第一章 邂逅の物語

第1話 空白


 誰かの為に生きる事は、とても楽だ。

 自分の事を、考えずに済むから。



 彼女は、歩いていた。

 凍えるように寒い中を。

 さく、さくと雪を踏みながら。

 かじかんだ手をコートのポケットに突っ込んで、空を見上げる。口元から立ち上る白い息の向こうに、街灯の白々しい明りに照らされてひらひらと舞い落ちる雪片が薄らと霞んで、それでいて冬の寒さに澄みきった深い藍色の暗い空に、くっきりと浮かび上がって見える。

 冷たくなった足に、もはや感覚などない。行く宛てもなく、何時間も歩き回ったせいだ。

 もう、自分がどこを歩いているのかもわからない。

 それでも、進むしかなかった。彼女に、帰るべき場所などないのだから。

 前を向いて、歩かなければ。

 進み続けなければ。

 そう思った。

 だから、こうして真冬の夜に歩く。

 風よりも雪よりも冷たい、自分自身の心を抱きかかえるように、コートの襟を掻き合わせて。

 ただ――歩く。




 彼女がそれを知ったのは、十二月のある寒い日、学校の音楽室の、後ろから二番目の席だった。

 そこにレイリはただ黙って座って、こちらを見下ろす男の顔を見上げていた。とりあえず何かで気を紛らわしていないと、どうにかなってしまいそうだったからだ。

 汐月黎璃、十六歳。高校一年生。学級委員をやっていて、成績も良い。中学校に入ってから剣道を始め、高校に進学した現在も剣道部に所属している。背は高くも低くも無く、茶色っぽい髪を高くポニーテールにして束ねている。文武両道で性格も明るく、教師受けも良いし、生徒の中にも、少なくとも敵は作っていない。そんな彼女にも、ただ一つだけ、苦手なものがあった。

 それは、歌を歌うことである。

 人には誰しも、必ず一つ二つは苦手としているものがある。それは必然であり、本人の努力でどうにか出来る範囲には、限度がある。

 それが、たまたまこの少女の場合は音楽であった。

 今日は音楽の実技のテストとして、歌を歌わなければならない。しかし音感が皆無、端的に言ってしまえば音痴である彼女にとって、音楽のテストはまさに拷問、地獄の一時間なのである。

 今も黙って座って待つのに耐えられず、壁に貼られた音楽家の肖像画を見上げて、気を紛らわせているのだ。この学校は一クラスの人数が多いから、テストは二、三時間位に分けて行なわれる。授業の残り時間とテストの進行具合から鑑みて、かなり微妙な頃合いだ。

 今日の最後か、次回の一番初めか。

 どちらにしても、嫌な事に変わりは無い。どうにかして、テストを受けずに済む方法はないものだろうか?

「もう……レイリ、ちょっと落ち着きなよ」

 そわそわと落ちつかなげに時計や窓の外に視線をやっていると、隣の席のツグノが見かねて小声で話しかけてきた。

 彼女は麻宮緝乃といい、レイリの親友である。普段はかなりの毒舌家で周囲から恐れられているが、実は結構優しいところもある。既にテストを受け終わっているせいか妙に落ち着き払った様子で、肩より少し上で切り揃えられた黒髪を掻き上げている。

「いいよねー、終わった人は。緊張する必要無いんだからさ」

「当たり前。むしろレイリがどんな歌聴かせてくれるのか、違う意味でドキドキす……」

 唐突にツグノが眉間に皺を寄せ、こめかみに手を当てた。

「どしたの?」

「いや……」

 目を瞑って何かを振り払うように二、三度頭を振り、ツグノは再び目を開けた。

「なんか最近、変な感じがするんだよね」

「変?」

「そう、変としか言いようが無いんだけど、何て言うか……」

 普段は歯に衣着せぬ物言いをするツグノが、今日は妙に歯切れが悪い。何かを言いたいのに、それに合う的確な言葉が見つからないといった感じで、歯痒そうな顔で言葉を探す。

「だんだん、近くなってきてる気がするんだよね。こう、何かが変わる……いや、違うかな。どっちかっていうと、何かが出てくるっていうか」

「出てくる?」

「失礼します」

 レイリが聞き返したところで突然音楽室の入り口の引き戸が開き、レイリ達のクラス担任で現代文教師の石山が入って来た。痩せてひょろりとした印象の男で、三十代後半といった感じだろうか。音楽教師の坂本に何か耳打ちすると、きょろきょろと音楽室内を見回す。どうやら、誰かを探しているらしい。誰を探しているのだろう、と思いながらレイリがツグノのほうに向けていた体を正面に向けた所で、石山はレイリの姿に目を留めた。

「汐月。ちょっと来なさい」

 ……え?

 何の話だろう。

 授業中に呼び出されるような事は、記憶を辿る限りでは、良い事も悪い事も含めて特にしていない。ざわめき始めた音楽室を横切って、レイリは廊下へ出た。

 音楽室と寒々しい殺風景な廊下とを隔てる引き戸が、音を立てて締まる。今日は朝から重く雲が垂れ籠めており、音楽室からの物音が遮断された十二月の廊下はしんしんと冷え込んでいる。他の教室で喋る教師の声や、黒板にチョークが当たる音が遠くから聞こえる他は、静寂に包まれた別世界のようだった。

「汐月」

 その静寂を打ち破るように、石山は言った。

「その、何というか、言いにくい話なんだが……」

 冷たい廊下に、その知らせは響いた。

「お母さんが、仕事先で倒れられたそうだ。先生が車で病院まで送って行くから、すぐ準備しなさい」

 嘘だ。

 そんなの、嘘に決まってる。

 足元の床がぐにゃぐにゃと歪んでいくような錯覚を覚えながら、レイリは思った。




 レイリには、父親がいない。小学生の時に両親が離婚してしまい、以来レイリは母親の眞澄と二人で暮らしている。

 原因は、父親の浮気。

 幼かったレイリには、リコンとかウワキとかの言葉の意味も分からず、ただ優しかった父親が、知らない女性とどこか遠くに行ってしまうのだと知って悲しかったし、怖かった。

 そして、いつも笑っていた母親が泣く所を見るのが、何よりも辛かった。それでも、「大丈夫、大丈夫よ」と笑ってみせた母親のあの歪んだ笑顔は、今も記憶に深く残っている。

 レイリの父方の祖父にあたる人は剣道の有名な流派の師範で、門下生もたくさんいる。レイリの父も、それなりの剣技は身につけているらしい。しかし彼は、道場は継がないと言い出して大学卒業直後に家を飛び出し、単身上京して大手の会社に就職して眞澄と結婚した。家を飛び出す時に祖父と相当言い争い、大喧嘩の挙句に勘当されたらしく、眞澄もレイリも父方の親戚には会った事は無い。

 レイリが七歳の時に、若い女が家を訪ねて来た。何が何だかわからなかったが、強ばった顔の眞澄に自分の部屋へ行くように言われ、その数分後に女と眞澄の口論が始まった。口論は数時間に及び、帰宅した父も交えた大喧嘩にまで発展した。その間、レイリは自分の部屋でぬいぐるみを抱き抱え、布団を被って震えているしかなかった。子供心にも家族が、自分の家という世界が壊れようとしているのを感じ取って、ただただ怖かったのだ。

 最終的に、生まれつき体が弱かった眞澄が突然倒れ、救急車が出動する騒ぎになった。父はさすがに眞澄の入院中は家に居てくれたが、退院と同時に荷物をまとめて家を出て行った。しばらく経ってから正式に離婚の手続きも終わり、レイリは眞澄と二人で暮らしていくことになった。家を出て行った父とは、それきり会っていない。

 慰謝料や生活費はきっちりと支払われたが、さすがにそれだけでは生活は苦しく、眞澄は体が弱かったにもかかわらず毎日仕事に行っていた。そんな母に心配をかけまいと、レイリは母に言われなくても何でも手伝ったし、成績が常に一番になるように毎日勉強し、素行も良くした。中学に入ってからもそれは続き、母と自分を見捨てた父をいつか見返してやろうと、剣道部に入部した。

 毎日朝早く出勤し、夜遅くに疲れた顔で帰宅する母の姿を見ているうちに、いつしかレイリの中では、父親は倒さなければならない敵、超えなければならない壁となっていたのだった。

 自分にとってただ一人の家族に、苦労をかけたくない。その一心だけでこれまでの八年間、必死に優等生を演じ続けてきた。

 その母が、倒れた。

 レイリは石山の車の後部座席から、ぼんやりと空を見上げていた。どんよりと曇った空を見て、石山はぼそりと呟く。

「こりゃあ、雪でも降りそうだな……」




 病院に着く頃には、本当に雪が降り出していた。

 山村と名乗った医者の案内で、エレベーターに乗り込む。ヴーン、とかすかなエレベーターの稼動音が、沈黙の支配する箱の中に空しく響いた。

「山村さん。……母は、どうなったんですか?」

 小さな声で、レイリは聞いた。

 山村は、少し躊躇うような素振りを見せた後、レイリのほうを向いて、静かに言う。

「職場で眩暈がすると言って、そのまま倒れてしまったようですね。元々体が弱かったそうですが、だいぶ無理をなさっていたのでしょう。今は、かなり危険な状態です」

「それで……どうなるんですか?」

「最善を尽くしましょう」

 山村は、はっきりした事は口にしなかった。

 箱の中が、また沈黙に包まれる。

 エレベーターは六階で止まった。山村の後について歩きながら、レイリはぼうっとしていた。まるで夢の中を歩いているみたいに、足元がふわふわとおぼつかない。見ている光景も、聞こえる音も、微かな消毒液の匂いまでが、現実感なくレイリの周りに漂っていた。

 病室のドアが開いたとき、レイリはやっと、現実を突きつけられたような気がした。

 昼近くなのに空が曇っているせいか薄暗く、蛍光灯の光に照らされた部屋は一面真っ白で、無機質なコードが縦横無尽に床を這い、その蜘蛛の巣の中心にあるベッドに、彼女は横たわっていた。

 痛々しく体中につけられたチューブ。

 吊り下げられた点滴のパック。

 彼女は、静かに眠っているように見えた。

 普段はよく笑い、快活だった顔は紙のように白く、まるで生気が無い。点滴の針が刺さった腕も、だらんと力無くベッドの上に投げ出されている。

「母、さん?」

 一歩、二歩と部屋に入る。

 反応はない。

「母さん!」

 レイリはコードを踏まないように気をつけることも忘れて、母親に駆け寄った。

「母さん、あたしだよ? 分かる?」

 掴んだ手はあまりにも冷たく、死人の手のようだった。それを暖めるように両手で握って、レイリは呼びかける。

「母さん!」

 声が聞こえたのか、まぶたがぴくぴくと動いた。

 ゆっくり目を開けた眞澄は、レイリの姿を認めて、うっすらと微笑む。

「レイリ……」

「母さん、大丈夫?」

「平気よ。ちょっと疲れが溜まっていただけだから」

 それが嘘だということは、レイリにも分かった。素人目にも明らかに具合が悪そうに見えるし、それは眞澄も重々承知しているようだった。しかし、二人は暗黙の了解のうちに、努めて普段どおりに振舞おうとしていた。

「少し、話しておきたい事があるんだけど……」

「何? 母さん」

「母さんね、父さんと離婚した後に、父さんの実家を訪ねたの」

 意外な話に、レイリは目を見開いた。

「特に何って訳でも無かったんだけどね。どうせ父さん、実家と連絡とってないだろうから、いいかなって思ったの」

 眞澄は苦労して調べ上げた住所を訪ねてみて、驚いたという。そこは武家屋敷のような大きな日本家屋で、広い道場で沢山の門下生が竹刀を振り回していた。

 レイリの祖父は事情を聞くと、眞澄に頭を下げて謝ったという。

「お祖父さんは、レイリにとても会いたがってるの。だから、もし私に何かあったら、お祖父さんを頼ってね。住所は私の手帳に書いてあるから、調べて。……良い?」

 眞澄の言わんとしている事が分かったレイリは、慌てて言った。

「そんな……縁起でもない事言わないでよ」

 眞澄は、ただ微笑んだ。

「ごめんね。私が居なくなったら、レイリにたくさん辛い思いさせちゃうと思うけど……レイリなら大丈夫だって、母さん信じてるから」

 声は弱々しかったが、眞澄の瞳には力強い光が宿っていた。

「強くなってね。辛くなっても前を向いて歩けるように、強い人になってね」

 眞澄の言う事を、レイリは涙をこらえながら一言一言聞いていった。

「それから……」

 眞澄は、もう動かなくなりつつある筋肉を必死に動かして、笑顔を作った。

「父さんのこと、許してあげてね……」

 その時の笑顔は、レイリが今まで見たものの中で一番に美しいものだった。

 そして、その目がふっと閉じられた。

「母さん……嫌……嫌だよ……」

 苦しいはずなのに、眞澄の顔には微かに笑みが浮かんでいた。

「母さん! ねぇ! 母さん!!」

 その声が聞こえたのか、眞澄の手に微かに力が込もった。

 それはまるで、レイリを一人で残していくのを詫びているようで。

 それはまるで、一人残されるレイリを励ましているようで。

 それはまるで、レイリを包み込む眞澄の心そのもののようで。

 本当に一瞬だけ、眞澄がレイリに別れを告げようとしていたのが分かった。

 するり、と力が抜ける。

 最後の呼吸が、ゆっくりと吐き出された。

「かあ、さん……」

 我に返ったレイリの耳に、耳障りな機械の音が聞こえた。

「残念ですが……」

 横に立った医師の声は、国際電話みたいに、どこか遠くから聞こえてくる。

「そんな……嘘、だよね? 母さんがあたしを置いて行く訳、無いよね……?」

 突きつけられた現実は、あまりにも重くて。

 目の前の事実は、あまりにも悲しくて。

 どうすることもできないものだった。

「いやああああぁぁぁぁぁぁっ!!」

 悲痛な叫びが、がらんとした病室に響いた。



第2話に続く――

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