第3話 廻り出す運命


 出会いは別れの始まり。


 別れは出会いの終わり。




 あれから一時間程歩いて、レイリは立ち止まった。近くの木の下に座り込み、幹に背中を預ける。

 歩き続けているうちに、幾つか困った事が分かった。

 一つ目に、どうやらここはなだらかな山の中腹あたりであるという事。樹木はさほど密集している訳ではなく、足元に丈の低い草が茂っている。地面は緩やかに傾斜しており、先程見通しの良い場所で確認してみたところ、かなり下った先で煙が上がっているのが見えた。誰か人が居るだろうと見当をつけ、現在はその煙の方角に向かって進んでいるが、結構距離が有る。日があるうちに辿り着くのは、おそらく無理だろう。

 となると、この山の中で夜を明かさなければならない。

 今のところ、危険な動物の類には出くわしていないが、日が暮れた後でそういったものに出会ってしまうと困る。安全に寝られる場所を、確保しなければならない。

 二つ目に、食料の問題である。病院を出てから何時間経ったのかは見当もつかないが、先程からレイリの腹の虫は、元気一杯に自己主張している。歩き続けた疲れや寝床の問題より、こちらのほうが切羽詰まった切実な問題だった。幸いにも、バッグの中にお茶のペットボトルが入っていたので、水分だけは補給出来ている。今のところ川らしいものも見ていないので、煙の出ているところに辿り着くまでは、これで凌ぐしかないだろうか。

 そんな事を考えながら、小休止を終わらせて立ち上がり、またしばらく歩いたところで、少し離れた茂みがガサガサと揺れた。

「ひっ……!」

 危ういところで悲鳴を抑え込み、レイリは恐る恐る茂みの様子を覗う。動物の類とは関わり合いにならないほうが無難と判断し、静かに離れようとしたが、茂みが揺れる音に混じって人間の呻き声のようなものが聞こえた気がして、足を止めた。

「う……」

 やはり、人間の声である。レイリは急いで茂みに近づいて、声の主を探した。

 そこに倒れていたのは、若い女だった。茶色い髪は乱れ、白い服も所々が破れ、鮮血が点々と飛び散っている。左肩と脚を酷く怪我している様子の女に駆け寄って、レイリは声をかけた。

「大丈夫ですか !?」

 女が薄く眼を開け、レイリの姿を認めた瞬間、言いようのない恐怖で、レイリの背筋にぞくっと悪寒が走った。

「っ…… !?」

 突然女が手を伸ばし、レイリの手首を信じられないような力で掴んだ。その口が、にいぃ……と耳の辺りまで裂ける。

「ふふ……馬鹿な人間だけれど、肉は柔らかくて美味しそうね。あなたの生き血を啜れば、あの人間につけられた傷も、幾らか具合が良くなるかしら……?」

 言いながら、女の姿はめきめきと音を立てて変化しはじめた。

 白い肌は鈍色の鱗に変わり、ごつごつと節くれだった指の先には、長い鉤爪が生える。全体的に蜥蜴のような骨格になり、鋭い牙の間から洩れる息は生臭い。獰猛そうな黄色い瞳が、レイリの姿を映した。

「……っ!」

 あまりの恐怖に足が竦んだが、掴まれた腕を引っ張られて我に返った。慌てて腕を振り解こうとしたが、レイリの力では到底太刀打ちできない。

 喰われる! と思った瞬間、レイリの目に化け物の足が映った。人間の姿に化けていた時同様、足には大きく深い傷が有り、嫌な匂いの血が滴っている。

 考える前に、体が動いた。

 足を伸ばし、傷の部分を狙って蹴りつける。ぎゃおう、と獣じみた咆哮を上げ、化け物は痛みに思わずレイリの腕を放した。素早くレイリは身を翻し、とにかく一刻も早くこの場を離れようと走り出す。

 ガサガサと下草を踏み分ける音で、化け物が後を追ってきているのが分かった。やはり足の傷のせいか、大した速度は出ていない。このまま全速力で走り続ければ、引き離せるかもしれない。

 後方を振り返って相手の様子を覗う間も惜しんで、レイリは走り続ける。方角も分からないまま闇雲に走っていたが、しばらくして息が切れ、脇腹が痛み出した。次第に速度が落ちてきているのが分かる。

 どのくらい引き離しただろう?

 どこかに隠れて、やり過ごすことができるだろうか?

 考えながら走っていると、前方に岩壁が聳えているのが見えてきた。どうやら、切り立った崖の下に出たらしい。岩壁に沿って走りながら、レイリは必死に隠れる場所を探した。

 森のほうをちらりと覗い、岩壁のほうに視線を戻した瞬間、レイリの目に、前方の岩壁に岩の割れ目のようなものがあるのが映った。近付いてよく見てみると、狭い洞窟である。何かが腐ったような臭いがして一瞬入るのを躊躇ったが、後方で茂みを掻き分ける音がし始めたので、意を決して洞窟に飛び込んだ。

 立ち込める猛烈な腐臭に咳き込みそうになるのを必死に堪え、岩陰からそっと外を見る。ちょうど洞窟の入口あたりで、化け物が地面に鼻をつけて、臭いを嗅いでいるところだった。

 この腐臭に紛れて自分の臭いが消されることを祈りつつ、身を縮めるようにして息をひそめていると、何かが手に触れた。音を立てないよう、注意深くそれを触っていると、何かすべすべした丸いものであることが分かった。ちょうどハンドボールくらいの大きさで、幾つか穴が開いている。

 持ち上げて、幽かな光の中で凝視して、ようやくその正体に気付いたレイリは、驚きのあまりそれを取り落とした。

 カラン、と乾いた音をたてて、入口から差し込む光の中に転がったそれは、人間の頭蓋骨だった。

 しまった、と思った時には、もう遅かった。

 ぐるる……。

 その音に気付いた化け物が、ゆっくりと洞窟の中に入ってくる。

「そちらからこっちの住処に入ってきてくれるなんて……つくづく、馬鹿な人間だねえ」

 そういうことか、とレイリは唇を噛む。この洞窟は化け物の巣、あの頭蓋骨は食われた犠牲者のなれの果てなのだろう。つくづく自分の運のなさに、腹が立ってくる。

 獲物を追い詰めた優越感から、ゆっくりとこちらに歩いてくる化け物を見ながら、しかしレイリにはおとなしく食われてやる気は毛頭なかった。

 この状況で、逃げられる確率は低い。どうせ死ぬなら、死ぬ気で抵抗してやろう。

 その時、レイリの手に何かが触れた。

 細長く堅い手ごたえのそれを咄嗟に掴むと、骨よりはずっと重く、しかしレイリが振り回すにはちょうど良いくらいの重量だった。

 考える間もなく、襲いかかってきた化け物の頭に向かって、振り上げたそれを、思い切り叩きつけるように振り下ろす。化け物は、頭部に向かって何かが迫ってくるのを感じ取って避けようと頭を捻った。しかし、かわし切れずに、それは深々と化け物の肩のあたりに食い込む。

 血飛沫が、飛んだ。

 レイリは、呆気に取られて化け物の肩に突き刺さっているものを見る。

 それは、古びた剣だった。どこか日本刀にも似た、わずかに湾曲した細身の片刃剣である。ずっと放置されていたのだろう、装飾が施され、元は立派なものだった事が窺えるが、今では見る影もなくボロボロだった。

 化け物の咆哮が、響く。

 痛みにのたうちまわる化け物の肩から剣が抜け、レイリはその剣を握ったまま、茫然としていた。ここで、レイリが冷静になってもう一撃加えるなり逃げるなりすればよかったのだが、レイリは自分がしたことが信じられず、一瞬ぼうっとしてしまった。

「おのれ……人間が!」

「うっ!」

 気がついた時には、化け物の太い腕に薙ぎ払われ、後方の岩に強かに頭をぶつけていた。ゴンッ、という音とともに、一瞬意識が遠くなる。

 ぼんやりと霞んだ視界の中に、化け物がこちらに歩いてくるのが見えた。

 ここまでか……。

 レイリが観念しかけた時、奇跡としか言いようのない事が起こった。

「覚悟!」

 凛とした声と同時に、何か光るものが洞窟の外から飛んできて化け物の背中に当たる。次の瞬間、それは強い光と共に炸裂し、熱風がレイリのところまで吹きつけてきた。

 レイリが、顔を庇おうとした腕を下ろした時には、化け物は振り返って声の主を探していた。

「お前は……!」

「散々手間をかけさせてくれましたね。今度こそ逃がしません」

 少年と言うには少し高く、少女と言うには少し低いトーンの声でそう言ったのは、踝の辺りまである長い黒服に身を包んだ人物だった。

 鴉の濡れ羽色、という形容がよく似合う、腰より下の辺りまである長い黒髪を、項で一括りにしている。病的なまでの青白い肌に、エメラルドを思わせる深い緑の瞳。小さ過ぎも大き過ぎもしない、整った形の目は長い睫毛に縁取られ、すっと通った鼻梁や小さな唇と相まって、人形のような作り物めいた美しさを感じさせる。年はレイリとそう変わらないように見えるが、中性的な外見と声、そして体型の分かりにくい服装のせいで、性別はよく分からなかった。

 彼(彼女?)は、一・五メートルほどだろうか、先端に装飾の施された杖両手で握って、低く身構える。咆哮を上げて、化け物は黒衣の人物に襲い掛かった。黒衣の人物も、何かレイリには分からない言葉を呟きながら、地面を蹴って化け物に向かって走る。

 あと少しで鋭い鉤爪がその身体を切り裂く、というところで、黒衣の人物は体を低くして鉤爪をかわしながら化け物の横を通り抜け、その背中に向かって手を伸ばし、何かを呟く。

 次の瞬間、その掌に人の頭くらいの大きさの炎の塊が出現し、化け物に当たって爆発した。強い光を放った先程の光の塊とは違い、対象を焼き尽くす為のものと思しき高熱の炎は、断末魔の声を上げる化け物を、あっという間にぶすぶすと嫌な臭いの煙を上げる焦げた肉塊に変える。

「げほっ、げほっ……」

 コートの長い袖口で口元を覆って、黒衣の人物は軽く咳き込んだ。その様子が、青白い顔の病弱そうな印象を、一層引き立てる。

「あ、あの」

 洞窟の外に出たレイリが恐る恐る声をかけると、黒衣の人物はレイリの姿を認め、軽く眼を見張った。

「……あなたは?」

 僅かに警戒の色を滲ませ、黒衣の人物はレイリに問う。

「えっと、今の化け物に襲われてて、その……助けてくれて、ありがとうございました」

 軽く頭を下げると、黒衣の人物は警戒を緩め、代わりに申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「それは、申し訳ないことをしました。元々、この魔物は僕が退治を依頼されていたのですが、手傷を負わせたは良いものの、取り逃がしてしまいまして……僕の不始末で、ご迷惑をおかけしてしまったようですね。すみません、お怪我はありませんか?」

「あ、ええと……少し、頭を打ったくらいで……」

「頭を? 少し見せてください、失礼しますね」

「いや、そんな大した怪我じゃないし……」

「……あー、瘤が出来てる……すみません、本当に」

 心配そうな表情を浮かべると、途端に人形のような作り物めいた印象は薄れた。しかし、相変わらず外見からは男女の区別がはっきりせず、一人称が『僕』であるのも、性別を判別する材料にはならない。近くで見ると、レイリよりも十センチほど背が高いことが分かった。やや小柄な男性とも、やや大柄な女性ともとれる微妙な身長である。面と向かって聞くのも失礼な気がして、レイリは暫定的に女だと思っておくことにした。

「申し遅れました。僕は、ユリアン=サーヴェンと申します」

 相手は胸に手を当ててそう名乗り、レイリの瞳を覗き込む。吸い込まれそうに底の見えない瞳に一瞬見とれ、レイリは慌てて何度か瞬きをしてから、相手の名前が異国の言葉である事に気付いた。

「えと……え? ゆり……?」

「ユリアン=サーヴェンです。ユリアンとお呼びください。……どうか、しましたか?」

 レイリが自分の顔を凝視している事に気付いたのか、ユリアンは不思議そうに瞬きをした。

「あの、あたしは……汐月黎璃。レイリ、です」

「レイリ、さん?」

 慌ててレイリも名乗ると、ユリアンも違和感を覚えたようで、少し首を傾げる。

「あの……ここって、どこなんですか」

「どこ、と言いますと?」

「えっと、何県なのかとか、何市なのか、とか」

 ここは日本ではないのかもしれない、という予感が確信に変わりつつあるのをありったけの精神力で抑え込みながらそう聞いたレイリだったが、淡い期待はユリアンの一言で粉々になった。

「ケンやシというのは、土地の区切り方の事でしょうか? ラシャーナル王国には、そういう呼び名はありませんよ。僕達が今居るのは、レツァンド領ですね」

「ら……? ええと、どこの国、ですか」

「はい?」

 ユリアンが訝しむような表情を浮かべたのを見て、レイリは慌てて説明する言葉を考えたが、いい表現が見つからなかった。

「あたしも、自分自身が今どういう状況になってるのか、さっぱり分からなくて……気が付いたら、森の中にいて」

 言いながら、自分のしどろもどろな説明が果たして通じるのか、ものすごく不安になってきた。おずおずと目を上げると、ユリアンはじいっと深緑色の瞳でレイリを見つめ、続きを待っている。急いで考えを纏めようとしたが、そもそも自分でも何が起こったか分かっていないのに、他人に説明しようとするなんて、無茶にも程が有る事に気付いた。

「ごめんなさい……あたしにも、よく分かんなくて……」

 急に、自分が置かれている状況が分からないという状況が怖くなってきて、黙って俯く。ややあって、ユリアンが口を開いた。

「どうやら、訳有りのようですね。ここでこうしていても、埒も明かない」

 日が傾き、夕方の気配を見せ始めた空を見上げて、ユリアンは独り言のように呟く。

「今からでは、明るいうちに人里に下りるのは無理でしょうし……野宿でいいですか? あまり多くはありませんが、食糧もありますし」

「え……」

 思いもかけない提案に、レイリは眼を見開く。

「流石に、困っている方を一人でこんな所に放り出しておくほど、僕も酷な人間ではありませんから」

 嘘みたいに綺麗に微笑んだ顔は、どこからどう見ても女の子で、それでいてとても頼もしく見えた。



第4話に続く――

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