愛のチカラ

にしおかゆずる

愛のチカラ

「紹介したい人がいるんです」

 息子が口を開いた。

 大学院を出た後研究と称して海外を飛び回り、数年ぶりに帰って来た最初の言葉がこれだった。

 ここまで育てるのにかかった親の苦労など、子供は考えもしない。それが世の習い、といってしまえばそれまでだが、我が家の場合はいささか事情が特殊なようだった。

「紹介したい人って、おまえそれは」

 チャポン。

 大きな水槽の中で、抗議するかのように水が撥ねた。

「失礼じゃないですか、彼女に向かって」

「ああ、悪かった。だがおまえ、それは──魚だろう?」

「ええ。僕と彼女は、マダカスカル島沖で運命の出逢いをしたんです」

 息子が滔々と「二人」の経緯について喋っている間、私はガラスの水底に横たわる「それ」を眺めていた。昔話題になったシーラカンスに似た愛嬌のある顔立ちだが、どこかが違うことは判る。あるいは、その辺りが息子の学術的興味をそそったのかも知れない。

 しかし──それと結婚とは、また別の問題ではないのか。

「もう決めたんです」

 今まで見せたことのない、信念に満ちあふれた息子の顔だった。

「彼女もお父さんも、必ず僕が幸せにします」


 一箇月が過ぎた。

「……母さん」

 真新しい縁側に腰掛け、私は茶を飲んでいた。

 いつか子供達が戻って来ることを願って、退職金を元手に立て替えた二世帯住宅。だが隣にいるべき妻は既に亡く、息子は二階で魚と同棲している。私はと言えば、こうして空を眺める毎日だ。

 まさに世は無常という他はない。今一度湯飲みを口に運んだその時、階段を転がり落ちんばかりの足音が響いた。襖が開け放たれ、息子が惚けたような顔を突き出す。

「……お父さん」

「落ち着きなさい。ご近所に迷惑だろう」

「彼女が、彼女が」

 あの古代魚がどうかしたというのだろうか。大きく一度喉を上下させ、息子は頷いた。

「水から上がって来たんです」

 息子に連れられて、私は久方振りに階段を上がった。

 短い廊下を折れ、化粧板張りのドアを開ける。寝室に踏み込むのは気が引けるが、この際仕方あるまい。ベッド脇の水槽を──いや、フローリングの床を見やり、私は言葉を失った。

 短かった尾鰭は長く太い尾に変わり、胸鰭と尻鰭があったはずの場所には、短いがしっかりとした足がある。腹を擦り全身の筋肉をくねらせ前進して来るそれは、遠い昔田舎の川で見たオオサンショウウオに酷似していた。

「愛の奇跡だ」

 感に堪えないように、息子が呻いた。

「魚類から両生類へと進化したんですよ、彼女は。数億年の時の流れを、一気にジャンプして見せたんです」

 そんなものだろうか。すっかり興奮した様子の息子をよそに、私は点々と濡れた床を眺めていた。


 さらに時は過ぎた。

 その朝も私は、仏間で線香を上げていた。仏壇の中央には、妻の写真が整然と納まっている。今この家で起こっている事態など知る由もない、穏やかな笑顔だ。

 合掌した手を下ろし、庭へと視線を移す。その手前の縁側を、疲れた顔をした息子が横切って行った。

「どうしたおまえ、顔色が悪いぞ」

「彼女が、眠らせてくれなくて」

 オオサンショウウオを相手に、一体どんな夜を過ごしているというのだろう。丸太のような「彼女」を持ち上げ、息子はその肌を示した。

「それに、もう両生類じゃないんですよ。ほら」

 体を包んでいた粘膜は消え、代わりに金属的な光沢を持つ鱗が生えている。成程、形状こそほとんど変わらないが、彼女は着実に階段を上り続けているのだ。

「それよりお父さん」

 巨大な爬虫動物を抱え上げたまま、息子は言った。

「もういいでしょう? そろそろ彼女を、お母さんに紹介したいんです」「今はやめておきなさい」

 妻は、蛙や蛇が大嫌いだったのだ。

 しかし間もなく、そんな心配もなくなるのだろう。思いながら私は、後手にそっと仏壇の扉を閉めた。


 やがてそれは現実となった。

 濡らした雑巾を絞り、目の前に敷いてやる。毛の生え揃った前足をその上に踏み締め、「彼女」は軽快に走り始めた。

 時折仕事の手を休めては、興味深げにこちらを見上げる。つぶらな瞳、ひくひくと動く鼻先、大型のネズミのような姿だ。

「ネズミはとうの昔に卒業してますよ」

 かいがいしく縁側を行ったり来たりしている彼女を追いながら、息子は目を細めた。

「分類学上でいう化石霊長類、プルガトリウスと呼ばれる猿の仲間です」

「ということは」「はい」

 彼女が直立歩行を始めるまでに、さほど時間はかからなかった。

 縁側に並んだ私と息子の間を、味噌汁の香りが通り過ぎていく。妻が死んでからというもの、家にこの匂いが漂ったことはない。懐かしい空気を鼻孔一杯に吸い込み、私は口を切った。

「服を、着せてやりたいんだがね」

 彼女は徐々に体毛が薄く、頭髪は濃くなって来ている。このままでは息子はともかく、私が目の遣り場に困ることになるだろう。だが勿論、理由はそれだけではなかった。

「でも、ここには女物の服なんて──」

「母さんのがあるだろう。それが駄目なら、買って来ればいい」

 ああそうだ、と思い出したかのように言葉を添える。

「座敷の桐箪笥の奥に、母さんのウェディングドレスがあるはずだ。まずは、それを着せてやりなさい」

「──お父さん」

 庭の柿の木の梢で、雀が小さく鳴いていた。


 式は二箇月後に行われた。

 ドレスの仕立て直しに、思ったより時間がかかったのだ。日々刻々と変わって行く彼女のプロポーションに型を合わせるのは、並大抵の努力ではあるまい。

 私は控室に、花嫁を迎えるため足を運んだ。花婿の父がエスコートを務めるのは異例だろうが、彼女の「成長」をずっと見守って来たのだ、ある意味では育ての親と言えなくもない。

「行こうか」

 部屋に入ると同時に、純白のドレスが目に飛び込んで来る。三十五年前の妻の花嫁姿が、鮮やかに脳裏に蘇った。

 完全なホモ・サピエンスの女性が、そこにいた。

 ヴェールで隠された瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。桜色の唇が小

 さく動き、声帯が音を紡ぎ出す。

『……お義父とう様』

 それが私の聞いた、彼女の最初の言葉だった。


 一年が過ぎた。

 洗濯籠が空になり、彼女が縁側に腰を下ろす。真っ白に洗い上げられた衣類が、朝の風にはためいている。

 あれからというもの、私達家族はすこぶる平穏な日々を送って来た。彼女という伴侶を得て、息子はますます研究に打ち込んでいる。私もすっかり手持ち無沙汰になり、何か新しい趣味でもと思い始めていた所だ。だが──

 私は庭の柿の木に目を移した。頂点に一つ残された柿の実が、晩秋の夕焼けを一点に集めたかのように照り映えている。

 彼女の視線は、その遥か上の雲を見ているように思えた。いやあるいは、私には知覚出来ない何かを無意識に感じ取っていたのかも知れない。

「……解っているよ」

 彼女のとがりかけた耳が、ぴくりと動いた。

 こうして空を眺めながら、溜息をつくことが多くなった。昼下がりにふらりと出掛けては、夕食の支度の時間に帰って来る。息子以外の相手と逢っていることは、容易に想像できた。

「息子には、私から話しておくよ。君は、君の思うようにすればいい」

 縦に長く伸びた瞳孔から涙が溢れ、彼女のエプロンに碧い染みを作る。責めるつもりはなかった。自分の感情の変化に戸惑っているのは、おそらく彼女なのだから。

『……』

 彼女が口を開こうとした瞬間、まばゆい光が地上を満たした。

 空を一面に覆い尽くす、広大な銀色の影──あれが俗に言う、空飛ぶ円盤、という奴に違いない。

「待ってくれ! 行かないでくれ!」

 息子だった。パジャマ姿のまま、慌てて寝室を飛び出して来たらしい。

「僕を置いていくのか! あんなに、僕達はあんなに……」

 彼女に縋りつこうとする息子を、私は抱き止めた。

「やめなさい」

「お父さん、どうして止めるんです」

「……行かせてあげなさい」

 愛とは、より善いものに近づこうとする力だという。

 その力に導かれ、彼女は息子を追って幹を、枝を駆け登っていった。

 だが息子と同じ果実を手に入れた時、彼女はそれを見失ったのだ。息子は──私達人類は、もはや彼女の向上心に応えることは出来ない。

『ごめんなさい』

 可聴域の限界を滑るような声で、「彼女」は別れを告げた。進化の系統樹のより高みを目指して、彼女は旅立ったのだ。


「なにやってるの、二人とも」

 呆れたような声が、庭先に響いた。

 娘だった。イギリスにガーデニングの勉強に行くと言って飛び出したきり、連絡一つ寄越したことがなかった。その娘が、何故今頃戻って来たのだろう。目元を手の平でこっそりと拭い、私は答えた。

「なんでもないよ。それよりお前」

「お願い、お父さん」

 娘が私を呼んだ。その表情を、私は以前にどこかで見たような気がする。

「──逢って欲しい人がいるの」

 そう言った娘の手は、大きな植木鉢を抱えていた。

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