20☓☓年 薄皮一枚、捲れる悪意


嘆かわしい事だ。

我らが主を冒涜する人間の、なんと多い事か。


無神論、進化論、多神教信仰、サタニズム、宇宙開発、ヘヴィメタル──


彼らは皆、罪人だ。

俺が罪を濯いでやらねばならない。


罪深き彼らを聖なる十字架に繋ぎ、赦しを請うのだ。


十字架と混ざり、苦悶の表情を浮かべる悪徳者達。

それは実に美しい光景だ。心が洗われる。

忠実なる神の下僕にして神罰の代行者たる俺にとって、この光景こそが真実だ。


何度も何度も、その光景を絵に描き止める。

強い興奮が俺の中を駆け抜けていく。ああ、あああ。あ。



──ああ駄目だ、駄目だ。穢らわしい。赦しが足りない。

こんな事では、信仰という名の至上の悦楽は得られない。

跪き、目の前の十字架に祈りを捧げる。


おおそうだ、今日はあの忌まわしきサバトの日ではないか。

退廃音楽、神への讃美に用いるべき唄を悪魔的儀式に用いる悪徳者。

その若き悪のカリスマが、今日舞台に立つ。

今こそ彼女の罪を赦そう。


ああ、あの若い躰、白い肌。さぞ十字架に映える事だろう。

お前には特別な十字架を用意してある。さぁ共に罪を濯ごうじゃないか。


俺は扉を、外に出る。

いきり立つおのれを鎮め、そしてただに、渋谷に向けて歩き出した。





「げ、幸太郎じゃねーか。呼んでねーぞ、何しに来た」

ライブ閉場後、関係者通路で機材を運んでいた男に幸太郎が声をかける。

「まぁそう言うなって、俺とテメェの仲じゃねーか! ちょっと通して欲しいんだよ。俺の友人がアイツに会いたがっててよ!」

「おいおいまたかよ。後で怒られんの俺なんだぜ? あんた、HiMë《ヒメ》さんに煙たがられてんのちゃんと分かってんのか?」

それを聞き、幸太郎はキョトンとした顔をする。

「な〜に言ってんだお前は、んな訳ねぇじゃん! 俺とアイツの仲だぜ? 遠慮なんか要らねェだろ!」

男は呆れたといった素振りでかぶりを降る。

「そーいうとこだよ......。悪ィけど機材運ぶのに忙しいんだ、通るんなら勝手に通ってくれ。でも絶対に俺の名前を出すなよ! 分かってるな!?」

幸太郎は男の肩をバシバシと叩き、コーンを乗り越え通路を進む。

「オッケーオッケー! 任せとけよ!」

...不幸なやつ。名も知らないスタッフの君よ。

とても不安そうな顔で幸太郎を眺める彼の横を、僕はなんだか申し訳ない気持ちになりながら、小さくなって通り抜けた。



控室に着き、コンコンとノックをする。

その瞬間、部屋の中からガターンという音が響く。

どうしたんだ? 少し心配するが、間髪入れずに返事が返る。

「な、なんでもねー! 入っていいぜ!」

「おぉ、邪魔するぜ」

幸太郎が無遠慮に扉を開ける。そこにはひっくり返った椅子を必死に戻している、小さな女の子が立っていた。

色白の肌、意志の強そうな目、凛として良く響く声。すべて覚えがある。

やはり間違いない。彼女はかつてのジャンヌ・ダルクだ。

普通の少女......とは少し言い難い変遷を遂げてはいるが。


「なんだ幸太郎かよ。別に呼んでねーぞ」

「そう遠慮すんなって! つか、用があるのは俺じゃねェんだよ」

幸太郎はそう言うと、こいこいと僕達に向けてジェスチャーする。僕達は控室の中に入って扉を締め、彼女に視線を送る。

「ああ? サインならやってねーぞ」

そう言いながら、直した椅子にどかっと座り込む彼女。そしてくるりと身体を入れ替えて、僕達に目を向ける。


視線が混ざり合う。しばしの静寂。

僕と彼女の今世において初めての対面。

あの頃と異なり、彼女はすっかりその神性を失ったようではあるが、元気そうで何よりだ。

......だが、僕の記憶の中の彼女と比べると少しだけ表情が暗い気がする。

600年前の記憶だ。ただの気のせいかも知れないが。


「......? あんた、どっかで会った事、あるか?」


彼女が僕の顔をまじまじと見つめる。透き通るような瞳が僕の瞳に映り込む。

じっと僕の瞳から目を逸らさず、何事かを考え悩む彼女。

僕は静かに目をつむり、フルフルと首を振って彼女の言葉を否定する。

「いいや、初めましてだと思うよ。僕は御堂輪廻、こっちはアナスタシア。良かったら少しお話いいかな」

「輪廻、輪廻か......。いや、うん。やっぱなんでもねーわ!」

眉を落とし、ニパッと笑う。

僕の名前を少しだけ懐かしそうに反芻していた彼女。しかし、思い当たるフシが見つからないと言った様子で考えるのを諦めた。

それも当然だろう。例え魂が同一でも、記憶は連続するものじゃない。余程魂に刻み込まれていない限りは。


「つーかさ!」


それでも彼女は興味深々といった様子で椅子の上に両手をつき、そのままずいっと身を乗り出して僕に食いつく。

「あんた肌しれーなぁ! 髪も真っ白じゃねーか! ひょっとしてそれ、アタシの真似して染めてんのか! 楽屋まで来るくらいだし、結構ファンだったり? ガチのファン? やっぱサイン要る?」

「い、いやサインは良いかな。あと髪は地毛だよ」

「地毛ぇー!? マジかよすげーじゃん、かっけーな! サイン要るかー?」

唐突な彼女のマシンガントークに、僕は圧倒された。驚いた、今目の前にいる彼女は記憶の中のジャンヌとずいぶん違う。

環境が変われば人は変わる。それは当たり前の事ではあるが、あの時の彼女と今の彼女はまるで別人だ。

しかしその違いは、その人の芯の部分まで変える程じゃない。魂に由来する彼女の懐っこさや好奇心は、どうやら今も顕在なようだった。


「いやこいつらお前のファンじゃねぇよ。むしろお前の事なんか知らねぇよ」

マシンガントークにバッサリ割り込む幸太郎。

こういう時、彼の空気の読めなさは大変助かる。

「はぁーー!? じゃあ何しに来たんだよ!」

「だから話を聞きに来たんだってんだよ、言ったじゃねぇか! お前が質問ばっかしてっから話進まねぇんだろうが!」

当然の疑問を浮かべる彼女に対し、ズケズケと図々しい事をのたまう幸太郎。

前言撤回。彼の無遠慮さは少しだけ、胃に来る。

「ふーん、あっそ。良くわかんねーけどまぁ良いぜ、話しなよ! あたしは萩原はぎわら 乙女ひめ、芸名もHiMë《ヒメ》で通してる。宜しくな!」

ニパッと笑う乙女。

その笑顔はかつて戦場で見た、僕の記憶の中の表情そのものだった。


場が仕切り直される。僕はうんと軽く咳払いをして、話を切り出す。

「じゃあ早速質問なんだけど──」

「はい!」

話を始めてすぐ、凛と通る声が僕の発言を遮った。

アナスタシアが一閃、高々と手を挙げている。

「はい金髪ガイジンさん」

指名を受け、アナスタシアはピシッと姿勢を整えたまま意気揚々と質問する。

「さっきの英語の歌詞は、どういった意味なのでしょうか!」

「えっ」

明らかに英語圏育ちと思われる外国人に英語の意味を問われ、困惑する乙女。そわそわキョロキョロと落ち着かない様子でひとしきり動揺した後、伺うように質問に答えた。

「えっと、神は死んだとか、天使は地に落ちたとか、お前は死んだとか、そういう意味なんですケド......」

「えっ」

合ってるよね? と言った感じで不安そうに乙女が僕を見る。アナスタシアは、まるで予想外の返答と言わんばかりの態度で掲げていた手をしなしなと降ろした。

「なぜそんな暗い歌を......?」

アナスタシアが悲しげな顔で乙女をじっと見つめる。

「え、ごめん......」

乙女が雰囲気に流され謝る。

場に、変な空気が漂う。


「それじゃあ今度は僕から──」

「あのさぁ...」

今度は幸太郎がチョロっと手を上げて割り込む。

「......なんだよ」

乙女が幸太郎に向き直り、いかにも不機嫌そうな顔で彼をじっと睨めつけた。

「さっきゲンジから、お前が俺の事嫌ってるとか聞いたんだけど何かの冗談だよな?」

「嫌いに決まってんだろ、ぶん殴るぞ」

即答する乙女。固まる幸太郎。

「つかお前通したのやっぱゲンジか。あいつも後でぶん殴る」

ゲンジ、恐らくは機材を運んでいた彼の名前だろう。可哀想に、こんな男を信用したばかりにキッチリ名前をバラされてしまった。

多少落ち込んでいる様子の幸太郎。悪いけど同情はしないぞ。


三度目の正直。

僕の連れは二人だけだから、もうこれ以上誰かが割り込む事はない筈だ。念の為二人に目配せをして、今度こそと口を開く。

「では改めて質問を──」

「ごめん、やっぱちょっと聞きたいんだけどさ」

今度は乙女がちょこんと手を上げた。

「......なんだい?」

僕は少しだけ頭を抱え、彼女に質問を促す。

「いや、あのさ。変なこと聞くようだけど、あんたら実はちょっと前からここを覗きに来てたりとかしてないよな?」


不思議な質問だ。僕は幸太郎とアナスタシアにもう一度目配せをする。二人はフルフルと首を振った。

僕たちはずっと一緒にいたのだからこれは当然の反応といえる。僕は視線を彼女に戻した。


「いや、違うならいいんだ。......でも、気のせいかも知んねーんだけどよ、この部屋に入ってからずっと、人の視線を感じんだよ。まるで、壁に目でもついてるみてーに」


彼女は少しだけブルっと震えると、振り返り、何もない壁を見つめる。僕も釣られるように目を向ける、なんの変哲もない壁。

......? 気のせいだろうか、不気味なほどに無機質なだけの壁が今一瞬、ブルっと震えたように見えた。





何処かで、男が歓喜している。


神! 天使! 神! おお我らが主よ!

今、ここには信仰が満ち溢れている!

俺は感激に打ち震えた。彼らこそが俺の求めていた真実そのものだ!


だからこそ、やはり彼女は居てはならない。

我らが主を堕落させる、悪魔の先導士。


もはや一刻の猶予もあるまい。

我らが主の為、速やかに彼女を十字架に活けねばならない。

そして、我らが主の導き達を、人の身体という殻から解き放ってやらねばならぬ。

人は、悪だ。彼らの魂が穢れる前に、早く!


そうとも、これが俺の使命。

悪の娘を十字架に活け、主の導き達をイエス様の様に十字架に磔にする。


俺は壁に寄り添い、瞑っていた目を見開いた。





「なんか、暗くなっちまったな!」


乙女は誤魔化すように笑い、紛らわしにテレビを点ける。軽快な音楽と共に、画面に現れたアナウンサーが自己紹介を始める。午後のワイドショーが始まった所らしい。

最近あった事件や、賞を受けた画家の特集を延々と流している。

『最近東京で、行方不明者が多発しております。皆様も日頃の注意を──』

少し煩わずらわしいが、これで彼女の気が紛れるならそれもいいだろう。

僕はようやく彼女に質問をする。

「君の知り合いに信仰心の豊かそうな若者はいないかな? もしくは最近、周りで何か変わったことは起きてはないか?」

「信仰心豊かな奴って、そんなん周りにいたらアタシ今頃ボッコボコでしょ。いねーよーそんなん」

それもそうか、どうやら全くの空振り。啓示を受けた人数の見当がつかない状況でこの路線の人探しには無理があったかも知れない。もっと身近に存在するものかと思っていたが、どうも砂漠で砂金を探すようなものらしい。

「最近起きた変な事って言ったら、やっぱこのニュースじゃねーの? 行方不明者多数ってやつ。実はアタシのバンド仲間も一人消えてんだよ。まぁ元々失踪癖のある奴だから、どーせいつもの発作だろって感じだけど。他はアタシの周りではあんまり...、変な客をたまーに見るかなってくらいだぜ」

乙女はそう言いつつ、振り返ってテレビを指差す。するとニュースが切り替わり、次の特集へと映った。


『日本人として今、世界に羽ばたく偉人たち。今日はこの男を特集します! 見てください、この異形とも言える作品達! 異彩を放つこの作品を描いたのは、20代の若さにして世界に認められた稀代の絵描き、絵堂えどう 在人ざいとさんです!』


若い、精悍な雰囲気の男が画面に映る。顎に僅かにヒゲを蓄え、首にロザリオをジャラジャラと巻き付けた赤毛の男。

「おぉ知ってるぜこいつ。良く分かんねぇ絵を何十万とかで売りつける、業突く野郎だ」

幸太郎が反応する。

画面が切り替わりインタビューが始まる。


『世界で今大人気の絵道さんの作品ですけど、凄いですよねー、この訴えかけてくるような画の迫力! 着想の秘訣は一体何なんですか?』

絵道がマイクを受け取り堂々と答える。

『やはり、俺の信仰と真実だろうな。実はインスピレーションに関しては、それの元となるオブジェクトがあるんだ。俺はあくまでその姿を感じるままに描いてるだけさ』

『なるほど、モデルがある訳ですね! ではここで彼の作品を1つずつ見ていきましょう!』


画面が切り替わり、彼の描いたと思われる絵が映される。暗く、荒いタッチの油絵。磔刑がテーマなのだろうか、まるで十字架から人が生えているようとしか表現のできない絵の数々。

「なんですこれ、不気味ですね」

「だがこれが売れるらしーぜー。あたしはサッパリだけど刺さる人には刺さるんだろーな」

絵を見て、各々が感想を述べる。次々と映されていく絵、その内の一枚の絵に乙女が反応する。指差し笑う。


「アハハ、見ろよこれ! このブサイクさっき言ってたアタシの知り合いのバンドマンに似てねぇ!? あ、知らねーか!」


アハハハハ、とけたたましく笑う乙女。さっきまで落ち込んでいた彼女だが、テレビに突っ込み入れてるうちにそこそこ元気になったようだ。

僕は僅かに安堵の息を漏らす。どうやら彼女は僕の争いの外にいる。危険が及ぶことはないだろう。これ以上、僕が関りさえしなければ。


「そろそろ帰ろうか。お邪魔したね」

乙女に声をかけ、二人に撤退を促す。

「えー、もう行くのかよー。もう少しゆっくりしてけばいーじゃん!」

何故だが名残惜しそうな乙女。椅子の上でぶーたれている。

幸太郎が説得にかかる。

「この後も打ち上げとかあんだろお前。いいのかよそっちは」

「あーね。まぁ主役だし行かねーとなんだけどよー」

つまらなそうにする乙女。アナスタシアがフォローする。

「また来ますよ、素敵な歌声を聞きに。次はもっと楽しい曲も聞かせて下さいますか?」

「いーけど、あれもいい曲なんだぜ?」

頭をポリポリと掻いて照れ臭そうにする乙女。そしてニパッと笑うと立ち上がった。

「ま、しゃーないな! また来いよ! 取り敢えず出口まで見送るぜ。コート着るからちょい待ってな!」

乙女は奥の壁際にあるロッカーに向かって歩いていった。


待つ間、僕達は軽く相談をする。

「結局、啓示を受けた人間の心当たりは無くなっちまったな」

「そうだね。他に材料が無かったとはいえ、少し見切り発車過ぎたかも知れない。もう少し啓示を受けるに足る条件を探る必要がある」

「私達で打ち止めの可能性もあるのでしょうか?」

「否定は出来ないが、可能性としてはそっちの方が薄いだろう。1件なら偶然だが、2件続けば他にもあると見るのが妥当だ」

そして存在するのであれば、近い内に確実に僕と相見える事になるだろう。僕の産まれつきの不幸、呪いとも言うべきそれに引き寄せられるように。

そして、ふと気付く。もしも【奇跡】を得た人間が現れた時、彼らはそれを本当に正しく使えるのだろうか。幸太郎のように信仰の薄い者なら尚更、私利私欲の為にそれを使い出す事は、むしろ当然なのではないだろうか。


そういえば最近、不思議なニュースが増えている。僕は壁際のテレビに目を向けて......

───?

明確な、違和感。

ある筈のものがそこには無かった。



「──乙女は何処に行った?」

アナスタシアと幸太郎がバッと奥の壁に目をやる。開いたままのロッカー。番組を垂れ流しているテレビ。無機質な壁。

何処にも、乙女の姿は見つからなかった。


『見て下さい、この艶のあるサワラ──』

しんとした空間に、テレビの音が淡々と響く。

「えっと、先に帰られたのでしょうか?」

「いや、でも出口俺らの後ろだしよ...」

アナスタシアが困惑しながら呟く。幸太郎が不思議そうな顔をしながら顎を撫でる。


動悸がする。どんどん心臓が高鳴っていく。

昨日のニュースが頭を巡る。先のニュースが耳にこだまする。


『凶悪犯罪がどんどん増えており──』『東京では行方不明者が──』

脳裏に、乙女の不安そうな顔がふと浮かぶ。

『──アタシの知り合いのバンド仲間も一人行方不明なんだ。』



「幸太郎ッ!! その壁を廻せーーッ!!!」


僕は叫び、壁に向かって駆け出した。即座に幸太郎が応じる。アナスタシアが続く。

壁がグルリと回転し、ロッカーを弾き飛ばす。僕達は回転する壁を通り抜け向こうに出る。外だ。日は既に陰っているが人通りが激しい、こっちじゃない!


「きゃーー! なになに、何なの!?」

「見た!? すげーの、いま壁がグルンって!」


回転した壁に惑う通行人たち。

それを意に介さず、僕は地面に耳をつけて音を探る。

「今度は地下だな! 行くぜ輪廻!」

幸太郎が叫び、地面に大きく手をつく。グルリと地面が回転し、そのまま一回転して、地面は元の場所にすっぽりと収まった。





「ンーー! ンンーーーっ!」

あたしは何者かに口を抑えつけられ、引き摺り回されている。

(何、一体なんなの!?)

怖い、恐怖で頭が回らない。私は今何処にいるの?

恐怖のあまりバタバタと暴れるが、男はまるで意に介さず私を連れ回す。


ロッカーに、コートを取りに行っただけだった。コートを羽織り振り返った時、あたしの後ろでギョロリと目が泳いだような気がして。あたしの後ろから手がにゅーっと伸びてきて。

そしてあたしは凄い力で引き寄せられた。

後ろは、何もない壁だったはずなのに。


「あまり、暴れない方がいい。壁の中に取り残されたくはないだろう?」

囁くような声が耳に響く、涙に濡れる目で声の主を見つめる。こいつは、この男は!

見覚えがある。それも、ついさっき目にしたばかりの男。


「お前だってどうせ死ぬなら綺麗な方が良いだろう、君の友人のように。

 安心しろ、俺がお前を美しく飾ってやるからな」

暗闇の中、ニィと笑うその男の狂気にあたしは心から恐怖した。





下水道に僕達は降り立つ。

そして、乙女が消えた状況を思い起こす。彼女の後ろは壁。壁の向こうはもう外で、多くの通行客。ならば、もしも乙女が本当に何者かに攫われたのだとするならば、そいつは必ずこの下水道を通った筈だ。

どのような手段を使ったのかは分からない。それだけに、初動を間違えればきっともう二度と追い縋ることは叶わない。


僕の顔に冷や汗が走る。動悸が高まる!

──焦るな。自分を信じろ。

可能性は無限にある、その中の一つを確信を持って追え。迷えばそれだけ、彼女を救える可能性が下がる。


「輪廻! あれを!」

アナスタシアが壁を指差す。

そこには彼女のものと思しき靴が落ちていた。あの黒い鉄檻のような靴が。

僕は確信する。ここまでは、間違えていない。そして彼女は確かに攫われたのだ。悪意を持って【奇跡】を用いる何者かに。

もしも彼女を見つけることが叶わなかった時、彼女はもう戻らないだろう。過去1000年、そこに希望が残った事は一度として無かった。


全身の毛が逆立つ。彼女を見失ってから、時間にして1分も経っていない。姿は見えないが確実にこの近くに何者かが潜んでいる!

右手の腕輪をナイフに変え壁に突き刺し、古くからの友の名前を高々と宣言する。

「疾走れ、生命の樹セフィラー!」

声に応じるように樹のナイフがぼうっと光り、次の瞬間凄まじい勢いで壁に根を張っていく。植物が長い年月をかけて石を削り隙間に根を張るように、コンクリートを砕いていく。下水道全域を覆うように、根が際限なく拡がっていく。


これは僕の切り札の一つ。真名を口にする事で1000年を生きる古樹の一部を解放し、爆発的な伸長を図る。再度腕輪に戻すのに並々ならない神性を込める必要があるが関係ない。今この瞬間こそが切り時だ。

「うおおおお! なんだこれなんだこれ!」

「わぁあ、なんばしよっとー!!」

幸太郎とアナスタシアが驚いて、根から逃げるようにピョンピョン跳ねている。


僕は根から伝わる感覚に集中する。下水道の全容が右手に伝わる。ネズミの足音、虫の蠢く音、水のせせらぎ、そのすべてが振動として僕に伝わってくる。

パタパタと獣が走る音、違う! 水の滴る音、違う! ぴょんぴょん跳ねる人の音、ちょっと静かに! 壁の中、何かに根が触れる、生き物の感触。


「──お前、か!!」

僕は壁に潜り込んでいる何者かに根を巡らせる。そして壁に突き刺した樹のナイフを掴み、力一杯引き抜く。

奴は今、おそらくは【奇跡】によって壁中に潜り込んでいる。その詳細は分からない。だがもう関係ない、文字通り僕は根を張ったのだ。

コンクリートの隙間を根が引き戻る。抵抗がビリビリと右手に伝わる。自慢の【奇跡】ですり抜けてみるか? 無理だね。既に他の加護を受けた物体にはどんな【奇跡】も及ばない。僕はそれを知っている。

グングンと引き戻る根。しかし次の瞬間、その抵抗がぶつんと切れた。僕は急に抵抗が無くなったことで一歩よろめく。

「切られたか!」

樹を元の姿に戻した以上、強度も樹本来の形に戻っている。ナイフで断ち切ることも十分に可能な強度。

しかし問題はない。奴に張った根が放つ神性が、僕に位置を教えてくれる。


「アナスタシア! 剣を伸ばせ!」

僕は頭上を指差し彼女に指示する。彼女は手を地面にかざし、大根でも引っこ抜くかのような動作で地面を掴んで引き上げた。地面から何尺もある大剣が、周囲のコンクリートを材料にせり上がってくる。

僕達はその剣に飛び乗り、上へと上がっていく。

「天井回すぜ! 弾かれんなよ!」

剣の柄頭に掴まった幸太郎が、天井に両手を触れる。天井が左右にバカッと開き、僕達を乗せた大剣は陽の光を求める草木の如く地上へと露出した。


剣から降り、周囲を見渡す。

(ここは、神宮の杜...)

都会の只中とは思えない森林の中、僕たちの視線は一点に集まる。日の光の届かない陰の中、一人の男が乙女を羽交い締めにして立っている。乙女は焦点の合わない瞳でボーッと地面を眺めている。

僕は、一つ思い違いをしていた。この世を改竄する『力』を持つ者は全て、神の【奇跡】を授かった者とばかり思っていた。

だが、目の前のこの男は神の啓示を受けた人間などではなかった。最初から、考えてみればそれは当然の事だったのかも知れない。

こんな世の中だ。神の寵愛を受けた人間よりもずっと、

──悪魔に魅入られた人間の方が遥かに多い。


顎に僅かにヒゲを蓄え、首にロザリオをジャラジャラと巻き付けた赤毛の男。

絵道在人。彼は確かに悪魔そのものだった。





──俺は今、感激に打ち震えている。

天使が、神々が、俺の目の前に佇んでいる。

右手には聖なる樹の根が這っている。


コンクリートを砕き、壁の中の俺に纏わりついた神樹の根。俺はどうしてもそれが欲しくなり、罪と知りつつその根をナイフで断ち切った。

俺の右手に宿る神樹が愛おしい。


ここはもはや神話の世界だ。ついに俺の信仰が報われる日が来たのだ。

この感激を世界の皆に伝えたい、俺を識る誰かに!


胸ポケットにしまったまま携帯で電話をかける。

俺に【魔術】の使い方を教えてくれたアイツに。


──プルルルルルル、ガチャ。

「聴こえるか? 今から俺は天上の世界に向かう」

『......』


羨ましいかね? だがこれは誰よりも主を愛した俺の花道。

誰にも譲らんよ。


だがその前に、成さねばならぬ事がある。

悪魔の娘の命を断ち切り、神を解放する。

それが俺の、最後の大仕事になる。





深い森の中、黄昏時特有の澄んだ空気が広がっている。木の根があちこちに露出している。

森の中に淡い光が指す。その光を木々が遮り、地面に陰を落としていく。僕達は陽光の下、陰の中にいる男を見つめる。

男の目はグルグルと狂気に満ち、口元はニィイイイと大きく吊り上がっていた。

僕は彼に詰め寄る。一歩を踏み出し宣言する。


「彼女を解放しろ! それともまた、地面に潜って逃げてみるか? 逃げられると思うならそれも試してみるといい!」


彼は僕の声に反応して大きく震え、顔を反らせて大きく仰け反る。

そしてグンと態勢を戻すと、僕に向けてバッと手を拡げて叫ぶ。


「ああ駄目だ駄目だ、それ以上は!! 頼むから止まってくれないか!! それ以上近付かれたら、俺は歓喜で泡を吹いて倒れてしまう!!」


構わず距離を詰めていく。指の隙間から覗く狂気に満ちた目が嗤う。彼は反対の手で乙女の顎を掴み、グッと力を込めて俯いていた彼女の顔を無理矢理正した。


乙女と、目が合う。僕の足が止まる。


彼女はその時初めて、僕の存在に気付いたようだった。ハッとした顔で大粒の涙をボロボロと溢し、口をパクパク開いている。

恐怖からか声が出ていない。だが唇を見れば彼女がなんて言ったのか、僕には良く分かった。

「その手を離せ、絵堂在人ッ!!」

怒りで全身を震わせる僕。樹のナイフを掴む右手にもグッと力が籠もる。そしてその怒りを隠れ蓑に、背に隠した左手でアナスタシアに指示を出す。

絵堂に気づいた様子はない。彼はただ、僕を憐れむような顔で見つめていた。

「どうして怒るのか、もう既に毒されてしまっているのだな、可哀想に。この悪魔は貴方のような方が関心を持つべき人間じゃあないよ。すぐに十字架に埋めて彼女の罪を濯ぐから、少し待ってはくれないか? 俺は万物をすり抜ける【魔術】が使える。俺と俺が触れているものがその対象だ。だがその際に、例えば壁の中で俺が手を離したら、その『触れているもの』は一体どうなると思うね?

 ......混ざるんだよ!! 壁とその何かが!! それが例え人の身体でも、肉に壁材が流れ込み周囲と掻き混ざるんだ!! ...もう分かるだろう? だからそれ以上、近付くのはやめて欲しい」


僕は足を止めたまま、俯く。身体がふるふると震えているのが分かる。

僕は感情を抑え、ゆっくりと尋ねる。


「君が描いた絵、全部で何枚だったっけ」

「18枚になるな。光栄だね、俺の事を知っていてくれたのか」


そうか、そんなに。


「これまでで行方不明になった人間の数は?」

「18人だな。いずれも吐き気を催す悪であった」


まるで乙女のような、か?


「君がこれまで作った十字架の本数は、いくつだ」

「18体だ。おい、何度も言わせるな」


「──剣を抜け、アナスタシアーーーッツ!!」


僕は叫び、駆け出した。絵道とアナスタシアが同時に動く。

乙女の頭を掴み、地面へと押し付けようとする絵道。

「やだぁあああああッーーーー!!」

絶叫が響く。乙女は目から大粒の涙を零して取り乱し、絵道を見つめて悲鳴を上げる。その泣き顔がグングンと地面に近づいていく。


──ガン!

音が響く。何かに衝突したような音。


絵道が、驚愕に満ちた顔で僕たちを見る。アナスタシアがその手に大剣を抱えている。何尺もの幅のある大剣。絵道の足元の土まで巻き込んで作り上げられた大剣が今、彼らの足元にまで伸びている。

既に加護を受けた物質に、他の【奇跡】はかからない。彼の【魔術】も、【奇跡】で作られた剣をすり抜ける事は決して出来ない。


地面にナイフを這わせながら僕は駆けた。そのナイフが地上に露出している根に刺さった瞬間、根がブルっと震え、地面から樹がニョキニョキと生える。そして、大剣の上で膝立ちになっている絵堂に次々と枝が突き刺さった。刺さった枝は彼を地面から引き剥がし、空中に持ち上げる。次々と彼に枝が巻き付いていく。

僕は樹のナイフをゆっくりと持ち上げる。すると地面から尾を引くように大量の根がズルズルと付いてくる。下水道に這わせた古樹の根、地上部に露出していたその根と、僕は繋がりを取り戻したのだ。


僕は彼にゆったりと近付き、乙女を抱きすくめる。

そして乙女に目と耳を閉じるように囁いて、彼に居直った。


「何か弁明はあるかい?」

絵堂は歓喜に震える声で叫ぶ。

「おおお、なんという素晴らしき感触!! 清冽な痛みッ!! 我等が主よ、お待たせした!! いよいよ貴方の忠実な下僕が貴方の元へ、天国へと向かいまブッッ!!」

僕は右手にぐっと力を込めた。彼に巻き付いていた枝がギュンと収縮し、何かがひしゃげるような音が響く。

そして、周囲に血の雨が降った。

「勘違いするな、君が行くのは地獄だよ」


「えっ...」

しんとした空間に、困惑の声が響く。僕は乙女を抱きすくめていた手を離す。乙女がその場にすとんと座る。彼女は未だに目を閉じて耳を塞いでいる。

アナスタシアと幸太郎が後ずさりして、僕を見つめている。

「こ、殺したのですか?」

アナスタシアが不安げに問いかける。

僕は振り返らず、答える。

「ああ殺した。殺すべき男だった。僕はこの男の命に些かの価値も感じてはいない」

「でもよ、警察とかさ...」

今度は幸太郎が問いかけてくる。

僕は淡々と答える。

「正しく罪を裁けば死刑は確実の男だ。僕が殺すか国に殺させるかだけの違いなら、僕は殺す」


二人が黙る。そんな彼らを一顧だにせず、僕は絵堂を捻り潰した枝の中から一つの機械を取り出す。彼が胸ポケットにしまっていた携帯電話だ。

一つの確信がある。この電話が誰につながっているのか、僕には分かる気がする。

電話を耳に当て、電話の向こうのそいつに語りかける。

僕と1000年を共にした僕のたった一人の兄妹にして、悪魔達の主。その名前は──。


「以前にも言ったはずだ...、僕の仲間に手を出すなと!

転生ッ!!」

『......輪廻か。在人はどうなった?』


電話の向こうから声が返る。


「殺した。もう一度言う、これは僕たちの戦いのはずだ。無関係の人間には手を出すな」

『ふふふ、嘘をつくなよ輪廻。その場に、本当に無関係の人間なんて居やしない癖にさ』


電話を握る手に力が籠もる。

怒りが沸々と湧いてくる。


『皆、関係者なんだよ。どうして神の啓示を受けた人間や悪魔に魅入られた人間が次々と生まれて来ているのか、本当は分かっているんでしょ?

 ......君達は、私達の仲間の絵堂在人を殺した。私達も、報復しないといけないね。近い内に会いに行くよ。楽しみにしていて欲しいな、輪廻』


その言葉を最後に、電話が切れる。

ツー、ツーと言う音が、森の中、ただ静かに響いている。


僕は身を翻し、その場を去った。

困惑する3人をその場に残して。





何処かの廃屋の中、少女が薄汚れたソファに腰かけている。少女は右手に持っていた携帯電話を地面に捨てると、豪快に踏み潰した。そしてソファに深々と背中を預け、目を閉じてポツリと呟いた。


「本当は、分かっているんでしょ? 輪廻。もう私達に『1000年前の約束』は果たせない。でも仕方ないよね? 私達は随分と長く生きたんだから」


彼女の名前は【転生】。【輪廻】とその魂を分けた双子の兄妹にして、殺し合いの宿命を追った少女。神の御子として生まれつきながらも、悪魔に魅入られた悪魔の娘。

彼女の後ろで、いくつもの影が踊っている。その中で一際大きな影が、暗闇の中、怪しい笑みを浮かべていた。



1000年をかけた戦いの歴史が今、終わりを迎えようとしている。

これはその狼煙。彼ら兄妹の、終わりの始まり。


「さようならエドゥアルト。君の魂無駄にはしないよ」

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