Scarlet
十日屋菊子
序章 或る竜の物語
或る竜の物語
己の罪を背負い
贖罪の為に
罪の姿を見据え
牙を剥く――
遠い遠い昔、それはまだ世界に生命が存在せず、天と地の区別もはっきりしていなかったほどの昔、この地にカミサマがやって来ました。
たった一人で長い間旅をしていたカミサマは、ただ広いだけで何も無いこの地を見て、とても淋しく思いました。
そうだ。
何も無いなら、作ってしまえばいい。
そう思ったカミサマは、高い空と広い大地を、そして青い海を作りました。
しかし、それだけでは足りません。
カミサマは、空を飛ぶ鳥達を、地を駆ける獣達を、青々と茂る草木を、海を泳ぐ魚達を作りました。
しかし、まだ足りません。
カミサマは、生き物達に秩序を与え、正しい生命の流れを整えました。
しかし、まだまだ足りません。
カミサマは考えました。
私は今まで、色々なものを作ってきた。自分の考えられるもののほとんどを、この新しい自分の居場所に揃えた。この上まだ、私は何を望むのだろう?
考え続けたカミサマは、一つの答えに辿り着きました。
この世界に生きるモノで、言葉を話すことが出来るのは私だけだ。もの言わぬ獣達ではなく、言葉を話す生き物が欲しい。
そう思ったカミサマは、自分の姿に似せた姿形を持つ生き物を作り、言葉を与え、ニンゲンと名付けました。
ニンゲン達は高い知性を持つ生き物で、言葉を操り、村や街を作り、瞬く間に優れた文明を築き上げました。カミサマは、一見限り無く自分に近い存在に夢中になりました。
ニンゲンは、完璧だ。
ニンゲンは、私の最高傑作だ。
しかし、その喜びも束の間でした。ニンゲン達は次第にその本性を現し始めたのです。
些細な事から始まったニンゲン同士の諍いは大きな争いに発展し、やがて戦が始まりました。美しかった世界はすっかり荒れ果て、沢山の命が失われました。互いに憎み合い、多くの血を流し続けるニンゲン達を見て、カミサマは失望しました。
どうしてこんな事になってしまったのだろう。私が作ったこの生き物は完璧だったはずなのに。私は、どこで間違えてしまったのだろう。
どうして、どうして、どうして!
私は、取り返しのつかない事をしてしまった……。
カミサマは、いっそニンゲンなんか滅ぼしてしまおうかと思い、そしてそんな事を考えた自分が恐ろしくなりました。
そんな勝手な事は出来ない。例えどんなに醜くとも、他の生き物達と同じように私の作ったものではないか。私のわがままで、全て無かった事にしてしまう訳にはいかない。
そう、カミサマは優し過ぎたのです。
誰にも苦しみを打ち明ける事が出来ず、カミサマは何年も何年も、ニンゲン達の争いに心を痛め、たった一人で涙も枯れてしまうまで泣き続けました。
そんなカミサマの所に、ある日ニンゲンの旅人がやって来ました。その若者の姿を見たカミサマは、訝しく思いました。ニンゲン達は、とっくに自分の事など忘れていると思っていたからです。
カミサマは、一頭の巨大な白い竜に姿を変えて若者の前に現れました。
ニンゲンなんか嫌いだ。さっさと帰ってしまえ。お前が私の目の前からいなくなれば、私は自分の過ちを忘れることができる。
そう思って、カミサマはできるだけ恐い顔をして、できるだけ恐い声で言いました。
「ニンゲンよ、お前は何故このような所に来たのだ」
「……僕は」
突然現れた竜の姿に驚きながらも、彼はカミサマの瞳を真直ぐに見上げて言いました。
「僕は、カミサマに会いに来ました」
何故?
何故この男は、私などに会いに来たのだろう?
若者の笑顔に目を細め、竜は再び問いかけました。
「何故、私に会いに来たのだ」
若者は答えました。
「僕は、カミサマにある事をお願いしに来ました」
「帰れ!」
白い竜は地面に激しく尾を打ちつけて叫びました。
「これだからニンゲンは! 醜く、傲慢で、強欲だ! お前はこの神聖な地に足を踏み入れ、その上私にお願いだと? 厚かましいにも程がある! 今すぐに私の前から消え失せろ! 私が、お前を八つ裂きにせぬうちに!」
「待ってください! 僕は私欲の為にお願いに来たのではありません! ニンゲンたちみんなの願いを叶えに来たのです!」
「ふん、馬鹿馬鹿しい」
カミサマは、その答えを聞いてそっぽを向きました。
「どうせ、金が欲しい、土地が欲しい、権力が欲しいというのだろう? ニンゲンは、欲の塊だ」
若者は、悲しげにうつむきました。
「確かにそうです。ニンゲンは貪欲だ。僕だって、それは知り過ぎる程知っています。しかし、そうではないニンゲンもいるのです。戦で傷付き、苦しんでいるニンゲンも沢山いるのです!」
カミサマは、次第にこの若者に興味を引かれ始めました。
「ならば問おう。お前の願いとは、何だ?」
静かにそう問うたカミサマに、若者ははっきりと言いました。
「僕を、カミサマのお傍に置いて欲しいのです」
「ふざけるのもいい加減にしろ!」
カミサマは再び叫びました。
「お前のような者が私と共に在ろうなどと、戯けた事をぬかすか! 傲慢にも程がある!」
「しかし……」
「しつこいぞ!」
なおも言いつのる若者のほうに、竜はその長い尾を振り降ろしました。本当は足元に威嚇として振り降ろすつもりでした。しかし、怒りに我を忘れた竜は狙いを誤り、尾は若者の腹のあたりを直撃したのです。
ばったりと倒れた若者は、起き上がる気配がありません。我に返ったカミサマは、自分のしてしまった事に気付きました。
私は、なんて愚かで罪深い事をしてしまったのだろう。自分の一時の感情で、一つの命を奪ってしまった。
慌てて本来の姿に戻ったカミサマは、若者に駆け寄ります。おそるおそる彼の顔をのぞき込んだカミサマは、若者が息をしているのに気付きました。
「起きろ」
若者の肩のあたりを掴んで揺さぶりながら、囁くような小さな声で、カミサマは言いました。
「起きろ、ニンゲン! 起きてくれ……頼む……」
若者の目が、ゆっくりと開きました。彼は、跪いて自分の顔をのぞき込んでいる一人の娘を見て、少し笑いました。
「……泣いて、いるんですか……」
その時初めて自分の頬を流れる涙に気付いたカミサマは、慌てて顔を背けました。
「べ、別に、お前を心配していた訳では……」
微笑んで、若者は言いました。
「ニンゲン達の戦をやめさせるには、カミサマの力が必要です。でも、僕たちニンゲンの問題をすべてあなた一人に背負わせる訳にはいかない。だから僕は、少しでもあなたのお手伝いが出来れば、と思って来たのです」
カミサマは知りました。
争うだけが、ニンゲンではないのだと。争いを嫌う、優しいニンゲンもいるのだと。
ならば。
それならば。
ニンゲンと、共に在ってもいい。
そう思ったカミサマは、若者を受け入れることにしました。
彼は、大陸の東の果てにある小国の皇子で、美しかった故郷を一面の焼け野原にした戦を、終わらせたいのだと言いました。同じ思いを持ちながらも、どうしたらいいのかと思い悩んでいたカミサマの手を引いて、彼は他のニンゲン達の話を聞きに下界に降りました。
ニンゲン達の多くは、戦う事に疲れ果てていました。しかし彼らの王は、豊かな土地や資源を求め、またそうした者達から自分達の国を守る為に、戦う事をやめようとはしませんでした。そうした事を知るたびに、カミサマは悲しい気持ちになりましたが、若者に励まされて、一生懸命に戦を終わらせる方法を考えました。
しかしある時、ニンゲン達が嫌でも手を結ばなければならなくなりました。魔王の軍隊が、攻めて来たのです。
魔王は、元々ニンゲンでした。しかし、力を求めて闇に魂を売り、外法によって人ならざる肉体と力を手に入れたのです。彼は、絶大な力を以って世界の総てを支配する為に、魔物や自分と同じように力を求めるニンゲン達を従えて、ニンゲン達の国に戦争を仕掛けて来たのでした。
若者は、ニンゲン達に訴えました。
魔王の軍隊は、一つ二つの国の力でどうにかなるものではない。このままではこの大陸は、魔王の支配する暗黒の地になってしまう。だから、ニンゲン達の力を合わせて魔王を打ち倒そう。
ニンゲン達は口々にその通りだと言って、五つの大国と沢山の小国からなる強大な同盟を結びました。
こうして始まった同盟軍と魔王軍の戦いは、数年間続きました。
いつしか若者は、竜の姿のカミサマと話した者、という意味を込めて神竜王と呼ばれ、ニンゲン達の長になっていました。
カミサマは時折戦いに参加しましたが、やはり争いごとは苦手でした。ひたすらに同盟軍の勝利を祈り、そして怪我人の手当てをして同盟軍を支えました。
ある時カミサマは、ひどい怪我をした人の手当てをしながら思いました。
あれ程戦を嫌っていた私が、こうして間接的にも戦に参加するとは、皮肉な事だ。私は戦いをやめさせるどころか、戦いに行く者の背中を押しているに等しい。
このままではいけない。
魔王はもともとニンゲンだったと聞く。つまり、もとはと言えば私が生み出したものだ。弱い弱い、私の心が生み出したものだ。
それならば、私がこの手で決着をつけてやる。
私自身のこの手で、魔王を討ち取って見せる。
カミサマは、それから数日後の月の明るい晩に、人知れずひっそりとニンゲン達の砦を後にしました。誰もいない荒野の真ん中で白い竜になったカミサマは、魔王が住むという西の果ての砂漠に向かって飛び立ちました。
砂漠に降り立った白い竜の目の前に、突然黒い竜が現れました。大きさも姿も、カミサマと鏡で映したようにそっくりなその竜は、静かに地面に降り立ちます。
二頭の竜は、無言で相手に襲いかかりました。
何も言わずとも、互いに分かっていました。自分と相手は、決して相容れることのないもの。どちらか一方が、必ず滅びなければならないもの。
二頭の戦いは、数日に及びました。相手の体に食らいつき、爪を立てて掻き毟り、いくら傷付こうとも、相手を見据えた燃えるような目だけは離すことなく。いつしか大地は血に染まり、昼はぎらぎら照りつける太陽の光に、夜は煌々と輝く月の光に照らされて、湿った光を放っていました。
何日目かに、カミサマがいない事に気付いたニンゲン達が、武器を手に手にやって来ました。彼らは立ちこめる血の匂いと赤く染まった大地に驚き、慌てて駆け寄って来ました。
それに気付いたカミサマは、すっかり枯れてしまった声で叫ぼうとしました。
来るな、と。
しかし、その声が届く事はありませんでした。一瞬の隙を突いて、黒い竜の牙が白い竜の喉に食らいついたのです。
地響きを立てて巨大な体が倒れるころには、白い竜は事切れていました。
誰も、身動き一つできませんでした。ただ荒野を、風が吹きぬけるだけでした。
最初に動いたのは、神竜王でした。
彼は、自分にとっての総てに等しかったものを一瞬にして奪った黒い竜の前で、刀を抜きました。
同時でした。
刀が、黒い竜の眉間に突き刺さるのと。
竜の牙が、神竜王の体を真っ二つに食いちぎったのは。
――全く、同時でした。
これは、運命に弄ばれた人間達と、かつて人間であった人達の物語。
人で在る事に苦しんだ人達と、人間では無くなっても、人で在り続けようとした人達の物語。
さあ、始まりを終わらせて、終わりを始めよう。
序章・或る竜の物語――了
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