第29話 オレンジ
貴方の大切な人は、誰ですか?
しばらくしてレイリが家の中に戻ると、ユリアンが上半身を起こして辺りを見回していた。
「あ、気が付いた?」
「……ここは?」
横にしゃがみ込んだレイリに、ユリアンは擦れた声で聞く。レイリがサイザンに村まで連れて来てもらった事を話すと、ユリアンは少し眉根に皺を寄せた。
「あの人は、お人好し過ぎるんですよ……」
お人好し。その言葉はサイザン自身も使っていた。
「ねえ……どうしてサイザンは、あたし達にここまでしてくれるの?」
砂浜から村へ移動する途中、レイリは思いきってそう尋ねてみたのだ。
「あ? うーん……まだ、こいつとの勝負に決着が付いてねえから、かな。俺達ってば、永遠のライバルって奴だし?」
冗談めいた口調でそう言って、サイザンは困ったように笑った。
「俺の知り合いのほとんどは、俺がお人好しだからだって言うけどな」
結局レイリには、何が真実だったのか分からない。しかし、それでもいい。そう思った。
「体は大丈夫?」
「ええ。少し頭痛がしますが、すぐに治るでしょう」
「良かった。本当、一時はどうなるかと思っ……」
「しっ!」
レイリの言葉を遮って、ユリアンは真剣な顔で耳を澄ます。
「誰か来ます……それも、複数だ」
ユリアンは床に置いてあった杖を引き寄せ、レイリも腰の刀に手をやった。
「……誰か居ませんか!」
外から微かに聞こえてきた声に、レイリはぱっと顔を輝かせる。
「この声……」
「レイリさん!?」
立ち上がって脇目も振らず外に出ていったレイリを追って、ユリアンも眩しい日差しに目を細めながら外に出る。走りづらい砂浜を駆けたレイリが、青い髪の少女に飛び付くのが見えた。その後ろにも、青い髪の人々が数人立っている。
「メアル! 良かった、無事だったんだね!」
「ええ……本当に、そちらもよく無事で……」
レイリの背中を撫でたメアルは、目を上げてユリアンを見た。軽く会釈をされて、ユリアンも会釈を返す。
「……シエラと、クライドは?」
レイリが、小さな声で聞いた。メアルは気まずそうな顔をして振り返る。すぐ後ろに立っていた海原の民の兵士二人が下がると、布を被せた大きなものとそれを運んできたらしい四人の兵士、そしてその横に立っているシエラがレイリの目に入った。
「……シエラ?」
レイリが思わず声を掛けるのを躊躇ってしまう位、シエラの瞳は虚ろで生気が無かった。
「……我々と合流した時からずっとこの調子です。こんな事になってしまっては、無理も有りませんが……」
俯いたままのシエラの代わりに、小さな声でメアルが答える。
ざわ、とレイリの心の奥が波立った。
砂の上の布を被せられたものにメアルが近付くにつれて、その不安にも似た何かは大きくなってゆく。
やめて。その布を捲らないで。
メアルの指が布にかかった瞬間、レイリの頭の中でがんがん鳴る程の警報が響いた。
バサリ、と音をたてて布が捲られる。
それは、おそらく担架の代わりだろう、厚手の板の上に載せられている。
元々有った生命が失われて、ヒトからモノに変わった肉体だった。
腹に大きな穴が開き、服は血塗れで顔面は蒼白で。
明らかに、死んでいる。
クライドの亡骸が、目の前に横たわっていた。
「嘘……」
膝の力が抜け、レイリはすとんと砂浜に座り込む。
「そんなの……嘘、だよね……?」
レイリの目から、大粒の涙が零れ落ちた。
背中を震わせて嗚咽を漏らすレイリの横にしゃがみ込み、ユリアンは短く黙祷をする。そして、少し躊躇ってからレイリの背中をおずおずと撫でた。
「……致命傷は、明らかにこれでしょうね。どうしてこんな傷が……」
おや? とレイリの背中を撫でていた白い手が止まる。ユリアンの視線は、クライドの左手に向けられていた。
「何か、手に持ってる」
死後硬直で固まっている指を、一本ずつ丁寧に引き剥がしてゆく。やがて掌から転がり落ちたのは、布に包まれた包みだった。
ユリアンが手に取ったそれを、しゃくり上げながらレイリも覗き込む。
「それ……どこかで……」
見た事がある、とレイリが言おうとした時、突然ユリアンが立ち上がった。つかつかとシエラの前に歩いていったユリアンは、シエラの左手を取る。その掌にそっと包みを乗せたユリアンは、シエラの眼を覗き込みながら、一語一語ゆっくりと言った。
「クライドさんが、都であなたの為に購入したものです。渡しそびれてしまったようですが、これはあなたのものだ」
シエラの手首を掴んでいた手を、そっと放す。
「開けてください」
ゆっくりと瞬きをしたシエラは、包みを縛っている細い紐に手をかけた。その様子を、立ち上がったレイリと、近付いてきたメアルも見守る。
紐を解いて布を除けたシエラは、しばらく何も言わなかった。
その掌に乗せられていたのは、淡いオレンジと黄に彩られた、色鮮やかな花。
都の露店でクライドが買っていた、花の形の髪飾りだった。
「うっ……うぅっ……」
シエラの眼から、堰が切れたようにぼろぼろと大粒の涙が溢れ出す。
小さな子供のように大声を上げて泣きじゃくるシエラの肩を、メアルが無言でそっと抱いた。
レイリはごしごしと顔を拭い、ユリアンは俯く。
「クライドさんは……ずるいな」
ぽつんと、ユリアンが呟いた。
「ずるい?」
思わず聞き返したレイリのほうを見ず、ユリアンは俯いたまま低い声で言う。
「クライドさんは、自分の大切な人が傷付くのを見る位なら、自分はいくら傷付いても構わない。そういう人間です。
だけど……クライドさんがシエラさんの事をどれだけ大切に思っていたかを、シエラさん自身が知る頃にはもう、クライドさんは手の届かない遠い遠い所に行ってしまった後です。
言葉も想いも届かない。もう、二度と逢う事は出来ない。それは何か……ずるい気がしませんか?」
「知ったような口利かないでよ! 何も分かってないくせに!」
引き絞るような声で叫んだシエラに、ユリアンは背を向ける。顔は見えなかったが、レイリにはユリアンが皮肉めいた笑みを浮かべているのが、何となく分かった。
「不謹慎ですが、僕は少しあなたが羨ましいです。僕は人の死に近付き過ぎて、死者の為に流す涙などとうに枯れてしまいました」
突き抜けるような青い空は、誰かの瞳にそっくりの色をしていた。
夕暮れの光が、淡いオレンジ色に砂浜を照らしている。
さくさくとオレンジに染まった砂を踏む音に、膝を抱えて座っていたシエラは顔を上げた。
「シエラさん」
ユリアンが後ろに立ったのを気配で感じ取ったシエラは、腫れぼったくなった顔を手でこする。
「ごめんね」
「何がですか?」
「あたし、カッとしちゃって。何も分かってないなんて……あたしのほうこそ、あんたの事良く知りもしないのにね」
ユリアンが後ろで、微かに笑ったような気がした。
「いえ、僕のほうこそ失礼な口を利いて申し訳ありませんでした。……初夏とはいえ、夜はまだ冷えます。火を焚きましたから、向こうへ行きませんか」
シエラは、軽く首を横に振る。
「ううん、いいや。もう少しここにいる」
「そうですか。……では」
そのまま足音は、来た方向に去っていった。
「……ごめん」
シエラの呟きを聞いていたのは、昇りかけた月だけだった。
「シエラは?」
「もう少し向こうにいるそうです」
「そっか……」
振り返ったレイリは、暗くなってきた周囲に紛れ込むような、黒ずくめの魔術師を改めて眺める。
「どうしました?」
「えっと……ねえ、何でユリアンは黒しか着ないの? 他の色も着ればいいのに」
予想もしていなかったレイリの問いに、ユリアンはぱちぱちと瞬きをする。
「考えた事もありませんね……何となく、黒がしっくりくるもので」
少し考えて、ユリアンは呟く。
「黒は喪服の色だから、でしょうか」
「それって……」
どういう事? とレイリが聞こうとした時、ユリアンが意を決したように二、三歩前に足を進めて、レイリの茶色い瞳を覗き込んだ。
「ユリア……」
「今回のようなことは、二度としないでください」
レイリの言葉を遮って、ユリアンはゆっくりと小さな声で言う。
「今回のようなこと?」
「あの時……船の上でレイリさんが、ザーシャに刃を向けたことです」
吸い込まれそうに深い緑の瞳が、レイリを見つめる。
「あなたは強い。だけど、それは心の話です。戦う力で言えば、僕よりも劣っている。ザーシャは、あの人間離れした魔術師は、到底あなたの適う相手じゃない。生存だけを、最優先にするべきでした」
「でも、あの時は……っ」
「お願いです」
ユリアンの細い手が、レイリの肩を掴んだ。
「もう、あんな無茶な事は二度としないでください。いいですね?」
あたしはあの時、目の前の人を失いたくないって、それだけだった。
目の前にいた人が突然消えて無くなってしまうと考えたら、いつだって、誰だって怖い。そう、レイリは怖かったのだ。
「そっか。そうだね、ごめん。……でもね」
レイリは、少し俯いた。
「あたしあの時、怖かったんだ。もし、ユリアンがいなくなっちゃったらどうしよう、って」
ぴくりとユリアンの手が震える。
「だから、あたしを守ろうとしてくれるのと同じ位、自分の事も大事にして欲しいな。ユリアンは……いつも、自分を大事にしてないように見えるよ」
……まただ。
いつも、誰かしらがそう言う。
あの時も、あの時も。
サイザンだって、別れ際に言いかけていたような気がする。
『余計なお世話かもしれねえけどさ、お前はもう少し自分の体を大事にしたほうがいいと思……』
自分を大事にするって、一体どういう事なのだろう。
分からない。
僕には、そんな事は分からない。
大切なモノは、あの時に無くしたのに。いいや、無くしたんじゃない。僕自身が、全部薙ぎ払って斬り刻んだのに。
これから先の未来も、全て滅茶苦茶に叩き潰して、踏み躙っていかなければならないのに。
「僕は、自分がそんなに上等な人間だと思ってはいません。大事にされる資格なんて無い。他人にも……僕自身にも、ね」
「やめてよ」
強い口調で言ったレイリは顔を上げ、真正面からユリアンの瞳を覗き込んだ。
「誰が何と言おうと、あたしはあんたが大切だと思ってる。失いたくない、掛け替えの無い存在なの」
レイリの言葉が、波の音しか聞こえない砂浜に、確かな形となって響く。
「一緒に旅した時間は長くないし、あんたは自分自身が嫌いなのかもしれないけど。そんな事、関係無いでしょ?」
レイリは、大きく息を吸って、柔らかく微笑んでみせた。
「目の前の人を大切だと思う事に、居なくなったら怖いと思う事に、理屈も資格も必要無いと思うの」
ユリアンの翳った翠の瞳が、一瞬だけ驚いたような戸惑ったような、弱々しい表情を見せた。
普段は決して他人に弱味を見せない彼の仮面の、その下の顔だった。
「あ、あの……ええと」
ユリアンが口籠もる。
ようやくレイリにも、なんだか気恥ずかしい事を口走ってしまったような自覚が生まれた。かぁっと顔が熱くなる。
「ほ、ほら、ユリアンが変な事言うから!」
くるりとユリアンに背を向けて、レイリは怒ったように言う。しかしそれが、自分に対する怒りなのかユリアンに対する怒りなのかは、本人にもよく分かっていなかった。
「……分かっていますか、レイリさん」
ユリアンの静かな声が、レイリの耳に入る。
「僕は契約に従い、あなたを守るのが仕事です。その本分を、僕は全うするまで。そこに、私情を持ち込むつもりはありません」
そう言ったユリアンの固い声が、二人の間に漂って消えた。暫し、波の音だけが辺りを支配する。
でも、とユリアンは表情を緩めて付け加えた。
「レイリさんにそう言ってもらえて、少しだけ……嬉しかった」
「……!」
レイリは振り返る。
その時のユリアンの表情は憂いを含んでいて、それでいてひどく純粋な微笑だった。
それは間違い無く、彼の本当の笑顔……完全に仮面を取り去った、素顔が垣間見えた瞬間だった。
第30話に続く――
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