第三章 人形の物語

第32話 痛みの記憶



 あの日の記憶は、いつまでこの身を苛むのだろう。




 この痛みも、随分久しぶりだ。

 あの日から、少しずつこの身体を蝕む苦痛。

 いつこの痛みに、身も心も喰らい尽くされるかという恐怖。

 じわじわと。

 じわじわ、じわじわと。

 少しずつ、嬲るように広がっていく。




「ねえ、ユリアン? 朝だよー。甲板で剣術の練習しようよー。聞いてる?」

 レイリが声をかけるが、解いた黒髪はぴくりとも動かない。

「珍しいなー。いつもはすぐ起きるのに」

「そうなん?」

 船室のベッドの上で堂々と着替えながら、シエラはでかでかと欠伸をした。今ユリアンが目を覚ましたらどうするんだろう、と既に隅で着替えを済ませたレイリは思う。

「具合でも悪いのかな?」

「何だかんだで疲れてるんじゃない? なんつったっけ、カマ野郎もそう言ってたんでしょ?」

「……サイザン、ね」

 可哀相に、とサイザンに同情しながらレイリは補足した。

「今日は練習休めば?」

「うーん、でも……ああいうのは、毎日やらないと……」

 真面目だねぇ、と溜め息をついたシエラは、ナイフが幾つも仕込まれたベルトを腰に巻きつけ、立ち上がってレイリにビシッと指を突き付ける。

「今日は特別に、このシエラ様が相手したげるわ! ばっちり鍛練しないと体が鈍るのは、こっちも同じだしね」

「本当!? ありがとう!」

 朝から賑やかな二人が船室を後にする頃合い見計らって、ベッドの上の毛布の塊がもぞもぞと動く。

「うっ……」

 低く呻いて、ユリアンは唇をきつく噛んだ。

 実のところ、彼は昨晩から一睡もしていない。とても眠れるような状況ではなかったのだ。

 胸が、焼け付くように、そして刺すように痛む。派手に魔術を使った後の、既に馴染みになった痛みだった。

 一行がメナルーを出発してから、一夜が明けた。今回は平気だろうか、と油断していた矢先に走った激痛に、息を吸うのも苦痛に感じる。

「くっ……うぅっ……」

 レイリ達に気付かれないよう、必死に堪えていた声が、かさかさになった唇から漏れる。本当なら大声で呻きたい位だったが、ありったけの自制心を総動員して抑え込んだ。

 ずっと閉じていた目蓋を開くと、酷い眩暈で景色が霞み、ぐにゃぐにゃと歪んでゆく。あまりの気持ち悪さに、再び目を閉じるしかなかった。

 数年前から、魔術を派手に使うと必ず体調を崩すようになった。それも年々、痛みの度合いや続く長さが増している。

 このままだと、あと数年もしないうちに喰い潰されるかもしれない。

 極力魔術の使用を控え、生命の残量を節約しなければならない。

 まだ、ここで朽ちる訳にはいかない……!

 唇を噛み締め、眉間に皺を寄せて、彼はひたすらにこの苦痛の終わりを待つのだった。




 甲板で剣の稽古を終えたレイリとシエラは、船縁から眼下に広がる平原を眺めていた。

「んんー、景色が綺麗だねぇ」

「そうだね、向こうの高い山とか。ちょっと日差しはきっついけど」

 手摺りに寄り掛かっていたシエラは、レイリの方を向いて悪戯っぽく微笑んだ。

「ねね、レイリはユリアンの事、どう思ってんの?」

 唐突にシエラにそう尋ねられ、レイリは思わず振り返る。

「どうって、何が?」

「もしかして、好きだったりする?」

「な……」

 予想外の問いに、レイリは一瞬言葉を失った。動揺して、かっと顔が熱くなる。

「そ、そんなんじゃないって! ユリアンとは、単に契約で……」

「おおっとぉ~? なんで顔が赤くなってるのかな~?」

「違うってば!」

 はいはい、とシエラは笑う。

「んで、ぶっちゃけどうなの? その様子だと、完全に脈なしって訳じゃないみたいだけど」

 真面目な声になったシエラから視線を外し、レイリは手摺りに肘を突いて眼下に見える砂漠を眺めた。

「……分かんない。そもそも、初めて会った時は女の子だと思ってたし……」

「かーっ、煮え切らん! はっきりせんかい! だったら二人っきりで砂浜にいた時、何してたっていうのさ!」

 結局の所、それが聞きたかったらしい。

「……ちょっと喋ってただけだよ」

「ホントに? あの空気じゃ、ただの世間話ってノリじゃなさそうだったけど」

「それは……」

「それは?」

 結局レイリはシエラに根掘り葉掘り聞かれて、事の顛末を洗い浚いぶちまけてしまった。シエラはそれを聞いて、ニヤニヤと笑う。

「そっかー、そうなんだー」

「本当に、何でもないんだってば!」

「でもでも? ユリアンってば、私情を持ち込むつもりは無いとか言いながら、結構私情挟んでるじゃん? 過去に何が有ったか知らないけど、レイリが死んで欲しくないって言った事に対して、嬉しいって言ったんでしょ?」

「まあ、それはそうだけど……」

「いい!?」

 突然シエラがレイリの肩をがしっと掴み、正面から瞳を覗き込んだ。

「こういうのはね、待ってちゃダメ。時間は何も解決しちゃくれないからね、いい?」

「わ、分かった」

 シエラの剣幕に、思わずレイリは頷く。

 それにしても、とシエラは鼻からふんと勢いよく息を吐いた。

「あんにゃろめ、なかなかお目が高いわね。こうして見るとなかなか可愛いわ、レイリ」

「は!?」

「いや、マジマジ。ねね、付き合ってた人とかいないの? 向こうの世界で」

 ちょいちょい、と肘で小突かれたレイリは、手摺りに背中を預けて真っ白な帆を見上げた。

「いないよ。ていうか、今までそういう意味で人を好きになった事無いし」

 今まで、良い子で居ることに一生懸命になり過ぎていて、周りに目を向ける余裕なんか無かった。

 他人の事を深く知る事が面倒で、誰にでもいい顔をして、広く浅い交友関係を保っていた。

 高校に入ってツグノと知り合って、初めて親友と呼べる仲が出来た。

 だから、恋愛なんて考えた事も無くて。

 そして今、胸の中でちくちくしているこの小さな塊が、『好き』というものなのかも分からない。

「そっかぁ。でもね、好きになった瞬間なんて、自分じゃ分かんないもんなんだからね? 時間が経ってから、ああ好きだったんだ、って思うモノなんだよ」

「そういうモノ?」

「そういうモノなの」

 手摺りに寄りかかって遠い目をしていたシエラのこめかみで、淡いオレンジ色の花飾りがきらりと陽の光が反射した。




 王城の正門を見張っている守衛は、先程から正門の前に佇んでいる少女を見て首を捻っていた。

 淡い藤色の髪を二つのお団子にして頭の両サイドにセットし、黒の軍服に身を包んだ彼女は、雪のように白く美しい肌をしている。しばらく前から、同じ場所で眼鏡越しに紫色の瞳で一点を見つめ、微動だにしない。

 誰か待っているのだろうか、と守衛が思った矢先、少女がぴくりと動いた。

 彼女の視線の先には、一人の青年。

 くしゃくしゃした橙色の髪をした彼は、包帯を巻いた左腕を三角巾で吊っている。

 黒地に金の釦と金の縁飾りの軍服は、魔導騎士団の中でも上位の証。服の上からでも分かる、鍛え抜かれて引き締まった鋼のような体付き。

 青年の金色の瞳が眼鏡の少女を捉えた瞬間、パッとその顔が笑顔になった。

「フォンファ~っ!」

 心の底から嬉しそうな声で少女の名を呼びながら一目散に駆けて来る青年を、少女は黙って腕組みしたまま待ち構える。

 ドスッ!

 鈍い音と共に、少女の長い脚の爪先が青年の腹にめり込んだ。唖然として事の成り行きを見守っていた守衛の目の前で、青年は腹を押さえてうずくまる。

「あ、逢いたかったぜ、マイハニー……」

「光栄です、先輩。私は全然全くちっともこれっぽっちも、小指の爪の根元に出来たささくれ程度にも、あなたに逢いたいとは思いませんでしたが」

「相変わらずのつれない返事、そして何の迷いも無い足蹴り……でも、そこがまたステキ」

「私が聞きたいのはそんな戯言じゃないという事くらい、分かってますよね? 移動する間が貴重な時間の浪費なので、歩きながら報告をお聞きします」

「うんうん。俺の声を一刻も早く聞きたかったんだよね? 可愛……いぎゃっ」

 またも足蹴りを食らって引っ繰り返った青年を冷たく見下ろし、フォンファ・リゥは言い放った。

「さっさと行きますよ、サイザン先輩」

 数分後、二人の姿は王城の片隅にある、零伍小隊が専用に使っているオフィスに有った。

 一口にオフィスと言っても、使用する人数の割に部屋は広い。各隊員の個人持ちのデスクが人数分据えられている他に、何故か古いながらも高級そうなソファが隅に置かれている。最近では、そのソファは専ら仮眠専用になりつつあった。

 数日ぶりに戻って来たサイザンは、自分の椅子に腰掛けてふーっと一つ溜息をついた。

「戻ったか。早かったな」

 後ろからの声に、サイザンは回転椅子をぐるんと回して振り返る。

「グレ兄! お疲れ!」

 ぱっと笑顔になったサイザンを見て、グレイアも目を細めた。

 二十代半ばの男性隊員であるグレイアは、屋内であるにもかかわらずジャケットの下に着込んだ服の襟を立ててフードを被り、顔は目元以外はすっかり隠れてしまっている。任務中も常にフードやマスク等で顔を隠している為、サイザンも彼の素顔を見た事は数える程しか無かった。

「怪我したんだって? 大丈夫か?」

「この位、平気だって! グレ兄も元気?」

「ああ。気温も上がってきているし、身体の調子は良いほうだ」

 と、部屋の奥から別の声が聞こえてきた。

「それにしても……相変わらず自分の怪我に対しては無頓着だな、お前は」

「……ウォル」

「ウォルクロフだっ!」

 くしゃくしゃに丸めた書類が飛んで来て、サイザンの額にバシッと当たった。ゴミ箱はあっちだっつの、と呟きながらサイザンはそれを拾って、少々離れた場所に置かれたゴミ箱に投げる。ポスッ、と軽い音をたててゴミ箱に入った紙屑を見て、ウォルクロフは小さく「お見事」と呟いた。

 ウォルクロフは、長身痩躯の優男である。淡いエメラルドグリーンの長髪を背中に垂らし、深い森のような神秘的な緑の瞳で静かに周囲を見通している。外見は若いが、身に纏った空気はどこか老成した雰囲気を漂わせていた。

 ……黙っていれば、の話だが。

「全く何だ、そのだらけっぷりは! いい若い者が締まりの無い顔でぐでーっと椅子に座って! そんなのだから、十八にもなって御婦人方との浮ついた話の一つも聞こえて来ないんだぞ、お前は! いいか、私がお前位の年頃の時にはな……」

「別にいいもん、モテモテじゃなくたって。俺はフォンファがいてくれればそれでいいんだよ。なっ!」

 笑顔でそう振ってきたサイザンを、フォンファは完全に黙殺した。

「無視しないで!? それ一番堪えるから!」

「……煩ぇな……」

 ソファのほうから、低い声が飛ぶ。サイザンは振り返り、声の主をキッと睨んだ。

「ひっど! 怪我人にそういう事言うんだ! 酷いよなフォンファ!」

「ギャレット先輩、先日の任務の報告書はどちらにやられました?」

 相変わらずサイザンを無視したまま、フォンファはソファに寝ていた男の顔を覗き込む。

「チッ……」

 忌々しげに舌打ちをした男は、むくりと体を起こして自分の机に向かった。

 ギャレットは、比較的長身の部類に入るウォルクロフよりも、さらに少々背が高い。やや濃い色をした金髪を高い位置で縛っているせいか、元々吊り目気味なのがさらに強調されているようだ。生来の目付きの悪さと顔の左側に残る大きな傷痕のせいで、人相はかなり悪い。

 実際は、見かけほど悪い人間ではないのだが。

「ほらよ」

 むすっとした顔でクリップで束ねられた報告書をフォンファに突き出し、ギャレットはマッチを擦って煙草に火を点けた。

「オラァ、野郎共! 作戦会議……ってうわッ! ヤニ吸うのはオレが居ない所にしろっつってんだろ!」

 扉を開けて入ってきた煙草嫌いの副隊長は、煙の匂いに顔をしかめてギャレットの口から煙草を毟り取り、灰皿に押し付ける。

「あぁ? 吸い始めた時は居なかったじゃねぇかよ」

「オレが出没する前後五分は禁煙タイムだ!」

「はいはい、その辺りにしてくださいね」

 副隊長と一緒に部屋に入ってきた隊長も自分の席に腰掛け、メンバーを見回す。

 いつにも増して不機嫌そうな顔のギャレット。

 ふぁさっと長い髪を掻き上げたウォルクロフ。

 眼鏡をずり上げるフォンファ。

 フードを目深に被り直したグレイア。

 そして、包帯のせいで動きにくそうなサイザン。

「先輩、お疲れ様です」

「ちゃーす」

 片手をひらひら振ったサイザンを見やって、隊長は再び一同を見回す。

「知っての通り、今回のメナルーの件では急遽予定を変更したせいで、負傷者が出ました」

 真面目な声になった隊長は、テーブルの上で手を組んだ。

「エルギーニ軍が、メナルーに陸路から魔物を使った奇襲を掛けてくることまでは想定していなかった、我々のミスです。そちらの対応に後発組の三人を割いたせいで、先行していたサイザン先輩一人にザーシャを任せる羽目になってしまいました。件の傭兵も、余計な真似をしてくれましたし」

 隊長の声の調子が変わった事に気付き、隊員達の間に緊張が走る。

「ザーシャの動きは、これまでと何かが違う気がします。こちらも、相応の覚悟で臨みましょう」



第33話に続く――

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