない。
それがきっと病院という場所で、奏ちゃんや他のお医者さん、看護師さん達が背負っている酷く重い枷なんだ。
「俺らには俺らにできることを全力でやるしかないんや。あいつらも。俺も……。俺らにミスは許されへん。許してもらえるはずもないんや。患者に残っとる生きる力を預かってるんやから。預かったもんは返さなあかんかからな。」
ふ、と奏ちゃんが小さく笑う。
「綾人。人との出会いも奇蹟かもしれんけど、それ以前に、命そのものが奇蹟みたいなもんやと俺は思てる。」
助かる命。失われる命。
0と1の狭間に横たわる明確な境界。
けれど、その境界は、実際には酷く曖昧で繊細なグラデーションのようなものなのかもしれない。夜が柔らかな朝へと移りゆき、夕闇がいつしか夜へと沈んでいくかのように。
出会った頃と変わらない真っ直ぐな言葉。奏ちゃんはやっぱり奏ちゃんだった。
隣に座った人影は真っ直ぐに前を見つめていた。
僕はやっぱりこの人のことをとても好きだと思った。
「しっかし冷えるな。」
「だからこっちでさー。」
「狭い。ありえん。」
「狭くてもカーセックスする人だっているんだからぁ。」
「おまえ、車から蹴り落とすぞ。」
「やだ。」
車中の冷え切った空気よりも冷え冷えとした声に僕は少しだけ笑ってしまう。本当に、奏ちゃんはどこまでいっても奏ちゃんだ。
「それよりちゃんと見てろ。誰か来おへんか。」
「はぁーい。」
「ポインセチアをわざわざ鉢植えと違て、花束にして置く意味考えたら……多分……。」
奏ちゃんの低い声が静かに呟く。
星さえも見えない夜。
病院の窓から漏れる僅かな光。
暗さに慣れた目にはその微かな光だけでも、世界の凹凸が鮮やかな絵画のように映る。
と、その闇の中で何かが動いた気がした。
「あ。」
「え?」
「なにか動いた。」
少し身を乗り出した奏ちゃんはその『人影』をじっと見つめている。
「こっちに来るな。」
「うん。」
「待ち伏せ成功や。なんや持っとる。」
カチ、とドアロックを外す音がした。
人影と僕にもわかるくらい近くまでその人は来ていた。
「綾人行くで。」
車から降りた僕たちに人影は一瞬びくりと足を止めた。
わずかばかりの光の中に立つのは、がっちりとした体つきの一人の男だった。
車の中も寒かったけれど、外気のそれは殊更で冷気が肌を刺す。
「こんばんは。」
まるで待ち伏せしていたなんてどこ吹く風で奏ちゃんが飄と挨拶をする。
少し戸惑った様子の男は無言で会釈を返した。
かさり、と手にしたものが音を立てる。
男の右手には暗くて名前まではわからないけれど花束が握られていた。
「お花、お見舞いやね。」
「ええ……。」
一度は歩を止めた男がゆっくりとこちらに近づいてくる。
この人が、あの花を?
それにお見舞いの花ならばなんでこんなところに?
ようやく相手の顔が見えるほどの距離に来たところで、もう一度足を止めた男は、あっ、と大きな声をあげた。
「神室先生……。」
「え?」
不意を突かれた奏ちゃんの肩がぴくりと震える。
僕は奏ちゃんの背中に貼り付くようにして相手をうかがう。
勿論、僕の知らない人だ。四十代くらいか。彫りの深い顔には影が落ち、表情まではわからない。
もしこの人が殴りかかってくるなら、と奏ちゃんの体を抱え込もうと身構える。
「先生。神室先生ですよね?」
「まと……ば、さんの……。」
「はい。的場の夫です。」
心なしか奏ちゃんの低い声は強ばっていた。
寒さのせいだけじゃなく、空気が張り詰めている。
「先生。」
男性が何か言おうとするのを奏ちゃんが遮る。
よく通る低い声が、真っ直ぐに人影へと投げられた。
「的場さん。申し訳ありませんでした。」
「申し訳って……なんで先生が……。」
「大切なご家族の治療半ばで病院を離れてしまい、本当に申し訳ありませんでした。」
奏ちゃんはそう云うと深々と頭を下げる。
慌てたそぶりの男は空いた手で奏ちゃんを押しとどめた。
「お願いです。頭をあげてください。俺は……俺の妻は、意識が戻りました。目が覚めたんです。」
下げた頭を無理矢理に上げさせられた奏ちゃんは俯いたまま唇を噛みしめている。
「先生がいてくれたから、妻は生きている。先生が、いてくれたから!看護師さん達からきいたんです。先生が優子を助けてくれたって。その結果、先生が……。」
「…………。」
俯き、体を強ばらせた奏ちゃんに、花束を両手で掲げて見せた男はおどけたように笑って見せる。
「先生もご存じでしょう?花は、集中治療室には持ち込めないからここに置いてるんですよ。もしかしたら、あいつから見えるんじゃないかな、と思いまして。見つかると恥ずかしいから、夜のうちに置いて帰ってるんです。」
僕は奏ちゃんの肩をそっと掌で包んだ。痩せた猫のように肉付きの悪く骨張ったこの肩で、奏ちゃんは命を、その重荷を背負い続けてきたんだろう。そして今も。
僕は花をそっとアスファルトの上に置く男の横顔を見た。
僅かな笑みを浮かべ、しゃがんだままICUの窓を見上げる眼差しの先には、彼にとっての『大切な人』がいるのだろう。
「先生。先生を責める気持ちはどこにもありません。命を……助けてくれたって感謝してます。でもね、ひとつだけ……聞いてくださいよ。笑っちゃうんですよ。あいつね、子供に戻っちゃったみたいで、俺のこと覚えてないんですよ。」
「的場さん……。」
奏ちゃんがハッと息をのむ気配がした。
「最近ようやく……笑ってくれるようになりました。管も少しずつ外れていってます。来週には集中治療室から出られるって。いつか、ね、優子がまた昔の優子に戻ってくれたらって思ってるんです。」
「……っ……。」
「もしあのとき妻が死んでしまっていたら、こんな風に回復したら、っていう希望さえ持つこともできなかった。勿論……つらいですよ。完全に元通りの優子にまだ会えないことは。恨み言を言えと云われれば夜が明けるまで言い続けることだってできますよ。もしかしたら優子には障害が残るのかもしれない。一生俺のことを夫だと理解してくれないかもしれない。生きていればそれでいいのか、障害を抱えて生きることになるかもしれないのに。正直わからなくなったこともありましたよ。優子が助かってよかったのかどうか。それでも、俺は……二度と会えなくなるよりよかったって思うんです。あ、勿論、1番いいのは優子が元通りの優子に戻ってくれることですけれどね。だからこうして毎日、優子に花を見せたくてこっそり置いているんです。」
全力を尽くしても助からない命がある。
どれほど救いたいと強く願っても。
たとえ助かったとしても、こうして障害が残ることもある。
医者は神様じゃないから、とひっそりと呟く奏ちゃんの声が耳の奥に蘇った。掌の中にある肩が酷く頼りないもののように思えて、僕はぎゅっとその肩を掴む。
そんな僕の手を振り払いもせずに、奏ちゃんはただ立ち尽くしていた。
「だから、先生。そんな顔しないで、謝ったりしないでください。ちゃんと胸を張っててくださいよ。先生が全力を尽くしてくれたっていう事実がなきゃ、何かを恨みたくなっちゃうじゃないですか。そんなことしたくないんですよ。俺が……どれだけ苦しんで、恨んで、悩んで、憎んで……でももう、そういう気持ちにさせないでくださいよ。お願いですから。訴訟も考えました。けど、訴訟を起こして何になるんです?気持ちなんてね、晴れませんよ。結審するまでの間、ずっとこの気持ちと向き合い続ける苦行が待ってるだけです。金であいつといるはずだった人生は買えないんだ。綺麗事かもしれませんけど、もう恨むのも憎むのも疲れたんです。それより、優子の笑顔を見たいんですよ……俺は。」
「……的場さん。」
「主治医でもない先生が、それだけ真剣に妻を救おうとしてくれた。実際に、命を救ってくれた。ちがいますか?憎んだり、恨んだりするのって意外に体力使うんですよ。もうそんなことしたくないんです。やっと希望が見えたんだ。先生の真摯さを嘘にしないでください。」
いまにも泣き出しそうな顔をした黒猫が頷く。
そして、掠れて消え入りそうな声が、はい、と小さく答えるのが聞こえた。
静かな、静かな夜と朝のはざまに、水泡のように微かな声が溶けていく。
両膝に手をつき、花を優しい眼差しで見つめた男性が立ち上がった。
赤と紫の小さな花がどっさりと並んだその花。
その花に込められているのであろう、この人の気持ちに僕は思わず声をかける。
「その花、ルピナスですか?」
「ええ。」
「……『あなたはわたしの安らぎ』。」
僕とほぼ同じくらいの高さにある視線が少し驚いたように見開かれた。
「詳しいですね。」
「少しだけですけれど。」
「妻はね、花が好きで、詳しいんですよ。だからきっと、この花を見ればなにか好い刺激になるかもしれないと思ってね。」
照れたように笑う男。
僕はふと思う。
一冊の本を開き、そのページを繰るように、この人の物語を紐解くとき、そこにはどれほどの悲しみや苦悩が描かれているんだろうか。そして、彼は果たして、いくつの夜と朝を駆けその苦難を乗り越えてきたんだろうか。
大切な人の命が失われるかもしれない、その恐怖。失われた記憶。暗すぎるこの夜のように、星のひとつも見えない絶望に溺れそうな夜だってあったはずだ。それを乗り越え、微かな光を求め、こうして花を妻に贈ることができるようになるまで。
闇の中にあればこそ見える微かな光。強い光の中ではかき消されてしまうその淡い光。
たとえか弱い光であっても、いつかその光が朝をつれてきてくれればと僕は願わずにはいられなかった。
気づけばビロードの夜空は僅かに朝の気配をまといはじめていた。
冬の、長い夜がやがて明けるように、このご夫婦にも、そして僕の大切な人にも朝が等しく訪れるようにと、僕はただ……祈った。
9
ことの顛末は僕から深山主任に伝えた。
去って行く的場さんに深々と一礼した奏ちゃんはそれから黙りこくったまま、真島さんの車の鍵を僕に握らせた。
無言で救急外来の前から動こうともしない奏ちゃんを見て、深山主任はクスクスと笑った。
「ホント、先生は相変わらずなんですから。」
看護師待機室、と書かれた部屋から出てきた深山主任は僕のポケットに蜜柑をふたつねじ込む。
「そんなへたれじゃ、佐藤先生に笑われますよ。」
音がするほど強く背を叩く深山主任の手に、奏ちゃんが「いてぇ……。」と呻いた。
「先生が半端なことをなさったんなら、死ぬほど落ち込めばいいですよ。そうじゃないならばシャンとなさってください。全力で人の命と向き合う。それがわたくしたちの勤めなんですよ。」
俯いたままだった奏ちゃんは、その言葉にジロリと深山主任を上目で睨みあげた。
「なぁ、なんで云わんかった。……的場さんに記憶障害が残っていることを。」
低い声が夜から朝へと移りゆこうとする静寂に響く。
風が吹いた。
肌に触れるそれは鋭く頬を刺した。
「確かに命は繋がったかもしれん。せやけど……。」
奏ちゃんの凍てつくような眼差しに動じるそぶりもなく、深山主任は「困ったわねぇ。」と軽やかにその言葉を遮る。それは恰も、童話の太陽と北風のように、柔らかで暖かい声だった。
「思い上がっちゃダメですよ。先生、いつも自分でおっしゃってらしたでしょう。『俺達は神様じゃない』って。おかげで佐藤先生まで最近そんな言葉真似しちゃって。先生は先生にできることをした。」
「主任さんの旦那さんや子供が同じ目にあったとして、そんな風に言えるか?なぁ?」
絞り出すように吐き出した奏ちゃんの横顔は、作り物みたいに堅く強ばっていた。
コートのポケットに両手を突っ込み、厳しい眼差しで深山主任を見つめる。
そんな視線に怯む様子もなく、まん丸の顔は僅かに微笑む。
「そりゃあもちろん。罵りますよ。怒るし、恨むし、一生許さないかもしれないですね。全力でやりました、なんて云われたって納得なんてできるはずありませんよ。それは家族ですからね。わたくしたちは、どれだけ全力を尽くしたって、そんな恨みや憎しみを買うことだってある、それくらい先生だってご存知でしょう?それは、わたくしたち医療従事者が背負っていかなければならない枷なんですよ。憎まれても、恨まれても、わたくしたちにできるのは全力でその方のためにできる治療をさせていただくことだけ。そうおっしゃっていたのは先生ですよ。」
軽やかだけれど、重い言葉が優しく降り積もっていく。
闇は深く、暗い。
けれどその谷底にさえ、白い月の光は譬えどれほどに淡くとも射し込み、夜をはらう。
やがてこの夜が朝へと色を変えるまで。
奏ちゃんの闇を映した黒い瞳が揺れる。
その様子に、深山主任さんは小さく頷き、むっちりとした腕に巻いた細い腕時計に目を落とした。
「さて。わたくし、当直中なのでそろそろ失礼しますね。真島さんに鍵もお返ししなくちゃなりませんしね。駐車場のお花の件、やっぱり先生に相談させていただいて正解でしたわ。藤川さんも、ありがとうございました。神室先生の相手をするのは大変でしょう?頑固だし、意固地だし、我儘だし。」
「え?あっ、はい。」
突然に名前を呼ばれた僕は思わず間抜けな返事をする。
それを意に介した風でもなく、主任さんは例の人好きのする顔の中、目を細め、優しい……母のような眼差しで奏ちゃんを見やった。
「藤川さん。先生のこと、どうぞよろしくお願いします。藤川さんがついていてくださっていたら安心ですわ。」
その言葉に、ふん、と奏ちゃんは鼻を鳴らす。
「うっせーよ。」
小声だけれど、いつもの憎まれ口を叩いた黒猫は少しだけ穏やかになった表情で深山主任をちらりと見た。
「……ありがとな。主任さん。真島ちゃんにも、みんなにもよろしく云うといて。」
ふくよかで穏やかな女性は、その様子にぱたぱたと手を振り、体の割に軽やかな足取りで救急、と赤いランプの点った扉の向こうへと消えていった。
冬の夜は東から仄かな藍色へと色を変え、朝の気配を纏う。
同じ24時間なのに、長い、長い夜が終わった。
10
「綾人!スーツをその辺に脱ぎ散らかすな。」
「ふぇ……?」
今日も今日とて寝ぼけ眼の僕に奏ちゃんの冷たい声が降り注ぐ。
「皺になる。匂いが抜けん。せめてどこかにかけとけ。」
「うーん……。」
眼鏡を外してぼやけた視界。
ベッドサイドに立つ黒い人影に手を伸ばす。
「アフターで……飲み過ぎて……。」
ぎゅっと手にした体温を引き寄せると、不意打ちにふらついた奏ちゃんが枕元に手をつく。
ベッドのスプリングが波のように揺れた。
両手を伸ばし、体をかがめたままの奏ちゃんの首元に抱きつく。
重さに傾いだ体を捕まえると、僕は強く抱きしめた。
「おい!綾人!」
腕の中で暴れる黒猫の背を掌で撫で、すぐそばに落ちてきた真っ黒でしなやかな髪に鼻を埋めた。大好きな人の匂いをかぎながら、僕は心地よい微睡みを彷徨う。
ほんと。いつまでも慣れない猫みたいなんだから。
「奏ちゃん〜。優しく介抱して〜。」
「あほか!まず起きろ!そんで、水飲め!」
そんな言葉とは裏腹に、少しだけ奏ちゃんが笑った気がした。
青 赤木冥 @meruta
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