第27話 握り締めた刃


 その刃は、何を守る為に在るの?




「……ぷはっ!」

 上を目指してを泳いでいった先は、シエラの予想通り水の上になっていた。全身からぽたぽたと海水を滴らせながら、レイリは建物の屋根だったであろう場所によじ登る。

 膝の辺りまである水のせいで歩きづらかったが、バシャバシャと水を跳ねさせながら歩いていると、右側から微かな物音がした。

 バシャン!

 大きく水の跳ねる音と同時に、レイリは何者かに肩を掴まれて柱に押し付けられた。首には、短刀が突き付けられている。反応する隙も無い、一瞬の出来事だった。

「あ……」

 耳元で声が聞こえ、その直後に突き付けられていた短刀が引っ込められる。解放されたレイリが振り返ると、夜明け前の薄暗がりに紛れるようにして、ユリアンが立っていた。

「ユリアン!」

「す、すみません……よく見えなかったので、敵かと思ってつい……」

 気まずそうな顔をしたユリアンの肩を、レイリはぽんぽんと叩いた。

「いいよいいよ、気にしないで。とにかく、無事で良かった。怪我とかしてないよね?」

 顔を上げたユリアンはかなり疲れた様子だったが、とりあえず目立った怪我は無いようだった。頬に付いた汚れをレイリが指摘すると、ごしごしと服の袖で拭う。

「あ、そんな事より早くここを離れたほうがいいかもしれない」

「何故です?」

「詳しい事は歩きながら話すから、とにかく少し移動していいかな」

「はい、分かりまし……ッ!」

 二、三歩進んだユリアンは、突然大きくよろめいて転びそうになった。慌ててレイリが、横から支える。

「大丈夫!? やっぱりどこか怪我してるの? ……あの人に、やられたの?」

 心配そうに顔を覗き込んでくるレイリに、ユリアンは少し笑ってみせた。

「いえ、大丈夫です。少し疲れが溜まっているだけですから……」

「そっか……」

「あの人って、サイザン・ハーネットの事ですか? 彼には怪我どころか、大分世話になってしまったようです」

 杖を支えにして歩きながら、ユリアンは早口に説明する。

 ザーシャが現われた事で状況が一変した事。サイザンと一時的にではあるが手を組んだものの、圧倒的なザーシャの力の前に手も足も出なかった事。それまで控えていた魔術まで使ってみたが、全く歯が立たなかった事。

 魔術の使い過ぎで体力を消耗した為、身体が思うように動かない事。

「ザーシャはおそらく、まだこの島にいます。用心したほうがいい」

 神殿から少し離れた場所まで来ると、空の端はほんのりと明るくなっていて、夜明けが近いのが分かった。遠い水平線は薄紅色で、そこから少しずつ色を変えてゆく空は、二人の頭上ではまだ深い青色だ。

 ユリアンに肩を貸す形で、横から支えながら歩いていたレイリは、緑の瞳で物問いたげに見つめられて、ユリアンと分かれた後の事を話した。

 海原の民の姫・メアルに会った事。シエラの出生に関わる話。海蛇の正体。神殿の宝玉。

「海原の民……まだ生き残っているとは思いませんでした。海底都市、ね。レイリさんが何故そんなにびしょびしょなのか分かりましたよ。僕はてっきり、どこかで転んだのかと」

「失礼な! あ、つーか、ごめん」

 ぐっしょり濡れたレイリが肩を貸したせいで、ユリアンの服にも水が染み込んでしまっている。

「別に構いませんよ。膝下までは、とっくに濡れてますしね」

 軽く笑いながらユリアンがそう言った時、突然激しい地震が二人を襲った。

「レイリさんっ!」

 ユリアンがレイリの腕を掴んで引っ張った。その直後に、レイリの背後の建物が轟音と共に崩れ落ちる。あまりに激しい振動に立っていられず、二人は地面に伏せて揺れが治まるのを待つしか無かった。

 ようやく揺れが治まり、蹲っていたユリアンが立ち上がってレイリの顔を覗き込む。

「大丈夫、ですか?」

「うん。……何だったんだろ、今の」

「分かりません。でも、もしまた地震が起きたら危険です。一度船の所まで戻りましょう。船の上なら、少なくとも遺跡の崩壊に巻き込まれる事は避けられますから」

「そうだね」

 海岸沿いに、二人は黙々と歩を進める。そのうちにレイリは、先程まで明るくなってきていた空が、少し暗くなったのに気付いた。見上げると、雲が出始めている。

 天気が悪くならないと、いいんだけどな。

 隣に目をやると、ユリアンの顔色はお世辞にも良いとは言えない。

 これ以上、何かが起こらない事を、祈るしかない。

 しばらくして、レイリ達が上陸した地点に戻ると、昨日とは明らかに景色が違った。

 激しい爆発があったかのようにあちこちの木が焼け焦げ、瓦礫が散らばっている。所々の岩は奇妙な形に捩れているし、磨かれたように滑らかな面を見せて切断されているものもある。

「……これ、全部あんた達がやったの?」

「爆発はザーシャです。岩を切断したのは僕ですが、変形させたのはサイザンですね」

「……無茶苦茶だね、魔術師ってのは」

「はは、よく言われます」

 幸いにも、船は無事だった。海に向かってせり出した瓦礫の上を歩いて、二人は船に乗り込む。

「ここなら、クライドさんやシエラさんが戻って来た時に合流出来ますから」

「……戻って、来るよね」

 ぐったりと力無く座っていたユリアンは、隣で膝を抱えるレイリを見た。

「ええ……待ちましょう」

 しばらく沈黙が続いた。

 突然肩に重さを感じたレイリが目を落とすと、ユリアンがレイリの肩に頭をもたれさせて、すーすーと寝息をたてていた。朝や夕方の電車の中でよく見られる光景だ。

 普段のユリアンからは想像も付かないような姿にレイリは一瞬驚いたが、余程疲れていたのだろう、と思い直してそっとしておくことにした。

 その寝顔を見ているうちに、レイリも徐々に睡魔に襲われ始めた。疲労のせいもあるが、ずっと張りつめていた緊張の糸が切れたせいもあるだろう。船の揺れと隣に座っているユリアンの体温が、眠気を倍増させる。

 懸命の努力も空しく、最後には誘惑に負けて、目蓋が落ちるのに抵抗する事をやめてしまった。

 時間にして二~三分程度だっただろうか。束の間の微睡みは、誰かが船に飛び乗ったような硬い靴音で破られた。

 え?

 薄く開いた目に、銀の鎧に包まれた脚が映った。そのまま視線を上げていく。黒いマント、銀の鎧、銀の髪、そして……黒い仮面から覗く、赤い瞳。

 ザーシャが、目の前に立っていた。

「はっ!?」

 レイリがびくんと肩を震わせたのが伝わったのか、ユリアンの目がぱちっと開いた。焦点の合っていない緑の眼がザーシャを捉えた瞬間、猛烈な勢いで跳ね起きて身構える。

「お前……っ!」

 立ち上がったユリアンの声は、レイリの背筋がぞっとする程低く、憎しみのこもった響きを含んでいた。

 否、声だけではない。身に纏った空気そのものが、黒々とした殺気を孕んで渦巻いている。

 キリキリと音がしそうな位に、全身が張りつめる。その緊張が頂点に達した瞬間、突然ユリアンの身体からカクンと力が抜けた。

「っ!?」

 一瞬動揺したユリアンの顔面を、鎧に覆われたザーシャの拳が襲う。

 ドガッ!

 華奢な身体が船体に叩き付けられる音で、レイリは我に返った。

「ユリアンっ!?」

 自力で上半身を起こしたユリアンの額から、つぅっと鮮血が流れ落ちた。どこかにぶつけて切ったようだ。唇の端からも、血が滲んでいる。

「フン。あの爆発で死ななかった事は誉めてやろう」

 座り込んだままのユリアンを見下ろして、ザーシャは冷たく言い放つ。

「もっとも、どうやら今は立っているだけでやっとのようだがな。まあ、それも関係無い……どの道、貴様はここで死ぬのだから」

 ユリアンは立ち上がろうと藻掻いたが、脚に力が入らない。

 朦朧とした意識の中で、刀の鯉口を切る音が響く。

 ぼんやりと霞み始めた視界に、白刃が煌めいた。

「……何の真似だ、小娘」

 ザーシャが、彼女と魔術師の間に刀を構えて立ちはだかる、茶髪の少女を見つめて言う。

 抜刀したレイリが、瞳に静かな光を湛えて、潮風に髪をなびかせながら立っていた。

「……させない。ユリアンを殺させたりなんか、しない」

「ハハハハッ!」

 ザーシャが、さも可笑しそうに声をたてて笑う。

「貴様に何が出来る! 刀を握る手も震えているような小娘に! 大口を叩くのも……」

「うるさい!」

 レイリが、腹の底から怒鳴った。

「どんなに無力でも、脆くても、臆病でも! 立ち止まったりしない、逃げたり隠れたりしない! 誰も守れないかもしれないけど、あたしは守りたい!」

 手は震えていても、その瞳に、その声に、迷いは無かった。

「たとえ小さくても、刃が手の中に有る限り、あたしは戦い続けるんだ!」

 守られるだけは、もう嫌だった。

 失う事が、怖かった。

 何も分からず途方に暮れていた自分に、手を差し伸べてくれた人。進む道を、示してくれた人。

 何度も何度も守ってくれた人が、これ以上傷付くのを見ているだけなのは、嫌だった。

「レイリさ……」

「ごめん。あたしじゃ無理だよね。……だけど」

 揺れる船底を、茶色いブーツが力強く蹴る音が響いた。

「たああああぁぁっ!」

 刀を振り上げて、レイリはザーシャに飛び掛かる。それまで黙ってレイリを見ていたザーシャが、さも小馬鹿にしたような口調で呟いた。

「なるほど、なるほど……貴様、そんなに死にたいのか」

「レイリさんっ!」

 ユリアンが叫ぶのが、遠くから聞こえた。目の前に立つザーシャに向けて、思い切り刀を振り下ろす。

 キィン!

 澄んだ音を立てて、刀が動かなくなる。

 鋼の鎧に覆われた人差し指によって、刀は止まっていた。

 指一本で。

 どうしようもなく、止められていた。

「フン。他愛も無い」

 下から跳ね上がってきたザーシャの爪先が、抉るようにレイリの腹部に食い込む。

「うぐっ!」

 弾き飛ばされたレイリは船底に倒れ、激しく咳込んだ。這うようにして近付いたユリアンがレイリを抱き起こし、取り落とした刀を拾って威嚇するようにその刃をザーシャに向けた。

 興味が失せた、とでも言うように、ザーシャは小さく鼻を鳴らす。

「精々二人仲良く……消えて無くなれ」

 二人に向けられた掌に、黒い光が収縮し始める。昨晩ユリアンとサイザンが巻き込まれた、あの黒炎の魔術だった。

 レイリの肩を抱くユリアンの腕に、力が込もる。

 ザーシャが魔術を放とうとした瞬間、突然船が激しく揺れた。狙いを誤った魔術は、ユリアンの頬を掠めて背後の白波が立つ海に落ちる。ジュッと大きな音をたてて、海面から蒸気が上がった。

 いつの間にか空には暗雲が垂れ込め、海は時化の状態になっている。先程までの静かな凪ぎが、嘘のような荒れ模様だ。荒波に揉まれ、小型艇は木の葉のように揺れる。

「ち……」

 メナルー市街の方角を向いて、ザーシャは小さく舌打ちをした。ドン、と強く船底を蹴ると、まるで見えない足場でもあるかのように宙に浮き上がる。

「仕方無い。今日の所は見逃してやるぞ、小僧。また会おう……海の藻屑とならなかったら、な」

 虚空を踏んで、ザーシャは走り去った。

 残された船は、波に翻弄されて激しく揺れる。さらに悪い事に、先程ザーシャの魔術が海に落ちた際に、船を岸に繋ぎ止めていたロープを掠めていたらしい。ぶつん、と音を立ててロープが切れ、小型艇は島から離れて流され始めた。

「レイリさん、大丈夫……うわっ!」

「わぁっ!?」

 レイリとユリアンは、突然船が斜めになった為に船縁に叩き付けられた。

 ガツン、と嫌な音が響く。レイリが慌てて顔を上げると、レイリの肩に回されていたユリアンの腕ががずるりと落ちた。

「ユリアン!?」

 船縁に叩き付けられた際に、頭を打ったらしい。意識を失った身体は、想像以上に重かった。

「嘘……どうしよう……」

 途方に暮れたレイリを嘲笑うかのように、激しい雨が降り始めた。



第28話に続く――

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