第30話 別れと旅立ち
舞い散る想いは、風に吹かれて。
あれは、一体いつの事だっただろうか。
確か、クライドが浜辺に流れ着いて間もない頃だったと、シエラは記憶している。
「ねえ、シエラ……俺は、どこから来たのかな?」
唐突にそう聞かれて、シエラは振り返った。
何日も食事を摂らずにずっと狭い所に閉じ込められていたせいか、発見された時のクライドの身体は極度に衰弱していた。窓際に置かれたベッドの上で上半身を起こして、彼はシエラを見上げている。
「どうしたの、いきなり」
窓から入って来た風が白いカーテンを、そして二人の髪を揺らした。箒で床を掃除しながら、シエラはクライドの顔を覗き込む。
「本当に、俺と一緒に流れ着いたのはその眼帯だけなんだよな?」
「うん。あんた、これをきつく手に握ってた」
ベッドの横にあった棚に置いてあった黒い眼帯を手に取ったシエラは、それをクライドに手渡す。
眼帯を調べていたクライドは、それを右目に着けてシエラのほうを向いた。
「似合う?」
「全っ然似合わない」
あっさりと全否定されたクライドは、膨れっ面をして眼帯を外した。
「ちぇ。何だよ」
くるくると眼帯の紐の部分を弄びながら、クライドは続ける。
「でも、変だよな。この眼帯の紐、大人が着けるにしては長さが短かいんだよ。丁度俺位の子供が着けるのにぴったりな長さになってる」
「でも、あんたの目はちゃーんと両方見えてるんでしょ?」
「そうなんだよなぁ」
だけど、とクライドは呟いた。
「これは多分、俺と深い関わりがある人の物だと思うんだ。すごく……懐かしいから」
ふうん、とシエラは頷いて、集めた塵を塵取りに入れて窓の外に捨てた。
「シエラはさ……大切な人って、いる?」
は? と言わんばかりの顔でクライドのほうに向き直り、シエラは言う。
「当たり前じゃん。ラヴィナさんとか、村の人達とかさ。あたしにとっちゃ、家族も同然」
そう言ってから、シエラはしまった、と思った。案の定、クライドの表情が少し曇る。
「だよな……やっぱ皆家族がいて、大切な人がいるんだよな。だから絶対俺にもいたんだよ、大切な人ってのが」
シエラはベッドの端に腰掛け、俯いたクライドの顔を覗き込んだ。
「じゃあ、こうしようよ。あんたの本当の家族が見つかるまで、あたしとラヴィナさんがあんたの家族。オッケー?」
「あ……」
一瞬驚いたような表情をしたクライドだったが、やがてその顔にぱっと笑みを浮かべる。
「――うんっ!」
あの日から、十年近くの月日が流れた。
シエラは、始めのうちはクライドの事を兄弟のように思っていた。しかし、いつの間にかその想いが別の気持ちに摩り変わっていた事にある時気付き、彼女は困惑した。
気が付くと、いつも一緒にいた。一緒に笑って一緒に泣いて、喧嘩も数え切れない程した。だけど、辛い事があった時は、不器用ながらに慰めてくれた。
伝えたいけれど、伝えられなかった想い。
今となっては、後悔しか残らない。
でも、とシエラは思う。
クライドも同じように自分の事を考えてくれていたという事を、最後の最後に知る事が出来て良かった。
別れ際の口付けと、握り締められた髪飾りの意味。
ポケットから取り出した花の形の髪飾りは、夕陽の赤い光に照らされて、本来の明るい橙色ではなく、朱色に染まっている。
大好きだったよ。
今も、もちろん好きだけど。
でも、しゃがみ込んでちゃいけないんだよね?
立ち上がって、前を見よう。出会ったばかりのあの子のように、瞳に光を宿して走り続けよう。
シエラは立ち上がって、服に付いた砂を叩く。
髪飾りをポケットに仕舞い、砂浜に刻まれた足跡を辿って、しっかりと歩き始めた。
「おーい! レイリー、ユーリアーン!」
レイリが口を開きかけた時、大声で二人を呼びながら、シエラが砂を蹴散らすような乱暴な走り方でやってきた。
くるくると大きな瞳で二人を見て、彼女は何かが吹っ切れたように笑う。
「考えてみたら、やんなきゃなんない事って一杯有るんだよね! 座り込んでる暇なんか、どこにも無いんだっつーの」
「はあ……そうですね」
突然の事に戸惑ったような表情をしたユリアンと、その後ろのレイリを見比べて、シエラはからかうような笑いを浮かべた。
「あれれー? もしかして、お邪魔だったかな?」
「違ーっ!」
シエラは大声で反論する二人を見てまた笑い、レイリの手首を掴む。
「仲も元気もよろしいね! 良い事だよ、うんうん。んじゃあ、そろそろ行きますかね!」
そのまま走り出したシエラに引きずられるようにして、レイリも村のほうに向かって走り始めた。
その後ろを歩くユリアンの表情が、憂いの混じった笑みから、徐々に凍り付くようなものに変わっていく。
やがて彼は、右手を上げて顔を覆った。
「何だ……一体何だ、この体たらくは!」
低い声で搾り出すようにそう言って、彼は指に力を込める。青白い顔に、爪が食い込んだ。
「利用するだけだと、心に決めたはずなのに……!」
俯いてそう呟いた時、前方から声が掛けられた。
「何してんのー? 先に戻ってるよー」
その明るい声に顔をしかめ、彼は薄暗くなった砂浜を一歩一歩、踏み締めるように足を進めた。
レイリ達がクライドの死を知ってから、一夜が明けた朝。海を見下ろす高い岬の先端に、一行の姿が有った。既に陽は高くなり、今日も暑くなりそうだった。
シエラは小さな布の包みを胸に抱えており、その後ろに立っているレイリとユリアン、そしてメアルとその部下達は、静かに俯いている。
誰も、何も、言わなかった。
ただ遠くから、潮騒の音が響く。
やがてシエラが数歩踏み出し、岬の縁ぎりぎりで足を止めた。眼下に煌めく碧と頭上に輝く蒼の境界線を見つめると、今にも風景の中に吸い込まれそうな錯覚に陥る。そしてシエラはゆっくりと口を開き、小さな声で話し始めた。
「クライド……ごめんね。あたしがもう少し早く行動していたら、こんな事にはならなかったのかもしれないけど。
でも、もしあたしがそんな事面と向かって言ってたら、あんたはきっと『馬鹿野郎』の一言で片付けてたんだろうね」
本人がそこに居て、実際に会話しているような口調で話す。
しかし、答えたのは海鳥の鳴き声だけだった。
「あんたと一緒に過ごした十年は、本当に楽しかったよ。……実はあたしもね、あんたの事が好きだったんだよ」
一瞬、声が震える。
「でも弱虫だから言えなくて、逃げてばっかだったんだ。それでもあんたは、最後にちゃんと、伝えてくれた。
……だから」
小さな布の包みの紐をそっと解いて、シエラは微笑んだ。
「……ありがとう」
捲られた布の中に包まれていたのは、白っぽい粉。
昨晩火葬された、クライドの遺灰だった。
火葬にする事は、シエラの希望だった。閉所恐怖症だったクライドは、きっと土に埋められる事なんか望まない。瞳と同じ空色の中に散ってゆくほうが、ずっと似合っている。
「クライド、本当にありがとう。頑張るからね、あたし」
掌に乗せられた灰はとても軽くて、これが元は人間だったとは到底思えなかった。
だけど、これが現実。
風が吹いて、灰はさらさらと空気に溶けていく。
昨晩火葬にする際に散々泣いたせいか、俯いたシエラの頬を、再び透明な雫が伝い落ちる事は無かった。
「あたし、あんたの代わりに、これからレイリとユリアンの旅に付いて行こうと思うんだ。ザーシャって女を叩きのめして、あんたと村の皆の仇は、しっかりばっちり討ってやるから」
最後の別れに、精一杯の笑顔を見せる。
「そしたら絶対、ここに戻って来るからね……」
少しずつ飛ばされていった灰はついに無くなり、最後に吹いた一際強い風で包んでいた布も飛ばされていった。
その布が視界の外にまで消えるのを見送って、シエラは服のポケットに右手を突っ込む。
しばらくして出てきたその手には、あの花の形の髪飾りが握られていた。
少し俯き加減にそれを左のこめかみの少し上に付けて、彼女は顔を上げる。
空を見上げて、彼女は何を想っただろう。その後ろ姿は、一枚の絵のように美しかった。
そして、シエラは振り向く。
その顔に、儚げで、それでいて確かな存在感を持った花のような笑みを浮かべて、シエラは言った。
「じゃあ……行こっか!」
彼女の旅の、始まりだった。
第31話に続く――
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