第26話 うたかた
あなたを想うこの心は、泡沫にも似て儚い。
――主よ、何が望みだ。
望みって……まあ、魔王の断片、あの海蛇をどうにかしたいってとこかな。
――封印を望むか。
出来ればあいつだけでも倒しちゃいたいトコだけどさ、それは無理なんでしょ?
――主が望めば、倒す手助け程度にはなろう。
そっか……じゃあ、倒す方向でお願いしちゃっていいかな?
――主の命に、我は従うのみ……。
「さて……どうしたもんかね、コンチクショウ」
レイリの姿が見えなくなったのを確認したクライドは、困ったように頭を掻いた。
「ぶっちゃけた話、時間稼ぐ方法とか何も思いつかないんだよな」
その時、海蛇が破壊された眼球から血煙を振り撒きながら、再び攻撃の構えを取った。
「な、何だテメー、やんのかコラ!」
年長者らしい態度を取る必要が無くなったせいか、普段よりも心無しか饒舌になっている。というより、単に敵前に一人でいるのが落ち付かないようだ。
肩越しに背負った筒に手を伸ばしてみたが、残った銛は一本きりだった。
「ええい畜生!」
最後の銛を右手に持ち、腰に横向きに括り付けた猟刀を左手で抜く。
巨大過ぎる相手に、自分が何を出来るかなんて馬鹿げた問いを、今更しようとは思わない。
もう自分には、こうするしかないのだから。
向こうが動いたらすぐに反応出来るよう、全身の神経を張りつめる。
ところが、海蛇はクライドに襲いかかろうとはせずに、頭を上に持ち上げた。
何をする気なんだ、と思う間も無く、目の前で起こった光景にクライドは目を見張る。
海蛇の鱗が、ぼろぼろと剥がれ落ち始めたのだ。そればかりでは無く、体全体が形を無くし、脆い砂山のように崩れてゆく。
シエラが、封印に成功したのだろうか。いや、まだ二人が中に入ってから間も無い。だとしたら、一体何なんだ。
長い体はすっかり消えて無くなり、残った頭部も小さな破片を散らしながら消えてゆく。その中から、人の形をした何かが現れた。
黒いコートのようなものを着たそいつは、被っていたフードを後ろに下ろす。その下から現れたのは、滑らかな白い肌に、肩の上で散切にされた黒髪。
海蛇と同じ、血のような紅い瞳のその男と、クライドの目が合う。にやりと口元に不気味な笑みを浮かべた男の左目は、無残に潰れて鮮血が流れ出していた。
ぞくっ、とクライドの背筋に悪寒が走る。
何だ、こいつは。
ヒトじゃない。それだけは分かる。だけど、この圧倒されるような感覚は何なんだ?
「……何だ……何なんだ、お前……!」
「俺か?」
低く、絞り出すようなクライドの声を聞いて、その男は笑いを含んだ声で答えた。
「俺様が誰様かって? 別に名乗る程のモンじゃありませんよぉ、背の高いお兄さん。なんちゃってなあ、ひゃははははっ!」
上を向いて哄笑し、再びクライドに視線を向けた男の赤い瞳は、ぞっとする程冷たかった。
「俺様は、魔王様だ」
やばい。
やばい、やばい、やばい……!
こいつが魔王だ、と思わせる何かを、確かにこいつは持っている。それに、魔王の一部であるという海蛇の中から姿を現わしたという事が、何よりの証拠だ。
大振りの、鉈に似た形の剣を構えた手が、微かに震えているのが分かる。ポケットに手を突っ込んでへらへら笑っているこの男に対して、恐怖を感じている事の表れだ。
「んんー、ここでお兄さんと遊んでくのも悪かないと思うんだけど、俺様今ちょっと急いでるから……」
ポケットに手を突っ込んだまま、魔王は満面の笑みを浮かべる。
「お兄さん、ここらで一遍くたばっとく?」
魔王の姿が消えた、と思った次の瞬間、クライドは腹部に強烈な膝蹴りを食らって吹っ飛んだ。
「うっ!?」
柱に背中から叩き付けられ、息が詰まる。態勢を立て直す間も無く、今度は綺麗な回し蹴りが顔面に入った。持っていた猟刀が手を離れ、少し離れた所に落ちたのが、目の端に映る。
倒れたクライドに目も向けず、魔王はその背中にぐいっと足を乗せた。そのまま神殿の入り口のほうに目をやる。どうやら、宝玉が気になるらしい。
「んんー、くたばっちゃったかな?」
クライドを踏みつけた足に、力が込もる。
「それとも、まだ生きてんのかな?」
ゆっくりと踵に体重を乗せ、ぐりぐりと足をねじ込むように動かしていく。回し蹴りで頭を強打したせいで意識が遠のきかけたクライドの唇から、微かに呻き声が洩れた。
「おおっ、ニンゲンのくせに、いっちょまえにまだ生きてんじゃん! 往生際の悪い奴は嫌いじゃないぜ、何てったってさ……」
すっ、と魔王は足を持ち上げる。
「いたぶり甲斐が有るもんなぁっ!」
振り上げた足をクライドの背中に叩き付け、魔王は再び哄笑した。
「ひゃははははぁっ! ほらほらぁ、どうしたどうしたぁ! すぐに終わっちゃつまんねえぜ、根性見せろやぁっ! ひゃは、ひゃはははははっ!」
魔王の容赦無い蹴りを幾度と無く受け、始めのうちは弱々しく抵抗していたクライドも、そのうちぐったりと動かなくなった。
ようやく足を引っ込めた魔王は足元に目を落とし、心底残念そうに溜め息をつく。
「なぁんだ、もう気絶しちゃった訳? つまんねえつまんねえ、全くもってつまんねえなぁ、オイ」
俯せに倒れたクライドの頭に、足を乗せる。
「つまんねえから、お兄さん死刑な」
頭部にミシリと圧力が掛かった、その時。
「そこまでです!」
凛とした声が、辺りに響く。
どこからともなく現れた青い髪の兵士達が、一斉に周りを包囲する。顔を上げた魔王は、槍を掴んで立っている少女を見て、唇を歪めて笑った。
「誰かと思えば、青い髪のお姫様じゃん。どうして来ちゃったのさぁ、折角見逃してあげたのに」
「生憎私は、自分だけ助かって満足するような人間ではありません。その汚い足を、さっさと退けて貰いましょう」
威圧感を出す為なのか、怒っているのか、はたまた緊張しているだけなのか、メアルの声はいつにも増して低い。
「はっ。嫌だね」
魔王は、クライドの頭に乗せた足をわざとらしく小刻みに揺らす。そして、ちらりと神殿のほうに目をやって軽く舌打ちした。
「俺様みたいな主役は非常に忙しいから、あんた達みたいな雑魚に構ってる時間なんか無いんだっつーの。さっさと退けよ、そうじゃないと……」
魔王の赤い瞳が、メアルの青い瞳を覗き込む。
「このお兄さん、マジで死ぬよ?」
クライドの肩の辺りを乱暴に蹴って仰向けにした魔王は、右手だけをポケットから出してクライドの首を掴む。そしてそのまま、自身よりも長身のクライドをいとも容易く持ち上げた。だらんとしたクライドの爪先は、地面から数センチの所で揺れている。
「ほらほら、そこどきなって。お兄さんがどうなっても知らないよー?」
歌うように言いながら魔王が神殿に近付くと、入り口を塞ぐように立っていた兵士達は指示を仰ぐようにメアルを見た。
ぎり、とメアルは歯軋りする。
「……退きなさい」
「姫様!?」
「退けと言っているのです! 犠牲を出す訳にはいきません!」
「しかし!」
メアルの近くにいた兵士が、声を上げた。
「人質になっているのは大地の民では……」
「だったらどうしたというのです!」
槍の石突きを地面に叩き付けて、メアルは大声をあげる。
「私は、その方に命を救われました! 恩を仇で返すような真似など、出来る筈が有りません!」
「話はまとまったー? 早く決めないと……」
「お黙りなさい!」
メアルは、へらへら笑っている魔王を睨みつけた。
「退きなさい……命令です」
兵士達は一瞬躊躇ってから、渋々槍を納める。
「あーあ、抵抗してくれたほうが面白そうだったのにな……うぐっ!?」
突然、魔王の顔色が変わった。それと同時に突き上げるような激しい揺れが襲い、メアルや兵士達は立っていられなくなった。周囲の建物も、幾つか崩れ落ちる。ところが、唐突に始まった地震は唐突に終わり、海原の民達は不安げに顔を見合わせた。
ずるりと魔王の手が滑って、クライドの首から離れる。海底に倒れたクライドはその衝撃で意識を取り戻したらしく、背中の痛みに顔をしかめながらむくりと起き上がった。
「おのれ……忌々しき封印が……」
先程までの余裕はどこへやら、手で顔を覆った魔王の形相は凄まじかった。指の隙間から、血走った眼が覗いている。
顔を上げたクライドの目に、先程取り落とした猟刀が飛び込んできた。クライドの目の前に転がって、夜明け前の光を鈍く反射している。
その瞬間、ほとんど何も考えずに、クライドの身体は動いていた。
飛び付くようにして、地面から毟り取るように猟刀を取り上げる。そのまま向き直り、魔王に向かって渾身の力を込めて猟刀を振り下ろした。
鉈に似た形の、対象を重さに任せて叩き斬る為の大きな刃は魔王の左肩に食い込み、胸の辺りまで肉と骨を切り裂いて止まった。
明らかに心臓にまで達している、致命傷だった。
どっ、と吹き出した血液が海水と混ざり、視界が赤く染まる。その赤い霞の向こうの魔王の顔は、驚愕に満ちていた。
突然腹部に衝撃が走り、クライドは目を落とす。
魔王の腕が、クライドの腹に、肘までめり込んでいた。
貫通、していた。
魔王の顔は――してやった、という表情で笑っていた。
「あ……」
ゴボゴボと泡を出しながら、魔王の身体は溶けてゆく。足が溶け、胴が溶け、腕が溶ける。最後に頭が溶けて、魔王は跡形も無く消え去った。
歯止めになっていた魔王の腕が無くなったために、クライドの傷口から夥しい量の血が溢れ出す。ぐらりと視界が揺れ、クライドは海底に倒れた。
ゴボリ、と口から血液と泡が立ち上る。
死ぬのかな、俺。
……死ぬんだろうな。
自分の身体から、どんどん血が海中に流れ出しているのが分かる。多分、失血死だろう。
それに、夜明けが近い。おそらく、もういつ呼吸が出来なくなってもおかしくない。
ここで、終わりか……。
恐怖や怒りは、不思議と感じなかった。ただ、少しの淋しさと、少しの後悔があった。
記憶を無くした自分を拾って快く一緒に暮らす事を許してくれた、ラヴィナとシエラ。いつしか自分が居候の身である事を忘れて、本当の家族のように大事になっていた。
ラヴィナは豪快で快活な海の女で、料理が上手だった。躾に関しては厳しかったけれど、とても優しい人だった。
シエラは、ころころとすぐに表情を変えて、感情をストレートに表に出す人間だ。よく喧嘩をして、ラヴィナに散々怒られたりもした。
自身も捨て子だったシエラは、外見は全くラヴィナに似ていなかったが、料理を手伝う後ろ姿がラヴィナそっくりだったのが、印象的だった。
結局、ラヴィナさんの墓参りも出来なかったな。
ごめん、不孝な奴で。
それに、シエラ。
あの時は言えなかったけど、本当はこう言いたかったんだ。
もし俺達が、全員生きて帰れたら。
兄弟でも幼馴染みでもなく、一人の男と一人の女として、俺と一緒に居てくれるか?
お前は何て答えたかな。
もう、言えない言葉。
差し伸べられない手。
届かない、想い。
いっそ届かないのなら、この水に溶かしてしまおうか。
そうすれば、波の音に乗って、お前の耳にも届くのかな。
誰かがこちらを覗き込んで叫んでいるのが、ぼんやりと見える。
青い髪、青い目。
もう、それしか分からない。
結局、渡そうと思っていた物も渡せなくて。
言おうと思っていた言葉も言えなくて。
ごめん。
シエラ……。
最期に呼んだ愛しい人の名前はもう、声にならなかった。
ただ透明な泡が、口元から立ち上っただけ。
暁の光の中で揺れながら上っていった泡は、光に溶けて見えなくなった。
一つの泡沫が、消えて無くなった。
第27話に続く――
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