赤木冥

第1話 ホトトギスと秋の色


 朝というには遅い、すでに太陽は天頂を過ぎた頃。射し込む陽射しにはまだ夏の残渣が色濃く、あまりの暑さに寝返りをうつ。

カーテンを閉めて寝たはずなのに……なんて、寝ぼけ眼で記憶を辿る。たまに本に夢中になってカーテンも閉めずにうたた寝してしまうこともあるけれど……。

そうだ。昨夜は大好きなミステリ作家が二年ぶりに出した新作を読んでいて、解決編に入るところで本を閉じた。それを証拠に本はきちんと枕元に置かれている。それなのに何故カーテンは開け放たれ……もっと言えば、窓まで開いているのか。

ブランケットにくるまったまま、無益な思考に思いを巡らせていると、重い衝撃が背中を襲った。

「ふがっ」

潰れたカエルのような、とよくハードボイルドで形容されている声ってきっとこんななんだろうな、などと他人事のように独りごち顔をあげると、我が家の家政夫氏の冷ややかな視線にぶつかる。伸ばしっぱなしでボサボサの真っ黒い髪の毛と同じ色の目。成年男子にしては小柄でどことなく黒猫を彷彿させる身のこなし。片手に菜箸を持ったまま僕に足を振り下ろす傍若無人さ。どれをとってもパーフェクトに僕の好み。なんて、ちょっとでも気づかれたら、途端にするりと逃げてしまうのだろう。

「あ。おはよう〜。奏ちゃん」

「起きろ。三年寝太郎。飯が冷める」

僕を足蹴にした家政夫? は十年来の友人、神室奏志という。彼が僕の家に同居することになった顛末についてはまた後で語るとして、今はこの二度寝の誘惑を断ち切るのが先決だった。昨日飲み過ぎたからか、まだ体がだるい。喉が乾いて声が掠れている。水分摂取のために起きなくちゃと、ささやかな動機付けをして、気だるい体をどうにか起こす。僕がのそりとベッドの上に座り込むのを見届けると我が家の家政夫氏はキッチンへと姿を消した。


 オムレツ、マッシュルームのサラダ、トマトスープ、こんがり焼けたトースト。完璧な朝ごはんが並べられた食卓。とは言え、時間は既に昼を回って、遅すぎるブランチにしても随分と時間は過ぎていて、アフタヌーンティーの頃にさしかかっているのだけれど。まぁ、それは仕方がない。僕の起床時間がこの時間なのだから。その日一食目の食事を朝食と呼んで良いのであれば、これは僕にとってはまごうことなき『朝ごはん』なのだ。奏ちゃんの差し出したグラスに注がれた水からは、ほんのりとミントの香りがした。僕はそれを一息に飲み干して首をぐるりと回した。これは絶対に顔もむくんでいる……新聞を読みながら軽くストレッチをしなければ怒られるパターンだ。

「珈琲? 紅茶?」

「それとも、わ・た・し?」

「は? まだ寝とるんか?」

軽口を叩くと、切れ長の真っ黒い目が僕を射抜く。ここでハートを射抜かれて倒れる真似でもしようものなら、残暑の暑さも遠のくくらいの冷たい言葉を浴びせかけられるんだろう。奏ちゃんをからかうのはとても楽しいけれど、加減を間違えると本気で怒らせてしまう。これ以上奏ちゃんを怒らせるのは得策ではないことくらい、大学時代からの十年で嫌というほど学んでいる。

 地上十一階。開け放たれた窓を抜ける風が肌に心地よい。大きな伸びをひとつ。なかなかの目覚めだ。よく見るとパジャマのボタンを掛け違えているけれど、今更なので見なかったことにする。

「アールグレイが飲みたいな」

 ちなみに、奏ちゃんに「どっちでもいい」は禁句だ。選べと云われているのに選ばないのは、相手に対して失礼……なのだそうだ。

沸かしたてのお湯をティーポットに注ぐ奏ちゃんの横顔がわずかに和らぐ。アールグレイは奏ちゃんのお気に入りだ。ベルガモットの爽やかな香りがダイニングに満ちた。グレイ伯爵にその名の語源を持つアールグレイはいわゆるフレーバードティーだ。紅茶通を自称する僕のお客さんに言わせるとストレートティー以外は邪道らしいけれど、そんなことどうでもいい。こんな気持ちのいい朝(いや、昼を過ぎているけれど)には、最高の香りだと僕は思う。

かた、と小さな音を立ててティーポットがテーブルに置かれると、奏ちゃんは黒いエプロンを外し、椅子の背にかけた。

「早よ食べや。今日のオムレツは自信作や」

「何のオムレツ?」

「マッシュルームとブリー。昨日のつまみの残りやけどな」

「それはもう、絶対美味しいやつでしょ」

いただきます、と手を合わせ、箸でオムレツを割ると、半熟の卵がとろりと流れた。お腹がグゥと鳴って、僕は改めて空腹に思い至り、素敵な家政夫氏に感謝した。トロトロのオムレツを口に入れた瞬間、マッシュルームとバターの味が広がる。

「あー…幸せ。奏ちゃん、お嫁に来てくれてありがとうね」

「アホか。家政婦や」

 丁度いい焼き具合のトーストは、最近奏ちゃんが買って来たグリルパンで焼いたものだ。たっぷりのバターで黄金色に艶めいたトーストは表面はカリカリ、内側はふわっとしていて、ハイクラスホテルの朝食のようだった。

 奏ちゃんはナイフとフォークで器用にサラダを口に運んでいる。その様子に僕は少しほっとしながら、最高の朝ごはんに舌鼓を打った。トマトスープの具のショートパスタを一つずつ箸でつまむ。咀嚼回数が増えるのは体にいいらしい。確かに、奏ちゃんがうちに来る前は、その辺にあるパンだけかじりながら新聞と週刊誌に目を通して、美容室に直行。そのまま出勤していたから、その頃に比べれば今はものすごく健康的な生活をしていると思う。

 僕の仕事はホスト。一部ではイニシャルGことゴキブリのような扱いもされるけれど、僕は存外この仕事が気に入っていた。

ずっと続けていける仕事ではないし、年齢的にもそろそろ潮時だとは思う。けれど、お客様たちとの駆け引きも、剥き出しの欲望を観察するのもなかなかに興味深くて面白い。    

ホストと一言に言っても、色々なタイプがいて、僕は決して王道のホストではないのだけれど、人の話を聞くのが好きだからか、それなりの売り上げを上げさせてもらっている。まぁ、それは、常客さんの中に太い(太っている、ということではなくて、売り上げを上げさせてくれる払いのいい人のことだ)お客様がいてくれるからなのだけれど。

 大学院生の時に、内勤業務のバイトとしてホストクラブで働くようになった。単純な好奇心だけで始めたバイトだった。内勤業務というのは所謂、黒服、と呼ばれるポジションで、会計やウエイターなどの裏方をする仕事だ。僕はプレイヤー(ホストのことだ)向きではないと自分でも思っていたし、内勤をしながら、ホストクラブの人間関係を眺めているのが面白かった。塾の講師にも飽きた頃だったから、新鮮だった。バイトを始めて一年経つか経たないか……それくらいの頃、店に来ていたお客様からの要望で僕はプレイヤーに転向した。僕の働いているホストクラブでは、黒服がドリンクを作ることもあって、人手が足りない時はヘルプの役割もこなすことがあったから、僕を気に入ってくれたお客様から指名したい、と請われてのことだった。内勤からプレイヤーに、プレイヤーから内勤に、とお店の中でも転職することもあり、プレイヤーと内勤と両方こなす人もいるのだけれど、僕はあまり器用な方ではないし、プレイヤーに転向してからは、指名を下さるお客様も意外に多くて、内勤もこなすのは無理になってしまい、僕はホストになった。

顔もそこそこ、枕(枕営業というやつで、お客様と体の関係をもつ、というやつだ)にも興味のない僕が今こうしてホストを続けていられるのは、ひとえにこんな僕に指名をくれるお客様のおかげだと思っている。

「そういえば、奏ちゃん。荷物、大丈夫だった?」

「あー。あかんかった」

 肩を竦め、色白の美丈夫は軽く鼻を鳴らす。すくめた肩のてっぺんにある骨が、オーバーサイズのTシャツの下で綺麗なラインを描いていた。僕のTシャツは奏ちゃんには少しばかり大きい。スマホがぶるりと震えるのを横目で見て、どうでもいいツイートの通知なのを確認し、僕は奏ちゃんに視線を戻した。奏ちゃんは綺麗な顔をしている。三十路を四つばかり越えた男に云う台詞ではないのかもしれないけれど、昔から奏ちゃんは綺麗だった。顔立ちも僕なんかより遥かに整っていて、切れ長の鋭い目と仕事柄、外にあまり出なかったからか、キメの整った白い肌をしていた。真っ黒くて真っ直ぐな髪の毛は意外に毛量が多いのか、朝には時々ものすごい寝癖で爆発してはいたけれど、少なくとも禿げる恐怖とは無縁のようだった。細身のくせに、僕の部屋に居候するようになってから太った、とぼやく奏ちゃんは、大人の事情、というやつで半月前に僕の部屋に転がり込んできた。身の回りの荷物だけを持ってやってきた時、家具や衣類は後で持ってくる、と云っていたのだけれど、荷受けに行ってもけんもほろろに追い返されること三度。挙句の果てに荷物は処分されてしまったらしい。それって訴えられないのかな、と言いかけてやめた。奏ちゃんはきっとそんなことをしたがらない。そう思ったからだ。

 サラダの緑はルッコラだった。噛み締めると、ゴマに似たルッコラの香りが鼻に抜ける。ああ、どっちも森の匂いがするからこの組み合わせは最高なのね、とルッコラと和えた生のマッシュルームを口に放り込んだ。ドレッシングは若草の匂いのオリーブオイルとレモン、塩、胡椒。シンプルだけれど美味しいサラダだ。尤も、今日はサラダ記念日なんかじゃない。そんなことをしていたら毎日がサラダ記念日になってしまう。

 それくらい、奏ちゃんの作るごはんは美味しかった。おかげでこのところ僕の体調はすこぶる良かった。飲みすぎたなぁ、と反省しながら帰ってきた翌朝も、二日酔いにやられずに済んでいるし、ぎゅうと締め付けるような胃の痛みもこのところない。

「あいつ、マジで俺のこと嫌いみたいでさ。全部廃棄されたみたいやわ。ほんま、えげつないやつやで。絶対ただの嫌がらせやわ。ほんっま、滅びたらええのに」

 小気味の良い音を立ててトースト囓り、溜息をひとつ。細めた目が剣呑な光を宿している。

「まぁでも、おまえんちに居候させてもらうにあたっては、でかい荷物は邪魔んなるし。ええ方に考えるようにはしとる」

「……そっか。奏ちゃん、ちゃんとお小遣いあげるからね」

「いらんわ! ヒモちゃうし。それに多少の貯金くらいあるわ」

アホか、と毒づく笑顔がかすかに淋しげなのが胸にチクリと刺さる。物には思い出が宿ると僕は思う。奏ちゃんはたくさんの思い出をただの嫌がらせで捨てられてしまったんだ。

「じゃあ今度は捨てられちゃった思い出の分も、僕との思い出を作ろうね」

営業用の笑顔を向けると、テーブルの下で行儀の悪い足が僕を蹴飛ばす。

「なんでや。ほんま、おまえは」

軽やかな笑い声が響く。僕もつられて笑う。今度は営業用ではなく。

サクサクのトーストにキャラメルペーストを塗りつける僕に、微かな笑みをたたえたまま、奏ちゃんは静かに云った。

「物は物でしかないし、それ以上でもそれ以下でもない。永遠なんてもんはないし、いつかはみんな壊れていくもんや。物に思い出が『宿る』んやなくて、物に思いを『投影してる』だけや。それでもどうしても欲しいもんやったら、また探せばええんや」

僕の胸が、また少しだけチクリ、と痛んだ。だって、言葉とは裏腹に奏ちゃんはやっぱり淋しそうだったから。

「二元論的な意見だね。奏ちゃんらしい。」

ショコラティエが作ったというキャラメルペーストが口の中で溶けた。濃厚な甘さを苦味が追いかけ、消えていく。

「デカルトやっけ?」

「ふふ……。物質と精神、心身二元論チックだね。相反する存在を仮定して進められる思考は、大まかに言えばみんな二元論だよ。主体と客体が存在すれば、それは既に二元論として成立するんだよ」



 奏ちゃんとは大学生の時に知り合った。僕は東京の、彼は京都の高校を卒業して、たまたま同じ大学の違う学部に進学した。複数の学部・学科のある総合大学で、同じ大学にいる、というだけで顔も名前も知らない他人なんて山ほどいる。それがこうして知り合うことができた、だなんて、運命は粋なはからいをしてくれたものだ。まぁ、運命、なんていうと奏ちゃんはまた露骨に嫌がって見せると思うから、その言葉は僕の胸のうちに秘めておくけれど。大学時代に起きたとある事件をきっかけに僕たちは出会った。あの騒動がなければ僕たちは知り合うことなんてなかっただろうし、ずっとずっと他人のままだったのだろうと思う。だから、今でも僕はそのことに感謝している。それから妙にウマのあった僕達は、頻繁にご飯を食べたり、お酒を飲んだりするようになり、いわゆる、親友のような関係、を構築することに成功した。

 けれど、卒業して、奏ちゃんは医者に、僕は大学院卒のホスト……になってからは、ほとんど会うこともなくなっていた。そもそも、生活の時間帯が違いすぎるからだ。

僕たちは、あたかも交わりそうで交わらない三次元空間を互いに真っ直ぐに貫いていく直線のようなものだった。どれほど近しくなろうとも、異なる位相を行けばその二つの線は交わらない、はずだった。それがこうして交わる事になるなんて。僕は、奏ちゃんが僕を頼ってくれたことがとても嬉しかった。

「てかさ、奏ちゃんが鍋を抱えてドアの前にいた時は笑っちゃったよ」

「……云わんといて」

う、と言葉に詰まる様子が子供のようだ。奏ちゃんが僕の部屋に転がり込んできた時、なぜだか彼は鍋を抱えていたのだ。豆富小僧がザルを大切に抱えている絵があるが、まさにそう云った風情でドアの前に佇んでいた。朝の十一時。寝ぼけ眼の僕の前に現れた姿に僕はひとしきり笑い転げ、奏ちゃんは憮然としていた。

「なんで鍋だったの?」

「そこに鍋があったからや」

「ちょ! それじゃ『なぜ人は山に登るのか』みたいじゃない」

「しゃーないやんか。急に家を追い出されたことあるか? ほんまびっくりすんで。大事な書類だけカバンに入れたら、あと何持って出たらええかわからんようになってん。ばあさんの形見と仕事用のメガネと……。持てるもんには限りがあるやろ。そしたら、昨日作って寝かせてたカレーがあるし……思わず鍋ごと……」

眉間のあたりを指で押さえ、うーん…と呻く様子に僕は思わず吹き出す。ちなみにあの日奏ちゃんが持ってきた国産の高級無水鍋は現在我が家のコンロに鎮座ましましている。

「そうやって考えると『アンネの日記』の重みを感じるねぇ。ゲシュタポが来た! って大切なものだけ持って逃げる場面があるんだけど、ああ云う時に何を僕なら持っていくかなぁって昔思ったことあるもん」

「おまえが持って出るんは枕と本やな。きっと」

「あ〜、きっとそうだと思う〜。奏ちゃん、よくわかってるねぇ」

笑いながら紅茶を飲む僕に、奏ちゃんは、ふん、と鼻を鳴らした。

 食後のデザートは梨だった。まだ出初めの梨は甘みが薄くて少し水っぽかった。けれど、梨特有のザリザリとした歯ざわりが秋の訪れを感じさせてくれる。食卓の傍でぶるりと震えるスマホを見るといつも指名をくれる雛子さんからのLINEだった。梨の果汁に濡れた指先はベタついていた。

「ほれ」

絶妙のタイミングで差し出された濡れ布巾で指を拭う僕に云うともなく、奏ちゃんがぼそりと呟いた。ちらっと盗み見た横顔はやっぱり少し淋しそうだった。

「はよ仕事せんとなぁ」

僕は手早くLINEに返信する。仕事が早く終わるから同伴したい、と云う内容だった。スマホの画面が黒く味気ない色に戻るのを確認して、僕は奏ちゃんに向き直る。

「今まで働き詰めだったんだし、ちょっとお休みしてもいいんじゃない? 人生の夏休み、だよ」

有り体な台詞だったけれど、僕はこの研ぎ澄まされた刃のような友人がひとときでも休まることを心から願っていた。(できればこのままうちにいてくれればいいのに、と思ったのは秘密だけれど)

「まぁなぁ……あいつ根回ししやがって、仕事もしづらいんよなぁ、今……」

そして溜息をもうひとつ。

紅茶を飲み干し、奏ちゃんは立ち上がった。

「よっし。今日こそは綾人の部屋の掃除だ」

我が家の優秀な家政夫さんはどこまでも仕事熱心だった。




 「おまえさぁ、掃除ってしたことある? なんで掃除道具が全くないん?」

夕暮れ間近の繁華街、まだあまり土地勘のない奏ちゃんを伴って、僕は出勤前の美容室に向かっていた。 

そろそろ髪が伸びて来て鬱陶しい。肩まで伸びた髪のせいで首筋が蒸れて汗疹が出来そうだ。ハンカチで首を拭うのもおっさんくさくてよろしくないように思う。一応のところは、腐ってもホストなので、人目のあるところではあまり外観の良くない行動はしないように心がけている。(とはいえ、気づくと仕事上がりのラーメン屋で出されたおしぼりで顔を拭いてしまうんだけれど)

「大体、なんで掃除機すらないんよ。調理器具もなんもないし」

「……えっと……、掃除機の音が嫌いっていうか……料理もしてる時間が勿体ないっていうか……」

モゴモゴとぼやく僕の隣で奏ちゃんが呆れたような溜息をつく。

「綾人……おまえよく今まで一人でやってこれたな」

「まぁ、為せば成る、というか、ケセラセラ、というか……」

 僕はどうにも放っておけないタイプのようで、今日のスーツもいただきもののブリオーニだ。僕のスーツや私服は大概がお客様からのプレゼントだ。店によっては貸し出し用のスーツがあるお店もあるそうだけれど、うちの店は自前の衣装が必要だ。新人のホストは給料片手に洋服を買いに行くなんてことも珍しい話じゃない。

僕がホストに転向したとき、手持ちのスーツは塾講師をしていた時のものだけで、それを着て出勤したら店長からは大目玉を喰らい、僕をホストにと指名したお客様には爆笑された。曰どこの学校の先生だ、と。

翌日の出勤前、お客様(ホストクラブでは姫、と呼ぶことが多いのだけれど)と同伴で連れて行かれたのは、カラオケでもレストランでもなく、とりあえずのスーツが買えるお店だった。

そのお客様こそが雛子さんだ。雛子さんは今も時々その時のことを笑いながら話題にする。

正直なところ、僕がここまでやってこられたのは、どう贔屓目に見ても、僕自身の力ではなく、こうして僕を正しい『ホスト』にしてくれたお客様のお陰だと思う。いただいたプレゼントにはどれもそんな思いが込められているから、僕はそれらをきちんと身につけるようにしているし、そのことが更に姫達の気持ちを掻き立てるようだった。

「掃除機は高いから、拭き掃除するかなぁ。なんしか、おまえ、もうちょっと人間的な生活しろよ」

「えー………。してるよ」

「誰がやねん。そもそもな、」

……そのとき。

ドスンと重く鈍い音が響いた。

 夜行性の人種が集い始める夕暮れの繁華街に似つかわしくないその音から僅かに遅れて女性の悲鳴がかぶさる。足を止め振り返ると、同じようにその歩を止めた人々が徐々にひとところに集まり何かを遠巻きに覗き込んでいるのが見えた。急に立ち止まった奏ちゃんに、どん、と体がぶつかる。わらわらと集まる人垣の向こうに誰かが倒れていた。

 奏ちゃんは目を細め、状況を把握しようとしているようだった。僕はその横顔をそっと盗み見る。厳しく険しい表情。

次の刹那。奏ちゃんは人だかりに向けて駆け出した。

「綾人! 救急車呼べ!」

問いかける暇もなく、奏ちゃんは人だかりに向けて真っ直ぐに走って行く。いかついエンジニアブーツがアスファルトを鳴らした。映画の十戒で波が割れるように人だかりが彼に道を開ける。細身のブラックデニムに黒いエンジニアブーツ。体にフィットした黒いTシャツ。黒ずくめの男は振り返りもせずに、人垣を抜け、その中央にぽっかりと空いた空間へと向かっていた。その姿が人垣に隠れると、再び、奏ちゃんの低く通る声が響いた。

「誰か。その辺にAEDないか見てきて」

関西訛りの言葉。

誰も、そう。誰も自分にかけられた言葉ではないような他人の顔をして、ただ、彼の様子を眺めている。女子高生が一人。輪を離れ駆け出して行った。

 僕は何が起きているのかいまひとつ理解が及ばないまま、言われた通り、119をダイアルする。名前、今いる場所、それから……。

 覗き込むと、人だかりの中央には中年の男が倒れていた。

白髪混じりの短い髪は頭頂部のあたりが薄くなっている。ごく普通のその辺にいそうなおっさんといった印象。だがその顔からは血の気が失われ、両の手足は力なく投げ出されている。口角からはよだれがこぼれ、半開きになった色の悪い唇からはぐんにゃりと肉色をした舌が覗く。白いカッターシャツにグレーのスーツ。恐らくは手に持っていたのだろう革のビジネスバッグが無造作に横に転がっていた。

アスファルトに膝をつき、奏ちゃんは倒れている男の口元に掌をかざしていた。次いで、全く反応のない男の首筋に指を押し当てる。 

赤い唇が声にならない言葉を何事か呟くのが見えた。

長めの前髪から覗く険しい表情が倒れている男のただならぬ状態を物語っていた。倒れた男は微動だにしない。否、寧ろ、呼吸も…心臓の拍動さえも止まっているようだった。

ふぅ、と吐息を漏らした奏ちゃんは、一度天を仰ぐような仕草をして、アスファルトに膝立ちになり、掌を支点に伸ばした両腕で体重をかけて男の胸をリズミカルに圧迫し始めた。

「誰か、心肺蘇生法なろた人は他におらへんか? 免許取るときにみんななろとるやろ」

繁華街の住人達は互いに顔を見合わせる。

誰一人として手を挙げない。

1、2、3、4、5…と、規則正しいリズムを口に出しながら奏ちゃんは心臓マッサージを続けていた。大粒の汗が程なく額に浮かび、ぽとり、と横たわったまま動かない男のシャツに落ちた。

野次馬は飽くまで野次馬でしかなく、遠巻きに予期せぬ事件を眺めている。

白いコックエプロンを羽織った熊みたいな男がコップに水を入れ、早足で倒れた男と奏ちゃんのもとに近づく。奏ちゃんはちらりとその料理人を見上げ、軽く口角をあげ頷く。熊も頷き返す。

 そんなやりとりを見つめながら、僕はスマホを耳に押し当てていた。電話越しの業務的な声。今すぐにでも救急車に来て欲しいと焦る気持ちをよそに、努めて事務的に、一つ一つ現在の状況を僕に尋ねかける電話の向こうの声。知らないって! と言いたくなる気持ちを抑え、今の状況をできる限り正確に……速やかに。そうとはわかっていても、焦らずにはいられない。

こう云うことは、当事者になってみて初めてわかるものなんだなぁ、と僕は痛感した。掌にじっとりと気持ちの悪い汗が滲む。

「……そうです。はい。そうです。今、僕の友人が心臓マッサージをしています。……えAED? まだです。意識はないみたい、です。……ええっと……ごめんなさい。僕にはわからないです」

わからない、と答えることに感じる微かな罪悪感。なんでだろう。何も悪いことなんてしていないのに、ね。

1、2、3、4、5……、1、2、3、4、5……。

奏ちゃんの声が聞こえる。

 人垣の中、見ず知らずの男に心臓マッサージをする奏ちゃんを、僕はただ成す術もなく見つめていた。僕は無力だった。まだ終業時刻前のこんな時間に繁華街を歩いているのは学生か出勤前の夜職が大半で、医療の心得のある人間はそうそういないようだった。

僕は「五分ほどで現場に着きます」と言って切れたスマホの画面を見つめた。

「……くっそ。動けよ。」

独り言みたいな呟きが耳に届く。

奏ちゃんは、時折、手を止めてはぐったりとした男の首筋に指を当て脈を確認し、再び、大きく息を吸い込んでは、体の半分くらいまで押し込むように心臓マッサージを続けていた。それが果たしてどれくらいの時間だったのか、僕にはわからなかった。

長いようで、その実、数分に満たない時間だったのだと思う。

 どこかに駆け出していった女子高生が、息を切らせて戻ってくる。片手にはプラスチックのカバンのような箱。短いスカートから覗く真っ直ぐな足と丸い膝小僧。バッチリと決めた化粧が崩れるのも気にせず、彼女は全力で走って来た。頬が赤い。

「おっさん、あったよ。あっちの銀行で借りて来た」

「よっしゃ、偉い」

心臓を他力的に動かす為の動作を中断すると、奏ちゃんは女子高生から箱を受け取る。他人のそぶりをして見守る人垣から、まばらな拍手が起きた。

 奏ちゃんは、慣れた手つきで説明書きも見ずにAEDを取り出し、男のワイシャツの前を一息にはだけた。千切れたボタンがかつん、とアスファルトに転げた。パッドを男の胸に貼り付ける。空気が張り詰める。数瞬遅れて、小さな画面に真っ直ぐな横線が表示された。

奏ちゃんは深々と溜息をついて……俯いた。汗がポタポタと地面に黒い染みを作った。噛み締められた唇。

 僕は……無力な僕は、何ができるかもわからないままに、俯いた奏ちゃんに歩み寄った。ポケットに入れていたハンカチで奏ちゃんの額に浮かんだ汗を拭うと、驚いたような顔で僕を見上げた。まるで、僕の存在など完全に忘れていたかのような表情に、僕は少しだけ微笑み返した。

「救急車、もうすぐ来るって」

手伝えない歯痒さを噛み下し、僕は奏ちゃんに頷いてみせた。奏ちゃんは僕に頷き返すと、もう一度、心臓マッサージを再開した。

救急車のサイレンが遠くから近づいて来る。

あと少し。あと少し……。


 到着した救急隊は手早く男の体にいかつい機械を取り付けた。自動式胸骨圧迫機というんだと、後で奏ちゃんが教えてくれた。 

LUCAS2と云う立派な名前までついた機械を取り付け、意識のない男の口にマスクを押し当て、隊員が酸素を押し込み始める。その様子を暗い目で眺めていた奏ちゃんがよく通る声で言い放った。

「JCSⅢ群。300、CPA、瞳孔不同なし。対光反射は……さっきはまだあった。AEDモニターでエイシス。自発呼吸なし。ラリマでいいから入れたって。そんでO2 10Lでバッグ換気。LUCASつけとると、マスク換気やとなかなか入らへんから。見とった限り、CPAから8分。感染リスクもあるし、人工呼吸はしてへん。低酸素脳症になってもおかしない。それから、ルート確保も」

困惑したような表情になった隊員はストレッチャーを押しながら、声の主を振り返る。

「ええと、医師の指示がなくては、私たちは挿管行為は……」

「知っとるわ。俺は、医者だよ」

そう云って、奏ちゃんはポケットから財布を引っ張り出し、胸部外科学会会員証と書かれた小さなカードを救急隊員に放り投げた。

「……もう辞めたけどな」

 いこ、と僕にだけ聞こえるように囁いて、野次馬の好奇に満ちた目を振り切るように奏ちゃんは歩き出した。僕は救急隊から渡されたプラスティックのカードを片手に慌ててその背を追った。




 S駅南口には十七時五十分に着いた。待ち合わせは十八時。

店に行く前に軽く何か食べに行こう、という雛子さんの提案で、今日はお手頃価格のフレンチを予約してある。雛子さんは僕のお客様の中でも一番古くから指名してくださっていて、尚且つ、一番太いお客様だ。(しつこいようだが、体が、ではなくて、支払いのいい、という意味だ)四十代後半の独身女社長で、オーガニック系の化粧品の輸入販売をしているという。待ち合わせの花屋の前にはまだ雛子さんらしい人影はなくて、僕はとりあえずそろそろ季節外れの向日葵をあしらった小さなブーケを買う。

向日葵の花言葉は『あなただけを見つめる』『崇拝』『憧れ』落ち度はなさそうだ。

 以前に、同伴のお客様にこうしてブーケをプレゼントした時に、ものすごく怒らせてしまったことがある。黄色い百合の花がとても可愛らしくて、その方にとても似合うだろうなぁと思ったのだ。ところが、そのブーケを渡した途端、明らかに不愉快そうな顔をしたお客様は、ムッとした様子で僕にそれを突き返した。予想だにしなかった反応に、僕は何が彼女の機嫌を損ねたのかわからなかった。安っぽい花束を渡された、と怒っているのかな、とか、百合に嫌な思い出があるのかな、とか拙い予想を繰り広げた。ところが彼女が口にしたのは思いもよらない台詞だった。

……私のこと、軽率な尻軽女だって言いたいの?と。

僕は無知だった。そんなことは全くない、と素直にその花が可愛らしくてとても似合いそうだったからと伝えたら、ため息交じりに教えてくれた。

黄色い百合の花言葉は『軽率』『偽り』。

なるほどなぁとひどく感心した覚えがある。それから困ったように笑いながらその方はブーケを受け取ってくれた。花に罪はないから、と。

純白の百合…お店でもよく活けられているカサブランカなどの花言葉は『純潔』だ。けれど、同じ百合の花でも色が違うだけで、花言葉は全く変わってしまうのだ、ということを僕はこの時初めて知った。それから、そのお客様は時折、僕に花言葉を教えてくれるようになった。会話の糸口がひとつ増えたのは喜ばしいことだったけれど、それまで僕は花言葉には大して興味を持っていなかったから、花言葉の本を買って暫くは勉強した。知らないことはやはり罪だ。それなのに、知らないことを知らないまま過ぎて行くことの方が世の中には多い。知るきっかけがあって、知る手段があること。それはとても幸せなことだと思う。

「お待たせ。レンジ君」

花言葉を反芻する僕の二の腕にトン、と柔らかな感触が触れた。ほっそりとした雛子さんの指が僕の腕を掴んでいた。

ちなみにレンジ、というのは僕の源氏名だ。

店に出るのに本名で出ると何かと不都合が生じるから、ホストは本名とは違う源氏名を持っている。自分で考えることが多いみたいだけれど、お店によっては相撲部屋みたいに、統一性のある名前を店側からつけられることもあるらしい。ちなみに、僕のレンジ、というのは漢字で書くと蓮爾、といかにもすごく考えてつけました! という感じだけれど、実際は名前を思いつかなくて、部屋中見渡して電子レンジが目に入ったから『レンジ』にした。手軽に食べ物を温められる、ってすごいことだし、僕も人の心を暖められたらいいな……なんて理由は後付けだけれど。

「雛子さん。こんばんは」

華奢な金色の指輪が雛子さんの右の中指で光を反射していた。

「今日はどこのお店に連れてってくれるの?」

「僕の安月給じゃ、雛子さんが連れて行ってくださるようなお店には行けないんですけれど、美味しいフランス家庭料理のお店を見つけたので」

「あら、いいじゃない。って、誰が安月給よ。もっと稼ぎたいから貢げってことかしら?」

雛子さんはからりと笑う。

ホストとお客、にしては僕はあまりにも王道ホストとはかけ離れているし、雛子さんもホストクラブの常連……にはあまり見えないナチュラルメイクにこざっぱりとした服装だ。 

ふわりと纏った金木犀の香りも、香水ではなくて恐らくはオーガニックのアロマの香りだ。

「いい匂いがします」

「わぁ、レンジ君がホストみたいなことを言ってる」

「いや……一応、ホストです」

「知ってる。今から雛子おばさんと同伴してくれる男前ホスト」

「もう〜、雛子さんはおばさんなんかじゃないですよ。僕の大切な姫なんだから」

「レンジ君はそう云ってくれても、年代的にはおばさん扱いされちゃう年齢なんだから」

いやよねぇ、と呟いてふっくらとした頬に手をやる仕草が女性らしくてキュートだ。

僕は小さなブーケを差し出すと、雛子さんの体を雑踏からかばうようにして歩き出した。

「あら、可愛い。レンジ君、本当にマメよね。昔からそうだけど、人のことをよく見ているわ。だから指名したくて我儘言ったんだけど。あなたをプレイヤーに引っ張り出したあの時の私を褒めてあげたいわ」

ふんわりと丸くセットされたショートボブの髪の毛が揺れる。

「聞き上手なんだもん、レンジ君。なんだか癒し系というか……大型犬を撫でたくなるのと同じ感じ。日々の生活でささくれだった気持ちが癒されるのよねぇ。同伴なのに『今日は僕がご馳走します』なんて普通言わないわよ」

「そうなんですか? でも、美味しいものがあったら、好きな人には食べてもらいたいな、共有してもらいたいな、って思うじゃないですか?」

「あー、もう。無意識だから怖いわ。この子ってばタラシなんだから」

笑いながら雛子さんは僕の腕に腕を絡めた。



 予約してあったお店は駅から徒歩五分。小さな木製のドアを開けると、五つだけしかないテーブル席は四つが埋まっていて、一つだけテーブルの上に予約席、と書かれた札が置かれている。一昔前の喫茶店のバイトみたいな赤いギンガムチェックのエプロンをしたウエイトレスさんが僕たちをその席へと案内してくれた。

雛子さんをエスコートして椅子を引くと、彼女は小さく笑う。

「もう、ほんと。レンジ君、立派になったわよね」

「そんなことないですよ。雛子さんが色々教えてくださったからです」

「昔はエスコートしてくれるときも、おどおどしてたのに。慣れたものね」

 席に着くと程なくしてフルートグラスに注がれたスパークリングワインが運ばれてきた。 ほんのりと黄金をまとった液体の中、細やかな泡がひとすじ立ち上っている。すらりと伸びたガラスの脚を指でつまみ、軽く持ち上げて乾杯を交わし、喉を潤す。

 もう暦の上では秋とはいえ、まだ蒸し蒸しと暑苦しい。スーツで歩き回るとじんわりとした汗がにじむ。これから店で嫌という程(オーダーを入れてくれるのはありがたい話だから、嫌という程、と云う表現は不適切だけれど)シャンパンを飲めるのだろうけれど、それはそれ。これはこれ。乾いた体に炭酸が心地よく染み渡っていく。

「それはそうとね、ちょっと困ったことがあったのよ。聞いてくれる?」

「勿論」

僕の返答に雛子さんはふわりと笑む。それから、グラスを軽くあおり、一呼吸置いてから僕をじっと見つめ、話し始めた。

「レンジ君。前に一緒に行った『ホトトギス』っていうお店、あったでしょ?」

「はい、覚えていますよ。水出し珈琲の美味しいお店でした。チーズケーキも美味しかったなぁ」

『ホトトギス』というお店は昔風の純喫茶で、ちょうど広さはこの店と同じくらい。S駅から数駅ほど向こうにある。ハンプティダンプティのように丸々として肌艶の良い、髪の毛の少し薄い男の人と、ひょろりとした男の人が二人でやっていた。確か、ハンプティダンプティがマスターだったはずだ。僕は、アリスの絵本に出てきたハンプティダンプティよろしくピチピチでボタンが弾けそうになっていたマスターの黒いカフェベストを思い出していた。

 半ば空いたグラスをテーブルに置き、雛子さんは身を乗り出す。辺りをちらりと伺う様子に、僕も同じように身を乗り出す。人に言えないほどの秘密ではないけれど、秘密を装う方が良いような話題なのだろう。案の定、雛子さんは声のトーンを落とすと僕を上目遣いにちらりと見て言葉を続ける。

「それがね、あの店で働いていた男の子。覚えてないかしら?」

僕の頭はハンプティダンプティでいっぱいで、もう一人いたのは覚えているけれど、ハンプティダンプティとは対照的にひょろりとしていたことしか思い出せない。

「……んー……細い方ですか? 丸い方ですか?」

「細い方よ。丸い方はマスター。あ、丸い方、って結構失礼な言い方よね。あの細い男の子、水城君っていうんだけどね。その子がいつもあの店のケーキやお菓子を焼いていたんだけれど、もう一週間も無断欠勤してるらしいの」

 僕はその『水城君』という人のことを思い出していた。ひょろりとした体躯の青年で、年は僕と同じくらいか。人見知りなのか、少しおどおどとした目つきをしていた。

ハンプティダンプティがまん丸ではち切れそうなのに対し、かなりの痩せ型で、きっちりと首元までボタンを止めたワイシャツの襟元が神経質そうだった。声を聞いた記憶はない。真面目そうな雰囲気をしていたなぁと記憶の中の面影をかき集める。

「ふぅん」

「なによ。興味なさそうね」

 雛子さんが不機嫌そうに僕を睨む。おっと、危ない。

彼女はオーガニック系の商品を扱う会社をしているから、対外的な理由でこんな風体をしているけれど、女の細腕でそれなりの規模まで会社を大きくしたワンマン社長だ。見た目とは裏腹に雛子さんは気が強くて、人間のことをとてもよく観察している。適当な対応をされることが何より嫌いで、気にくわない人間を排除することも厭わない。うちの店の若手も雛子さんの外観に騙されて、かわいいお姫様扱いした挙句、二度とテーブルにつかせてもらえないようになった子もいる。猫をかぶる、とはよく云うが、雛子さんの場合、子猫を被ったライオンみたいなものだ。

僕は笑って首を振る。

「そんなことないですよ。一週間が『も』になるには理由があるのかな、と思って。だって、あの人すごく真面目そうだったし。なんでだろう、って考えてました」

「そうなのよ」

ぎらりと一瞬、猛獣のように剣呑な光を宿したのが嘘のように、雛子さんは大きく頷いて見せる。

「彼、もう七年も勤めているらしいんだけど、今まで無断欠勤なんてしたことないそうなの。何年か前にインフルエンザにかかった時に休んだことはあるけれど、その時もきちんと連絡はしてきたそうなのよ」

「なるほど」

「無断欠勤したその日に電話をしたけど出ない。三日目に、急病じゃないか、ってマスター……丸っこい方ね……がアパートまで見に行ったらしいんだけど、新聞もたまってない。部屋の中から人の気配もする。部屋の中にはいるみたいなのよ。けれど、チャイムを鳴らしても出ないし。そうこうするうちに今日で十日になるんだって」

 オードブルの盛り合わせをナイフとフォークで口に運びながら、雛子さんは「ね、おかしいと思わない?」と念を押すような口調で僕に問いかけた。

オードブルはパテ・ド・カンパーニュとズッキーニのミルフィーユ仕立て、夏野菜のテリーヌ。僕は雛子さんに頷き返して、薄くスライスされたズッキーニとホタテをまとめてフォークで口に運ぶ。ズッキーニの歯ざわりとホタテのうまみが口いっぱいに広がった。

「確かに、おかしいですね。何か事件に巻き込まれているのかな?」

「だとしたらどんな事件?」

「……子供さんが誘拐されたとか……?」

「水城君は独身よ」

「……親知らずを抜いたら、顔が腫れて痛すぎて、電話をするのも人と話すのも億劫で連絡できないとか」

「もう十日も経つのに? 流石に腫れもひくわよ」

「……Drink meって書かれた液体を飲んだら体が大きくなって部屋から出られなくなった……わけないよね」

そこで雛子さんがプッと吹き出した。

「どこの国のアリス? 確かに……円山さんはハンプティダンプティっぽいけれど」

雛子さんも同じことを思っていたようで、ひとしきりクスクスと笑い続ける。

「なんにせよ、由々しき事態なのよ、わたしにとって。水城君がいないとケーキが食べられなくなっちゃう」

 雛子さんが至極真面目な顔で神妙にそう言った。

僕はそんな雛子さんをかわいいな、と思いながら、敢えて演技めかして深々と頷いてみせた。

「わかりました。雛子姫の仰せのままに。水城氏の行方を追いましょう」




 帰宅したのは日付が変わって深夜三時。一部営業で上がって、アフターでバーに寄りようやく我が家へ。

少し重たい湿り気を帯びた夜の空気が仄かな秋の気配をまとっていて、その涼やかさが心地よい。奏ちゃんが来るまでは一人きりだった部屋に僕は小さな声で「ただいま」と声をかけ、足音を潜めて間接照明だけがつけられているリビングに向かう。と、ソファの陰からむくりと黒い人影が身を起こす。

「おかえり」

 低くて気持ちのいい声が耳に届き、その言葉の響きに僕はなんだか幸せな気持ちになった。

一人で暮らすようになってからずっと、ただいま、に返って来る声なんてなくて。おかえり、と云う言葉はとても温かくて幸せな言葉なんだな、と実感する。僕は家庭を持ちたいと思ったことはないけれど、こうして誰かから「おかえり」と言ってもらえるのは本当に幸せだ。もしかすると、このささやかな幸せを手に入れるために人は家庭を築くのかな、なんてふと思う。

「わ。奏ちゃん。寝ててくれていいよ、って言ってるのに〜」

「居候の癖に主人より先に寝ていいはずないやろ」

 ふん、と腕組みをして何故だか偉そうに言い放つと、奏ちゃんは欠伸を一つ噛み殺す。僕のジャージもTシャツ同様少し大きいみたいで、裾を軽く折り曲げている。

「水飲むやんな。その前に、手洗ってうがいしといな」

「うん、ありがとう〜。その前に、おかえりのちゅーは?」

「は? 酔っ払い。外で酔い冷ますか?」

「……冗談ですぅ」

 酔いも覚めるような冷ややかな声に僕は慌てて洗面所に向かった。



 パジャマに着替えてリビングに戻ると、例のミントの葉っぱが入った水が大きなグラスになみなみと注がれていた。奏ちゃんは氷の入ったタンブラー片手にソファに埋もれている。高校生の頃から使っている革張りのソファはすっかり草臥れて、今ではいい具合に体が沈み込む。その柔らかな質感が心地よくて、僕はずっとそのソファを愛用していた。

「ありがとう〜」

奏ちゃんの隣に腰を下ろすと、ソファが小さく軋んだ。おかえり、と云うように。

「あいよ。仕事お疲れ様。今日は悪酔いしてへんみたいでよかったわ」

「たまにしか悪酔いなんてしないよー。僕だってプロなんだから」

「せやなぁ。あんなにべろんべろんになってたら仕事になんてなれへんわな」

チェシャ猫のような人の悪い笑みを唇に浮かべ、奏ちゃんはグラスを揺らしてみせる。ローテーブルの上には賽の目に切り、可能な限り種を除いた西瓜が置かれている。間接照明の暖かな光に、西瓜が優しい影を引く。

「なんか、帰ってきた時に『おかえり』って言ってもらえるのは幸せだねえ」

へへへ、と笑って眼鏡を外すと、一日の終わりを感じて、思わず吐息が漏れた。

「腹一杯やないなら、西瓜食べや。利尿効果あるから、酔い覚ましになる」

「ありがとう」

そんな些細な気配りが嬉しくて、無造作に西瓜に突き立てられた爪楊枝に手を伸ばした。

「僕、明日はお休みだから、ちょっとだけお喋りしていい?」

「うん。ええよ」

 頷いた奏ちゃんはグラスを一度ぐるりと回し、透明な液体を少しだけ口に含んだ。お店のそれとは違う、冷凍庫の四角い氷がタンブラーの中でカラカラと音を立てていた。透明の液体からは甘い香りがする。グラッパの匂い。お店ではまず飲むことのないアルコールで、葡萄が原材料になっている。ブランデーはワインを蒸留して作られるけれど、グラッパはワインの搾りかすから作ったアルコールを蒸留している。

僕は水を片手に西瓜をさりさりと食べ、奏ちゃんはグラッパを舐めていた。

伏せられた切れ長の瞳の奥の感情は僕には読み取れなかった。

「奏ちゃん、グラッパグラス、今度買ってくるよ」

「別にいらん」

カラン、と溶けた氷がタンブラーの中で崩れた。

もったりとしたクリームのような空気が満ち満ちて、僕はなんだか息苦しく感じる。息継ぎするように急いで僕は言葉を探す。

「あのね、今日お客様から相談されたことがあってね」

「うん?」

 ソファの上で膝を抱えると、僕は数時間前に雛子さんから聞いた話を奏ちゃんに話し始めた。時折相槌を打ちながら、奏ちゃんは少し眠そうな顔をして僕の話を聞いている。

『ホトトギス』と云うお店のこと。美味しいケーキを作る真面目な店員さんが急に来なくなってしまったこと。まとめてしまえば、なんて事のない話なのに、違和感を感じるのはなぜなんだろう、と僕は奏ちゃんに説明しながら、もう一度自分自身でその内容を咀嚼していた。

「って云う話なんだけどね、なんとなくおかしな話なんだよね……」

グラスに残っていたミント水を飲み干し、僕は腕組みする。

なんなんだろう。この違和感は。

「しかし、ホトトギスっていう店の名前も珍しいな」

「え?なんで?」

「ホトトギスって云うたらあれやろ。托卵」

奏ちゃんはあからさまに厭そうな顔をしてタンブラーを煽る。托卵、というのは自分の卵を他の鳥に育てさせる習性のことで、托卵されてしまった鳥は、自分の実の子ではない雛を、自らの子と信じ、必死に育てる。自分より明らかに体の大きな雛に鶯が餌を健気に運ぶ様は、子供向けの図鑑などにも載っていたはずだ。

「あぁ。鶯の卵を蹴り落として自分の卵を置いていくあれだね」

「そんな鳥の名前を店につけるってどうなんよ?」

まさしくそんな托卵性をモチーフにした小説があったなぁとふと前に読んだミステリを思い出す。あまり気持ちのよくないミステリだった。確かドラマだったか映画だったかになっていたけれど。題名は秀逸だった。奏ちゃんはタンブラーをテーブルに置き、ぐんにゃりとソファに身を沈めた。まるで大きな黒猫だ。

「どうせ鳥の名前にするんやったら、もうちょいええ名前ありそうやん。へビクイワシとか」

「えー、それこそ絶対にないでしょう」

僕は、ソファに一体化しそうなほどに脱力した奏ちゃんの真っ黒い髪を撫でた。少し硬い真っ直ぐな髪の毛は、するりと指からすり抜けていく。闇色の瞳が一瞬僕を睨んで、ふい、と夜に逸れた。大きな猫と僕。少し迷惑そうにしながら撫でさせてくれている猫は、本当は何を考えているんだろう。心の底から嫌ならばこの手を引っ掻いて今すぐここを逃げ出すことくらい容易いはずなのに、それでも撫でられることを受け入れてくれているのは、寛容なのか怠惰なのか。それとも。

「とりあえず、奏ちゃん。明日一緒にそのお店に行ってみよ?」

奏ちゃんは、うん、とゆるく頷いた。





 S駅からJRに乗って二駅。

真昼の日差しが眩い。昼日中の電車の長い座席には数名ずつの乗客が腰掛けていた。   

 僕と同じような夜職なのだろうスーツを着た男性はうたた寝をしていて、こっくりこっくりと電車の揺れに合わせ船を漕いでいる。  

赤いフレームの眼鏡をして髪を一つにくくった女子学生は、論文らしきコピー用紙の束に目を落とし時折ボールペンで何かメモを取っている。

リクルートスーツの学生たちは、ガヤガヤと今までの戦果を語り合っている。おいおい、壁に耳あり障子に目あり、どこでその会社の人が聞いてるかわからないよ?と心の中で僕はひっそりと冷や汗を拭う。

東京も元々は下町だったんだ、と感じるような古めかしい縮の七分袖を着たお婆さんは皺だらけの顔をほころばせ、隣に座らせた孫だかひ孫だかを愛おしげに見つめている。三歳くらいの女の子はその祖母の暖かな眼差しの中、あやとりをしている。

 僕は一通り車内の人間観察を楽しんでから、隣に座る奏ちゃんに目をやった。奏ちゃんはぼんやりと車内ばりの広告を眺めている。まっすぐで短い睫毛が時折瞬く。

「案外、平日の昼間でも人おるんやな」

僕の視線に気づいたのか、ふいっとこちらを振り返り、意外そうに呟く。

「そうだねえ。平日休みの人もいるし、いろんな人がいて、面白いよね」

「平日の昼間なんて、休みになることなかったし、なんや不思議な感じがするわ」

「たまには、満喫してよ。お休みも」

「ま、単なる失業者。ニートなんやけど」

「あ、それは違うよ。ニートは働く意思がない働いてない人。奏ちゃんは働く意思のある働いてない人だから、失業者だよ」

「綾人……おまえ、昔から時々、ほんっとうに酷い」

夏の名残の積乱雲が窓の外に見える。それでも、空は真夏のそれとは違って、少しだけ白みがかっていて、もう夏は終わったんだよ、と教えてくれる。

 駅の改札を抜けると、どこかで蜩が鳴いていた。

「蜩の声ってさ、なんかものすごく切ない気持ちになれへん?」

「わかる〜。あれって不思議だよねぇ。でも、日本の古典文学では、蜩と蝉がほぼニアリーイコールの扱いなんだよね。アブラゼミと同じ扱いにされるのはどうなの?って思ったことがあるよ」

「確かに。あのうっさい声と蜩のこの声一緒にされんのはいただけへんな」

真昼の日差しは容赦なく照りつけ、クーラーの効いた車内から感じた感傷ごと汗に変えて流し去っていく。Tシャツにジワリと汗が染みた。

「ねー。奏ちゃん〜。暑い〜」

「アホか。夏なんやから当たり前や」

「えー。もう九月なんだから秋だよ」

「こんだけ暑かったら暦はさておき夏やろ」

ぶうぶうと文句を垂れる僕を一発どつき、奏ちゃんは不意に立ち止まった。

「ていうか、俺、道知らへんのやけど、この道であってんの?」



 古びた木製の扉を開けると、中から吹き出した冷気が駆け抜けた。カランと昔懐かしいカウベルが鳴る。これって、今でいうところのコンビニで自動扉が開くと鳴るあの音と同じように、来店を知らせるためのものなのだろうけれど、味気ない電子音より遥かに耳に心地よいと思う。

磨き上げられたカウンターの向こうに、やはりどこからどう見てもハンプティダンプティそっくりなマスターが居た。名前は確か、円山さん……だったかな、と先日雛子さんから仕入れた記憶を辿る。つるりと禿げ上がった頭がたっぷりと肉のついた体の上にちょこんと乗り、体の割に短い手足で忙しく動き回る様はやっぱり童話の中の卵男を彷彿させた。そして今日も……件のひょろ長い方の青年は居ないようだった。

「こんにちは。お邪魔します」

なんとなく作ってしまった営業スマイルのまま、会釈を一つして店内に体を滑り込ませる。この前連れて来てもらった時には、店内をよく観察する余裕もなかったのだけれど、ハンプティダンプティはこの喫茶店をとても大切にしているのだろうな、ということに僕は気づく。遠目にもきちんと手入れされているのがわかるカウンターは、大きな一枚板でできていて、ただ綺麗に磨かれているだけではなく、長い年月をかけ育て上げられてきたと思しき、美しい木目が深い色合いの中に浮かび上がっていた。棚に並べられたコーヒーカップも一客づつ異なるもので、それらも毎日磨かれているのだろう。全てを毎日使うはずもないだろうに、全く埃も積もっていなかった。床も同様に、角の部分にも埃は残っていなくて、毎日このハンプティダンプティが丁寧に掃除をする姿がふっと目に浮かんだ。 

大きなフラスコを二つくっつけて砂時計のようにした水出しコーヒーの装置が二つ並べられ、ぽたり、ぽたり、と一滴ずつ褐色の液体が抽出されている。

「いらっしゃいませ。カウンターでよろしいですか?」

柔和な笑みを浮かべハンプティダンプティがカウンター席を掌で示した。十分に空調は効いているのに、卵男は額にうっすらと汗をかいていた。

「はい。カウンターが嬉しいです」

ね、と奏ちゃんを振り返ると、彼は目を輝かせて水出しコーヒーの装置を見つめていた。

「綾人、あれええなぁ。絶対美味しい」

嬉しそうな様子の奏ちゃんはまるで子供みたいで、椅子を引いてあげると、ストン、とそこに腰掛けた。その隣の椅子に腰を下ろし、メニューを開く。厚紙の表紙がついたメニューのケーキ一覧には『ただいまお休み中』と手書きのメモがセロハンテープで貼り付けられている。水城君はやはりまだお休みしているようだった。

店内にはヴィヴァルディの四季が控えめに流れている。夏の楽章の仄かに切ない旋律がキラキラと光を反射する。

「俺、あれ飲みたい」

メニューを広げて目の前に置くと、それを見もせずに奏ちゃんは水出しコーヒーを指差した。その様子に、ハンプティダンプティが嬉しそうに身を乗り出す。

「うちのお店で一番のおすすめなんです。ああして一滴一滴丁寧に抽出してるんですよ。氷を入れないで飲めるように、抽出したものを冷やしてお出ししております。豆も酸味が立ちすぎないようにマンデリンベースにコロンビアをブレンドした自家製ブレンドを使っております。是非、飲んでみていただきたいですね」

「俺、ほなそれと、なんや甘いもんも食べたいんやけど、あります?」

亀のように首を伸ばし、ハンプティダンプティと顔を突き合わせたまま、奏ちゃんが云った。途端にハンプティダンプティの笑顔が曇る。

「今は出来合いのクッキーくらいしかお出しできないんですが」

「ケーキが美味しい、て聞いててんけど、今は作ってはれへんの?」

「はい……ちょっと、ケーキ担当のスタッフが体調を崩してしまって……」

「マジか、めっさ食べたかった」

心底悲しそうな顔をしたハンプティダンプティが哀れになる。奏ちゃんは今日この店でケーキを食べられないことを知っていた。それでああいう振りをする辺り、本当に小悪魔……というか実は悪魔ではないかと思う。

一回り小さくなったようなハンプティダンプティがカウンターの向こうで水出しコーヒーを準備し始める様子に、僕も同じものを、と声をかけた。

目線を上げたマスターが「あ」と声をあげる。

「先日、真宮さんとご一緒にいらして下さいましたね。気がつかずに申し訳ございません。ご来店ありがとうございます」

人のいい笑顔が今は少しばかり痛々しい。

「はい。先日いただいた水出しコーヒーとチーズケーキがとても美味しくてまた来ちゃいました。今日はあのすらっとした方はいらっしゃらないんですか?」

ダメ押しのように僕は尋ねる。

「ええ……一週間ほど前から休んでいるんですよ」

ハンプティダンプティはするりと目を逸らし、言葉を濁した。それきり視線を合わせようとしないハンプティダンプティの動きを僕はじっと目で追った。白いシャツの上に着たパツパツのカフェベストのボタンは今にもはち切れてしまいそうだ。カフェエプロンの紐も前に回せないのか、後ろでくくられている。肉付きの良い手で後ろの棚から輸入品と思しきクッキーの赤い箱を取り出して、カウンターに無造作に置く。成城石井あたりで見かけるやつだなぁ、とぼんやり眺める僕の目の前で、箱から同じ色をした個包装のクッキーを取り出し、皿に三枚並べた。白っぽい皿はよく見ると陶器のようで、ぽってりとした質感の満月みたいなお皿だった。次いで、水出しコーヒー用のグラスを冷蔵庫から取り出し、カウンターに並べようと上げた彼の視線を絡めとると、ハンプティダンプティは困ったように目尻を下げた。

「なんですか?男前にそんなに見つめられると、男の私でも困りますよ」

あからさまな作り笑い。僕もお返しに満面の営業スマイルを浮かべてみせる。ハンプティダンプティは心底困った様子で手にしたグラスを大切そうにカウンターに置いた。

「嫌だなぁ。本当に何もないですよ。……何もないのに休んでいるから困ってるんです」

「ほんまに、なんもなかったん?」

唐突に奏ちゃんが横から言葉を差し挟んだ。低く静かな声が僕とハンプティダンプティの間にするりと忍び込む。決して大きな声ではないのだけれど、有無を言わせぬような、しんとした響きには嘘をつけばすぐにでもバレてしまうのではないかと、そんな気持ちにさせる威圧感があった。事実、ハンプティダンプティは一瞬「えっ」とでもいうように動きを止め、それから短い眉を寄せてひとつ向こうの席に悠然と座ったスーツ姿の女性に目をやった。

「豊田さん、何かありましたっけ?」

救いを求めるように見つめられた女性は突然名前を呼ばれたというのに驚いた様子もなく「そういえば…」と呟いた。僕たちが店に入って来たときに読んでいた新本格ミステリの名作は人の字になってカウンターに置かれている。いつの間にかこちらの会話に聞き入っていたようだ。

優美な曲線に縁取られた紫色のフレームが個性的な年齢不詳の女性に僕は視線を移す。目があうと軽く会釈を返してくれた。奥の席には黒いビジネスバッグが置かれている。仕事の合間の息抜きに喫茶店でお茶を飲む会社員、といったところか。

「そういえば、水城さんが来なくなる前の日じゃなかったかしら?」

頬杖をついたまま、豊田と呼ばれた常連らしい女性は記憶を辿るように目を瞬かせた。眼鏡の奥の瞳を細め、思索を巡らせる様子はなかなかに理知的でこの喫茶店に溶け込んでいた。

「前の日?」

ハンプティダンプティもつられて瞳を細める。もっとも小さな目の奥の瞳が細められ糸のようになったところで、理知的、というよりは笑っているようにしか見えない。

「水城さんのスペシャリテ」

「ああ……そう言えば……」

卵男は頷き、眉間に皺をよせた。

「来なくなってしまう前の日に、水城君……えっと、うちのスタッフなんですが、彼がいつもより凝ったケーキを作ったんです」

「いつもより凝ったケーキ? 普段と何がちごたん?」

「うちの売りはこの水出しコーヒーとチーズケーキなんです。水城君はパティシエ見習いをしていたことがあって、彼の作るケーキはなかなか美味しいんですが……、あの日はそのチーズケーキに一手間加えたものを作っていたんですよ。」

「へぇ。それ、美味しかったん?」

「ええ。とても!」

豊田女史が間髪入れずに答える。

「ベイクドチーズケーキの間にマンゴーピューレを練りこんだレアチーズケーキが挟み込まれていたんです。切り分けられたケーキは一つずつ真っ白なクリームでデコレートされていて、それなのに全然しつこくないんです。ベイクドチーズケーキがほろほろと口の中で崩れて、甘酸っぱいレアチーズケーキと絡んで、最高でした!」

「ええなぁ……」

うっとりとケーキの味を語る豊田女史につられたように、奏ちゃんもうっとりと宙を見つめる。

「そないに美味しいケーキを作って、なんで来うへんようになったんやろ。その人。」

「あんまりにも美味しいケーキを作りすぎて、燃え尽きちゃったのかしら?」

 奏ちゃんの呟きに女史が首をひねりながら答える。

確かにそれも一理あるのかもしれない。よく演奏家と呼ばれる人種が最高の演奏をした後に「これ以上の演奏はできない」と暫く演奏自体をできなくなってしまうことがあるという。それと同じようなことがあったとしてもおかしくはない。けれど、彼は別にプロのパティシエではないし、彼のケーキがなければ店自体の営業に差し障りがある状況で、そんなことをするだろうか?何年も勤め続けている店を無断で休むことがあるだろうか?

「そんなことはないです。水城君はとても真面目な青年で……」

僕の中に浮かんだ疑問符を裏打ちするようにハンプティダンプティが続けた。

「確かにあのケーキはとても美味しかったです。それに、水城君があんなに凝ったケーキを作ったのは初めてのことでした。わたしはそれが新しいチャレンジだと思いました。彼自身、あのケーキには満足していたようで、皆さんが「美味しい」と言ってくださるたびに嬉しそうにしていました」

それが何故……、とハンプティダンプティは無意識に続ける。

カウンターの上で出すタイミングを失ったグラスに水滴がつき、一筋の雫となり滴り落ちた。

「そういうスペシャルなケーキは今までに作ったことってなかったん?」

「そうですねえ……何年か前のクリスマスにベリータルトを焼いていましたけれど。基本的には生クリームでデコレートするようなケーキを作ることはなかったですね。その日に売り切れなければ味が落ちてしまうので」

「確かに。それは由々しき問題やもんな」

嘘をついている様子はなかった。当初、その話題に触れることを避けようとさえしていたハンプティダンプティは、奏ちゃんのペースに乗せられたのか、或いは、豊田女史の存在に後押しされているのか、やや饒舌とも思えるほどあれやこれやと僕達の問いに答えてくれている。この人は、元々、人のいい人間なのだろうな、と僕はぼんやりと思った。不思議の国のアリスに出てくるハンプティダンプティはイライラとしていて甲高い声で話す、いささか癇に障るタイプのキャラクターだったけれど。それとも、このリアルハンプティダンプティにもそんな隠された暗い側面があるのだろうか。

「ほな、なんでその日に限って水城さんはデコレーションケーキを作らはったんやろか?」

腕組みをした奏ちゃんが唸る。

「何か記念日やったとか……?」

「いいえ。特に何も」

何故、彼はその日に限って今まで一度もしたことのないことをしたのか。そして、その日を境に無断欠勤するようになったのか。問いかけた言葉は当て所のない波紋を水面に残すばかりで、茫洋とした謎は深まるばかりだ。

「そのケーキは一台だけやったん?」

「そうです。ワンホールだけ水城君が作りました。あの日は他にはガトーショコラとオレンジタルトがあったかな」

「うっわ。どれも美味しそうやね」

「はい。水城君のケーキはどれもとても珈琲にあうのです」

「それは何としても食べなあかんな」

再び奏ちゃんが唸る。

「なんでその人はその日に限ってそないなもん作ったんやろ……なんで、来ぉへんようになったんやろ。そんな特別なことをするには理由があるはずやんな。それやのに、そのあとに来おへんようになったなんて矛盾しとる。……他にはなんもなかったん? お客さんと喧嘩したとか、誰かが不味いて云うたとか」

「お客様と喧嘩をするなんてとんでもない。水城君はどちらかというと気の弱い引っ込み思案な方でしたから。ケーキが美味しかった、と言われても「ありがとうございます」としか言えないような子です。それに、あのケーキは本当に、本当においしかったんですよ」

「そっか。俺とはちゃうねんな」

奏ちゃんはケラケラっと笑って、首を傾げる。乾いたサラサラの黒い髪が頭の角度に流れて日焼けしていない白い首筋が覗く。

「……ん、そう云えば、あの日、だったんじゃないかしら?」

豊田女史が、眼鏡のフレームを指で軽く持ち上げる。レンズがキラリと窓越しの光を反射した。

「あの女の人が急に出て行っちゃったのはあの時じゃなかった?」

ねえ、とハンプティダンプティの方を伺うと、卵のような男は「あっ!」と小さく声を上げた。

「そうです、そうです! あの日でした。佐々井さんが急にお店から出て行ってしまったのは」

「佐々井さん?」

初めて聞く名前に僕は思わず口を挟む。

「ええ。うちの常連さんで。そういえば……、佐々井さんもこの一週間ほどお見えになっていません」

「なにがあったん?」

奏ちゃんが僕の向こう側にいる豊田女史の方を伺うように身を乗り出した。理知的を絵に描いたような女史はおそらくすっかり冷えているだろう珈琲を一口飲み「ええと」と言葉を探す。

「私もよくこのお店で見かける方が、急にお店を出て行ってしまったんです。いつもはかなりゆっくりと過ごしていたと思いますけれど。あの時は、ケーキを食べ始めた直後に、急に青い顔をして」

「青い顔? せやけど、ケーキはめっちゃ美味しかったんやろ?」

「ええ。とても。だから、どうしたのかな、と私思ったんです」

「んー……」

切れ長の目を細めた奏ちゃんは、何もない中空を睨むように見つめる。

「それっていつ?」

「ええと、金曜日だったと思います。確か……十四時頃。私、あの日はプレミアムフライデーを呪う会ひとりで開催していたので」

豊田女史がにっこりと微笑んだ。今日は火曜日。雛子さんから話を聞いたのが月曜日。昨日で十日目、と言っていたから、計算はあう。

「その人もじゃあ、プレミアムフライデーだったのかな?平日の昼間に喫茶店にいたってことはさ」

 豊田さんのプレミムフライデーへの呪いが顔も知らない佐々井さんという女性に襲いかかる様を想像して、背筋がぞくりとする。それじゃあ怪談、いやホラーだ。

「ちゃうやろ。あれは確か十五時までで退社やったと思うで」

「佐々井さんは平日の昼間にもよくいらっしゃっていました。あの日が特別というわけではありません」

マスターの言葉に四人揃ってうーん、と首を傾げる。店に他にお客さんがいなくてよかった。さもなければ、僕たちは営業妨害もいいところだ。

「平日にお休みのお仕事なんて色々あるしね。僕もそうだし」

「普段はそんな急に出て行くようなことなんてないんやろ?その人」

「はい、大体、ゆっくりと珈琲を召し上がって、水城君とも時折話したりしながら、一時間ほどは過ごして行かれますよ」

「ケーキはいつも頼まはるの?」

「ええ。大抵、チーズケーキとブレンドコーヒーを」

「で、その次の日からケーキを作るにーちゃんが来ぉへんようになった、と」

「そういうことに……なりますね」

ハンプティダンプティは沈鬱な面持ちになる。

「正直、彼のことは非常に心配です。長い間つとめてくれていて、家族のようなものです。それが何も言わずに来なくなってしまうなんて……。わたしのことを信頼してくれていないのか、というショックもありますし、急に店を休まれて困っているというのも事実です。うちのバイトは彼一人なので。本当に何があったんだか、わからないんです。このまま仕事を辞められてしまっては、寝覚めも悪いし、彼のようにケーキを作れるスタッフが次も見つかるとは限りません。なんとか帰ってきてもらいたいんですが……」

思わず、といったようにハンプティダンプティの口から本音がポロリと吐露される。その顔には嘘偽りない困惑が満ち満ちていた。

「とりあえず、俺もその人のケーキ食べたいし、出てきてもらわな困るな」

よし。と、何事か決意したように奏ちゃんは一度深く頷きそれから言った。

「それよりマスター。俺の珈琲。まだやろか?」




 奏ちゃんと一緒に『ホトトギス』を訪れてから一週間。道端の向日葵は疲れ切ったように焦げた顔を地に向け、暴力的なまでの太陽の光は少しその陽射しを和らげているようだった。こうして日常は過ぎ、秋が近づくのだ。

例によって例のごとく、というか、僕は雛子さんと同伴するべく『ホトトギス』の最寄り駅改札口に立っていた。雛子さんのリクエストで今日は『ホトトギス』で1970年代のカップル気分を味わってからお店に行きたい、のだそうだ。S駅のそばにある『ルノアール』ではいけないのか?と思ったけれど、その後どうなったかも気になるし、と出勤前にこうして僕は足を延ばすに至った。

 今日の雛子さんはレトロな幾何学模様のワンピースにエナメルのサンダルを履いている。格好まで1970年代を模倣しているようだ。僕は、というと、数日前に雛子さんがプレゼントしてくれた体にぴったりとしたラインのヴィンテージスーツを着せられていた。見知った街並を歩いているのに、服装が違うだけで、まるでタイムトリップしたような気分になる。僕が今着ているような少し派手な柄のモッズラインのスーツも1970年代に流行していたそうだ。けれど、今こうして着てみても、意外に古臭さを感じないのは不思議だ。

「このまえ見た映画の舞台がね、1970年代で、すごく素敵な恋物語だったの。さすがにわたしも1970年代に青春を過ごしたわけじゃないし、ちょっとあこがれちゃってね」

うふふ、と僕の腕に女性らしいしなやかな手を絡めて雛子さんは笑う。

「レンジ君もそのスーツ似合ってるわ。1960年代はヒッピーファッションが流行っていたんだけれど、1970年代にはビートルズが着ていたようなそういうスタイリッシュなモッズスーツが流行したんですって。今でも十分に格好いいわよね。つまらない無個性なデザインのスーツを右に倣えで着るより、余程素敵だわ」

「ありがとうございます。雛子さんが見立ててくださったから」

「レンジ君を着せ替え人形にできるのは私の特権だもの」

スキップしそうな足取りの雛子さんからは今日も金木犀の香りがした。

 一週間ぶりの扉を雛子さんの為に開けると、奥から「いらっしゃいませ」と声がした。その低くよく通る声に、僕は我が耳を……いや、その光景に我が目を疑った。

「え? ええ? 奏ちゃん。なんでここにいるの?」

僕は雛子さんと同伴中なのも忘れて思わず素に戻り、カウンターの中にいる人物を二度見してしまう。そこには確か二時間前に我が家を出る際にいってらっしゃい、と手を振っていた我が家の家政夫氏がいた。

「レンジ君どうしたの?入りなさいよ」

「……あ、はい。すいません。ちょっとびっくりしちゃって」

怪訝そうな雛子さんが僕の手を引く。仕事モードにうまく切り替えられないまま店内に身を滑り込ませると、カウンターの向こうでカフェエプロンをつけた奏ちゃんがニタァっとチェシャ猫のような笑みを浮かべていた。

「いらっしゃいませ。カウンターにしはりますか?テーブルがよろしいですか?」

性悪猫がニコニコと明らかに面白がっているのを肌で感じる。奏ちゃんに観察されながら仕事をするなんて、どう考えても罰ゲームだ。「テーブル席で」と言おうとした僕の言葉を遮るように、雛子さんが笑顔で「カウンターにするわ」と言い放った。

奥から顔をのぞかせたハンプティダンプティが僕と雛子さんに気づき、その短い手足をパタパタと動かしながらやって来た。

「ああ。いらっしゃいませ。真宮さん。それから、そちらも。先日はありがとうございました」

雛子さんは椅子に浅く腰掛け、にっこりと微笑みを返す。それにひきかえ、僕はどうにか引っ張り出した営業スマイルを顔に貼り付けたものの、何をどう言っていいものやら言葉を見つけられずにいた。

「神室君がいて、びっくりしたでしょ?」

「あ、はい」

ぎこちない動きでどうにか椅子に座ると、性悪猫が僕と雛子さんにおしぼりを差し出す。雛子さんは興味津々、と言った様子で奏ちゃんを見つめていた。

少し伸びた真っ黒な前髪に切れ長の目は半ば隠されている。それを鬱陶しそうに首を一度振り払いのけると、僕たちに向かい丁寧にお辞儀をする。細身の体にまとった真っ白いシャツに黒いカフェエプロンがひどく似合っている。いやいや、そこじゃない。そうじゃない。問題はなんで奏ちゃんがこの店で、カフェエプロンをつけて、カウンターの向こう側にいるか、だ。目を白黒させながら、落ち着け、と自分に言い聞かせる僕に、奏ちゃんは、またぞろニタァっと笑いかける。

「弟子入りさせてもろてん」

「弟子入り?」

「せや。この前の珈琲、めっちゃ美味しかったやろ。あれから珈琲淹れるコツを知りたなって毎日通っててんけど、マスターも忙しそうやし、ちょっとだけ手伝わせてもろてるんや。臨時のバイト見習いやな」

心臓がドキンドキンと大きな音をたてている。別に後ろめたいことなんて何もないのに、頬が熱い。別段、僕はホストであることに引け目なんて感じたことなどないのだけれど、何故だか奏ちゃんにお客様と一緒にいるところを見られてしまったことにとても動揺していた。実際のところは、僕が奏ちゃんを見つけてしまったのだけれど。

「レンジ君のお友達?」

雛子さんが僕の顔を覗き込む。あどけない少女のような笑みは……奏ちゃん同様、明らかに面白がっていた。

「はい……。えっと、友人の神室君です」

「神室君か。よろしくね。真宮雛子です。レンジ君に入れ上げてるおばさんです」

綺麗に爪を磨いた指を唇に軽く当て、リスのようにクスクスと笑う。僕にはその爪が魔女の鉤爪のようにさえ見える。奏ちゃんと雛子さん……一歩間違えたら恐ろしい化学反応を引き起こしそうな取り合わせに僕は眩暈すら覚える。

「マリメッコですか?」

「そう。今日は1970年代風のデートごっこをしたくて」

「『レンジ君』が一昨日、ファッションの歴史、とかいう本を読んでいたのはそういうわけだったんですね」

バラさないでよ……と言いそうになるのを慌てて飲み込む。別にバラされたところで、雛子さんにとってはマイナスのポイントにはならないはずだ。

「もう〜。レンジ君てば、そういうところがマメで素敵なんだから」

「あ……あの。雛子さん。何を召し上がりますか?」

僕は二人の会話に冷や汗が出そうになるのをなんとか抑え、雛子さんにメニューを差し出す。

「ああ。ごめんなさい。ええと、そうね。ブレンドにするわ」

「かしこまりました」

奏ちゃんが恭しく、いささか演技めいた仕草で頭を下げる。

「……僕も同じものを……」

「かしこまりました。『レンジ』さん」

そして奏ちゃんはもう一度面白そうに、ニタァっと笑った。

あああ。もう。最悪。僕は心の中でこれ以上ないほど深くため息をついた。



 機械式のミルで豆を挽くと濃厚な珈琲の香りが立ち込める。奏ちゃんは真剣な顔でマスターの一挙手一投足を追いかけている。ハンプティダンプティは体の割にスマートな動きでミルからネルドリッパーへと粉を移す。温度計のついた口の細いカフェケトルを片手に持つと、ハンプティダンプティは魔法使いのような精密さでコーヒーをドリップし始める。細い糸のようなお湯がドリッパーに注がれると、香ばしい珈琲の香りが更に艶めきを増し、店中に広がる。僕は溜めていた息を吐き出し、芳醇な珈琲の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

「お湯の温度もね、きちんとしてあげないと雑味まで出てしまうんです。沸騰したてのお湯がいい、と誤解している方が多いですけれどもね」

『弟子』の熱い眼差しに、ハンプティダンプティが滑らかな口調で解説を添える。

「焙煎の度合いや粉の挽き方でどれくらいの速さでどれくらいの温度のお湯で淹れれば最も美味しく抽出できるかが変わります。例えば、うちの場合、フレンチローストの中粗挽きなので、七十五度から八十度のお湯でさっと淹れるのが一番美味しい」

「なるほど」

コーヒーカップを背中側の棚から出して並べながら、奏ちゃんが感心した様子で頷く。

「いやいや。それは長年やってますからねえ。神室君も練習あるのみですよ」

丸い顔をニコニコと綻ばせたハンプティダンプティが僕と雛子さんの前に珈琲カップが置く。そこには一口サイズのブラウニーが添えられていた。

「そういえば、水城君はまだ出てこないの?もう半月くらいになるんじゃない?」

ブラウニーを指でつまみあげて雛子さんはマスターへと視線を投げた。このブラウニーは……昨日、奏ちゃんがうちで焼いていたものだろう。そういうことだったのか、と僕は妙に合点がいった。

「あら。これも美味しい。これ、どこのお店の?」

「はいはーい。俺が焼きましたー」

奏ちゃんがニコニコと人畜無害、を装った笑顔でおどけて手を挙げる。

「あなたやるじゃない。水城君のケーキには及ばないけれど、美味しいわ。これ」

「ありがとうございます」

小首を傾げてみせる奏ちゃんが大きな大きな猫を被っているのが見える。うう……胃が痛くなる。

「水城さんという方のケーキはとても美味しかったと聞いてます。俺も食べてみたいなぁ……。なんとかしてもう一度お店に来てもらいたいんやけど……」

悲しげに眉を寄せ……る奏ちゃんは、どう見ても嘘っぽい。ホストの目を誤魔化せると思うなよ! と僕は二人の会話の成り行きをハラハラしながら見守る。

「本当にそうよ! わたしも水城君のケーキがないと納得できないわ。ねえ、マスター。その後進展はないの?」

「うーん。あるような……ないような……」

「どっちやねん」

奏ちゃんが小気味の良いツッコミを入れる。流石、関西人。

「あれから一応何回か家に行ってみたんだけれど、ドア越しには返事をしてくれるようにはなったんだ。それがね……」

マスターが言葉を紡ごうとした時、ドアのカウベルがカラン、と鳴った。

西日の中には、一人の女性が立っていた。

「こんにちは」

真っ白なワイドパンツにサマーニット。栗色に染めた髪をシュシュで一つにまとめた女性は日傘を畳みながら店に入って来た。見覚えのない少しふっくらとした顔。奏ちゃんと同じくらい白い肌。いでたちの割に、バッチリと施されたアイメイクがややアンバランスだ。少なくとも、夜の街ではあまり見かけないタイプの女性をさらりと目の端で観察し、僕は飲みかけたコーヒーカップをなんとはなしにテーブルに戻す。彼女はサマーニットの七分袖を気にするように手で何度か整えながらぎこちなく会釈した。

「いらっしゃいませ。お久しぶりですね。佐々井さん」

ハンプティダンプティの言葉に、僕は声をあげそうになった。それは、水城さんが来なくなる前日、店を急に飛び出していった、という女性の名前だったからだ。

「ええ……。先日は急にすみませんでした」

彼女はそう言いながら、店内をキョロキョロと見回して、雛子さんから一つおいた奥の席へと腰を下ろした。すかさず奏ちゃんが彼女におしぼりを手渡す。

「いらっしゃいませ。初めまして」

にっこりと極上の笑顔を彼女に差しむけるあたり策士だ。しかし、性悪猫の笑顔に彼女は困惑したような表情を浮かべる。

「え。新しい方ですか?」

「いいえ。俺はただの押しかけ弟子です」

やんわりとした関西訛りで奏ちゃんが答えると、心なしか彼女はホッとした様子を見せる。男の僕から見ても男前の奏ちゃんの笑顔に困惑するなんて、なんだか少しおかしい。ささやかな引っかかりを覚えつつ、僕は彼女の様子をぼんやりと眺めた。店内を落ち着きなく見渡す様は何かを探しているかのようだ。

「どうかしはりました?」

「いえ、あの……なんでもないです。」

水出しコーヒー、と細い声でオーダーしてからメニューを開いた彼女はあからさまにその表情を曇らせた。

「ケーキは……ないんですか?」

「ああ、はい。今、ケーキ担当のものが休んでおりまして」

あの日の僕たちの問いに答えた時のように、ハンプティダンプティがせわしなく視線を宙にさ迷わせながら返事を返す。

「背の高い方ですよね?」

「はい。少し長く休ませていただいておりまして……」

マスターの視線は更にうろうろと動き回る。別段そこまでうろたえる必要などないだろうに、と僕はぼんやりとその視線の行き先を眺めた。様々な人が世の中にはいるものだと思うけれど、この人は恐らくとても人から責められることに弱い人なのだろう。そして、自分が責められないために誰かを切り捨てることもできない、臆病で優しい人なのだろう。だって、もう半月も無断欠勤している水城さんをクビにすることもせず、ただ待ち続け、人から問われるたびにこうして狼狽えるのだから。

佐々井さんと呼ばれた女性は、マスターの言葉に一瞬目を見開いて、唇をパクパクと動かした。声にならない声が何事か呟いていた。

奏ちゃんはその様子をじっと見つめている。

冷ややかにさえ見える眼差しは彼らの真実を射抜こうとするかのようで、ああ、きっと奏ちゃんがお仕事をするときはこんな顔をしているのだろうな、と僕は少しだけ見惚れた。

「あの子、この店でよく会うの。きっと水城君狙いなのね」

不意に、雛子さんが僕の耳元に触れるほど唇を寄せて、小声で囁いた。なるほど、と彼女の先刻からの不思議な挙動に合点がいった。奏ちゃんと水城君では随分とタイプが違うし、恋する乙女には男前の微笑みもひょっとこの笑顔ほどの価値しかない、のかもしれない。 

僕は奏ちゃんの様子を盗み見ずにはいられないけれど、佐々井さんは奏ちゃんに視線をかけらほども向けようとしない。興味がないのだ。

「さっき神室君を見たときの顔、見た? ものすごくがっかりしてたじゃない? 水城君がいなかった。代わりに別のバイトの人がいる、えっ、彼は辞めちゃったの? そんな感じじゃない?」

「付き合ってはなかったのかなあ?」

「でしょうね。一方通行なんじゃないかしら?」

雛子さんの『女の勘』は確かに的を射ていて、僕は軽く頷く。付き合っていたのだとすれば、水城君がお店を休んでいることも、今日はケーキがないことも知っているはずだ。それを知らないのは、別れたからか、それとも、片恋だからか。いずれにせよ、彼女は水城君の動向を一切把握していないということになる。「背の高い方の」という言い回しも、もし彼らが恋人同士だったならば不自然だ。雛子さんの観察眼に僕は舌を巻く。

ヒソヒソと言葉を交わす僕たちをよそに、奏ちゃんは見るともなく佐々井さんの観察を続けている。不安げな色を瞳に浮かべカウンターの下でぎゅっと手を握りしめている彼女は今にも泣き出してしまいそうになるのを堪えるように眉根を寄せていた。ふっくらとした白い腕に黄色っぽい痣のようなものがいくつか覗いていた。不思議な色をした痣だな、と僕はぼんやりと眺める。

「お客様、ご加減でも?」

オーダーの準備をするマスターの脇から奏ちゃんが声をかけた。

ハッとしたように視線を上げ、佐々井さんは弱々しくかぶりを振った。透明のプラスチックのピアスが覗く。高校生が学校にバレないようにしていくような装飾性のかけらもないそのピアスときっちりと縁取られたアイメイクの乖離に僕は首をひねる。そういえば、あの濃すぎるくらいのアイメイクの割に、爪は短く、ネイルもしていない。アイメイクマニア……な訳はないよね。雛子さんの場合は、オーガニックの商品を扱う、というブランドイメージの維持のために、ナチュラルメイクに徹しているけれど……。

「……あの、いつもの方は、どこかお悪いんですか?」

絞り出すような声で、ようやく、といった風に佐々井さんが尋ねた。

「いえ……それが、特に事情は聞いていないんです……ケーキをお出しできず、申し訳ありません」

言いつつ、マスターが水出しコーヒーのグラスを彼女の前に置いた。佐々井さんは小皿にちょこんと置かれたチョコレートブラウニーを悲しそうに見つめた。

「ブラウニーはお嫌いでしたか?」

「……いえ……」

腕組みをした奏ちゃんはしばらくそんな様子を眺め、それからおもむろに口を開いた。

「失礼ですけれど、先日のケーキで、何かあったんちゃいますか?」

「え……ええ……でも、それは……」

「なんで急に店を出はったんですか?」

やんわりとした口調。それでも有無を言わせぬ威圧感で奏ちゃんが尋ねる。佐々井さんは困惑の色を浮かべ、僕、雛子さん、ハンプティダンプティ、と順に視線を巡らせる。助けを求めるような視線をするりと交わした雛子さんが僕の指に絡めた指をぎゅっと握る。 

黙って見ていろ、と言わんばかりの仕草に僕は唇を結ぶ。

「あの……私……」

そんな佐々井さんの様子を黙殺した奏ちゃんは、切れ味の良い刃物のような冷ややかな眼差しのまま淡々と言葉を続けた。

「その腕に残ってる痣。それ内出血ですよね? おそらく点滴か採血の跡。ちゃいます?」

「……えっ」

くっきりとしたアイライナーで縁取られた瞳を大きく見開き、佐々井さんはカフェエプロン姿のチェシャ猫を見つめた。

「病院に行くようなことが何か起きた。それも何回か注射やら点滴やらせなあかんようなことで。内出血の跡が黄色くなって消えかけてるんは結構日が経ってるてことやから、もしかしたら、あの日に出ていかはったことに関係あるんちゃうかなぁと思たんですけれど」

驚いたように唇を半ばぽかんと開いたまま、佐々井さんは奏ちゃんの言葉にあっさりと頷いた。

「はい……その通りです」

「あなたは水城さんのスペシャリテを口にしはってから、なんらかの体の異常を感じて慌てて店を出た」

「そうです……急に口の中が腫れてきたようなピリピリした感じがして、気分が悪くなってきたんです。どんどん呼吸苦が増悪してくるし、これはいけない、と思って急いで病院に向かったんです。午後診の時間帯でしたから、いまなら間に合う、と……」

「なるほどね」

ふぅん、と言いたげに顎をあげた奏ちゃんは僕に片頬で笑みかけた。

「ま、待ってください! うちの店が食中毒を出したっていうんですか?」

ハンプティダンプティが突然声を荒げ、奏ちゃんに掴みかからんばかりの勢いで駆け寄る。その勢いに動じる様子もなく、腕組みをしたまま、我が家の性悪猫は真夏には涼しさを提供してくれそうに冷たい眼差しを佐々井さんに振り向け、穏やかな口調で彼女に問いかけた。

「アナフィラキシーちゃいます?」

「アナフィラキシー?」

ハラハラとした様子で二人のやりとりを聞いていたマスターが怪訝そうな声を上げる。雛子さんもその言葉に首を傾げる。

「待って。アナフィラキシーってスズメバチに刺されて……とか、そういうやつよね? 確かに夏だから蜂は多いけれど。店の中で蜂に刺されたっていうの?」

思わず、といった風に雛子さんが言葉を挟む。佐々井さんは口を半開きにしたまま、突然語り始めたチェシャ猫を見つめている。

「そんなはずないです! 店に蜂なんていませんでしたし、佐々井さん、蜂に刺されたりしていないでしょう?」

パタパタと短い手足を落ち着きなく動かしながらハンプティダンプティが弁明する。つまらなそうにカウンターに半身を預けた奏ちゃんは、頬に手を当て、ニィッと唇の端をあげる。

「アナフィラキシーを起こすもんなんて、世の中に山ほどあります。例えば、小麦、牛乳。前に乳製品のアレルギーを持ってる小学生が……チーズやったかな……が入ってる給食を食べて、アナフィラキシーショックを起こして亡くなった、いうんがニュースになったこともありましたやろ?」

そういえば、数年前にそんなニュースがあった。あのときは確か、担任の教師の対応が取り沙汰されていて、確かに対応に問題はあったのかもしれないけれど、学校や教師に全責任を押し付けるような風潮に気持ち悪いな、と思った。アナフィラキシーというと、どうにも蜂の印象が強いけれども、それ以外にも色々あることがあの時大きく取り上げられていた。

「でも、いつも佐々井さんはケーキを召し上がっていました。うちのケーキはバターや小麦粉、ちゃんとした動物性の生クリームを使っていましたが、一度もアレルギーなんて起こしたことはなかったですよ」

早口でまくしたてるハンプティダンプティにひらりと片手を振って見せ、奏ちゃんは口許に手を当てる。マジシャンのようにしなやかな指先が夕暮れ時の喫茶店に魔法をかける。揺らめくようなヴァイオリンの旋律が奏でるG線上のアリア遠く聞こえていた。

「それ以外にもアナフィラキシーを起こす物質なんてたくさんありますよ。そう……例えば、ラテックスやトロピカルフルーツ。ちゃいます?」

ひやりとするほどに綺麗に奏ちゃんが微笑んだ。雛子さんの指がぎゅっと僕の手を握りしめた。佐々井さんは得体の知れないものでも見るような眼差しで奏ちゃんを見つめている。性悪猫は唇の端を軽く持ち上げ、鼻を鳴らす。

「ねぇ、佐々井さん。あなた、もしかして看護師ちゃいます? 手術室勤務経験のある」

佐々井さんがハッと息を飲むのがわかった。ハンプティダンプティは何が何やらといった様子で目を白黒させている。現実にそんなに落ち着かない仕草をする人を僕はみたことがなかった。そして僕はただただ見惚れていた。性悪のチェシャ猫そっくりな我が家の家政夫氏に。

「ラテックスとトロピカルフルーツは交差抗原や」

「交差抗原?」

どうにかこうにか話の流れに溺れまいとするように、ハンプティダンプティが短い言葉を投げる。ゆるゆると解かれ、流れていくこの小さな謎の中にプカリと木片のような質問が浮かび上がる。

「白樺の花粉症の人がリンゴやら梨やら食べると口や喉が痒くなる。これは交差抗原いうもんによるアレルギーなんよ。そもそも、生き物は自分を守るために、異物を除去しようとする働きを持つんや。それを利用したのがワクチン。暴走したんがアレルギー云う印象かな。例えば、インフルエンザワクチンてあるやろ?」

ちらりと流された視線に雛子さんが頷き返す。艶やかな眼差しで奏ちゃんは淡々と言葉を紡ぐ。

「ワクチン云うんは、予め、異物に似たもんや異物から毒性を除いたもんを体に入れて、体に敵を覚えこませるんや。体の方は、次にそれが入ってきたらすぐに攻撃できるように体制を整える。これが抗体や。インフルエンザのワクチンを打った人がインフルエンザに曝露……つまり、インフルエンザウイルスが感染しようとしたら、体の中ではその抗体が働いてインフルエンザを除去するように働く。もし、侵入を許したとしても症状が軽く済むんは、予めウイルスを倒す準備ができとるから早いこと倒せるからや。これが、いわゆる抗原抗体反応や。これに対して、アレルギーはある抗原に対して、過剰な反応を示すことで症状をきたしてしまうものを指す。花粉症かてそうやろ? 別に花粉なんて、俺らにとってなんの害もないもんや。それやのに、体はそれを異物と認識して攻撃対象と定めてまう。そうすると、体内には相手を敵やから攻撃せえよ、云う機構が構築されてまう。結果、アレルゲンが体内に入ることで、例えば鼻水が出たり、くしゃみが出たり、ひどなると喉がポンポンに腫れて息ができんようになって窒息したりすることになるんや」

一度軽く肩を竦めて見せると、雛子さんがクスッと笑った。芝居めいた仕草に空気が若干緩む。夕暮れの店内はオレンジ色に染め上げられていた。

「白樺の花粉とリンゴや梨、ラテックスとトロピカルフルーツ。これらにはそれぞれ構造式に似た部分があるらしくてね。体の側はそれに同じような反応をしてしまう。つまり、白樺の花粉症のある人は、リンゴや梨を食べた時にその抗原抗体反応が起きてまうし、ラテックスアレルギーのある人は、トロピカルフルーツを食べた時に抗原抗体反応……アレルギーを引き起こしてしまう。ラテックスアレルギーがあることを知ってか知らずかわかれへんけど、あのとき、あなたはスペシャリテに入っていたマンゴーでアナフィラキシーを起こした。ちゃいますか?」

「……その通りです」

驚きを隠せない様子のまま、佐々井さんは大きく頷いた。奏ちゃんは冷たい眼差しをほんの少し和らげて、ふわりと笑った。その恐ろしいほどに綺麗な笑顔にドキリ、と胸が鳴った。すぐにその笑顔は消え、奏ちゃんの凛とした横顔は逆光に影絵のように溶けた。

扉の磨り硝子に描かれた花の絵が、西日に美しく映し出されていた。

しばらく、世界から時間が失われたような静寂が店内に満ちた。

 沈黙を破ったのは雛子さんだった。

「やるじゃない。神室君。でも……そのことと水城君が来なくなったことと、どう関係があるというの?それに、なんで彼女が看護師でそんな恐ろしいアレルギーを起こしたと思ったの?」

雛子さんはマイクロミニのワンピースの下で足を組み替えて、奏ちゃんに視線を投げた。カウンター越しの奏ちゃんはチェシャ猫がヒゲを撫でるように頬へと手をやると、小首を傾げて見せた。オレンジ色の光が細く差し込む店内は酷くノスタルジックで、まるで映画のワンシーンみたいだな、と僕は他人事のように思った。

「水城さんが来なくなった理由は後に回すとして、まずは彼女がアナフィラキシーを起こした、となぜ考えたか、やね。あの日、佐々井さんはいつもと同じようにケーキを食べてはった。それが急に店を出て行った。急用ができたか、急に具合が悪くなったかのどちらかでしょう。事前に特に何かいつもと違う行動をしていた、という記憶はマスターからも他のお客さんからも引き出せなかった。人間云うんは『違うこと』に対してはえらい敏感にできてるから、なんや変わったことがあれば覚えてはるでしょう。実際「青い顔をして」て云うてはった人も居てたんやし、具合が悪くなったと考える方が妥当や。だとすれば、そないに急激に症状が出て、入院してたかなんらかの薬剤を経静脈的に投与される必要がある状態になった、言うことになる。たとえば、喘息発作であれば以前にも同様のエピソードがあってしかるべきやし、その場合は吸入薬を持ってる子ぉが多いし、持ってなくても、そこまでの喘息発作やったら「ゼエゼエ言うてた」言う方が記憶に残るやろ。食べ物を食べた後に起きたことで、他の人には症状は出てへんから、あとは毒でも盛られたか、アレルギーでも起こしたか、や。食中毒やったら他の人らにも症状は出るやろうし、発現までの時間が速すぎるから、食中毒は否定的やね。そうすると、毒を盛られたか、アレルギーか。毒を盛られた、ってなんやそんな理由があればこの店にそもそももう来ぉへんやろし、水城さんの行方をそないに気にせぇへんやろ。と、なると、アレルギーってことになる。あの日のケーキはスペシャリテで、マンゴーソースが入ってたいうことやったな。マンゴーやパパイヤなんかのトロピカルフルーツはアナフィラキシーを起こすこともあるアレルゲンなんや。せやから、もしかしたらトロピカルフルーツのアレルギーちゃうかな、て考えた」

 OK? とでも云うように説明を聞く僕達の顔を順繰りに眺めてから一度軽く頷き、奏ちゃんは続きを話し始める。

「次に、佐々井さんが看護師やと思うた理由。これは簡単や。アイメイクはがっつりしとんのに、ピアスはプラスチックの目立たんやつ。爪にネイルもしてへん。その上、「午後診」やら「呼吸苦が増悪」なんて言い方するんは、まぁ多分、看護師か医者やろうな、って言う推測が成り立つ。そこにトロピカルフルーツアレルギーを加味すると、トロピカルフルーツアレルギーはラテックスアレルギーと交差抗原を持つ。ラテックスアレルギーは手術場なんかでラテックスの手袋なんかをよう使う人に多い。そう考えると、この人は病院の手術室で働いている、もしくは働いていた人、言うことで整合性があるやろ。平日にようこの店に来てはったて言うし、そうすると、平日休みが多い……元手術室勤務で、今は病棟勤務の看護師かな、と検討がつく」

そこまで話すと奏ちゃんはふぅ、と大きく一度息を吐き出した。釣られたように、ハンプティダンプティも大きな息を吐いた。空気がゆるゆると弛緩していく。僕の手を握りしめていた雛子さんの指がするりと解けた。奏ちゃんは確かに医者だけれど、それだけではなくて、人間をとてもしっかり観察する目を持っているんだ、と云うことに僕は改めて気づく。それはきっと生きていくのにとても息苦しいことなのだろう。だって、奏ちゃんは今こうして話している間も、それから普段僕と過ごしている時も、時々本当に透明な顔をすることがある。知らないこともそして知らないことを知ろうとしないことも正しくないと僕は思う。だから知ることはとても大切だし、知ろうと努力することは生きていく上で必要なことなのだろう。

けれど、知りすぎてしまうことは、知らなくてもいいことまで見えてしまうことは、本当はとても辛いことなんじゃないだろうか。 最近の奏ちゃんを見ていると、僕にはそう思えて仕方がなかった。僕は今すぐ奏ちゃんの手を引いて家に帰りたくなる。研ぎ澄まされた刃のような彼自身が自らを傷つけてしまう前に。きっといつか彼は……いや、今までにもそうだったのかもしれないけれど、鋭すぎるその刃でたくさんの見えないものを映し、そして不必要なまでに自らを傷つけてきたのだろう。出会ってからの十余年、そして、僕のところに転がり込んできてからの一ヶ月。僕はそのことを痛いほどに感じていた。

 一瞬の無音の後、流れ始めたのはラフマニノフのヴォカリーズだった。元は声楽曲だったこの美しい曲はピアノ独奏や管弦楽曲にも編曲されている。耳に届いたのはヴァイオリンの細く切ない歌声だった。

「なるほどね……。神室君、あなたすごいわね。ちょっと感心した。それはそうと、水城君は何故お店に来なくなったのかしら? そっちが本題じゃない?わたしたちがケーキを食べるための」

「そうです。まずはここまでで半分」

 奏ちゃんはヴァイオリンの音色を追いかけるように目を細める。その優しい表情を僕はただ見つめた。何事か考えるように一度深々と瞼を閉じ、ゆっくりと目を開けると、奏ちゃんはあの皮肉げな笑みを浮かべて見せた。僕にはその心の動きを捕まえることはできなかった。そして、奏ちゃんの低くよく通る声が店内にやんわりと響いた。

「あの日かその少し前に、あなた、水城さんと個人的な話をしたことはありませんか?」

その問いは、ぼんやりとしたまま目を瞬かせている佐々井さんに向けられていた。佐々井さんは頬をほんのりと赤らめ頷く。

「……はい。私の、誕生日、だったんです」

彼女はそう言って、カバンから小さな白いカードを取り出した。そこには几帳面な角ばった文字で『お誕生日おめでとうございます』とだけ書かれていた。

「私、その前にうかがった時に少し落ち込んでいて……愚痴っちゃったんです。確かに私は看護師です。周りの子達が、最近どんどん結婚したり子供ができたりして行くのに、私は恋愛一つできなくて。もうすぐ二十九になるのに。そうしたら、あの方が、じゃあ誕生日をお祝いしましょう、って言ってくれたんです」

急に活き活きと嬉しそうに話し始めた彼女の様子は恋する女の子のそれだった。

「それで、私の誕生日が八月三十一日だと言ったら、あの方がとても素敵なケーキを作っていてくれたんです。私、本当に嬉しくて」

「ふぅーん」

そのまま語尾に「どうでもいい」とでも付け加えかねない勢いの雛子さんの返答に僕は吹き出しそうになる。佐々井さんと雛子さんは同じ女性ではあるけれど、価値観も性格も大幅に違う気がする。

「ま、見当はついてるんやけど。あとはこいつが話す。こいつ、そう云うこと専門やから」

 奏ちゃんは唐突に僕を指さすと、ふわぁあ、と小さなアクビを一つして体を伸ばし、あからさまにこれ以上喋る気は無い、とアピールするようにカウンター越しのスツールにもたれ目を逸らした。

突然に探偵役を投げ渡された僕は、言葉に詰まる。

けれど、性悪のチェシャ猫、先程までの理路整然として立板に水を流すような説明はどこへやら、我関せずと言わんばかりにそっぽを向いている。

僕は仕方なしに、残された謎の種明かしをするべく、大きく一つ息を吸い込んだ。雛子さんが面白そうにクスッと笑った。

「えっと……あなたが水城さんのことを憎からず思っていたのと同様に、水城さんもあなたのことを好きだったんじゃないでしょうか」

「え?」

「あなたの愚痴……まぁ彼の気をひくため、という理由も3割ほどはあったのではないかと思いますが……それを聞いた水城さんはあなたに彼氏がいないということと、もうすぐ誕生日だ、という二つの情報を手に入れました。あなたのことを憎からず思っていた水城さんは、だからあなたの誕生日にスペシャルなケーキを作った。少なくとも僕だったら、興味のない相手にそんなケーキを作ってあげたいなんて思いません」

ただの仮説に過ぎない。けれど、それはきっと真実からそう遠くはない。拙い言葉を搔き集める僕の脛を、雛子さんのエナメルのヒールがツン、とつつく。先を促すように。

「彼は今までデコレーションケーキをこの店で一度も出したことがなかった。けれどあの日、何故デコレーションケーキを作ったのか。それは非日常の演出と、それから何より、デコレーションケーキの方がチーズケーキやタルトよりバースデーケーキらしいから、です。僕は、そう思います」

頬を赤く染めた佐々井さんはぽってりとした唇を半ば開き、僕の仮説を聞いている

「きっと彼は……あなたに伝えたかったんじゃないのかな。あなたを好ましく思い、あなたのためにこうしてケーキを作る男もいますよ、って。……それから、好きです、って」

じっと僕たちのやりとりを聞いていたハンプティダンプティが「なるほど」と小さな声で呟くのが聞こえた。

「失礼ですが、あなたは水城さんのことを好きだったんじゃないですか?」

僕の隣で面白そうに成り行きを眺めていた雛子さんがカウンターの上に肘をついて佐々井さんの顔を覗き込んだ。

「野暮な男よね。そんなこと聞くな、って殴っていいのよ? あ、顔以外にしてね。レンジ君はわたしの可愛いペットなんだから」

にっこりと雛子さんが笑う。言葉とは裏腹にこの状況を心底楽しんでいる。女は怖い。本当に。だからテレビドラマは面白くもない恋愛ドラマばかりになるんだろう。どんなに陳腐な恋愛ドラマでも、それをこうして楽しむ人が確実に一定数いるからだ。僕は眼鏡をずり上げて、最終コーナーへと突入する。

「けれど、水城さんは『あなたから思われていること』に気づいていなかった。恋は盲目なんて言いますし。それに彼は非常に真面目な方のようですから。結果、あなたが店を飛び出して行った時、彼は一世一代の恋を失ったと思ったのではないかと」

「……そんな」

アイライナーをくっきりと引いた目を大きく見開き、佐々井さんは僕の顔をまじまじと見た。飽くまで推測。けれど、おそらくそう外れてはいない、はず。あまりにも陳腐でドラマにすらならない展開だけれど、僕は少しだけ羨ましいな、と思った。

 店に流れる音楽は、エルガーの『愛の挨拶』へと変わっていた。ヴァイオリンの艶やかな旋律が夕暮れに染まった空間を優雅に揺蕩っていた。




 奏ちゃんと雛子さんが並んでチーズケーキを頬張っている。見た目だけはリスと猫が戯れているようで非常に愛らしいのだけれど、その龍虎並び立つような光景に僕は眩暈を覚える。しっとりしているのに決して重すぎない生地を奏ちゃんは絶賛し、雛子さんが頷く。僕はなぜこうなることを予測しなかったのか、と己の不覚さを深く悔いた。チェンバロの音が奏でるパッヘルベルのカノンが軽やかに店内に流れる。

あれからシルバーウィークなる地獄のような繁忙期をどうにか乗り切った九月末、僕たちは再び『ホトトギス』に居た。休日にお客様と一緒に出かける、なんてことをしているわけではなく、奏ちゃんがケーキを食べたい、と云うのでやってきたら雛子さんにばったり出くわしてしまったのだ。どう云うわけかこの二人は存外ウマがあったようで、親しげに言葉を交わしている。

「やー。ほんま、ありやな。このチーズケーキ。雛子さんが美味しい云わはるん、だてやないね」

「でしょう。食べる価値あるでしょう?」

うふふ、と含み笑いで雛子さんが奏ちゃんの肩を叩く。

「ほら、レンジ君も食べなさいよ」

「綾人、食べへんなら俺がもらうで」

「あーん、しなさいよ」

もう何が何やら。きゃっきゃと楽しげな二人についていけないまま、僕は熱いブレンドコーヒーを一口飲む。カウンターの中に立つ、仏頂面でひょろりと背の高い青年は、計量カップ片手に難しい顔をしている。

「奏志君、ほんと、いい仕事したわ。おかげでまたケーキが食べられるようになったし。今日はわたしが奢ってあげるわね。」

ニコニコとそんな効果音がしそうなほどの満面の笑みで雛子さんが奏ちゃんの頭を撫でる。それにいつの間にやら、神室君から奏志君へと呼び方まで変わっている。それは僕の専売特許なのに……と少しだけ胸の奥がチリッと焦げる感じがする。奏ちゃんは、ふふん、と例のチェシャ猫のような笑みを浮かべて珈琲を飲んだ。



 あの翌日。僕と奏ちゃん、マスター、佐々井さんの四人で水城さんのアパートへと乗り込んだ。あとはもう、見ているこっちが恥ずかしくなるような愛の劇場が繰り広げられた。扉越しに語り合う水城さんと佐々井さんに苛立った奏ちゃんが途中でドアを蹴り飛ばし、水城さんがその開かずの扉を開いた、と云うのが一番の山場で、それ以上でも以下でもなかった。やつれた様子の水城さんは「生まれて初めての恋でした」と云った。彼女が店から駈け出して行ったとき、恋は終わったのだ、と思ったのだそうだ。気づいた時には無断欠勤していた。無断欠勤してしまった、と云う心の重荷と失恋の痛手……と思い込んでいたのは本人だけなのだけれど……のために、ズルズルと出勤できないまま何日も過ごすことになったのだと云う。真面目すぎるほどに真面目な人だから無断欠勤してしまった、と云う事実は酷く重く彼の心にのしかかったのだろう。僕にはなんとなくその気持ちがわからなくはなかったのだけれど、奏ちゃんは「あほやな」と一言僕に囁いた。

 マスターは怒るより前に、その小さな目に涙を溜めて、何度も頷いた。それから、一発だけ水城さんを殴って、馬鹿野郎、と呟いた。そんなマスターに縋りついて、長身を折り曲げた水城さんは人目も憚らず泣いた。約三週間。彼にとっては重くて長い夏休みだったのだろう。そして水城さんの夏休みは終わりを告げた。

 僕は、繰り返し現れては形を変えていくカノンの音色に耳を傾けながら、チーズケーキを口に入れた。ホロリと溶けていく滑らかなクリームチーズに一口、もう一口と後を追いかけたくなってしまう。それは同じ旋律が幾度も追いかけっこを繰り返すカノンのように。

扉の磨りガラスに彫られた百合に似た花が、少し秋めいてきた陽射しに輝いていた。

『ホトトギス』

店内からでは鏡文字になったその文字に、僕はハッと思い出した。

そうだ、あれはホトトギスの花。

ホトトギスの花言葉は『秘めた恋』『永遠にあなただけのもの』

こんな午後も悪くない。そう、思った。


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