第2話 科学は愛を倒せるか?


  5 科学は世界を救う?


「諸君、いよいよ時は来た!科学が迷信を完全に打ち砕く時が!(ワー、ぱちぱち)諸君、科学は中世の暗闇から人類を解放した。魔術から、迷信から、宗教の呪縛から人々の精神を自由にした。そして科学によって得られた知識に基づいて築かれた科学技術が、人々の暮らしを劇的に改善してきた。諸君、見たまえ、今や我々人類は幾千年先の月の位置さえ正確に計算できるし、海の向こうの国へさえも飛行機で一っ跳びだ。長く苦しめられてきた伝染病もその多くが医学の前に屈した(ウワー、ぱちぱち)。諸君!今や科学は最終段階を迎えようとしている。それはすなわち、「愛の死」だ!(オオ!)愛は長らく科学を受け付けようとしなかった。曰く、自由意思の産物だから。曰く、人間の崇高さの源だから、と。しかし、そんな傲慢きわまりない寝言は今日で終わりだ!(ウワアア!)諸君、今日こそ科学の聖なる名を以て、愛のような訳の分からない感情を断罪するのだ!(科学万歳、科学部万歳、科学部長万歳!)」

 ナンバー3こと草薙耕太郎くんは感動が心の底から湧きあがって来るのを感じていた。彼が部長として率いる科学部は、わずか七名の小所帯であるが、部員全員が筋金入りの科学至上主義者、ゴリゴリの科学万能論者だ。そんな仲間内とはいえ、やはり心からの喝采を浴びるのは快感だ。

(今は仲間内の喝采だけだが、愛を科学の軛の下に屈服させることができれば、その瞬間に此の世界が僕の足下に跪くんだ。アインシュタインも、フロイトも、ハイゼンベルクも成し得なかった偉業を、この僕が成し遂げるんだ。この年齢にして、人類の科学史上に金字塔を打ち立てるんだ!)

ナンバー3は感動の余り不覚にも涙を零しそうになった。が、その感動も忠実なる部員の一言で破られた。

「部長、あの、加藤先輩の研究、どうしましょう?」

草薙くんは、加藤がどうした、と不愉快そうに問うた。

「実験道具を貸してくれって言われて。なんかの植物の生育実験らしいんですけど、でも部屋の模様変えにあたって別の所に移してもいいものかと・・・」

「なぜあんな奴に実験器具を貸したりしたんだ。」せっかくの甘い思念を邪魔されて、不愉快の塊となったナンバー3は憮然として言った。

「だって加藤先輩は生徒会の書記ですし、生徒会長の藤原先輩も一緒に来て是非貸してやれって・・・」部員はボソボソと言った。

フン、と鼻を鳴らして、3はナンバー4のガラス管を覗き込んだ。なにやら黒い種子が水混じりの砂に埋められていて、貧弱な緑がわずかに顏をのぞかせている。ナンバー3は腹立ちまぎれにガラス管の中身を捨ててしまおうとした。が、ちょうどそこへナンバー4の加藤くんがやって来たので、ガラス管の中を観察しているフリに切り替えた。

「どうした。」加藤くんは両手に袋を持って科学室に入ってきた。

「いや、何の実験かと思ってな。」ナンバー3は半ばよそ行きの声で問うた。

「品種改良かな。マア、それの真似事みたいなものだ。その種子が水や養分が乏しくても十分に育って栄養を此の地にもたらしてくれるようにならないかと、ね。人間はどうしたって食わなきゃいけないし。」

「その袋は?」ナンバー3は4がぶら下げている袋から発せられる奇妙な臭いに顏をしかめた。

「みんなの弁当の食べ残しさ。これを乾燥させて肥料にする。あるいはいろいろと組み合わせて動物の餌にする。たまに僕もいただくけれど。」あっけらかんと笑いながらそう言うと、ナンバー4の加藤くんは慣れた手つきで部屋の隅にあるお手製乾燥機の中に残飯をぶち込んだ。

「そんなことをしたら部屋に臭いが籠るじゃないか。」ナンバー3はわざとらしく鼻に手を当てた。「いいかい、それでなくても君は部員じゃないくせに勝手に部屋を使ったりして。もう止めてくれないか、そんなこと・・・」

しかしこのごく真っ当と思えた抗議は、思わぬ反撃を食らってしまった。つまり科学部の可愛い後輩からナンバー4を擁護する声が上がってしまったのだ。

「部長、それはマズイです。」ナンバー3が密かに次期部長にと考えている一年生の女生徒が言った。「加藤先輩と私達で組み立てた此の製造機械で作った有機肥料、近所の家庭菜園なんかで好評なんです。園芸部も買ってくれるし、貴重な部費の源なんです!なにしろ、去年まぐれで野球部が甲子園に出ちゃってから、予算がどっと運動部に流れてしまって・・・」

ああそう、と3は気の無い返事をした。しかし心の内ではナンバー3は不快感と危機感がないまぜになって沸騰し始めていた。自分の大事な城であり存在基盤である科学部が、ナンバー4に切り崩されてしまっているように思えたのだ。だが、実際のところは、ナンバー3は部長とは名ばかりで、部の実務は一切他人に押し付けている。言わばその尻拭いを(おそらくはナンバー1に頼まれて)ナンバー4がしっかりやっているのだ。しかしもちろん、そんな理屈はナンバー3には通用しない。彼はなんとかこの4に思い知らせてやろうと考え、そうして自分の素晴らしい作戦計画を教えてやることによって知的に圧倒してやろうということに思い至ったのであった。

「ところで加藤、次の作戦計画について聞いているかい?」

「ああ、君が行くんだってな。」ナンバー4は機械の調整方を鋭く後輩に指導する傍らで、気の無さそうに言った。

「それでどういうふうにやるのか知りたいだろう?」

「別に。」

素っ気なく言うと、加藤くんはレポート用紙になにやら走り書きなどを始めた。さすがにこの冷淡さにナンバー3は爆発寸前となった。だが、この危ない状況を察した次期部長候補の後輩が、すかさずその素晴らしい計画を我々にもご開示下さいと嘆願してきた。それでナンバー3は後輩に教示しながら、ついでに側で聞き耳を立てている(であろう)ナンバー4を感嘆させてやろうと、とっさに決意した。

「ああ、この作戦はだな。」ナンバー3は4が横目でも見られるように、ホワイトボードの位置をずらして、その側に立った。「科学の力を以て愛を撃つという、人類史上類を見ない壮大な作戦である!」

おお、と感嘆の声が合いの手のように湧き起こった。これに気をよくしたナンバー3は流れるように説明を始めた。

「科学で愛を撃つ、そのためにはまず愛を科学的に解析しなくてはならない。では科学的に見た愛とはどういったものか?まず愛は人間の心理状態であり、生理状態だ。しかし心理は人間の揺れ動く主観を含むから、科学には馴染みにくい。だが、生理状態は科学の守備範囲内だ。それで、まず対象が恋愛状態にいるかどうかを脳波や心拍数などで測定する。それによって、愛という心理にいるのかどうかを外から把握するんだ。」

「あのう。」次期部長候補がおずおずと手を挙げた。「その場合ですね、脳波や心拍数がどういう数値だと恋愛状態にあると判断できるんですか?」

これには待ってましたとばかりに、ナンバー3が胸を張って答えた。「ふふ、実はね、今日かくあるを予想して、僕は以前から愛に関する生理的データを集めていたのさ。「私は恋に落ちています」と自己申告した連中の、脳波、心拍数、血圧その他生理的データを集めて、統計学的に処理して、有意な特徴を取り出してあるんだ。この基準と比較すれば、恋に落ちているかどうかは科学的に判定できるんだ。」

「なるほど、さすがですね。」先輩を褒め慣れている後輩は速やかに感心した。

「うふふ、まあね。しかしね、恋愛しているかどうか判定できるだけでは、相手を恋愛に落とすことはできない。ここからが肝心なんだ。僕はね、実は素晴らしい真理に辿り着いたんだ。或る日、屋上で流れる雲を見ていたら、突然思い付いたんだ。なんだと思う?」

「さあ、さっぱり分かりません。」

「そうだろうな。分かるまい。実はね、ごく単純なことなんだよ。しかしこの単純な真理というのが、凡人にはなかなか辿り着けない。例えばアインシュタインの相対性理論だって・・・」

「あの、部長、すみませんが先を・・・」お得意のアインシュタインに付き合わされてはかなわないと判断した後輩は、遠慮がちに言った。普段は怒りを買うかもしれないこの発言も、しかし今はナンバー4が帰らないうちに話さなくてはならないという3の思いをうまく突き動かして、話を先に進ませた。

「ああ、そう。実はね、単純なんだ。すなわち、恋愛とは消去法なんだ。」

ほうっと感嘆の息が大きく漏れた。この予測された反応にナンバー3は嬉しくなってしまった。

「消去法さ。僕はね、なぜ或る個人Aが個人Bに恋するようになるのか考えた。実はね、その際には今まで見落とされていた大前提があるんだ。それは「接触する」ということだ。早い話が、全く接触したことのない人とは恋をできないのさ。これはきわめて重要な点だ。なぜならば、逆に言えば、接触する人間を極限まで少なくしてしまえば、すなわち擬似的に一人にしてしまえば、その相手に恋することになるのさ。この症例としては、かの有名なアンネ・フランクが同居の少年に恋心を抱いてしまった例がある。ナチスに追われていたユダヤ人であるアンネは隠れ家から外に出ることはできず、接触可能な同年代の男性は同じ隠れ家に居るこの少年だけだったんだ。そのため、最初は彼を嫌っていたにも関わらず、じきに恋に落ちてしまったんだ。」

「まさかナチスの真似事をする気じゃないだろうな。」フイに4が口を挟んできた。

「そこまでしないよ。しかしマンハッタン計画の原爆実験くらいの意味があることはやるつもりさ。核兵器と同じくらいのインパクトを人類に与えてやりたいからね。」

「実に下らない発言だね。」4が眼を上げずにポツンと言った。

「そうかい、しかしオッペンハイマーがやったのに、僕がやっては駄目ということにはなるまい。」

「まあまあ、話を先に。」慌てて後輩が割って入った。4は再び黙って機械の調整を始めた。ナンバー3は4が知らんふりをしながらもしっかり聞いていたという事実に、心中ほくそ笑んだ。

「さて。消去法だ。すなわち、或る方法により擬似的に接触した異性が一人だけになってしまえば、その人に対してほとんど自動的かつ機械的に恋に落ちるのさ。心の中の思い出までも全て消し去ることができれば、世界にただ一人残った男に対して、全ての女は必ず恋心を抱くのだよ。」

「でもどうやって一人きりにするんです?」次期部長の隣りで黙って聞いていた一年の男子部員が身を乗り出してきた。「だって、世界中の男を皆殺しにはできないでしょう?」

「もちろんさ。だから擬似的にやるんだ。まず記憶を混乱させてね、そして一時的に空白状況を作り出す。そこに一人の男を眼前に出現させる。無情報下にあっては、最初に接触した唯一の情報に従って行動するしかない。この原理の応用さ。催眠術とね、感覚遮断によって一時的に人格を人工的に孤立に追い込むのさ。」

ナンバー4が突如立ち上がった。

「極めて危険な実験だ。とうてい見過ごすことはできない。」

「どういうことだい?」ナンバー3は意地悪な笑みで応えた。

「素人が催眠術を操るなど、相手の精神に傷を残す危険が大きい。とんでもないことだ。」

「安心してくれ。僕はこう見えても精神科医である祖父から子供の頃から教わっているんだ。」

「バカな。爺さんが道楽で教えたことなど信じられるか。」

「フン、愚かな。」

「そんな馬鹿な真似はさせるわけにはいかない。僕が止める。」ナンバー4の加藤くんはナンバー3の草薙くんの前に立ちはだかった。だがナンバー3は慌てることなく、カラカラと声を上げて笑い出した。

「だから君はバカなんだ。止めるだって?もう遅いさ。ターゲットは僕の計算によるとそろそろ罠にはまっているよ!」

「なに?」4の顔に初めて動揺の色が浮んだ。それを眼にした3は勝利の快感に嬉しくなって、軽く身震いをした。


 久美ちゃんは放課後に藤原くんから会いたいという手紙を受け取って、すぐさま指定された音楽室に突進した。そこで彼女は、奇妙なものを見つけた。鋼鉄で出来た、一畳ほどの四角形の箱。そしてその前にわざとらしく置かれた腕時計のようなもの。何だろうなと近寄ってみると、

「これは僕からのプレゼントです。この前あなたに失礼なことをしてしまったお詫びです。どうぞ身に着けてお使い下さい。藤原京也。」

と紙に書いてある。これには久美ちゃんは突発的に舞い上がってしまった。この前のことを詫びているということは・・・脈があるということだ!彼女は大喜びでさっそくその時計を腕に巻いた。ところがそれは時計ではなくて、ピッピと音を上げながら自動的に心拍数と血圧らしきものが表示されるだけだった。なんじゃこれは、と久美ちゃんが思った瞬間だった。すぐ脇にある怪しい鋼鉄の箱の中から、助けてくれ、とか細い声が聞こえてきた。

(・・・藤原だ。鬼首さん、助けてくれ・・・)

久美ちゃんは聞くが早いか、鋼鉄のドアのノブに手を掛けた。それはなぜか鍵が掛かっていなくて、あっさりと開いた。そして久美ちゃんは前後も考えずに飛び込んだのだが、そこで鉄の扉は重々しい音と共に背後で閉じてしまった。それは自動ロックが予めセットしてあったらしく、押しても引いても開かなかった。

 久美ちゃんは鋼鉄の箱の中に閉じ込められてしまった。そこは真っ暗で、何の音もしないし、臭いもしない。叫んでもただ反響するだけで、外からは何の返事もない。それに藤原くんからの手紙に、邪魔されずに君と話したいからスマホのような無粋なものは置いてきてくれと書いてあったので、電話で外に知らせることもできない。もはや、外の人が気付いて助けてくれない限り、どうしようもない状態に陥った。久美ちゃんは考えた。とにかく外に知らせなくてはならない。しかし放課後のこの時間では音楽室の掃除当番も帰っているから下手をすると明日の一時間目まで誰も気付いてくれないかもしれない。逆に言うと、明日の朝音楽の授業の時間になれば必ず誰かが気付く。その時に中から叩いて合図をすればすぐに助けてもらえるだろう。しかしそうなると一晩越しの長丁場だ。密閉されていると窒息の恐れもある。と、そこでわずかな空気の流れを感じ取った。どうやら細かい空気穴はあるらしい。それならば、トイレの心配とかはあるけれど、一晩くらいでは死ぬことはないだろう。でも、これは一体誰の仕業だろう・・・

考え続けるその頭に、かすかに耳鳴りのようなものが聞こえてきた。最初は気のせいかと思った。だがそれはじきによりはっきりとした、妙に高い規則的な金属音となって久美ちゃんを襲ってきた。眼を閉じても、神経を揺さぶる音に遮られる・・・


ナンバー4の加藤くんは、思いのほか手間取ってしまった。ナンバー3の胸倉をつかんで罠の様子を吐かせたまではよかった。だが、罠の場所を白状させて鋼鉄の箱の鍵を奪い取ろうという段になって、邪魔が入った。さすがに「まだら団」のナンバー3は準備がよく、万が一のためにと用心棒を雇っていたのだ。それは街の有力者である3の祖父と知り合いのヤクザ屋さんの見習いチンピラだった。3のスマホから急報を受けたチンピラは、ナイフを振りかざして周囲の生徒たちを威嚇しながら、のっしのっしと廊下を進んできた。が、科学室に足を踏み入れた途端、決然と立ったナンバー4の蹴りの奇襲を受けて、もんどりうってすっ転んだ。そして腕を強打した挙句ナイフを落としてしまい、その直後に4の強烈な投げを食らった。後は騒ぎを聞きつけて駆けつけた柔道部員と剣道部員に袋叩きにされた。そうしてその恐ろしい様子にすっかり気が動転した3は、4の軽いヘッドロック一発で降参し、鍵をすぐに差し出した。

加藤くんに迫られ、3の草薙くんは自ら罠の場所の案内に立った。加藤くんと剣道部長に両脇を固められ、もはや彼には逃げ場はなかった。しかしこの期に及んでも、まだ3は最後の勝機にすがっていた。すなわち彼が自ら鋼鉄の箱を開ける時、五感を奪われ感覚遮断状況に陥って、半ば夢現になっているところに機械的な金属音を聞かされて、既に鬼首久美は擬似記憶喪失的な催眠状態になっているはずだった。彼の理論によれば、そうした状況下で初めて目にする男に彼女は恋に落ちる。特に閉塞状況を救ってくれた異性には。そしてその役を3が演じるのだ。久美ちゃんが突発的に惚れてくれれば、後は恋仲の二人のおふざけということにしてなんとでも誤魔化しがきく。3は自分の腕に巻いていた機械にチラリと眼をやった。これは久美ちゃんが腕に巻いた計測器から電波で数字を受け取るのだ。それによると心拍数はまだ平常値の範囲内だった。彼の理論によると、この心拍数が137を超えれば、それは恋に落ちたことになるはずなのだ。

 音楽室に着いた一行はすぐさま異様な鉄の箱を眼にした。そして3は、箱の開け方にコツがあるから僕が鍵を開けると言った。4は無言で促した。3は愛想のいい笑いを浮かべ、鋼鉄の箱の鍵穴に鍵を差し込み、ゆっくりと扉を開けた。

 突然暗闇に射し込んだ光に、久美ちゃんは一瞬眼がくらんだ。だがやがてその光の中からぼんやりと顏が浮んできた。その顔ははっきりとした輪郭を結んでいって・・・草薙くんの微笑みになった。

 そうして久美ちゃんは躊躇せず、左のストレートパンチを眼の前のナンバー3の鼻のド真ん中にぶち込んでやった。


(敗因分析)

今回の失敗は科学への稚拙な信奉によるものであることは言うまでもない。が、それ以前に、愛に関しては、科学は適当ではない。科学的方法の本質とは、今の『自分』とは異なる『自分』=他者の存在をとりあえず容認し、その行動や動き方等が今の『自分』に基づく予測や説明、すなわち仮説と一致するかどうかを実験や観察で確認することだ。その上でもし一致すればその仮説は維持されるが、逆に相手の動き等が『自分』の読みと外れた場合には、相手の影響を素直に認めて、すなわち今の『自分』を滅ぼして新たな『自分』になって、それに基づく新たな理解を作っていくことなのだ。すなわち、科学は『自分』に付随するものなのだ。一方で「愛」も『自分』に付随する。「愛」をなんとかするには、『自分』そのものをなんとかするしかない。しかし、『自分』に付随する方法である科学ではそれはできないのだ。それなのに、科学が愛を本質的に上回っていると考えた、そこに真の敗因がある。


「真の敗因は、君がナンバー3を邪魔したせいではないのかい。」ナンバー1はニヤニヤ笑いながら言った。

「あのまま続けさせていたらとんでもないことになっていた。それにこのリポートにも書いたように、あのやり方ではうまくいかない。」

「そうかい、マアいいさ。」ナンバー1はおもむろに机の引き出しを開けて、なんと葉巻を取り出した。そうして上等そうな黄金のライターで火を点けて、薫りのいい煙をくゆらせ出した。

「ナンバー3はヤクザ者を学内に引き入れた罪でしばらく学校はお休みだ。もっともじきにアメリカに留学することになっているし、あまり大きな騒ぎにはならないだろう。」

「君、いつの間にタバコなんか・・・健康に悪いぞ。」

「ふふ、安タバコなら、ね。これは父からくすねた高級ハバナさ。一本一万円以上するそうな。国産の安物を多く吸えば健康に悪いだろうが、コイツは一日一本が限度でね。」

「どちらにしろ、タバコはよくない。」

「君のそういった中途半端な倫理観には困ったものだね。ところでナンバー2が倒れ、3も消えた。さあ、どうするかね。」

「まさか僕にどうにかしろと言い出すのではないだろうな。僕は最初からこれには反対だ。」

「大丈夫だ。君は切り札だよ。場に出すにはまだ早過ぎる。」

「ではもう止めるのだな。」

「愚かな。」ふうっとナンバー1は大きく煙を吐き出した。「大阪からナンバー5が来る。」

「なに?」

「ハハハ、今度はどんな手段で僕を喜ばせてくれるのか、今から楽しみでしようがないよ。」

ナンバー1の不敵な笑いが紫煙とともに暗闇に浮かぶ生徒会室を満たしていった。


  6 西からやってきた男


「全くどうなってんのよ、いったい。」

斉藤一子さんは、保健室のベッドに横たわる久美ちゃんの側で半ば泣きながら言った。

「ごめん。」久美ちゃんは布団の裾から顏をのぞかせて、ちょっぴり申し訳なさそうに言った。

「あんなヘンテコな箱に閉じ込められてさ、アンタ、いったい何をやったのよ。」

「分かんないよ。音楽室に呼び出されたら、あの変な箱が有って、そこから藤原くんの声が聞こえてきて、慌てて飛び込んだら扉が閉まって閉じ込められて。」

「大変な目に遭ったわね。」そう言いながら久美ちゃんの拳の先の擦り傷に薬を塗ってくれているのは、真田幸美(さなだ ゆきみ)さんだ。久美ちゃんや斉藤一子ちゃんと同じクラスで、何と生徒会の副会長を務める優等生さんである。

「かわいそうに、閉じ込められて、拳が擦りむけるまでに扉を叩き続けたのね。でも、もう大丈夫だから。」真田幸美さんは久美ちゃんの心の動揺を落ち着かせるかのように手当の終わった左手をさすり続けた。

 だが我らの久美ちゃんは、心配してくれる親友二人に太陽の笑顔でアッケラカンと言った。

「大丈夫!って言うか、この拳の傷は、扉を叩いたんじゃなくて、草薙の顔面に正拳突きをかました時、あいつの前歯で擦りむいたところなんだ。」

「え、草薙くんを?」幸美さんはちょっぴり寄り目になって尋ねた。

「だって、アイツが犯人だもん。」久美ちゃんはあっさり言う。

「アンタ、よおく分かったわねえ。助けに来た人だとは思わなかったの?実際、草薙のアホだって、ぶん殴られて顔面鼻血まみれになりながら、「ボクは君を助けにきたんだよー」みたいなことを言って泣きわめいていたじゃない。」久美ちゃんの元気に釣られて涙目状態から脱した斉藤一子ちゃんが言う。

「なあに言ってんの。あのツラ見りゃあ、猫でも分かるよ。ニタラニタラ笑ってさ。助けに来た人っていうのはね、もっと真面目で一生懸命な顔をしているよ。ウチはお父ちゃんも兄ちゃん達も消防団やってるから、救助活動に出て行く時の顔はよおく知っているんだから。」

「そうかー。しかしクミすけもたいしたもんよね。正拳突き一発で大の男を大流血に追い込んだんだから。」斉藤一子ちゃんは大きくウンウンと頷いた。

「それで草薙くんはどうしたの?保健室に来ていないようだけど。」幸美さんが周囲のベッドを見回しながら尋ねた。

「ああ、アイツね。病院だ!とか救急車呼べーとかわめいてね、保健の先生がアイツの親父さんがやっている病院に連れていったわ。保健の先生はただの鼻血だから保健室で手当てするって言ったんだけど、草薙が保健室なんか信用できるか、ウチの病院に連れていけーって、絶叫パニック状態になっちゃってねえ。」久美ちゃんはなんだか感慨深げに言った。「やっぱり、流血に弱い男ってえのは、ダメだよねえ。」

「その病院行きに付き合わされたせいで、保健の先生がいなかったのね。」くすくす笑いながら幸美さんは言った。

「でもさ、ゆきりんがいてくれて、助かったよ。」斉藤一子ちゃんは急に真面目な顔になった。「私じゃ薬や包帯の場所が分からないし。それにさ、騒ぎを聞いて音楽室に駆けつけてみたら、血を流した男子の前でコイツがふんぞりかえっているんだもん。とうとう犯罪の道に足を踏み入れてしまったのかと、青くなってさ。コッチもパニック状態になっちゃったよ、ほんと。」

「ひどいなあ、普段から私のことそんなふうに見ているの。」久美ちゃんはぷうっとほっぺたを膨らませた。この様を見て、とうとう幸美さんはカラコロと笑い出した。

「でもねえ、あんな鉄の箱に閉じ込められて、久美ちゃんこそパニックに陥らなかったの?」幸美さんは笑いからやや真面目な顔になって問うた。

「まあ、最初はびっくりしたけれど、すぐに空気穴があって窒息しないと分かったから。それで持久戦を覚悟して、中で座禅を組んで瞑想していたわ。」

「さすが古武道の御師匠さんの家の御嬢さんねえ。」と幸美さんは手を叩いて褒め讃えた。そう、久美ちゃんのお父さんは小学校の先生だが代々続く鬼首流武術の先生でもあり、自宅に小さな道場があって、日曜日などに古武道を教えているのだ。それで久美ちゃんにも相当に武道の心得がある。ついでに言うと、幸美さんも久美ちゃんちの道場の生徒さんなのだ。

「それはそうと・・・どうしてアンタを箱に閉じ込めるような真似をしたのかねえ。」斉藤一子ちゃんは大きく首を傾げる。

「久美ちゃん、何か思い当る節はないの?誰かと変なことがあったとか。」

「それがさ、コイツ、この前に工藤からモーション掛けられたことがあったらしくってさ。」斉藤一子ちゃんはププッと吹き出しながら言った。「そこへナミちゃんが乱入してきて、大騒ぎになったらしいよ。なんか、そのショックで工藤の奴、まだ学校を休んでいるんだって。」

「本当?」幸美さんは視線を久美ちゃんに振った。

「うん。」

「工藤くんと草薙くん・・・読めてきたわ。工藤くんは生徒会の副会長、草薙くんは書記。そして藤原くんは生徒会長。いつもこの三人は生徒会室に集まって内緒話をしている。久美ちゃん、この前、藤原くんに告白したって言っていたわね。あるいはそれに絡んで藤原くんが何か良くない企みをしているのかもしれないわ。」

「そんなこと、ないよ!藤原くんがそんな悪いことするわけないじゃん。絶対にありえないよ!」

「・・・久美ちゃん、落ち着いて聞いて。私は生徒会の副会長だから、藤原くんのことはよく知っている。厳しいことを言うようだけど、彼はあなたが思うほどいい人ではないわ。」

「そうそ。私も言ってやったんだ。藤原みたいに威張り腐ってカッコつけてる奴になんか惚れるなって。」斉藤一子ちゃんも必死になって加勢してくる。

「そうね。彼は人気があるけれど、一緒に生徒会活動をしていても、マトモに仕事をしているところはほとんど見たことがない。いつも巧妙にサボって、でもそれを外部の人間には悟らせない。ううん、それだけならただ要領がいいだけなのだけれど・・・どうもうまく言えないけれど。でもね、この前なんか、難民への救援物資を募るプロジェクトをやっている時に、皆の前で飢えた子ども達を救おうって涙ぐんで演説してみせた後で、裏では貧乏人が飢えても僕には関係ないって平然と言ってのけたのよ。側で聞いていて、思わず自分の耳を疑ったわ。」

「それはゆきりんの聞き間違いだよ!」久美ちゃんはベッドから起き上がって叫んだ。

「じゃあさ、工藤の妖しい誘惑は何よ!」その久美ちゃんの前に斉藤一子ちゃんが立ちはだかって叫ぶ。

「あれは藤原くんが私に告白されたのを知って、彼に嫉妬したんだよ。それであんな訳の分からないことをしたの!」

「じゃあさ、今日の草薙は何よ!」

「あれは・・・草薙は単に頭がおかしくなったのよ、勉強のやり過ぎで!」

「バカのくせして理屈こねるな!」

「バカじゃないもん!」久美ちゃんも、もはや意地になって怒鳴り返す。

「バカだよ。あんな悪い男にひっかかってさ。泣かされても知らないから。きっと泣くはめになるよ!」

「泣かないもん!」言いながらも、既に久美ちゃんの目から大粒の涙が零れ始めていた。

「二人とも、もう止めて。」幸美さんが久美ちゃんと一子ちゃんの、二人の手を取った。

「久美ちゃんは今日は疲れているから、もう帰りましょう。私が送っていくわ。」

幸美さんは泣きじゃくる久美ちゃんの肩を抱いた。そうして、久美ちゃんのカバンを手にして、ゆっくりと歩き出した。

 ところが、これでは終わらなかった。そこへ、あの綿貫浪江さんが、クミッペが大変だってえと頓狂な声を上げながら乱入してきたのだ。そうして久美ちゃんの涙に汚れた顏を見るや否や、この前の御礼と思ったのかあるいは持ち前の同情心に火が点いたのか、久美ちゃんに抱きついたかと思うと、爆発的に泣き出した。こうなるとなんとか涙を抑えていた斉藤一子ちゃんも急にこらえきれなくなって、またもや泣き出してしまった。

 幸美さんは号泣する三人の友達に囲まれて、立ち往生してしまった。しかしいくら放課後とは言え、三人の娘が声を限りに泣いていればさすがに目立つ。声を聞きつけて、学年主任と久美ちゃんの担任の山田先生が駆け付けてきた。草薙くんのしでかした騒ぎのことを既に聞いていた先生達は心配して、とりあえず激しく泣いている久美ちゃんと浪江さんを山田先生の車で家まで送ることになった。

 幸美さんは駐車場まで一緒に付き添って行った。そこで久美ちゃん達を乗せた車を見送った後、大きなため息をついた。一緒に来ていた一子ちゃんも、それに合わせるかのように、あああと声を漏らした。

「・・・とにかく心配だわ。嫌な予感がする。」幸美さんは夕陽に頬を染めながら、眉根を寄せた。

「私らがしっかりして、久美すけを守ってやらないとね。」一子ちゃんも夕陽に誓うかのように、重々しく言った。

「そうね。でも、私達だけでは・・・」

「先生に相談しようか?」

しかしこの一子ちゃんの提案に、幸美さんは首を横に振った。

「藤原くんのお爺様は国会議員、お父様は地元の大きな会社の社長で県会議員。このあたりでは誰も逆らえない有力者の一族よ。だから校長先生ですら、腫物に触るようで、彼を叱ったり注意したりできる先生はこの学校にはいないわ。」

「・・・確かにそうかもね。今日だって、被害者の久美すけのところには保健の先生も付いてくれなくて、藤原の取り巻きだからって草薙のことばかり心配してさ。もっとも、あの大流血で泣きわめいている草薙の姿を見れば、アイツを被害者と勘違いしてもしようがないかもしれないけれどね。」

「それはそうだけど・・・」

「でもさ、先生もアテにならないとすると、どうするの?」一子ちゃんの瞳が心細さで一杯になる。幸美さんは目を閉じた。そしてしばらく考えてから、ゆっくりと瞼を開いた。

「・・・もしかしたら、ううん、きっと。加藤くんなら。」

「え?」

「加藤くん。生徒会の書記の。彼なら力になってくれるかもしれない。」

「そうなの?だって、生徒会は藤原の砦じゃないの?」

「彼は違うわ。ハッキリ言って、今の生徒会は加藤くんが頑張っているから回っているようなものなの。生徒会長の藤原くんと副会長の工藤くん、書記の草薙くんの三人は何もやらないで邪魔するだけ。加藤くんと私と一年生の委員達でやっているような状態なの。」

「ふうん。そう言えば、柔道部の世田谷ちゃんが言っていたけど、久美すけを助けてくれたのも加藤だって。草薙が呼んできたチンピラを蹴散らして、草薙を締め上げてあの鉄の箱を開けさせたって。」

「そうね。科学部にいる後輩も言っていたわ。「チンピラを蹴っ飛ばした時の加藤先輩、とっても非科学的でカッコ良かったです」って。」

幸美さんはそう言って、夕陽に真っ赤に染まる顏に、微笑みを浮かべた。が、それも一瞬のことで、すぐに表情を引き締めて言った。

「とりあえず、今度会ったら加藤くんに相談してみる。当分は私達二人で注意しましょう。とにかく久美ちゃんを藤原くんに会わせない方がいいわね。」

「うん、そうしよう。」斉藤一子ちゃんも大きく頷いた。


 二人は駐車場から校舎に戻ろうとした。と、その背中に、アアちょっと、という声が掛かった。二人が振り向くと、一人の少年が、よく太った体にでぷちゃっと丸い顏、それに阪神タイガースの野球帽を被ったのが、愛想良くニコニコ笑いながら近付いて来ていた。

「ああ、すんまへん。ちょいとお尋ねしますが、生徒会室ちゅうのんは、どちらでおますやろ。」

「ええと、はい、そこの昇降口を入って、すぐの階段を四階まで上がって、すぐ前ですけれど・・・」一子ちゃんはたどたどしく答えた。少年は、おおきにありがとさんと言い残して、二人を追い越して昇降口の中に消えていった。

「なんだろね、もうすぐ下校時間なのに、生徒会室に用事なんて。」一子ちゃんはその後ろ姿を小手をかざして眺めていた。

「そうね、この学校の人には見えないし・・・」そう言いながら幸美さんは悪い予感がまた大きくなっていくようで、ぐっと唇を噛みしめた。

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