私の知らないあなた(12)
玄関先で物音がする。
優斗が帰ってきたのだ。
私は急いでクローゼットを閉め、本をベッドの下に押しやるとベッドルームを出た。
「おかえり優斗。夕食の準備ぜんぶできてるよ。あとは朝リクエストもらったさんま焼くだけだから」
私はそそくさとキッチンに入り冷蔵庫からさんまを取り出し、いわしのつみれ汁の入った鍋を火にかける。
いつもは鍋の中をのぞき込んだりテーブルに並べられている料理を見て「美味しそうだね」と褒めてくれるのにその日の優斗はそのまま何も言わずリビングのソファーに腰かけたまま私の方を見ようともしない。
「優斗、今日は会社どうだった?」
二本のさんまを網の上に並べる。
私はわざと明るく優斗に話しかける。
今日やってきた虫歯だらけの患者のこと、スーパーの特売品の話。
脂ののったさんまの見分け方の話をしている途中で優斗はソファーから立ち上がるとベッドルームに行ってしまった。
「優斗?」
追いかけていくと電気もつけず暗い中ベッドに腰かけている。
「優斗どうしたの?疲れてるの?ごはんはいらない?」
目の前でひざまづき優斗の顔を覗き込む。
瞳が少し動いただけで私を見ていない。
陰性症状が出始めたのかも知れない。
統合失調症には大きく二つの症状がある。
この前までの優斗のように幻聴や被害妄想に襲われ暴力的になったり、独り言を言ったりするのは陽性症状と呼ばれ、それとは反対にうつ病のように無気力状態になり感情も乏しくなるのが陰性症状だ。
「もう寝る?シャワーぐらい浴びたら?」
優斗の手の上に自分の手を重ねた。
「めんどくさい」
そう言うと優斗はごろんと横になり目を閉じた。
その日優斗が発した言葉はそれだけだった。
キッチンに戻るとさんまは焦げ、つみれ汁の入った鍋は煮立っていた。
長いため息が出た。
これから長い戦いが始まる。
陽性症状よりも陰性症状の方が長く続き、薬も効きにくいと言う。
覚悟を決めたはずだったが、深さの分からない沼に沈んでいくような不安をぬぐいきれなかった。
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