Maiglöckchen

十日屋菊子

吸血鬼と少女


 荒れ野に一輪、花が咲く。

 愛でるか枯らすか、それとも――



 曇り始めた空を見上げて、男はその柳眉をひそめた。早く家に帰らないと、雨が降り出しそうだ。彼は荷物を抱え直し、少し足を速めて家路を急ぐ。

 街から伸びて広大な畑を抜け、平原へと続いている道には、彼以外に人影は無い。前方に見える小高い丘の上には、古い屋敷が一軒建っているだけだった。この辺りは、街道を通って他の街と行き来する人間が時折いる程度で、屋敷に出入りする人間は皆無と言っていい。

 そう、一人を除いては。

 黒い外套を纏い、目深に被ったつばの広い黒い帽子の下から、緩やかにうねる長い金髪を溢れさせた、中背で痩せ型の男である。帽子の影になり、長い前髪で右半分が隠された顔は色白というよりは青白く、端整な、ともすれば女性的ともとれるような顔立ちをしている。やや垂れ目気味の緑の瞳を縁取る長い睫毛と相まって、優男という形容が似合う人物だった。外見は若者のそれであったが、どこか老成した雰囲気も漂わせており、歳の頃は今一つ判然としない。

 彼は躊躇なく平原に続いていく道から外れ、丘の上の屋敷へと歩を進めた。近くまで行くと、屋敷の敷地は周囲をぐるりと高い塀に囲まれ、がっしりとした鉄格子の門の向こうには、荒れ放題の広い庭が見える。そのさらに奥に、小さいながらも気品のある佇まいだが、どこか陰気な空気を漂わせる屋敷があった。天気が天気という事もあるだろうが、それだけではない、何か物悲しい気配のする建造物だ。

 ここが、彼の住処であった。

 門に向って歩を進めたところで、男ははたと足を止めた。

 いつも通りの風景に、異質なものが存在している。

 門のすぐ横の塀の下に、何かが丸まっている。近付いて確認するまでもなく、それは人だった。塀にもたれるようにして顔を伏せ、うずくまっている。

 男は少しの間逡巡したが、とにかく門を通らねば家に入れない。仕方なく近寄って見てみると、随分と小さく、体つきも幼い。俯いているため、柔らかそうな茶色い髪に隠れて顔は確認できないが、明らかに子供であった。ぼろぼろの服を纏っており、裸足の爪先は土埃で汚れている。すぐ目の前に男が立ったというのに、まるで反応が無い。

 何故、こんな所に子供が。

 再び眉をひそめ、男は門に手を掛けた。

 見ず知らずの子供がどうなろうと、知ったことではない。関わり合いになるのは、ごめんだった。

 ギィィ、と耳障りな音を立てて開いた門はほどなくして再び締まり、男と子供を隔てる。そして曇天の空の下に、屋敷の玄関の扉が閉まる音が響いた。

 屋敷の台所で、街で買ってきた食料品や消耗品のストックを整理しながらも、男は先程の子供のことを考えていた。

 この屋敷を訪れる人間など、ほとんどいない。しかもそれが、ぼろを纏った子供が一人きりとは、一体どういう事なのだろう。

 微かな物音が、彼を物思いから引き戻した。窓ガラスを水滴が叩く細かい音が、さわさわと部屋に満ちていく。とうとう、雨が降り出したのだ。

 あの子供は、どうしているだろう。

 先刻、関わり合いにはならないと決めたばかりではあったが、やはり気になるものは気になる。もうすぐ日没だし、雨も降っている。一気に気温は下がるだろう。

 窓際まで行って目を凝らしてみるが、塀の向こう側を見ることはできない。しばらく迷って、男は玄関先まで移動し、古い蝙蝠傘を手に取った。

 まだあの子供が先程の場所にいるのか、確認するだけ。

 そう自分に言い聞かせながら玄関を開け、外に出る。

 手入れのされていない、草木が伸び放題の庭を抜けて門を開けると、子供はまだ先ほどの場所にうずくまっていた。細い肩を、雨が容赦なく濡らしている。恐る恐る手を伸ばして、その肩をそっとつついてみると、こてん、と子供は倒れた。それまでよく見えなかった服が女児のものであるのが見て取れ、どうやら少女であるらしいことだけは分かった。

 死んでいるのではないだろうか、という思考が脳裏を過ったが、胸に手を当てると微かに心臓が動いているのが伝わってきた。衰弱しているようだが、まだ生きている。

 この期に及んでも、男はしばらく躊躇していたが、その間にも雨は強くなり、少女の肌は冷たくなってゆく。

「……仕方ないな」

 小さく呟いた男は片腕で少女を軽々と抱え上げ、急いで屋敷へと取って返した。

 とりあえず濡れた服を着替えさせなければならないが、男の一人暮らしである。少女に着せる服があるはずもなく、応急処置として箪笥から自分のシャツを取出して着せることにした。雨に濡れそぼった服を脱がせようとして、男の手が止まる。

 ここで一応、彼の名誉のために言っておくが、男に下心は一切無い。彼は辺鄙なところに住む偏屈な人物ではあったが、女性を大切にする紳士であり、子供相手に変な気を起こすような趣味は、断じて持ち合わせていないのである。

 閑話休題。

 彼が手を止めたのは、少女の服の下にある物が見えたからである。細い鎖に通され、少女の薄い胸の上で鋭く光を反射するそれは、十字架の形をした銀色のペンダントだった。

 顔をしかめた男は、そっと十字架に手を伸ばす。その女のように白く細い指先が十字架に触れた瞬間、火傷でもしたかのように男は手を引っ込めた。否、実際に男の指先はうっすらと赤くなり、まるで軽い火傷のようになっているが、もちろん十字架が熱い訳ではない。その証拠に、少女の肌はミルクのように白く滑らかだった。

 男は困ったような顔で少し考え込んだが、十字架に触らないように、そして極力少女の裸を見ないように気を遣いながら濡れた体を拭いてやり、乾いた服を着せて居間のソファに寝かせる。一応彼の寝室以外にもベッドが置いてある部屋があるのだが、もう長い間使われていないため、埃まみれで到底使える状態ではなかったのだ。

 暖炉の火を強くして部屋の温度を上げ、改めて少女の様子を観察する。掛けられた毛布の端から覗く顔は青白く、やや痩せ過ぎのきらいはあるものの、可愛らしい顔立ちをしていることは見て取れた。

 ソファの向かいに置いた椅子に腰掛け、これからどうしようかと男が考えていると、その目蓋がぴくぴくと震え、少女はゆっくりと目を開いた。何度か瞬きをしてから、上に天井があり、自分が室内にいることに気付いたらしく、その大きな瞳をきょろきょろと動かし、やっと男の姿に目を止めた。

「……ここは?」

 目を覚ました直後のためややかすれているが、澄んだソプラノでそう聞かれて、男は腕を組んだ。

「私の家だ」

「丘の上の、大きなおうち?」

「そうだ」

「えっと、あなたが、連れてきてくれたの?」

「他に誰がいるんだ」

 やや苛ついた調子でそう返した男を見て、少女は体を起こして首を傾げた。

「わたしは、ミア。ミア・ヒルフェっていうの。あなたは?」

「……ファドマール・ミューエだ」

 男の名を聞いて、ミアはぱっと顔を綻ばせた。

「ファドマールっていうのね! よろしくね、ファドマール」

 その笑顔を眩しそうに見て、ふん、と鼻を鳴らしたファドマールは、不機嫌な表情のままミアに尋ねた。

「歳は?」

「十歳」

「親はどうしている。何故あんな所にいた?」

 そう聞かれた途端に、ミアは顔を曇らせた。

「お父さんと、お母さんは……流行り病で、死んじゃったの。住んでた村は病気の人たちばっかりで、別の街に行ったんだけどお金も食べる物も住む所も無くて……行く所が無いから、ずーっと歩いてたら、あなたのおうちの前に出たの。おなかがすいて歩けなくなっちゃったから、座って休んでたら、そのまま寝ちゃってたみたい」

 それは寝ていたというよりも、意識を失っていたと言ったほうが正しいのではないだろうか。

 ファドマールがその言葉を飲み込んだ直後、ミアが血相を変えて胸元に手をやった。ぱたぱたと手のひらで何度か触り、だぼだぼの男物のシャツの襟元から中を覗き込み、安堵の表情で顔を上げる。

「良かった……」

「何が」

「お母さんの、形見のペンダント。お母さんがね、いつもすごく大事にしてたの。綺麗でしょう?」

 ミアは襟元から引っ張り出したペンダントを指し示して、また服の中にしまい込む。彼女から顔を背けて、ファドマールは立ち上がった。

「……何か、食べる物を持ってくる。そこで待っていろ」




 ファドマールがミアを拾ってから、三日が経った。ミアは本当に空腹で動けなくなっただけだったらしく、きちんと食事を与えただけで見違えるほど元気になっていた。何かと言ってはファドマールに付きまとってあれやこれやと質問攻めにするので、彼は内心ではかなり閉口していた。しかし、拾ってしまった以上はそれなりに責任を取らねばならないので、再び街へ行って食料品とミアに着せる子供服を買い込んだり、長いこと使われていなかった部屋を掃除して使えるようにしたり、何だかんだでかいがいしくミアの世話を焼いている。

 これも、彼女がこの家を出ていくまでの辛抱だ。あと数日以内に、何が何でも出て行かせて、元の平穏な日々に戻ろう。

 そう自分に言い聞かせながら、二人分の朝食の片付けを終えたファドマールは、二階に上がって自分の寝室の隣の部屋に向かった。中央に大きなピアノが鎮座しており、その脇に小型の机が置かれている他には何も無い、がらんとした殺風景な部屋であったが、ここが彼の仕事場である。

 あの子供が来てから、ろくに本業に集中する暇も無かったではないか。

 溜息をつきながらピアノの前の椅子に腰かけたファドマールは、その細い指をそっと鍵盤の上に置いた。

 しなやかな長い指が柔らかな動きでと鍵盤の上を這い、静かに旋律を紡ぎ始める。ゆっくりと始まった曲の物悲しい旋律が、部屋の中を満たし、開け放たれた窓から外へと流れ出した。胸の奥に仕舞い込んだ、遠い昔の悲しみを吐き出すようにして、ファドマールは鍵盤から音楽を生み出していく。

 途中まで弾いたところでぴたりと手を止め、脇の机に置いてあった楽譜にペンで音符を描きこんでゆく。そうしてまたしばらく鍵盤を叩き、手を止めてペンを手に取る。

 ファドマール・ミューエの職業は、作曲家である。偽名でピアノ曲をいくつも発表しており、その収入で生活しているのだ。さして儲かっている訳ではないが、少なくとも生活には困っていない。音楽家には変人が多いから、ずっと家に引きこもっていても偏屈な人物だと思われる程度で怪しまれないし、何よりも彼は音楽を愛している。こうして一人でピアノと向き合い、音楽を生み出していくことが、彼にとっては何よりも心安らぐ時間なのだ。

 一つ欠点があるとすれば、一度ピアノに向かうと時間を忘れてしまう事だろうか。朝から晩までどころか、寝食を忘れて翌日まで弾き続けてしまう事もある。幸いにも、訪れる者も無い寂れた屋敷に一人で暮らしているため、実害らしい実害は何も出ていないのだが。

 頭の中のイメージの色彩を音に変換して、指先で織り上げていく。今日は調子が良いらしく、次から次へ、我先にとばかりに音が溢れ出す。その心地良い感覚に酔いながら、キャンバスに絵の具を乗せて絵を描くように音を塗り重ね、その綺麗な色を留めようとモノクロの楽譜にペンを走らせる。

 どのくらいの時間が経っただろうか、ふっと我に返ると夜になっていた。青い月光が、開け放たれた窓から差し込んでいる。

 集中し続けていたのが途切れた直後の、ぼんやりした頭を軽く振って溜息をつき、何気なく振り返ったところで、ファドマールは凍りついた。

 彼の後ろ、部屋の扉の横の壁にもたれるようにして、ミアが膝を抱えて座っている。青い月光の他には光源の無い暗い部屋の隅で、自分の体を抱きしめるように縮こまったまま、じっと黙ってファドマールを見上げていたのだ。

 一気に現実に引き戻されて、ファドマールの元々青白い顔がさらに青ざめる。確か今日は、二人で朝食を食べた後、すぐにピアノに向かった。昼食も夕食も、ミアには食べさせていない。

 耳が痛くなるほどの沈黙が、部屋の中に広がる。

 ややあって、ミアはぱっと笑って、ぱちぱちと手を叩いた。静かな部屋に、たった一人の聴衆の拍手が響く。

「ファドマール、ピアノが上手なのね! すっごく綺麗!」

 普段、他人に自分の音楽を褒められる事があまり無いファドマールは、狼狽して意味も無くぱたぱたと手を動かした。

「そ、その、私は」

「もう、ファドマールったら呼んでも返事もしないんだから! でも、ピアノが素敵だから、許してあげる!」

「……すまない」

「うん。……ね、ご飯にしよう!」

 ぴょんと立ち上がったミアは、ファドマールの手を取る。

「あのね、お母さんに教えてもらった料理を作ったの! 結構ジシンサクなのよ!」

「君が、料理を?」

「そうよ! ファドマールったら、料理が全然出来ないでしょ? だからわたしが作ってあげたの!」

「いや、確かに上手では無いが、多少は……」

「わたしが作ったほうがおいしいもの!」

 そのまま手を引かれて、ファドマールも居間へと向かった。

 随分と久々に誰かと暮らす温かさを、心地良く思っている自分自身に気付かないまま。




 翌日、朝食の席で、ファドマールはおもむろに切り出した。

「ミア……君には、いずれこの家を出て行ってもらう。いいね?」

 食べ終えて紅茶を飲んでいたミアは、不安そうな顔でカップをテーブルに置いた。

「……どういう事?」

「知り合いに頼んで、養子なり住み込みの奉公なり、どこかきちんとした行き先は見つけてもらうから、心配は要らない」

「どうして!? わたし、ここにいたい!」

「いつまでもこんな所に居ないで、君は外の世界で幸せになったほうがいい」

「わたし、ファドマールとここにいるのが楽しいわ! それとも、ファドマールはわたしが嫌いなの!?」

「そういう訳じゃない」

「じゃあ、どうして!?」

「理由は言えない」

 ファドマールは、苦虫を噛み潰したような表情で紅茶を一口飲んだ。

「ただ……君は、あまり長くここにいるべきではない。分かってくれ」

「わかんない! わかんないよ、そんなの!」

「ミア、何度も言わせないでくれ」

「……もう!」

 勢いよく立ち上がり、ミアは走って部屋を出ていった。足音が頑丈な石造りの階段を上り、ミアにあてがわれている部屋へと移動していくのを鋭敏な耳で確認して、ファドマールは溜め息をついた。

「すまない……でも、これが一番いいんだ」

 ぽつりと呟いた声が、がらんとした部屋を漂って、消えた。

 一人で後片付けを終えたファドマールは、屋敷にミアを残して街へと出掛けた。晴れて日差しが強いため、つばの広い帽子を被った上にさらにスカーフを鼻の上まで巻き、左の目許以外をすっかり隠して屋敷を出る。

 これまでは、時折出掛けて大量の保存食や消耗品を持てるだけ買い込んで済ませていたが、ミアが来てからはそうもいかない。食品の減り自体も速くなったし、ファドマール一人ならば簡単なもので済ませたり、面倒な時は食事を抜いたりも日常茶飯事だったが、やはり育ち盛りの子供にはきちんとしたものを食べさせねばならない。変な義務感に駆られて、新鮮な食品を手に入れるために数日おき位には街を出掛けているのである。

 そういう訳で、街に出て野菜や肉などを買い込んでいたファドマールであったが、青果店を後にしたところで後ろから呼び止められた。

「ちょっとあんた、いいかね?」

 振り返ると、揃いの制服を纏った軍人が数名立っていた。

「……何か?」

 努めて平静を保ちながらそう返すと、最初に声をかけてきた軍人がつかつかと近寄ってきた。

「あんた、何をしてる?」

「何、とは……買い物だが」

「買い物をするのに、顔を隠す必要がどこにある。何か、人に顔を見られては困るような、良からぬことでも企んでいるんじゃないのか?」

 詰め寄られて、ファドマールはスカーフの中で小さくため息をついた。まあ、この格好では怪しい人間だと思われても仕方がない。

「いや……これは、そういう理由じゃない」

 口許のスカーフを下ろし、右目にかかっていた長い前髪をかき上げる。露わになったその顔を見て、軍人は息を呑んだ。

 ファドマールの右目は、顔を縦に走る大きな傷痕によって無残に潰されていた。周囲の皮膚が引きつった目に視力など残っていないことは明白で、なまじ左半分が女のような中性的な美貌であるばかりに、より一層その無残さが強調されている。

「昔、事故で大怪我をしたせいで、醜い顔をしているんだ。あまり、人に見られたくはなくてね」

「……それは、すまなかった」

 申し訳なさそうな顔をして、軍人は再び顔にスカーフを巻き直すファドマールに頭を下げた。

「ほら、近頃はこの辺りも物騒だろう? 軍も、警戒を強化しているんだ」

「物騒? 何かあったのか?」

 聞き返すと、軍人は呆れ顔になった。

「知らないのか? 最近このあたりで、強盗の被害が相次いでいるんだ。殺されてる被害者もいる、性質の悪い相手だよ。あんたも気を付けたほうが良いぞ」

「そうか……気を付けるとしよう。失礼する」

 軍人に背を向け、再び歩き始めたファドマールは、心なしか足を速めた。




 異変は、その夜に起こった。

 依然として不機嫌なミアを寝かしつけ、ファドマールは一人、居間で楽譜のチェックをする。殴り書きの楽譜を新しい紙に丁寧に清書する作業の途中で、彼はふと顔を上げた。

 外から、ひそひそと人の話し声のようなものが聞こえる。耳を澄ますと、どうやら門の外に複数の人間の気配があった。

「本当に、誰も住んでねえんだろうな」

「庭も手入れされてねえし、たぶん居ねえだろ。もし居るとしても、周りには誰も居ねえ。鉢合わせたら……な?」

 押し殺したような、笑い声。

 ランプの灯を消し、ファドマールは密やかに窓際に移動する。締まっていたカーテンを少しだけ開けて外を窺うと、門の向こう側に、ランプを布で覆っているらしい弱々しい明かりが見えた。月には雲がかかっているのか、ほぼ真っ暗に近かったが、ファドマールにとっては好都合だ。

 彼は、暗闇に生きる存在。相手が複数であろうと、彼の優位は揺らがない。

 ミアを起こさないよう、ひそやかに裏口まで移動する。音を立てないように外に出て、屋敷の正面が見える位置まで移動し、そっと物陰から様子を伺うと、ちょうど屋敷の玄関のところに灯りが見えた。男が四人おり、一人がランプを持っている。どうやら鍵のかかった玄関の扉をこじ開けようとしているらしく、ガチャガチャと耳障りな音が響いている。

 建物の影から飛び出したファドマールは、自身を暗闇に同化させるように静かに、そして素早く男達に接近し、強く地面を蹴った。普通の人間では有り得ない距離を跳躍し、そのまま鍵をこじ開けようとしていた男に両足を揃えて飛び蹴りを見舞う。

 バキッ、と嫌な音を立てて、男が吹っ飛んだ。

「は?」

 何が起こったか分からず呆気にとられた残りの三人だったが、小さな靴音が近付いてくることに気付き、一人がランプを掲げる。

「……女?」

 ランプの光の中に現れたのは、長い金髪に青白い肌の、中性的な顔立ちをした細身の人物だった。右目は長い髪に隠され、左側だけ露わになっている緑色の瞳には、冷徹な怒りが燃えている。

「……何だ、てめえ」

「それはこちらの台詞だな。ここは私の家だが、何をしている?」

「チッ……」

「もしかして、軍が手配している強盗事件の犯人というのは、君達の事だろうか」

「だとしたら……どうする?」

「そうだね。私としては、今すぐにお引き取り願えるなら、この件は無かったことにしても構わないよ。そこのご友人共々、ね」

 リーダー格と思われる男が、意識を失っているらしい一人を見やって、小さく舌打ちをした。

「何をしやがったか知らねえが、タダで済むと思うなよ」

 三人はファドマールを取り囲むように移動したが、ファドマールは落ち着き払って突っ立っている。それが気に障ったのか、リーダー格の男は上着の内側から拳銃を取り出した。

「おい、流石に銃は……」

「知ったこっちゃねえ、ここは街から離れてるからな。誰も気付きやしねえよ」

 ぴたりと眉間に向けられた銃口を眺めて、ファドマールは肩を竦めた。

「見逃してやろうと言っているのが、分からないようだね。少し、痛い目を見てもらったほうが良さそうだ」

「この野郎……減らず口を叩けるのも、そこまでだ」

 次の瞬間、ファドマールの斜め後方にいた別の男がナイフを抜いて飛び掛かった。相手は銃に気を取られている上に、丁度死角に当たる位置からの攻撃だ。これを避けることはまず出来ないだろう、と三人ともが思った。

 確かに、避けなかった。

 くるりと振り返ったファドマールは、首筋に向かって振り下ろされたナイフに真っ直ぐに右の掌を向ける。

 白い掌を、ナイフが貫いた。

「ウソだろ……」

 思わずナイフから手を放して後ずさった男には目もくれず、ファドマールはナイフが完全に貫通してしまっている右手をしげしげと眺めた。

「酷いことをするね。まあ、この程度ならピアノを弾くのにも支障は出ないだろうが」

 僅かに顔をしかめながら事も無げにそう言って、ナイフの柄を左手で握り、造作もなく抜き放って投げ捨てる。

 一気に血が噴き出し、地面に滴り落ちる……はず、だった。

 確かに、傷口から血は溢れ出した。しかし、それは滴り落ちる前に停止し、重力に逆らって動き始める。うぞうぞと妙に生き物めいた動きで、血液は引き寄せられるように傷口に集まった。傷口の周りの肉や皮膚もうねりながら繋がっていき、傷口を塞いでゆく。ものの数秒で傷口は跡形もなくなり、ファドマールの手は元通りの傷一つ無い白い皮膚に覆われていた。

「な、何だこいつ!」

 直後、銃声が数回にわたって響いた。胸や腹に銃撃を受け、ファドマールの細身の体が傾ぐ。しかし、一瞬バランスを崩しただけですぐにまた体勢を立て直したその体からは、ぽろぽろと銃弾が落ちて冷たい音とともに敷石の上に散らばり、傷口は蠢きながら塞がっていった。

「ああ、うん。流石に今のは、少々痛かったかな」

 腕組みをして首を傾げて見せたファドマールの左目には、冷たい光が宿っている。

「ば……化け物!」

 我先にと逃げ出した男達だったが、ファドマールはそれを遥かに上回る速さでその正面に回り込んだ。

「その通り、私は君達人間からは化け物と呼ばれる存在だよ。君達は、その化け物を怒らせたんだ……相応の報いは、受けてもらわないとね」

 恐怖に顔を歪めた三人を見て少し笑い、ファドマールは目にも止まらないほどの速さで移動しながら、次々と三人の急所に拳を叩き込む。倒れた三人を見やって、彼はぽつりと呟いた。

「そう、私は化け物だから……だから」

 一瞬だけひどく寂しそうな表情を浮かべた彼を、雲間から覗く月の光が照らした。

 四人の強盗全員が意識を失っているのを確認して、ファドマールはそのうちの一人の側に膝をつき、肩を掴んで起こす。

 顔をしかめ、彼は一瞬躊躇した。

 しかし――こうしなければ、彼は生きられないのだ。

 大きく口を開け、ファドマールは男の首筋に噛み付く。通常の人間よりも長く鋭く発達した犬歯が、皮膚を破って深々と突き刺さった。ごくん、と白い喉が動き、男の血液を嚥下する。何度か血を飲み込んだところで、屋敷の玄関の扉が開いた。

 扉の影から顔を覗かせたミアと、物音に気付いて振り返ったファドマールの目が合った。月光に照らされたファドマールの唇から、赤い血が一滴零れる。

 時間が、止まった。

 ファドマールは、見られてはいけない所を見られてしまった事に動揺して凍りつき、一方のミアは、目の前で起こっていることが理解できずに立ち竦んでいた。

「……何、してるの」

 先に口を開いたのは、ミアだった。

「なにか、大きな音がしたし……その人たちは、だれ? ファドマールは……何を、してるの?」

「……その、私、は」

 完全に狼狽しきって、ファドマールは俯いた。

 その心の中に広がったのは、ああ――終わったな、という、どす黒い喪失感。

 知られてしまった。見られてしまった。

 もう、おしまいだ。

 そんな言葉が、頭の中をぐるぐると廻る。

 小さな足音と共に、ミアが近くまで歩いてきて足を止めたのが、目の隅に映った。観念して目を閉じ、大きく息を吸って、ファドマールは声を絞り出す。

「……私は……私は、人間じゃない。吸血鬼なんだ」

「吸血鬼?」

「そう。人の血を吸わなければ生きられない、暗闇に生きる存在……君達人間とは、違う生き物なんだ」

 沈黙が、流れる。

 そして、その沈黙を破ったのは、ファドマールでもミアでもなかった。

「この……化け物……!」

 ミアの背後で、ファドマールに殴られて昏倒していたはずのリーダー格の男が体を起こしていた。その手に銃が握られているのが目に入った瞬間、ファドマールは考えるよりも先に抱えていた男を脇に放り出し、ミアに向かって手を伸ばす。

 ミアが振り返るよりも先に、その小さく華奢な身体を抱き寄せて庇う。

 男はファドマールに銃口を向け、引き金を引いた。ファドマールと、彼に抱きかかえられたミアが地面に倒れ込む。

 銃声が響き、その残響が消えて、当たりは静寂に包まれた。

 恐る恐る顔を上げたミアは、自分を抱きかかえているファドマールの腕がだらりと力無く落ちたのに気付き、慌てて彼の顔を覗き込んだ。そして、彼の白い額の真ん中に弾丸が撃ち込まれているのを見て悲鳴を上げる。

「ファドマール! ファドマールってば!!」

 虚ろに開かれた緑の瞳には、夜空の月が反射するだけだった。

「いや……いや! ファドマール!」

 必死になって彼の身体を揺さぶるミアだったが、反応は無い。

「はは……いくら化け物でも、頭ぶち抜きゃ死ぬだろ……」

 ミアが振り返ると、立ち上がった男がミアに銃口を向けていた。

「い、いや……」

「どうせこのガキも化け物なんだろ……殺して……」

 男の言葉は、途中で途切れた。

 再び立ち上がったファドマールが、目にも止まらない速さで男に肉薄し、その腹に拳を叩き込む。吹っ飛んだ男は、地面に叩きつけられる前に意識を失っていた。

「う……くっ……!」

「ファドマール!」

 がくり、と膝をついたファドマールに、ミアが駆け寄る。屈み込んで彼の顔を覗き込んだミアは、ファドマールが額を押さえた指の隙間から、再生する骨や肉に押し出されて弾丸が落ちるのを、確かに目にした。傷が塞がっていく間、ファドマールは苦痛に顔を歪めていたが、やがて皮膚まですっかり再生して傷が跡形もなくなると、ゆっくりと瞬きをして溜息をついた。

「何度経験しても嫌なものだね、傷が再生していく感覚というのは」

「……大丈夫、なの?」

「ああ。もう、すっかり塞がったようだね」

「触っても、いい?」

 恐る恐る指先を伸ばして、ミアはファドマールの額に触れる。ミアに比べて幾分体温は低いものの、普通の人間と同じ手触りの皮膚が傷一つ無く繋がっているのを確認して、彼女は息を呑んだ。

「本当に……傷が、なくなってる……」

「言っただろう。私は、人間じゃないって」

 それまで伏せていた目を上げてちらりとミアの顔を見て、ファドマールは半ば自棄のような自嘲的な笑みを浮かべる。

「ミア、君の母上のペンダントを貸してくれないか」

「え?」

「いいから」

 ミアは襟元から十字架のペンダントを引っ張り出し、ファドマールが差し出した掌に乗せた。次の瞬間、シュウ、という音と共にファドマールの手から煙のようなものが上がり、慌ててミアはペンダントを取り上げる。ファドマールの掌は、まるで火傷でもしたように焼け爛れていた。銃で撃たれた傷はすぐに再生したのに、こちらの火傷は再生する気配がない。

「どうして……」

「十字架には、触れない……私が、呪われた存在だからだよ。これで分かっただろう。吸血鬼が、どういうものか」

 十字架のペンダントを握り締めたまま、ファドマールの掌の火傷をを凝視していたが、しかし――ミアは、動かなかった。

「逃げないのか? 私は君のことを、食い殺すかもしれないんだぞ?」

「……ファドマールは、そんなことしないわ」

「何故そんなことが言える? 相手は、吸血鬼……人の血を吸う、殺しても死なない、十字架に触れれば傷付く化け物なんだぞ?」

「化け物なんかじゃないわ!」

 ミアは、ファドマールの両肩に手を乗せて、必死に少ない語彙から言葉を紡ぐ。

「ファドマールは、すごく優しいもの! さっきだって、わたしのことを守ってくれたわ! 確かに、わたしとは少し違うけど、でも、わたしはファドマールの事、怖いなんて思わないわ!」

 ファドマールは、驚いた顔でその顔を見つめる。

「……本当に……本当に、良いのか?」

「うん! ……ねえ、もしかして、ファドマールがわたしに出て行けって言ったのは、本当のことを知ったらわたしが怖がると思ったからなの?」

「ま、まあ……そういう事、だが……」

「だったら心配いらないわ、わたし、ちっとも怖くなんかないもの! だからわたし、ずっとこの家に居たい! ファドマールと一緒に! ねえ、いい?」

 笑顔でそう問われて、ファドマールは思わず頷いた。

「うれしい!」

 ぎゅう、と首に抱き付かれて面食らった顔をしたファドマールだったが、やがて少し微笑み、ミアの小さな背中にそっと腕を回した。




 翌朝、街の真ん中の広場にロープで縛られた男が四人転がされており、一人の上着に「連続強盗事件の犯人」と書かれたメモがピンで留められていたことから、街はちょっとした騒ぎになった。軍が彼らを回収して事情聴取をしたところ、すっかり怯えきった様子で「化け物に襲われた」などと訳の分からない供述をしていたが、これまでに発生した数件の強盗や殺人事件の容疑に関しては容疑を認めたため、逮捕されることになった。

 結局誰が彼らを捕まえたのかに関してはわからないままであったが、一応事件は収束を迎え、以降は強盗事件もぱったりと無くなった。

 街外れの丘の上にある屋敷は、相も変わらず訪れる人間もおらず、街の住人達はその存在を気にも留めなかった。その為気付く者はいなかったが、しかし――屋敷には、ささやかだが大きな変化があった。

 明るい日差しに照らされて、今日も屋敷にはピアノの音と、少女の笑い声が響いている。




Das Ende

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