第2話 仮面の女
私の望みは、あなたには教えられない。
自分が何を望んでいるのか、自分でも分からないのだから。
あの後、自分がどこで何をして、どうしてこんなところにいるのか、レイリは覚えていない。ただ、気が付くと、しんしんと雪の降る深夜の路上に一人で立っていた。時計を見ると、既に零時を回っている。
帰らないと。
どこに?
家に。
どうして?
母さんが、心配するよ。
……母さん?
母さんは、もういないんだ。
この世で、誰よりも好きだった母さん。
この世で、誰よりも優しかった母さん。
その母さんは、もうこの世にいない。
母さんがいない家に帰る意味も無い、か。
そこまで考えて、レイリはある事を思い出した。
母さんはいないけど、母さんが言い残したことがある。父さんの実家を訪ねるって。それは、母さんとあたしの、最後の約束だ。守らなければならない。
それには、とりあえず家に帰らなければならない。寒いし、自分がどこにいるのか分からないのも不安だ。
そう思ってあたりを見回すと、電柱が見えた。ざくざくと雪を踏み分けて近寄ってみると、電柱には住所の書いてあるプレートが打ち付けられている。街灯の明かりを頼りに目を凝らしてみると、見覚えのある地名だった。
笹熊市、七亀町。どこだっけ、ここ。なんか……誰かが近くに住んでなかったか?
『ねえねえ、麻宮さんってどこに住んでるの?』
『あたし? 笹熊市の七亀町だけど。……そんな事聞いてどうするわけ?』
『なんとなく聞いてみただけだよ! そうだ、これからツグノって呼んでいい?』
『……勝手にすれば』
そうか、ツグノの家の近くか。
初めてツグノと呼んだ日の事を思い出して、レイリはふっと微笑んだ。
ツグノは、レイリが住んでいる市の隣の市から、電車で学校に通っている。電車に乗れば家に帰れるはずだ。よし、駅を探そう。
勢い込んで歩き始めたはいいが、初めて来る土地で、いきなりピンポイントで駅を探すとなると、結構大変なものである。日付が変われば明かりも少ないし、人通りも皆無に近い。加えて、雪が降っているせいで、著しく視界が悪いときている。コンディションは、最悪に近い。
「迷った……? 迷っちゃった?」
レイリの呟きを嘲笑うかのように、ひゅう、と冷たい風が吹き抜けた。
「こんな夜中に一人で駅探すなんて、無理あるよね……そもそも、なんでこんなとこに居るんだろあたし……」
ひとりごちてみても、解決の糸口が見出せるわけでもない。一応補足しておくと、眞澄の搬送された病院から、ふらふらと歩いていった末に道に迷ってしまった、というのが本当のところである。
「うう……寒っ!」
じっとしていると、ローファーを履いた足元から、寒さが這い上がってくる。幸いにもコートは着ているが、手袋もマフラーも無いし、制服のスカートから出た太腿が非常に冷たい。とりあえず、体を温める為に、歩き回ってみることにした。
寝静まった住宅街をぐるぐる回っているうちに、どうやら高台に上ってきているということが分かった。他より高い所に行けば、駅の大体の場所がわかるかもしれない。そのまま、高台を目指すことにした。
坂になっているところを選んで登っていくうちに、小高い丘の上が公園のようになっているのが見えてきた。晴れているときならば、さぞ見晴らしがいいだろう。夜でも、駅の周囲の明るい所が見えるかもしれない。レイリは、心持ち足を速めた。
最後の坂を駆け上がると、やはりそこは公園だった。ぼんやり光る街灯の明かりで、小さな池のほとりにベンチがおいてあるのが、辛うじて見て取れる。池の脇には低い柵が張り巡らされ、どうやらその向こうは斜面になっているようだった。
柵のほうに向かって歩きかけたところで、レイリはベンチの脇に誰かが立っているのに気づいた。
その人物は街灯の光の外側に立っているため、フードの付いたコートを着ていて、こちらに背を向けて、光の点っていない懐中電灯を片手にだらんと下げていることくらいしかわからない。
次の瞬間に起こった出来事に、レイリは思わず目を疑った。
それまでは鏡のように滑らかで真っ暗だった池の水面に、赤い光が滲み出るようにして浮かび上がった。初めは目の錯覚か、何かが水面に映ったようにも見えたが、次第に大きく明るくなった光源は、池の底から湧き上がるようにしてその強さを増してゆく。そして、赤い光は徐々に収束し、大きな円を基盤とした幾何学的な図形を形作った。
呆気に取られていたレイリは、フードを被った人物が、赤い円の浮かび上がる池に向かって歩き出したのを見て、我に返った。
怪しいよなあ、これ…。
純度百パーセントの怪しさです。
何かの儀式……?
怪しい宗教……?
池の中の光を凝視してみたが、これといった仕掛けの類は確認出来なかった。はた目から見れば、少し、いや、かなり不気味な光景である。
ここにいてはいけない。
本能的にそう感じたレイリは、フードの人物に見つからないように、こっそりとその場を立ち去ろうとした。
ピシッ!
鋭い音が響く。
足元に目を落とすと、左足が雪に埋もれた枯れ枝を踏みつけていた。
「……っ!」
顔を上げると、フードの人物がこちらを見ていた。赤い光は雪に反射し、その人物の顔をはっきりと照らしている。
それはレイリの想像し得ない、あまりに意外な見知った顔だった。
「……ツグノ?」
見間違えるはずが無かった。肩のあたりで切り揃えられた黒髪に、白い肌。意志の強さを象徴するような、引き締まった口元。
唯一にして最大の違い、それはその瞳である。無口ながらにいつも様々な表情を見せていたその目は虚ろで、レイリに無限の奈落の底を覗き込んだような恐怖を与えた。
「ツグノ……だよね? こんな時間に何してんの?」
明らかにいつものツグノではなかったが、とりあえず声を掛けてみる。
「……」
しかし返事は無く、ただじっとレイリを凝視していたツグノは、突然身を翻すとふらふらと池のほうに歩き出した。
池に飛び込むつもりか!?
レイリは、慌ててツグノに駆け寄った。
肩に掛けたバッグが邪魔だ。積もった雪に足を取られる。
それでも、必死に手を伸ばす。
ふらり、と赤い光の中に飛び込みかけたツグノのコートを、レイリは走りながら身を乗り出して掴んだ。しかし、バランスを崩して、ツグノに引きずられる形で池に向かって体が落ちていく。見る見るうちに、赤い光が目の前に近付いてきた。
ざぶん、と耳元で音が聞こえたが、水の感触は感じなかった。すぐに底につくだろう、というレイリの予想に反して、二人はどんどん沈んでいく。
目を開けると、そこは真っ暗な底知れぬ闇の中だった。
どんどん落ちてゆくその先に、赤い光が見える。不思議と水の冷たさは感じず、徐々に明るさを増していく赤い光の眩しさにレイリは思わず目を閉じ、そしてそのまま何も分からなくなった。
歌が、聞こえる。
その歌声は、どこか中性的で、男か女かもわからない。弦楽器の伴奏に乗って時に高く、時に低く流れる旋律は異国の詞で、意味を理解することも出来ない。
でも。
長く引っ張るような物悲しい声には、悲しみが聞く者の心に直接入り込んでくるような、何かを孕んでいた。
涙が一筋、頬を伝った。
「う……」
目を開けると、青い空が見えた。
「……はい?」
違和感に気付いたレイリは、一旦目を閉じる。風に揺られた木々のざわめきや、草のそよぐ音が聞こえた。
目をあけると、青い空が見えた。
慌てて跳ね起きて、辺りを確認する。
頭上には、青い空、白い雲。周囲には、新緑に彩られた木々が太陽の光を浴びて、なおも成長しようとしている。どうやらここは、森の中の開けた草地のようだった。レイリには、全く見覚えの無い場所である。
大急ぎで、混乱した記憶を辿る。
雪の夜。
眞澄の死。
ツグノ。
……公園の、池。
池に落ちて以降の記憶が無い。しかし、雪の降る深夜の公園で、ツグノと一緒に池に落ちたところまでは記憶をたどることが出来る。
そうだ、ツグノは?
ツグノは、レイリのすぐそばに倒れていた。よく見ると、気持ち良さそうに眠っている。
「ツグノ、ツグノ!」
レイリがツグノを起こそうと、肩を掴んで揺さぶっていると、地面にすうっと影がさした。
後ろに誰かいる。
これまで全く人の気配を感じなかったが、すぐ後ろに誰かが立っている。
恐る恐る振り向いてみると、背の高い人影が目に映った。
逆光で顔は分からない。透けるような美しい銀色の髪が流れるようにして陽光に輝き、黒いマントのようなものと共に全身を包んでいる。レイリとその人物は、少しの間、にらみ合った。
「……退け」
長身や、全体的な雰囲気から漠然と男かと思っていたが、驚いたことに降ってきたのは女の声だった。低い女の声は氷のように冷たく、暖かな日の差す森の中が、一気に冷えたように錯覚する。
「退けと言っている」
この女は、ツグノに興味が有るらしいが、こんな恐ろしげな女にツグノは渡せない。レイリは、勇気を出して言ってみた。
「嫌です」
唇が乾いて、声も掠れている。妙な威圧感を放っている相手と違って、迫力ゼロだ。
「聞こえなかったのか。退けと言ったはずだ」
「嫌って言ったはずでしょ、聞こえなかったの!?」
今度ははっきりと声が出た。
レイリは立ちあがり、逆光に目を細めて、相手を見上げる。
「ツグノはあたしの友達です。あんたみたいな胡散臭い奴には、指一本触れさせない!」
レイリの言葉を相手は鼻で笑って、つう、と右手を上げた。
バチン!
何が起こったのか理解する前に、レイリの体は触れられてもいないのにはね飛ばされていた。地面に叩きつけられた後になって、右の脇腹のあたりを激痛が襲う。
「うっ……!」
顔を上げて女とツグノのほうを見ると、ちょうど女がツグノの元に歩み寄って、跪いたところだった。どうやら、ツグノの様子を調べているらしく、すでにレイリは視界に入ってすらいない。痛みが引いてくるのを待って、レイリは近くに落ちていた木の枝を握り締め、女に殴りかかった。
ガツン!
気がつくと、レイリの振り下ろした棒は女の鎧に覆われた手で受け止められていた。女はこっちを向いてすらいない。ギシ、と力がこもり、あっけなく棒は粉々に握りつぶされた。そのままレイリは、また触れられてもいないのに吹っ飛ばされ、すねのあたりをぶつけて悲鳴をあげた。その間も、女はツグノから目を離さない。
起き上がったレイリは、やっと女の顔をまともに見ることができた。
その顔の上半分は、黒い仮面で隠されている。右の腕には二の腕のあたりまであるような手袋をはめ、左腕は鈍く光る巨大な鎧に肩まで覆われていた。それが奇妙にアンバランスで、変わった風貌の中でもひときわ目を引く。仮面に覆われていない、顔の下半分の褐色の肌は若々しく、おそらくまだ二十代と思われるが、身に纏う空気には底知れぬ暗さが漂っていた。
しばらくして女は満足げにうなずき、ツグノを抱えて持ち上げた。
どこかに連れて行く気だと悟って、レイリは急いで立ちあがった。じんじんする足の痛みも、幾分弱まっている。
「どこに行くのよ」
「貴様に答える必要は無い」
「ツグノをどうするの」
「貴様が知る必要は無い」
「ツグノを放して」
「それは無理な相談だ」
「どうして」
「貴様には関係の無いことだ」
「違う! ツグノはあたしの友達だ! 今すぐ放せ!」
「嫌だといったら?」
「……放してって言ってるでしょ!」
レイリは、拳を固めて女に向かって一直線に走った。先ほどの様子から、到底太刀打ちできない相手だというのは重々承知だった。しかし、ツグノが連れ去られるのを、黙って見過ごすわけには行かない。
走ってくるレイリに向かって、女は鎧に覆われていないほうの手のひらを向けた。
どんっと鈍い音がして、レイリは何も分からなくなった。
気が付くと、レイリは草の上にうつ伏せに倒れていた。当然のことながら、女もツグノも見当たらない。太陽の様子から見て、先程からそう時間はたっていないだろう。どうやら、吹っ飛ばされた後に、そのまま放っておかれたらしい。あの女は、本当にツグノ以外には興味が無かったようだ。
「いっ、たた……」
起き上がってレイリは自分の体を点検した。すると、脛と鳩尾の辺りに痣が出来ていることが分かった。あの女の仕業だろう。とりあえず大きな怪我をしていないようなので、レイリはこれからどうするか考えることにした。
どうしよう?
ツグノを探さないと。
でも、どうやって?
そしてレイリは、差し当たって今一番重要な事を思い出した。
「ここ……どこ?」
あたりを見回しても、見えるのは木々だけ。気温は東京でいうと五月の下旬位で、冬物の制服にセーターとコートという服装では、非常に暑い。湿度はさほど高くないため、じめじめとした暑さではないのが、救いといえば救いだった。日の光の様子から、日没まではあと三時間位だろう。
少し離れた所に、自分の通学用のスポーツバッグが転がっているのを見付けたレイリは、近寄って中身を調べてみた。一緒に池に落ちたはずなのに、まったく濡れた形跡が無い。それは、レイリの着ている服も同様だった。
コートとブレザーを脱いで大きめのバッグにしまうと、レイリはそれを肩に掛けて立ち上がった。
真冬の深夜から、初夏の午後に。そして、池に落ちたはずなのに、まったく濡れていない服。
妙な事だらけだが、これだけは確かに言えた。
ツグノを取り戻さなければならない。そしてそのためには、どこかもわからないこの場所で、生き延びなければならない。
人のいる所を探そう。
この森を抜ければ、人の住んでいる街が、きっとある。そこで、手掛かりを探そう。
絶対に、ツグノを見付け出してみせる。
大丈夫。
母さんが、きっと見ていてくれる。
レイリは、真っすぐ前を向いて、歩き出した。
第3話に続く――
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