第6話 面影


 癒えない傷は、痛み続ける。

 表面からは、分からなくても。



 村が近くなった頃になって、ユリアンは改めてレイリの姿を上から下まで検分した。学校の制服に身を包み、肩に掛けたスポーツバッグのストラップをもじもじと握りしめ、レイリは気まずそうに突っ立っている。

「うーん……とりあえず服はそのままにしておいて、村に入ったら適当な着替えを手に入れましょう。この世界にもそういう形の服はありますから、取り立てて問題はないと思います。あとは……村に入る前に、その鞄だけは処分しておいたほうがいいでしょうね」

 言われてレイリは、バッグを見下ろした。高校の部活のエナメルバッグには、でかでかと『県立城ノ島高校剣道部』とロゴが入っている。明らかに、この世界では異質なものだった。

 しかし、このバッグを捨ててしまっては、元の世界との繋がりが絶たれてしまう。ツグノを連れ去られてしまった今、レイリと日本を繋ぐものは、バッグとその中に入っている学用品や細々とした物だけなのだ。

「処分って……それは、ちょっと……」

「レイリさんが手放したくないのも分かりますが、そんなものを堂々と持ち歩いたら、目立ってしまうでしょう。異世界人だとばれたら、動きにくくなってしまいますし」

「そうだけど、さ……何とか、どこかに隠しておけない? 誰か、人に預けるとか」

 言われて、ユリアンはしばらく考え込んだ。そして渋々、といった様子で口を開く。

「仕方ありませんね……僕の実家に、預けておきますか?」

「実家?」

「使用人に命じて保管させておきましょう。それが駄目なら、捨てて頂きます」

 使用人、という言葉がごく自然に出てくるあたりに驚かないでもなかったが、預かってくれるというのならありがたい。他に選択肢も無さそうだったので、レイリは頷いた。

「でも、どうやって運ぶの? 手で持っていくの?」

「いえ、使い魔に運ばせます」

「つかいま?」

「僕が使役する魔物の事です、後で実物を見てもらったほうが早いでしょう。……どうせ預けるなら、今着ている服も一緒に預けてしまったほうがいいですね。とりあえず鞄はこの辺りの茂みの中にでも隠しておいて、服を買って着替えたら戻ってきましょう」

 そうだね、と頷いて、レイリは傍の茂みの中にバッグを隠す。街道側から見えないのを確認して、二人は村に足を踏み入れた。




 いかにも小さな農村といった風情の村の、中心部を二人は歩く。久し振りに人が沢山いる所に来たような気がして、レイリはユリアンから離れないようにぴったりくっついて歩いた。

 この村の住人達は、ユリアンとザーシャ以外でレイリが見た初めてのこちらの世界の人間達である。顔立ちはどちらかと言うと西洋的に見えるが、髪や瞳の色は地球人に比べて色のバリエーションが豊富だった。赤や金、茶色系統の色以外にも、黒みがかった青や緑、紫などの髪の人々がいる。

 依頼主であるという村長の家を訪ねて魔物を倒した旨を報告し、証拠として骸から剥がしておいた鱗を見せ、報酬を受け取る。まとまった額の金が手に入ったところで、買い出しをする事にした。食料や各種消耗品の他、レイリの着替えなども買い込まなければならない。旅の性質を考えれば、ある程度の強度を持ちつつ軽くて動きやすいものが良いのだが、小さな村で手に入る衣料品などたかが知れている。一時的な処置として一般的な村娘が着るような服を一揃え購入し、二人は宿屋に向かった。

 部屋を取って中に入ると、レイリはベッドの端に腰かけて大きく息をついた。ちゃんとした布団に眠れるのも随分久しぶりな気がするが、風呂に入れるというのがレイリには一番嬉しかった。

「お風呂入ってきていい?」

「ええ、僕もそうします。隣の部屋にいますから、着替え終わったら声を掛けてくださいね」

「わかった」

 一人用の部屋を二つ取っているので、ユリアンはレイリの隣の部屋で休むことになる。レイリは別に同じ部屋でも構わないと思っていたのだが、それを言ったら「レイリさんには、警戒心ってものが無いのですか……?」と呆れられてしまった。

 部屋に作り付けになっている狭い浴室で湯を使い、買ってきた服に着替える。庶民の娘が着る一般的な服と言うだけあって、素材も良い訳ではないし簡素なものであったが、少なくともこの世界の人間の中に紛れ込むにはちょうど良いだろう。

 それまでレイリが身に付けていた制服やら何やらを、買った服が入っていた紙袋にまとめて突っ込み、二人は森の中の先程鞄を隠した地点に向かった。幸いにも誰かに見つかったり獣に荒らされたりする事も無く、鞄はレイリが置いたままの状態で置かれていた。一旦開けて中身を確認し、必要なものを見落としていないか確かめる。少し迷って、手帳に挟んでいた眞澄と二人で映っている写真を取り出すと、ユリアンが興味津々といった顔つきで覗きこんだ。

「それ、写真ですよね?」

「え、こっちの世界にもあるの?」

「はい。この世界では、技術の普及に偏りがあって……この辺りのような田舎にはありませんが、都市部では写真も見る事が出来ますよ」

「そうなんだ」

「ええ。もっとも、こんなに鮮明には映りません。モノクロですし」

「んー、あたしの世界でも、昔はモノクロだったみたいよ? あたしが生まれる頃には、もうカラーが主流だったけどね」

「こうして見ていると、レイリさんの世界はこちらよりも科学技術が発達しているようですね。レイリさんの持ち物は、どれもこの世界には無い技術で作られているように見えます」

「ふうん」

 頷いて、写真に目を落とす。眞澄がレイリの肩に腕を回し、二人ともにこにこと笑っている。レイリの夏休みに合わせて眞澄が有給休暇を取って、二人で旅行に行った時のものだった。いつも眞澄は忙しく働いていたので、二人でどこかに行ったりした記憶は、あまり無い。数少ない旅行の思い出は、幸せだった母との生活の中でも特別なものだった。

「……お母様、ですか?」

 躊躇いがちに声を掛けられて、レイリは物思いから引き戻された。

「うん。あたしと……元気だった頃の、母さん」

「確か、亡くなられたと……」

「そう。ずっと、二人で暮らしてたの。これからも……これからも、ずっとそうだと、思ってた、のに……っ」

 堪え切れなくなって、喉の奥からは言葉の代わりに嗚咽が漏れた。後から後から、涙が頬を伝う。

 ユリアンは、突然レイリが泣き出したことに驚いたようだったが、泣かせた原因が母親の話題を振った自分にある事に気付いて、おろおろとレイリを宥めようとした。肩に手を置こうかどうしようか、何度か迷った風に手を伸ばしたり引っ込めたりしていたが、最終的に恐る恐るレイリの肩に軽く手を乗せる。

「その、すみませんでした。思い出させるような事を言って」

「ううん……ごめんね。今は、悲しんでる場合じゃないし。しっかり、しなきゃ」

 顔を拭い、二、三度鼻を鳴らしてからレイリは顔を上げる。一度写真を見て、再び顔を上げてユリアンを見上げた。

「この写真、持って行っていいかな?」

「ええ。いくら僕でも、そこまで薄情じゃありませんよ。それに……僕も早くに両親を亡くしましたから、レイリさんが淋しいのも、何となく分かります」

「え……」

 何気なくそう言って肩を竦めたユリアンを、レイリはまじまじと見る。こんな歳のうちから大人と対等に渡り合い、旅の生活を送っているのには何か理由があるのだろうと思っていたが、それがそんなに悲しい事情だとは思っていなかった。この少年もレイリと同じ痛みを抱えてはいるが、それを人に見せることはない。元々彼自身の持つ強さなのか、月日が流れるうちに傷が塞がったのかは分からないが、いつかは自分もこんな風に――感情に流されることなく、母の事を語れるようになるのだろうか。

 レイリがじっと見ている事に気付き、ユリアンは困惑したような視線を返してきた。我に返って、レイリは写真を服のポケットに仕舞い込み、残った所持品を確認する作業に戻る。教科書、ノート、ペンケース、手帳、財布、携帯電話、その他諸々。およそこの世界では不要であると思われるものばかりだ。否、むしろ持っていると危険だろう。最後にファスナーを閉めて、レイリは立ちあがった。

「終わりましたか?」

「うん。これで、お願いするね」

 そうですか、と頷いて、ユリアンは二、三歩下がった。何をするのだろう、と思う間もなく、囁くような声で「来てください、バーユ」と口にした。

 変化は、唐突に起きた。

 それまでは微かに吹いていた風が、にわかに強くなる。ざあっ、と二人の周囲の落ち葉が舞い上がり、草木が揺れる。太陽の光までもが、少し翳ったようにさえ思えた。

 渦巻く風に長い髪を嬲られるユリアンの緑色の瞳が、木陰の中で淡く輝く。

 その足元に目を落とし、思わずレイリは息を呑んだ。明らかに、ユリアンの影が日中では有り得ないほど濃くなっている。それはもうほとんど、漆黒の闇が彼の足元にわだかまっていると言って良かった。

 そして、その影が――ぞわり、と蠢いた。

 集まった闇が膨れ上がり、空中に立ちあがる。それは煙か霧のように、特定の形を持たないまま渦巻いていたが、やがて収縮して何かの形を取り始めた。大きな四つ足の獣のような形を取ったところで、徐々にその鼻先から黒いふさふさした毛並みに変わる。

 ゆっくりとその黄色い目を開いたのは、黒い毛に覆われた大きなネコ科の獣だった。大きさは虎やライオンくらいはありそうだが、どことなく風貌が猫っぽい。そのせいでどこか、虎と言うよりは大きな猫、という印象が拭えなかった。

「ったく、何の用だよ。こっちは寝てたってのにさ、御主人」

 黒い獣は気だるげな声でユリアンに抗議した。驚いたレイリは、思わず飛びのいて声を上げる。

「喋ってる! おっきい猫が喋ってる!」

「喋っちゃ悪いか、しかも俺様をそこら辺の猫と一緒にするんじゃないよ。無礼な小娘だな」

 獣はゆっくり歩み寄ってきて、じろじろとレイリを上から下まで眺めた上、ふんふんと臭いまで嗅いだ。口元から鋭い牙が覗いているのが見えたので、レイリはすっかり竦み上がって身動きが取れない。

「無礼なのはどっちですか、レイリさんが困ってるでしょう。やめなさい、バーユ」

 バーユというのが名前らしく、そいつはふふんと鼻を鳴らした。

「ま、こんなガキに興味はねえけどな」

 どうやら危険な生き物ではないらしい事が分かったので、レイリは今度は自分から近づいて、バーユの姿をじっくり観察してみる。全体が真黒に見えた毛並みは、よくよく見ると所々に微妙に色艶の違う毛が混ざっており、遠目に見ると縞模様のように見える。ふさふさで気持ちよさそうだったので手を伸ばしてみたが、睨まれたので触るのはやめておいた。

「これが、使い魔?」

「はい。僕の母は魔術に優れた民族の出身で、その一族に伝わる術です。魔術師と魔物が契約して、必要になった時に呼び出して命令します。魔術師が死んだときに、使い魔はその心臓を食らう事が出来る、という契約でね」

「……心臓?」

「ええ。魔術師の心臓には強い魔力がありますから、魔物はそれを食って自分の力を高めようとするんです。ただ、強い魔物は、ある程度力のある魔術師――自分が食うに値するほどの魔力の持ち主にしか、従いませんけどね」

「ふうん……一部の民族にしか伝わってないってことは、使い魔と契約してる魔術師ってあんまり多くないってことだよね?」

「まあ……そうですね」

 妙に歯切れの悪い返答をして、ユリアンはバーユのほうに向きなおった。

「それより、本題に入りましょう。これを僕の実家に運んでください。いいですね?」

 ユリアンがレイリのバッグを指し示すと、バーユは目を細めてうにうにと尻尾をくねらせる。

「人間用の鞄かい、ちょいと運びづらいかね……」

 呟くと、バーユの姿は再び黒い煙に変わった。一旦宙に広がった後、再び集まって今度は人の形を取る。ぱちりと目を開いたのは、ユリアンに瓜二つの顔をした少年だった。ただし、服が妙にぴったりした露出の多いデザインな上、猫の耳と尻尾が飛び出し、瞳は黄色で縦長の瞳孔もそのままになっている。

「……は?」

「んー、やっぱ人間の体は動きづらいねー。ま、それを運ぶんだったら獣の体じゃ無理だし」

 呆気にとられるレイリの前で、大きな伸びをしてからニシシシ、と笑った少年に、ユリアンが怒気を含んだ表情で詰め寄る。

「あなた……あれほど人の姿で遊ぶのはやめろと言ったでしょう! しかも女性の前でなんてはしたない恰好を!」

「ん、何? もう一枚脱いだほうが良かった?」

「あと三枚くらい着てください!」

「嫌だね。どうして人間は服なんて暑苦しいもん着るんだい? 最低限隠すとこ隠すってことで、これでも譲歩してやってるんだぜ?」

「ぐぅっ……!」

 さすがに全裸になられては敵わないと思ったらしく、ユリアンは渋々引き下がった。それでも、恨みがましい視線がバーユとレイリの間を行ったり来たりする。確かに、自分の姿をコピーされた上にあれこれ遊ばれるのは、本人としては結構屈辱的かもしれなかった。

「……あと、これを持っていってください。服を洗濯して、鞄と一緒に保管しておくように言付けを書いておきましたから」

「へいへい、了解了解っと」

 差し出された手紙を受け取って、バーユは鞄を肩に掛け、服の入った紙袋を抱える。そしてちらりとレイリを一瞥すると、また体の一部を煙に変え、背中に黒い翼を作った。

「んじゃ、行ってくるぜ」

 地面を蹴ると、ばさりと翼の音を響かせて、少年の姿に化けた魔物は飛び立った。そろそろ夕方の気配が見え始めた空に舞い上がった黒い姿が木立に隠れて見えなくなるまで見送ると、ユリアンはどっと疲れたような表情でレイリのほうに向き直った。

「ひとまず荷物の問題も解決しましたし、宿に戻って休みましょう」

「そうだね」

 胸元にしまった写真を押さえて、レイリはユリアンの後を追って歩き始めた。



第7話に続く――

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