12☓☓年 恋華の心

森の中、小さな園に大きなクスノキが立っている。百年は軽く生きたであろう威容を備えるその木は、園の中心で神秘的な雰囲気を放っている。

その周囲をいくつもの小さな光の玉が、ふよふよと蛍のように浮いていた。


森のど真ん中にぽっかり開いた不思議な空間。その園に浮かぶ光の玉は、時に他の玉とぶつかり合ったり、時にパチパチと輝いている。まるで何かを訴えるかのように。

その内の一つがふいに力を失い、へなへなと地面に落ちた。そして光を陰らせ、どんどんと暗い色に染まっていく。まるで全てを諦めたかのように、その輝きを失っていく。


──大丈夫だよ。


何処かから、声が響いたような気がした。そして、優しく雨が降り注ぐ。

園にはいつの間にか一人の小さな女の子が立っていた。その手には、一枚の葉。その中心には一杯の水が掬われている。

女の子は光を陰らせた玉に近づき、その輪郭をなぞるように手を当てる。そして優しく水をかけて語りかける。


──大丈夫、貴方はまだ貴方のままだよ。水を、光を、自然を感じて。この世界はまだ、貴方の為にここにあるよ。


暗く染まった光の玉は、その声に応じるように輝きを取り戻し、そしてまたふよふよと浮かび上がり、光の玉の群れに合流していく。園の中心にそびえるクスノキを囲うように、ふよふよと辺りを飛び交っている。


そこは神域だった。この世に折り重なるように存在する、この世ならざる神域。

神域は世界の形を朧げにする。それは時であったり、場所であったり、あるいは魂の在り様であったり、その佇まいによって様々な変化を齎もらたす。

かつて神域に紛れ込んだ少女はほんの僅かな時を経て、その魂の輪郭を霞ませて永遠の迷子となった。

少女はどうして森から帰らなかったのか、あるいは帰れなかったのか。今となっては分からない。その魂は未だ森の奥深く、人の身では立ち入る事の出来ない神域の狭間に閉じ込められていた。





僕がその事に気が付いたのは、ほんの些細なキッカケからだった。

いつもの朝。天幕から差し込む光が一日の始まりを告げる。錆丸が作ってくれた家から外に出て、体を軽く動かす。そうしていると、5分もしない内に「よう」と雛弦が現れて、一緒に川辺まで水を汲みに行く。汲んだ水は一杯は桶に溜め、もう一杯は朝食用に恋華のところに持っていく。そのまま調理の手伝いをして、ご飯ができたらみんなを呼んで朝食を取る。これが朝のいつものサイクル。

今朝のメニューは鶏ガラのスープ。僕が提案した料理だ。

僕が昨晩獲って、みんなで食べた鶏の骨を鍋に沈めて火にかける。灰汁を掬い、煮詰まってきたら火を弱めて塩干しした山菜を少し入れる。それだけの料理。

新しい料理に恋華は少しだけ困惑しているように見えた。彼女は“いつも通り“が得意な子だから、新しいものに馴染むには多くの時間がかかる。

「俺はいいけどさ、大概にしときなよ。飯も遅くなるし」

調理中、雛弦がそう口にする。恋華は昔から、あまり要領の良い子ではなかったらしい。最近は特にだそうだ。誰よりも優しく、人を気遣う良い子ではあるが、こうと決められた事以外は中々身につかない。

その為、食事のメニューは材料の多寡に関わらず、これまでは一週間というサイクルで基本的に同じだった。

食材が不足してメニューを変える必要がある時や、既存の調理法では扱えない食材が採れた時だけ、こうして誰かが手伝いをする。そういう決まりだ。


そうこうしている内に朝食が完成し、みんなで集まる。集まる順番は雛弦が一番早く、次に子供達。意外なことに錆丸は朝が弱く、いつも花御に手を引かれ、しょぼしょぼと目を擦りながら一番最後に現れる。

「おはよう錆丸」

「おは、よぅ、輪廻...」

目を半分閉じたまま、体をふらつかせながら錆丸が席につく。彼が座れば朝の食事の始まるサインだ。全員に椀を回し、皆でいただきますと言って箸を取る。

「輪廻兄さん、俺は今日狩りに行くけど来ないか?」

「待て、以前ぼくに新しい工法を教えてくれると言った」

食事中、雛弦から狩りに誘われる。しかしそれを聞いた錆丸が横から止める。その様子を花御がニヤニヤしながら見ている。

「モテモテだねぇお前さん。里にもすっかり馴染んだようで何よりだ」

ワイワイガヤガヤと、皆で和気あいあいお喋りしつつ、食事の時間は過ぎていく。

「すまない雛弦、今日は燻製窯を作ろうと思っててね。ずいぶん前に恋華に約束したっきりだったから。錆丸、手伝ってくれるか?」

「もちろん」

錆丸が少し嬉しそうに答える。それを聞き、雛弦がちぇっと口にして少しだけ拗ねる。

「あー! 雛弦兄ちゃん落ち込んでるー!」「ふーられた! ふーられた!」

「バカ! 落ち込んでねーよ!」

その様子を見ていた子供達に煽られ、照れながらも普段の態度を取り戻す雛弦。彼の、出来る限り子供達の前では弱みは見せまいとするその振る舞いは好感が持てる。

「ところで、燻製窯って一体なんだ? 便利なものなのか?」

隣の席の子供の頭をグリグリと撫でながら雛弦が質問する。

「ああ、煙で食べ物を燻して腐りにくくする為のものさ。恋華も食材の管理には随分と苦心していたようだったから必要なんじゃないかと思って──?」

話しながら、自分の隣の恋華が座っていた筈の席に目をやる。しかし、不思議なことにそこはいつの間にか空席となっていた。

「ああ、恋華なら少し前にふらっと消えたよ。なぁに、いつもの事さ」

僕の視線に気付いた花御が答える。どういう事だ? 隣にいながらそれに全く気が付かないなんて、そんな事あるのだろうか。




朝の食事を終えた後は、個人個人の仕事にかかる。日によってまちまちではあるが、子供達は獲物の皮があれば鞣しを行い、畑に水をやり雑草を抜き、きのみや山菜を集める。

雛弦は狩りに向かい、花御はその子供達に付き添って監督と指導を行っている。僕は錆丸を伴って、恋華の管理する食材の保管所へと向かった。

「恋華は何処に行ったんだ?」

「何処か。時間になれば現れる」

キョロキョロと周囲を見渡す僕に錆丸が答える。曰く、彼女は探しても見つかるようなものでは無いらしい。

何処かに隠れている訳ではないそうだが、里の中、ふらりと何処かに現れてはいつの間にか消えているそうだ。錆丸としては意識して探す事がないそうだから、単に彼が見落としているだけなのかも知れないが。

食材の保存庫に到着して、錆丸と二人で作業の準備に取り掛かる。ここでも一応周囲を見回してみるがやはり姿は見えない。

「見つからないだけで村には居るよ。そういう子だ」

僕の様子を見ていた錆丸が作業をしながら気を利かせて教えてくれる。だから心配するなと言いたいのだろうけど、正直訳がわからない。不安にもなる。

少なくとも、皆はまるで心配していないようだけれど。


そうこうするうち準備が整ったので、取り敢えず燻製窯作りに取り掛かる。燻製窯の作り方は簡単だ。要するに、火を焚けて、煙が逃げず、素材を置く棚が作れればそれでいい。

二人で水桶の近くと設置場所を決め、石を積み上げていく。その隙間に粘土を塗り込み円筒形の窯を形成し、上部に何本かの枝を差し込んで、天辺に蔦で編んだ傘を被せれば一応完成。単純なものだが十分機能するだろう。

燃えやすい素材も多いからそう何度も使える代物ではないが、壊れたらその都度直せばいい。そのくらい、錆丸なら容易いだろう。

「これはどう使う?」

「ああ、一番下の隙間に火をくべて、木の枝の台に食材を置いて蓋をするんだ。そうするとだな...」

錆丸に構造の説明をする。錆丸はふんふんと頷き、右から左から燻製窯をジロジロと眺めた。あれ以来錆丸はとても積極的で、そして何にでも興味を抱くようになった。とても良い傾向だと思う。

暫くは窯の前から動きそうにない錆丸に一言声をかけ、僕はこの場を後にした。



僕は恋華を探して、里の中を巡回していた。この先、燻製窯をメインで使うのは彼女になる。使い方の説明は是非しておきたい。

そんなに広い里ではないから、ちゃんと探せばすぐに見つかるだろう。等というそんな僕の甘い考えは、しかしてすぐに打ち砕かれる事となった。


家の中、広場の脇、木々の陰。およそ隠れられる場所の全てを探したが、一向に彼女は見つからなかった。子供達に聞いても、誰一人姿を見ていないと言う。

ここまで探していないという事はひょっとして森の中に入ったのではないかと不安を覚え、畑に足を運んで花御に問い合わせた。

しかし、決してそんな事は無いという。

「森への道はここからずうっと見張っていたからね、間違いはないさ。......なぁ輪廻、なんというか、恋華は随分と特殊な子でね。正直、俺もあの子の事は良く分かってはいないのだ。果たしていつからこの村に居たのか。いや、そもそもどんな顔をしていたのかすら......?」

彼女の発言を聞き、僕は「はぁ?」と口に出した。そして怪訝な顔で彼女を見つめる。

「何言ってる? 何年も顔を突き合わせておきながら、分からないって事はないだろう」

「いやその筈なんだが、何故だがあの子は存在が希薄と言うかな。申し訳ないがどうも記憶に残り難い。対面すれば、ああこういう顔だったなとなるのだが、ふと姿を思い浮かべても、どうにも像が形にならんのだ」

そんな馬鹿な話があるものか。しかし、冗談で言っている風ではない。一体どういう事だ?

「昔はあの子も、もう少しハッキリしていた気がするんだが。最近、日を追う事にどんどん存在が希薄になってる気がしているよ。少し前は食事中に消えるような事はなかった。例え姿が見えなくなっても、声をかければ現れた。

......俺は長いことあの子を見てきたが、一言だって声を聞いたことがない。誰にも心を開いていなんじゃないかとすら思う。なぁ輪廻。お前さんならあの子の心も救えるかい? あの子の心を見通す事すら出来ない、情けない俺に代わって」

「...元よりそのつもりだよ」

そう答えた僕に、花御はニコリと笑って頭を下げた。


花御から、恋華が次に現れるだろう場所を聞いた。彼女は食事係となってからの二年あまりを、寸分違わないスケジュールで動いているらしい。まるでそう定められているかのように。

そしてもう一つ、花御から彼女を見つける為の方法を聞いた。曰く、彼女は決して透明になったわけではなく、ただ人の記憶に残りにくいだけなのだと言う。目で見ても決してそれと気づく事ができないだけで、全体を見るではなく視るかのように、風景ごと捉えようとしたならば確かに見つける事は可能なのだという。

僕は不思議で仕方なかった。彼女の在り方、それはまるで神域の化物達のそれと同じだ。しかし、彼女は間違いなく人間だ。

一体何がどうなっているんだ?


僕は、次に彼女が現れるという場所に向かう。水場の近く、川べりの地面に寝っ転がり目を瞑って待つ。草木の声に耳を傾け、自然と一体化するかのように全てを委ねる。そうすると、少しづつ自分の体が世界と溶け合って、世界の何もかもが聞こえてくるような、そんな心地になるのだ。

木々のざわめき、鳥の声、草がぴょんと跳ねる音。様々な音が僕の中に転がり込んでくる。沢山の命の躍動を魂で感じる。世界にどぷりと沈まって、地面の中、草木の中、どこまでも広く自分の魂を伸ばしていく。かつての故郷、草木が、太陽が、地下に広がる水の息吹が、僕を歓迎してくれてるのが伝わる。


──ねぇ、なにしてるの?


ふいに心の中に声が響く。目を開けず、響いた声に魂で答える。


──探しものをしているんだ。ようやく会えたね、恋華。


僕は静かに目を開けて、ゆっくりと体を起こす。

そして、魂で感じた声の方に意識を向ける。魂の繋りを失わぬようゆったりと。微睡むような心地のまま、ゆったり。


ああ、見つけた。それまで全く見つからなかった彼女はそこに居た。せせらぎの前、大きな岩に腰掛けて。

何もない空中をぼーっと見つめ、まるで心ここにあらずといった様子で彼女は座っていた。そう、まるでのように。


魂に触れ、こうして対面してみて、ようやくわかった事がある。

やはり、。あるのはあくまで彼女の魂の残滓のみ、肉体だけなのだ。

ようやく僕は、これまでの全ての疑問に解答を得た。どういう経緯かは知らないが、彼女の魂は今、迷子なのだ。この世界の何処かに魂を落っことし、そして少しづつ、魂と肉体のリンクは切れようとしている。

魂が触れ合う瞬間。人は強く相手を認識する。

人と人が触れ合う瞬間、魂は紡がれる。

それを失った人間はもう、誰の記憶にも残らず、誰の目にも止まらない、文字通りの魑魅魍魎ちみもうりょう。彼女は本当の意味での、この世界からのつまはじきであったのだ。


僕はゆっくりと彼女に近づき、そっと手を取る。

彼女に世界を取り戻す。それこそ僕にしか出来ない、使命というものだろう。


ご理解いただけただろうか、僕が彼女の魂が欠けていることに気付いた些細なきっかけ。

それは燻製窯を彼女に自慢したい。そんな僅かな自尊心からだった。





「恋華がここにはいない?」

恋華の手を引き現れた僕の前で、花御は鳩が豆鉄砲食らったような顔で驚いていた。狩りから戻った雛弦も、錆丸も、怪訝な顔で僕達を見つめている。

「ああその通りだ。ここにあるのは肉体だけで、彼女の魂は今も別の場所に囚われている。信じてもらえるだろうか?」

僕の言葉を聞き、雛弦と錆丸が顔を見合わせる。花御は目を閉じて、暫し考えている。突拍子も無い話だ。こんなこと、いきなり信じろという方が難しいだろう。

「彼女が喋らないのも、ふと目を話すと見失ってしまうのも、それが理由なのかい?」

「そうだね」

花御が目を開き、言葉を探しながら問いかける。

「もしも、このまま放っておいたら、彼女はどうなるんだい?」

「もう間もなく、彼女の魂と肉体のリンクが切れて、彼女は正真正銘の魑魅魍魎となるだろう。誰の記憶にも残らず、目にも止まらず、永遠に世界をさまよう幽霊のような存在に」

「それは、あまりにも寂しいな。......今ならまだ、彼女を取り戻せるのかい?」

その言葉に、僕はハッキリと答える。

「助かる。僕が助ける」

その言葉を聞き、花御はやんわりと笑った。

「そうかいよく分かったよ。なら頼むよ輪廻。お前さんを全部信じる。お前さんは俺に出来ない事を何度もやってのけたのだからね」

そう言って、花御が深々と頭を下げる。雛弦は困惑した様子で僕に問いかける。

「輪廻兄さん、俺はもう訳がわかんねぇよ。つまり恋華は病気なのか? もう治らないかもしれないのか?」

その疑問に錆丸が応じる。

「ぼくも分からない。でも君の言う事なら信じたい」

錆丸が前を向いて、僕の目を真っ直ぐに見据える。

「君は何でもできるから。恋華も救ってくれるんだろ?」

錆丸も花御に習うように、深々と頭を下げる。

その様子を見ながら雛弦は、二人を交互に見比べて慌てていた。さっぱり訳がわからないといった様子で、頭に疑問符を浮かべている。

「分からねーよ、何の事だか全然わかんねぇ。恋華は病気で、だからそれを癒やす為の探す旅に出るって事なのか? ずっとずっと、遠い所に。

......なぁ輪廻兄さん、ちゃんと帰ってくるんだよな? 恋華と一緒に、ちゃんとこの里に。それさえ約束してくれるんなら、俺は何も言わねぇよ」

「ああ大丈夫だよ。少しだけ留守にするだけだ。恋華と一緒に、元気にただいまを言いに来るよ」

雛弦はそれを聞き、泣きそうな顔で笑った。

「輪廻またねー!」「恋華ちゃーん!」「いってらっしゃーい!」

いつの間にか集まってきていた子供達。僕達は里のみんなに見送られ、森の中へと足を踏み入れていった。



「恐ろしいかい? 恋華」

森の中に足を踏み入れた時、僕の手を握る小さな手にぎゅっと力が入ったのがわかった。彼女の魂の残滓は、森の奥へと伸びている。彼女の魂は恐らく、この森の何処かに囚われているのだろう。

切っ掛けは、何だったのだろう。それはとても些細な事だったのかもしれないし、重要な理由があったのかも知れない。小さな女の子が深い森の中に入る事となった、何か。

森の奥へと向うほど、恋華の手に力が籠もる。きっと何か、嫌な思い出があるのだろう。僕は彼女に語りかける。

「なんだか懐かしいな。僕は昔この森の麓で暮らしていた事があるんだ。丁度、君と同じくらいの年齢の頃かな。同い年の女の子と一緒に、よくこの森を歩いたよ。楽しかったなぁ、今でも鮮明に覚えてる」

恋華の手に籠もる力がすこしだけ緩む。

「辛い事もあったけれど、生きていれば、そんなもの帳消しにできるくらい楽しい事もあるものだ。あの頃の思い出は今も僕の胸を焦がしている。君もこの先、沢山の経験をするだろう。その中には苦しいものもあるかも知れない。でもその時は、里での暮らしを思い出すといい。人と人との繋がりは、きっと君の人生を豊かにしてくれる」

俯いていた恋華の顔が、前を向く。

「恋華。僕は、君に逢えてよかったと思っているよ」

恋華の手に、体に、熱が籠もっていく。さぁもう少しだ。神域への境界が近い。

壁のように立ちはだかる密集して生えた木々の前、僕は足を止め彼女に声をかける。


「恋華、ここから先は神域だ。決して僕の手を離してはいけないよ」


そう告げて、恋華を見つめる。恋華は僕の目を真っ直ぐに見つめてニコリと笑った。

僕達は歩を進める。木々がにゅーと左右に別れ、僕達はその奥へと入り込んで行った。





森の中の小さな園に座って光の群れを眺める私。右手がなんだか暖かい。

私は誰なのだろうと、悩む時間が増えていた。でも遠い世界の優しい空間、そこからふいに声が響く時がある。


『☓☓、おはよう』『☓☓、元気か?』『☓☓、ありがとう』


それは多分、私の名前。今はもう思い出せない名前。でも、慈しみと優しさを持って響くその音が、私を何かに繋ぎ留めてくれている気がする。

クスノキに近寄って、ぼふっと体を預ける。大きくて、優しくて、なんだか安心する。お母さんみたい。......お母さんって、なんだっけ? でも何だか暖かい響き。

私の周りを光の玉がクルクルと巡る。心配そうに覗き込んでくる。


──大丈夫だよ。大丈夫。優しいね、心配してくれるんだ。


どうして私はここに居るんだっけ。もう理由は思い出せない。でも随分と長いこと、ここに居る気がする。

その間、とても沢山のものを見てきたような気もする。何も覚えてはいないけど、暖かいものに包まれていたような気がする。

今は、なんだか右手が暖かい。その熱がとても心地よい。前に頭に感じた優しさとおんなじ温もりがここにある。心が優しく叫んでる。

ふいに、なんだか扉が開く音。森がざわめき喜んでる。光の玉達が不安そうに周囲をくるくると回っている。心が優しく叫んでる。


──ほら、お迎えが来たよ。


私の声が、私の体の外から聞こえる。声の方向を眺めると、そこには私が立っていた。右手がなんだか暖かい。

光に包まれて、なんだかキレイで、優しい笑顔で笑ってる私。私は、私が懐かしくて。私に会えたのが嬉しくて。


──初めまして、私。なんだか、久し振りだね。

──私、知ってるよ。今、全部思い出したんだ。貴方の名前、恋華って言うんだよ?


私が優しく歩を進めると、私も少しづつ近寄ってくる。どんどん私達の距離が縮まって、遂には二人で手をとった。

その光景を、とても強い光を放つ、きれいな誰かがながめてた。





大きな一本の木が生えた、小さな園。そこはとても見覚えのある場所だった。忘れるはずが無い、僕の原点。

「久し振りだね。君は随分と大きくなった」

クスノキを見上げて僕は声をかける。二百と云十年前、僕と共に育った、僕の一番最初の友達。また君に会えるとは思わなかった。僕は嬉しくて、自然と笑顔になっていく。クスノキも優しく葉を揺らし、まるで返事をするかのようにざわめいた。

その周囲で不安げに瞬いている光の玉達......、彼らにも見覚えがある。

彼等は、かつて僕と転生てんしょうを追い立て殺した、かつての村人達の魂。君達もまた、二百年以上ずっと囚われていたのだな。

「そんなに怯えるなよ。別にもう、恨んでやしないさ。ずっと昔の事だ」

魂達に声をかけ、視線を恋華に戻す。彼女達は、魂と肉体でがっちりと手を繋ぎ、跪いてお互いに額を押し当てている。時を経て出逢った彼女達は今、再開の歓びを噛み締めている。

僕は歩を進め、彼女達の近くに片膝を付いて声をかける。

「初めましてかな、恋華。なんだか僕の古い知人が君に世話になったみたいだね」

200年の時を経ても、穢れず輝きを保ったままの魂。きっと彼女が、彼等の希望となってくれていたのだろう、ありがたい事だ。例えどんな魂であっても、穢れをまとい黒く濁った魂を見るのは寂しいものだから。

声をかけられ、恋華がゆっくりと顔を起こす。感情の通った、美しい瞳が僕を見つめる。

「ううん、お礼を言うのは私の方。ここの皆が居たから、私は私のままで居られたのだもの。初めまして、なのかな輪廻。私と会わせてくれて有難う」

僕はニコリと笑い、彼女の頭をぽんぽんと叩く。恋華は嬉しそうに、コロコロと笑った。

「その手の温もり、ずっと感じていたんだよ。やっぱり貴方の手だったんだね」

「ああ、君を救ってあげたかったんだ」

そう言うと、僕は立ち上がりクスノキに近づく。その艶のある木の肌を撫で、懐かしさと愛おしさに心を踊らせる。

「その子、ずっと貴方の事を心配していたんだよ。貴方達は友達なんだね」

「君は木の言葉がわかるのか?」

「ううん、感じるだけ」

僕の問いに、彼女はフルフルと首を降る。僕は彼女を一瞥し、そしてまたクスノキに向かい合う。

「どうやら君も、随分と彼女の世話になったみたいだね。とてもキレイだ」

クスノキに身体を預け、目を閉じる。その僕を木々の隙間から差した光が優しく照らす。お日様がポカポカと暖かい。木々がサワサワと揺れている。その眩さの中、僕は顔を上げ神々しく聳えるクスノキを眺める。

「なぁ、一緒に来ないか? 今の僕なら君と共に歩める道もあると思うんだ」

僕の言葉に応じるように、木々がサワサワと優しく揺れる。

「いいよって」

「ん、そっか」

僕は恋華の言葉を受け、抱きしめるようにしてクスノキに神性を込める。彼の身体に僕の神性はよく馴染む。大きな身体を驚くほどするすると縮ませて、僕の右手に彼はすとんと収まった。

僕はその腕輪を優しく撫で、ぎゅっと掴んで目を閉じた。

「ねぇ聞いていい? 貴方は一体どんな人? 私、知りたいな」

「いいよ。僕は君には恩がある。なんだって話すよ。僕の育ちも、宿命も。これまでの全部を」

既にこの世の歪みを見た彼女なら、すべてを話しても問題はないだろう。きっと今の僕は、正しく神の御子出来ているって思うから。


──すべてを聞いた彼女は、目を瞑り、そしてぽっかりと空いた空を眺める。

「世界を救う神様か。うん、素敵だね」

僕はそれを聞き、応じるように笑顔になった。





恋華を連れて、神域を出る。かつての村人達の魂達も一緒だ。

「さぁ、もうお行き。また次の命に宿り、世界を巡るといい」

神域の外に出ると、光の玉達が弾けたように空へと駆け上がり、何本もの光の筋を残して飛び立った。そして少しづつ、その光の筋を薄くしてついには姿が見えなくなった。

恋華は心配そうな顔で、空の彼方を眺めてる。

「迷わないで、いけるかな?」

「大丈夫さ。あれだけの輝きを保てているのだから」

彼女の肉体は今、魂を取り戻していた。彼女は今、自らの意思で、二本の脚で立っている。

「里のみんなの事、覚えているかい?」

「覚えてる。私、ちゃんと体を通して見てたもの。なんだか薄い膜がかかっているようで、ぼんやりとはしていたけれど覚えてる。雛弦、錆丸、それから花御。会いたいな」

彼女は喜びそのものと言った足どりで、村への道を駆けていく。どこまでも軽い足どりで、全身で生きる喜びを享受している。



間もなく村に到着する。

その僕を、花御が僕を送り出した時そのままの姿で待ち構えていた。

「ああ。ああ、帰ったかい輪廻! そして、恋華! おかえり!」

その声を聞き、村のあちこちから人々が集まってくる。

「恋華おかえりーー!」「恋華ちゃん!」「おかえり」「恋華ちゃんおあ・えりーー!」「...よう、おかえり」「わーーい!」

その様子に一度は圧倒される恋華。でもすぐにしゃんとして、くすくすと笑って声に応じる。

「うんっ、ただいまっ!」

そう言うと、恋華はみんなにだーっと駆け寄って「どーん!」という掛け声とともに体当たりをした。急な事態に、うっかり支えそびれた雛弦達が勢いよく草の中に転がり込む。

「なんだ恋華! お前そんな子だったのか?」

「うん、こんな子だったの! ガッカリしちゃった?」

恋華のいたずらっぽい笑顔に錆丸が答える。

「まさか。そんな筈無いだろ。会えて嬉しいよ恋華」

草の中、子供達が笑ってる。お互いを確かめ合うように抱き締め合って、朗らかな笑い声を響かせている。その様子を、感極まったような顔で花御が一人眺めている。


草の中、朗らかな空気のど真ん中。恋華がゆっくりと体を起こす。僕を横目で見つめ、華やかな笑顔を浮かべている。全身で命を感じている。


「ああ、風が髪を撫でる感触も、草の柔らかさも、花の香りの優しさも、全部全部、愛おしいな。世界って、こんなに美しいんだね! 私に世界を取り戻してくれて有難う、輪廻!」



ああ、やはり、世界が誰かをつまはじきにするなんて、そんなことは間違いだ。

雛弦も、錆丸も、恋華も、世界はちゃんと受け入れてくれる。

だからこそ、彼等には胸を張って生きていって欲しいと、僕は願ってやまない。

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