第36話 泥濘



 君は沈む、深き淵に。

 僕は君を眺める、沼の縁から。




 俺の親父は、左軍所属の魔術師だった。

 親父はお袋の事が本当に大好きで、すごくすごく大切にしていた。お袋が俺を身籠った時も、バカみたいに喜んだらしい。

 でも、元々身体が弱かったお袋の容体は次第に悪くなって、このまま俺を産むのは危険だと医者に言われたんだそうだ。

 親父は悩んだ末に堕ろすように説得したけど、お袋はがんとして中絶しようとしなかった。最後には親父も諦めて、俺を産む事に同意した。

 そして、お袋は死んだ。

 俺もかなり危ないところだったらしいんだけど、何とか助かった。

 それから、俺はずっと親父に育てられた。ホントに溺愛って言葉が似合うような可愛がりっぷりだった。きっと俺を、お袋の形見だとでも思っていたんだろうな。目元がそっくりだ、ってよく言ってた。

 それだけじゃない。

 どんなにお袋が綺麗で可愛くって優しくっていい女だったか、毎日毎日お袋の事ばかり話していた。

 親父が見ていたのは、いつも俺じゃなかった。

 俺を通して、お袋の面影を追い続けてたんだ。

 そして、親父はだんだんおかしくなっていった。酒ばっか飲んでは酔って俺を殴るようになったし、素面の時の過保護さは次第に増していった。

 親父は、狂ってたんだ。

 お袋が死んだ哀しみと、そのお袋が遺した俺を一人で育てなきゃならないっていう苦悩で、一杯一杯になってたんだと思う。

 お袋が死んだように、いつか俺も目の前から居なくなってしまうんじゃないかと、恐れてもいたんだろうな。

 そのせいか……ある日を境に、俺は外に出してもらえなくなった。少し遊びに行っただけでも、目の前が霞むくらいに殴られる事もあった。家から出るなと言われるだけだったのが次第にエスカレートして、縛られたり、柱に繋がれたりするようになった。

 そうして、そんな生活がどの位続いたのか……。

 ある日、ついに親父はキレた。

 それまでも、煙草の火を押し付けられたりする事は有ったけど、決して親父は魔術を使わなかった。だけどその日、親父が魔術で起こした火炎が、容赦無く俺に襲いかかった。

 その頃の親父は、ろくに仕事にも行ってなくて、昼間っから浴びるように酒を飲む毎日だった。必然的に俺が殴られる回数も増えたし、食事なんかほとんど摂ってなかったから、逃げようにも脚が動かなかった。

 ゴウッていう音と、モノの焦げる匂い、それから肉の焼ける匂い……分かるか? 自分の身体が焼けていくのが、自分で分かるんだよ。

 怖いし気持ち悪いし、熱いとか痛いとかを通り越して、ただただ苦しかった。身体が痙攣してるのが分かったし、自分がとても人間とは思えないような声で叫んでんのも、遠くから聞こえた。

 だけど、どこか冷めた自分もいて、漠然と俺は死ぬんだろうなぁと思ってた。

 親父が俯せに倒れた俺の背中を何度も何度も殴りながら、呪いのように叫んでいた声が、今も耳の奥に残ってる。

 お前のせいだ、何もかもお前が悪いんだ。

 お前なんかいなければ、俺達は幸せだったんだ。

 お前が、あいつを殺したんだ。

 それは時間にしてみれば大した事無かったんだろうけど、俺に決定的なダメージを与えるには充分だった。

 俺にだって、そのくらい分かってた。

 親父が俺を、恨んでるって事くらい。

 でもそれと同じ位、いやずっとずっと、親父が自分自身を責めてた事も、俺は知ってた。

 どうしてあの時、お袋を止めなかったのか。

 止めなかった自分に、全ての責任が有るんじゃないかって。

 親父は苦しんで苦しんで苦しみ抜いた末に、狂っちまった。そうして、そこまで親父を追い込んだのは、他の誰でもない、この俺だった。

 だから、俺は諦めた。

 俺は、ここに存在しちゃいけなかったんだ。生きてちゃ、いけなかったんだ。

 だから親父……俺を殺してくれよ。一思いに俺を殺して、楽になってくれ。

 そう思って、意識が遠のくのに身を任せた。

 その時、複数の知らない声と足音が微かに聞こえてきた。

 リーダー格みたいな男が何か指示を出して、二、三人が親父に飛び掛かったのが目の隅に見えた。それから誰かが俺を抱き起こして何か言ってたけど、もう意識の限界で……その人の顔を見る前に、辺りが真っ暗になって何も分からなくなった。

 後から分かった事だけど、たまたま魔導騎士団の一部隊が任務の帰りに近くを通りかかって、騒ぎを聞き付けて突入してきたらしい。近くの病院に運ばれたんだけど、そこじゃ本格的な処置が出来ないってんで、応急処置だけ受けてすぐに軍用機で都に……この病院に、運ばれた。

 カルテを見たなら分かるだろうけど、焼けた部分を切除したり皮膚を繋ぎ合わせたり、難しい手術を沢山したんだってな。俺はずっと昏睡状態だったから、何も覚えてねーんだけど。

 実は、意識が戻ってからしばらくの記憶もほとんど無いんだ。

 ただ覚えてるのは、純粋な恐怖だけ。

 怖かった。

 周囲の何もかもが――怖かった。

 だけど、俺を助けてくれた軍人達はその後も何度か見舞いに来てくれて、その人達のおかげで少しずつ回復した。

 そして、お前と出会った『施設』に移されて……まあその後は、お前が知ってる通りだよ。




 しん、と沈黙が部屋を支配する。

 薄い膜越しに聞こえていたように小さかった、掛け時計の音がやけに大きく耳に飛び込んできて、ナナシはふっと我に返った。

「……ごめんな」

 無理矢理に開いた口から漏れた声は、隠しようも無く震える。

「やっぱ、話すの嫌やったやろ? 無理言って、ホンマに」

「いいって」

 そこで初めてナナシのほうを振り返り、サイザンは少し笑ってみせる。

「今までこの事は誰にも言ってこなかったけど、話しちまえばどーってことない……むしろ、聞いて貰えてスッキリした。ありがと、ナナシ」

 立ち上がって服を着はじめたサイザンの顔を直視出来ず、ナナシは俯いた。

 二人で誓いを立てたあの日から、何が有ってもサイザンはナナシに辛い顔を見せない。

 いつも一人でにこにこ笑って振る舞う姿勢は、無くした声を取り戻してからも、変わっていない。

 声が出なかったから、黙って笑って。

 声を取り戻したから、他愛の無い事を話しては笑って。

 その笑顔の裏側を、ナナシは今になって初めて垣間見た。

 澄んだ金色の瞳は、今までにどれだけ多くの闇を見てきたのだろう。

 今の彼は、どんなに深い泥沼の中にいるのだろう。

 そこは、成り行きとはいえその世界から足を洗ってしまったナナシには、見えてはいても届かない場所なのだろうか。

「……い、ナナシってば」

「あ、ああ」

 我に返ったナナシは、サイザンが顔を覗き込んでいる事に気付く。

「人の話はちゃんと聞いてろっての。そろそろ帰るって言ったんだぜ? 俺」

「あーそうですか、勝手に帰り。俺は知らん」

 知らんと言いつつ、ナナシは扉に向かうサイザンに付いて廊下に出た。

「二週間後にまた来い。さっきは三週間って言ったけど、お前のゴキブリ並の生命力なら二週間で十分治るやろからな」

「おいおい、買い被り過ぎじゃねえのか?」

「いや、お前は若いし、体力も鍛え方も半端やない。常人より早く治るやろ」

 そこでナナシは、サイザンの顔に向かって指を突き付けた。

「ただし、忘れるな。俺が言う二週間っちゅーんは、戦闘に耐えられる強度にまで回復する期間や。十日やそこらで治ったように見えるかもしれへんけど、くれぐれも無茶はせぇへん事。分かったか?」

「はいはい、分か……ってぇ!」

 受付の手前の角を曲がろうとしたところで、サイザンは不意に何かに脚をぶつけてよろめいた。一拍遅れて、ガシャンと何かが引っ繰り返る音がする。

 目を落とすと、横倒しになった車椅子の傍に、一人の少女が倒れていた。

「アリエ! 大丈夫か?」

 血相を変えて少女に駆け寄ったナナシに続き、サイザンも少女を起こすのを手伝う。

「ごめんね。痛かった?」

 歳の頃は十五かそこらだろう、少女は床に座り込んだまま、びっくりしたようにサイザンを見上げた。

「このアホ! しっかり前見て歩けや! アリエに何か有ったらどないすんねん!」

 悪かったよ、と言いながら、サイザンは車椅子を起こして少女の横に跪いた。

「ちょっと失礼」

「……きゃっ」

 ふわりと抱き上げられ、少女は驚いたように小さく声を上げる。そのまま、サイザンは軽々と少女を運んで車椅子に座らせた。

「はい、これ。本当にごめんね、大丈夫? 怪我とかしてない?」

 落ちていた膝掛けを少女の膝に乗せてやり、その顔を覗き込む。少女は、少しはにかんだように頷いた。

 ほっと息をついたサイザンの名前を、受付の看護婦が呼ぶ。

「あ、金払ってくるわ」

 受付に向かうサイザンの後ろ姿を眺めていたナナシの白衣の腰の辺りが、誰かに引っ張られた。

 振り返ったナナシに、アリエが小声で聞く。

「ねーねー先生、あの人友達なの?」

「まぁ……そんな所かな」

 実際は、共犯者と言ったほうが近いのかもしれへんけど、とナナシは心の中で付け足した。

「そうなんだ。……ちょっと、カッコいいかも」

 頬を染めるアリエを、ナナシは遣り切れない思いで見つめる。

 同い年でも、幼児体型といっても差し支えのない低身長に眼鏡の自分では、こうはいかないだろう。先程だって、もしナナシ一人だったら、アリエを車椅子に乗せてやるにも一苦労だったはずだ。

 サイザンが金を払い終えたのを確認し、ナナシはもやもやした感情を抱えながらアリエに手を振って、サイザンの後に続いて外に出た。

「そういや……妹は、まだ見つかってないのか?」

「あ? ああ。何でいきなりそんな事聞くん」

 位置のずれた度の強い眼鏡を直しながら、ナナシは尋ねる。

「あの車椅子の……アリエちゃん、だっけ? あの子見てる時のナナシの目、あったかかったから」

「アホ。医者として当然やろが」

 はは、と笑って、サイザンは頭の後ろで手を組む。

「俺も手の空いた時には手掛かりを探してるけど、あの組織の尻尾を掴むのは難しいからな。まだ、捕まったままなのか売られちまったのかも、分かってない」

「そうか……悪いな」

「気にすんなって、俺とお前の仲じゃんかよ」

「……気色悪いわ」

 吐き捨てるようにそう言って、ナナシは親友を見上げる。

 困ったように笑って、サイザンは親友を見下ろす。

「ま、お互い頑張りましょうって事で」

「言われなくても分かってるわ」

 門の手前まで来て、別れようとしたところで――前方から歩いてくる人物に気付き、二人は足を止めた。

「……メジェール博士……!」

 サイザンの声に、僅かに不快そうな響きが混ざる。普段あまり他人に対して敵意を見せない彼には珍しいことだったが、ナナシもこの男は嫌いだった。

 白衣を靡かせ、ゆっくりと歩いてくる男は、病的なまでに痩せている。骨格標本に布を被せて、カツラと白衣を引っ掛けたような外見だ。

 青白い顔に、ぞろりと長い黒髪。切れ長の目は右が鈍色、左は濁った薄青のオッドアイで、左眼に丸い片眼鏡がはまっている。薄い唇には、にまりと酷薄そうな笑みが貼り付いていた。

「キヒヒヒヒ、これはこれは。随時とご挨拶じゃないかネ、0238番君。確かにキミのような芸術品は存在だけで価値を発揮するが、キミが自らをヒトとして認知している以上、ある程度の社交性というモノくらいは見せて欲しいものだヨ」

 ねっとりと纏わりつくような、低いのにまるで落ち着いた感じの無い、妙に神経を逆撫でするような声が響く。

「あんたに、社交性がどうとか言われたくないね」

「ふうん、それは言えてるネ。どうやら一本取られたようダ」

 まるでどうでもいいと言わんばかりにそう流すと、メジェールは再びキヒヒ、と聞く者を不愉快にさせる笑いを漏らす。

「なんであんたが、こんな所に」

「おや、悪いかね? ワタシだって、病院に用が有る日くらいあるサ」

「どうせ新薬のデータ採集とかやろ? さっさとやる事済ませて帰ってくれへんかな」

「おやおや、センセイにはお見通しかネ」

 さも面白そうにナナシを『センセイ』と呼び、メジェール二人の側を通り過ぎた。

「まあ、今のままの状況が続けば、ワタシがキミ達と関わる事はそうそう無いだろうサ。何事も無ければ、の話だけれど、ネ」

 不吉な事を言いながら、メジェールは病院の入り口に向かって歩き去った。

「……」

「……」

 黙ってその背中を見送った二人は、同時に振り返って門のほうに歩き出す。

「あいつには、もう関わらない。それでええやろ」

「ああ」

 病院の門の所でナナシは立ち止まり、サイザンは立ち止まらなかった。

「じゃあ、また」

「おう」

 大きく手を振ったサイザンに小さく手を振り返した時には、ナナシはまだ気付いていなかった。

 一度は抜け出した底の見えぬ泥沼に、再び踏み込んでしまった事に――。



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