第35話 親友



 分かった気になるな。同情なんて、必要無い。




「ナナシ先生、五番の診察室お願いしますー」

「あいー」

 気怠げな返事をして病院の廊下を歩く、小柄な人影。サイズの合っていないぶかぶかの白衣を纏った彼は、眼鏡越しに目に飛び込んできた昼下がりの日差しに、思わず目を細めた。

 彼の名は、ナナシ。ナナシ・ルーヴェンスという。

 外見だけで言えば、彼がもうじき十九の誕生日を迎える、と言っても誰も信じてくれないだろう。

 平均的な男性の肩の辺りまでしかない身長に童顔、薄桃色の前髪を頭頂部で結って額をむき出しにしている。可愛らしい顔立ちだが、眼鏡のレンズから覗くワインレッドの瞳は、異様に目付きが悪かった。実際の年齢を知らなければ、十二、三歳くらいにしか見えない。

 こんな姿からは想像もつきにくいが、一応彼は魔術師である。

 しかも、なかなか才能を持つ者が少ないと言われている、医療技術に特化した生体変成系の魔術に天賦の才を持っている。僅か十七歳の若さで都の国立病院の医師になり、密かに天才と呼ばれているのだ。

 廊下の反対側から歩いて来た顔馴染みの看護師が、ナナシに声を掛けた。

「あら、ナナシ先生。五番ですか?」

 さも可笑しそうに『ナナシ先生』と言って、彼女は子供のように背の低いナナシを見下ろす。差し出されたファイルを受け取りながら、ナナシは看護婦を見上げた。

「あー、そうです。どないな患者さん来てはるか、聞いてます?」

「先生の常連さん。見る度にイイ男になってるわね、あの子」

「常連って……まさか!」

 デレデレした顔の看護婦の横を擦り抜け、ナナシは乱暴にドアノブを引いた。

「おまっ……」

「よーす」

「『よーす』じゃあるかボケェ!」

 ナナシはジャンプしながら、笑顔で片手を上げた相手のオレンジ色の頭を、渾身の力を込めてひっぱたいた。

 バシッ! と小気味良い音が、狭い診察室に響き渡る。

「いってーなー、何すんだよ!」

「なんでお前がここに居るん!」

 自分よりも遥かに背の高い相手にも臆する事無く、ナナシは相手の眼前に指を突き付ける。

「何だよー、折角久しぶりに親友に会いに来たってのにさ」

「アホか! お前がここに来んのは怪我した時だけやろ! 会わへんのが一番の元気の印や!」

「う、そう言われると反論できねえ……」

「ふん。で、今日はどないした? サイザン」

 軽く鼻を鳴らしたナナシは、親友――サイザンの、金色の瞳を見上げた。そして少しずつ視線を下げてゆくと、黒い軍服には少々目立つ、左腕の包帯に目を留める。

「腕か。折れとるん?」

「うーん……折れたというか、砕けたというか」

「そこ、座り」

 カルテに日付を書き込むと、ナナシは包帯を解き始めた。本来ならば自然に回復するまで外さないほうがよいものだが、ナナシが行う特殊な治療には邪魔なだけなのだ。

 慎重に添え木と包帯を外すと、紫色に腫れ上がった腕が姿を現す。ナナシは、眉間に皺を寄せた。

「あーあーあー、何やねんこれ。またこんなに痛めつけて、腕が可哀相やんか」

「俺は可哀相じゃないのかよ」

「そら勿論、可哀相やで? ホンマ、哀れになってくる位ドアホやもんな」

「おい……いってぇ!」

 腫れ上がった箇所を指先でつんつんと突かれ、サイザンは悲鳴を上げた。

「ん。神経に異常無し」

 サイザンの恨みがましい視線をものともせず、ナナシは折れた腕を台に固定する。

「魔術使うさかい、邪魔したらタダで済まへんよ」

「おう」

 元々手首の部分で折り上げてあった白衣の袖を更にまくり上げ、ナナシはサイザンの腕に手をかざして呪文を唱え始めた。

 ぼう、と淡く輝く魔力のヴェールがナナシの身体全体を包む。常人には捉えることはできないが、魔術師であるサイザンには視覚的にそれが感知できた。

 燐光が骨折した箇所の周囲を包み、診察室の中を細かい光の粒子が渦巻く。

 ナナシはサイザンと同様に、物質を強制的に分子レベルにまで分解し、再結合させる魔術を得意としている。一般に変成系魔術と呼ばれるその技術を用い、人体の損傷箇所を一旦分解してから元の状態に再生する事で、治療を行っているのだ。

 神経や筋組織を繋ぎ合わせるには、途方もない魔力と集中力を必要とする。その為に、この技術を実用化できる人間は限られてくる訳だが、成功すれば確実に完治させられるため、研究も盛んに行われている。わずか十五歳の若さでこの技術を身に付けた事こそ、ナナシが天才と呼ばれる由縁なのだ。

 しばらくして光の渦は空気に溶けるように消え、ナナシは疲れ切った顔で傍の椅子に腰を下ろした。

「……動かしてみ」

 額にうっすらと浮かんだ汗を拭いながら、ナナシはサイザンが指や肘を動かす様子を見る。それから手首を掴み、骨の繋ぎ目に異常が無いかを確認した。

「ん。異常無しやな」

 やや高めの椅子に座って脚をぶらぶらさせながら、ナナシはカルテにペンを走らせる。

「まだ完治した訳やあらへんから、あんまし負担をかけたらあかんで? 重い物持ったりぶつけたり、人殴ったりとかな。三週間は安静にしておくこと。日常生活に障りが無い程度の、最低限の治療しかしてへんから」

「デスクワークは?」

「内容にもよるけど……長時間の筆記とかは、避けたほうがええやろ。疲れたら右に切り替えるようにすれば、平気やけど」

「了解」

 腫れも引き、見た目は完全に元通りになった左手を動かしながら、サイザンは感心したように言う。

「ナナシ、また腕上げたんじゃねーの?」

「まあな。毎日やってれば、そら少しは進歩するわ」

「それもそうか」

 サイザンの通院歴はかなり長く、ナナシが病院で働き始めるよりもずっと前からの膨大な量のカルテが、一冊のファイルに保管されている。

 そのファイルの最初のほうのページを所在無さげに指先で弄びながら、ナナシはふっと黙り込んだ。

「どした? なんか元気ないじゃん」

 口調は軽くとも、心配そうな目でサイザンはナナシの顔を覗き込む。

 何かを言おうか言うまいか迷っているような、そんな様子で深呼吸してから、ナナシは金の瞳を見つめ返した。

「……頼みがある」

「頼み?」

「お前にしか、頼めへん事や。せやけど、もしかしたら俺はお前の中の人に触れられたくない部分とか、粉々にぶち壊して踏み躙ってしまうかもしれへん。せやから……嫌やったら、断ってくれ」

「……何だよ、急に真面目くさっちゃって」

 困ったような顔をして目に掛かった前髪を掻き上げたサイザンは、苦笑する。

 ナナシは少し躊躇ってから、息を大きく吸った。

「お前の背中にある、火傷の治療痕を……見せて欲しい」

 親友の顔が笑顔のまま凍り付いたのを見て、ナナシは早くもこの話を持ち出した事を後悔した。

「俺が魔術と人体の関係を研究しとる事は、知っとるよな。お前の火傷は、魔術で焼かれて、魔術で治療されたもんやろ? 参考にさせて欲しいと思ったんやけど……やっぱ、ええわ」

 目を伏せ、ナナシは小さな声で続ける。

「俺らが『施設』に居った頃から、傷の事に触れられんの嫌がってたもんな。もうええ、忘れてくれ……おい!?」

 突然立ち上がったサイザンが、軍服のジャケットを脱ぎ始めたのを見て、ナナシは慌てた。

「おまっ……何……」

「いいんだ。お前はあの時の約束を、ずっと守り続けてるんだろ? ナナシの研究が、昔の俺と同じような思いをしてる人達を救う事に繋がるなら」

 ジャケットを脱ぎ捨て、サイザンはそれをベッドに放った。そして黒いネクタイを外し、ワイシャツの釦を外してゆく。

「俺がお前にしてやれるのは、こんな事くらいだ。だから……俺で良ければ、協力するよ」

 するりとワイシャツが滑り落ち、それまで隠されていた素肌が露になる。

 健康的な色の肌をした上半身には、無数の古傷が刻まれていた。それも、生半可な数ではない。幾つも幾つも重なり合うように、全身に夥しい数の切り傷や縫合の痕が残っている。無論幾つかの傷はナナシが治療したものだが、そうでないもののほうが圧倒的に多い。

 しかし、不要なものを一切削ぎ落としたかのような細身の身体の要所要所に鋼のような筋肉が付いており、あるべき所にあるべき物が納まっている、とでもいうようなしなやかな印象である。

 ゆっくりと後ろを向いたサイザンの背中が視界に入り、ナナシは唇を噛んだ。

 うなじから腰にかけて背中全体の皮膚が赤黒く変色し、引きつれて所々がでこぼこと隆起している。それだけではなく、多数の縫合の跡が火傷と重なり合うように刻まれていた。

 ナナシはその背中の傷を見るのは初めてではなかったが、何度見ても慣れる事が出来ない。どんなに痛かったのだろう、と考えるだけでも気分が悪くなる。

 診察用の椅子にサイザンを座らせ、ナナシは指先に魔力を込めてそっとその背中に触れた。

「髪……除けたほうがいいかな」

 うなじにかかった髪を、サイザンの右手がゆっくりと掻き上げる。その腕にも、そこかしこに古傷が残っているのが見えた。

 強烈な炎熱に晒されて焼け爛れた皮膚は組織まで死滅してしまったらしく、十数回に渡って植皮やその他の手術が行われた痕跡が残っている。

「俺の昔のカルテ、見たのか」

 擦れた小さな声で尋ねられて、ナナシは火傷の痕を撫でるように動かしていた手を止めた。

「ああ」

「……そう、か」

 顔は見えなかったが、声の調子からだいたいの事は分かる。

 本当は、知られたくなかったのだろう。

「ごめん」

 ナナシは俯く。

「ううん……俺こそ、ごめん。黙ってたからどうってものでもないのにな」

 嘘だ。

 あんな事、言うのも聞くのも辛いのに。

 二人が出会ったのは、高い塀で表の世界から隔絶された軍の施設だった。

 高い能力を持った子供をエリート軍人――いや、都合の良い兵器と言ったほうがいいかもしれない――にする為の教練を行っていたその施設の同じ部屋で、二人は五年間生活していた。

 以前のサイザンは、現在からは想像もつかない程暗い子供だった。施設に来る前に何が有ったのか、声を失ってしまっていて全く話す事が出来なかった。いつも何かに怯えていて、顔の大半を腰の辺りまであった長い髪で隠し、おどおどと上目遣いにナナシを見上げていた。

 やがて大きな戦いを経たのち、ナナシは医師に、サイザンは軍人になった。初めてサイザンの担当になり、あの分厚いファイルを手に取って目を通した日の事は、今も忘れられない。

 火傷の理由を知って、目の前が暗くなった。

 背中に負った、重度の火傷。身体中の傷。精神的なストレスによる、失声。

 全ての原因は、一つだった。

 父親による、暴力。

 殺人未遂で服役中だという父親が、全てを目茶苦茶にしていったのだ。

 不意に暴れだして職員に怪我をさせたり、少し目を放すと自傷行為に走る事も有ったようだ。そのため、ベッドに縛りつけて拘束しなければならず、点滴で薬物を投与していたなど、当時の担当医の手によって克明に記録されていた。

 本人にとっては、思い出すのも辛い記憶のはずだ。

 しかし、心苦しいが聞かなければならない。

 主治医として、かつての相棒として。

「なあ……詳しい事情、教えてくれへんか」

 サイザンは、振り向かずに答えた。

「……うん」



第36話に続く――

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