愛ハ世界ヲ救フ?

@simadu

第1話 理性と経験は愛を倒せるのか?

愛ハ世界ヲ救フ?

島津 淳彦

   

  序


「好きですッ」って突撃して、それでいきなり玉砕したら、アナタどうします?いえね、此のお話、なんでこんな出だしになっているかって言うと、実はアタシ、今さっき見ちゃったんですよ。ウチのね、クラスの女の子が、隣のクラスの藤原っていう男の子に渾身の告白をするところを。そして、「君に興味はない。」とか言われて、アッサリ振られちまうところを。いえ、別に覗いていたわけじゃないですよ。ただたまたま偶然出くわしただけ。何の気なしに、放課後の教室に目をやったら、女が一人男が一人計二人だけでいて、そうなりゃあもう様子を窺うしかないでしょう?なんかよろしくないことを神聖な教室でやろうとしているんだったら、風紀委員とか生活指導の先生とかに言いつけなくちゃいけないし。え、温かく見守る?そういう選択肢は、ないですねえ。だって、若い男女の過ちが不純異性交遊になって、不純異性交遊が盛んになって此の学校の評判が悪くなったら、進学や将来の就職に不利になるかもしれないでしょう?やっぱりね、人生に勝利する人間っていうのはね、一時の感情や同情に流されちゃいけないんですねえ、ええ。

ええと、何でしたっけ?ああ、そうだ。衝撃の告白シーン。そうなんですよ、あっさりと振られちゃってねえ、女の子。どうなんでしょうねえ、アタシなんか自慢じゃないけど、異性にも同性にも告白されたことなんてないもんだからよく分からないけど、振った方の男、告白されて嬉しくないんでしょうかねえ。マア、興味ない子から告白されると「迷惑だ」という思いが最初にくるのかしらね。しかし、ストレートに「君に興味はない。」はないんじゃないですかねえ。もそっとさ、オブラートにくるむか、砂糖でくるむか、せめてマリファナの粉をまぶして現実に向き合わないようにするとかさ。

でもね、こんなのはね、本当は要らぬお節介なのかもしれない。だってね、アッサリ冷たく振られたら、普通はね、

・ ショックの余り、ひどく落ち込む

・ 泣く、わめく、騒ぐ

・ 怒る、可愛さ余って憎さ百倍になる

・ 傷つく、ひどいときには自殺などの自傷行為に走る

などなどの反応になるでしょう?でもね、違うの。アタシが見たのは、違ったの。

笑ったの。大きく口を開けて、両手を腰に当てて、ふんぞり返って、天に向かって、ウワッハッハと大笑いしたのよ、女の子が。振られて喜ぶバカがいるかしらん。それとも、女の子は男の子をただからかっていただけなの?

ところがね、違うのよ。女の子は本気なの。どうして分かるかって?それはアタシがその子のことをよおく知っているからよ。だって、同じクラスですから。高校に入学して以来ずうっと同じクラス。だからもう一年以上も見ているんですもの。少なくとも、嘘の告白をして人をからかうような子じゃあないわ。

女の子は笑った。大笑いして、こう言ったの。

「これで新しい目標ができた。私を好きになってもらえるように、そうなるようにすごく頑張るから!」って。

 嫌よねえ。どこから来るのかしら、この自信。物凄い美人でミス○○高校とかいうんなら分かるけれど、チンチクリンのおちびなのよ、この娘は。それに勉強だってアタシより出来るわけじゃないし、まあ運動はアタシよりも上かもしれないけれど、それだってインターハイ級とかいうんじゃないわ。クラスでちょびっとばかり人気があるからって、人の恋心まで自由になると思ったら、大間違いよ!

 そうよ。あんなふうに人生を前向きに生きるなんて、絶対に自惚れの傲慢の高慢ちきが入っているのよ、ハートの中に。本当、何様のつもりかしら。人生ナメているのよ、きっと!もう本当に嫌ね、許せないわ、絶対に!

 そうよ、アタシはこれからあの子の恋とやらがどうなっていくのかを、見届けてやるの。そしてついには大振られに振られて、泣きの涙で此の世界の厳しさを身を以って思い知らされるところまで確認しないと、気が済まないんだから!

・・・え、アタシ?アタシのことはこの際どうでもいいの。いいのよ、誰だって。気にしないで。此のお話をしばらく読んでいく分には、アタシが誰でも関係ないから。マア、弁士だとでも思っていただければ。え、弁士って何って?いやだ、弁士知らないの?昔の無声映画の、説明係よ!嫌ねえ、最近の若い子は。って、アタシも高校生だけど。言い直すわ、いやあねえ、教養のない人は!

 という訳で、次の章からが本文よ。ここまではマア、予告編みたいなものね。だから、アタシのことはあんまり気にしないでね。読み進んでいけば、そのうちまたお会いすることもあるわ。では再びお目にかかる頁を楽しみに・・・お話の始まりですわよ!


  1 世界で最も重要な会議


 夕焼けに赤く染まる部屋である。部屋の入口には生徒会室という札が掛かっている。二十畳ほどもある広い部屋の中には、学生に不釣り合いな立派な机や革張りの椅子、更には豪華なソファまで置いてある。そこに少年が二人いる。

「なあ、聞いたか。」ソファに座ってぶ厚い英語の三流小説に目を流していた少年が、窓際でうっとりと紅の世界に浸っている少年に言った。

「世にも稀なる珍談だ。なんとね、ナンバー1が女の子から愛の告白を受けたそうだ。」

「ふうん、実に下らないね。」紅い世界に向かっている少年は、それだけを口にすると、再び眼前の景色に没頭していく。そして話し掛けた少年も、会話がそれ以上進展していきそうにないので、軽く肩をすくめて、筋肉ガンマンが意味もなく鉄砲弾を撃ち合う三流小説の中に戻っていった。

 そこへ一人の少年が入ってくる。背がスラリと高くて、二日酔いのお姉さんもたちまち眼が覚めて襲いたくなっちゃうような、たいそうな美少年。胸には「藤原」という名札。だが本を読んでいた方の少年は顏を上げて、

「よう、ナンバー1。」

と気軽に声を掛けた。

言われて藤原くんは、ごく上品に軽くニコリと笑った。その後ろから、もう一人、白衣を着た背の低い、丸っこい少年が続いて入ってきた。

「おう、ナンバー3も一緒だったか。」

「そうだ、これで揃ったな。では、始めるか。」

四人はほぼ正方形の机に、それぞれ東西南北の位置に座った。そうしておもむろに、ナンバー1の藤原くんが口を開いた。

「ここに集った者は、光輝ある秘密結社、「まだら団」のメンバーである。これより栄光のまだら団の秘密会議を開会する。私、藤原京也(ふじわら きょうや)が組織のナンバー1である。」

「そして私、工藤順一(くどう じゅんいち)がナンバー2である。」とさっきまで英語の小説を読んでいた少年が、その身を全て超高級舶来品でズビシと固めた、優男の美少年が優雅に続けた。

「そして私、草薙耕太郎(くさなぎ こうたろう)がナンバー3である。」と、これは先の二人とは違って美少年ではなく、ごつい四角顏の白衣姿のずんぐり眼鏡少年だ。

「・・・そして僕が四番目の加藤祐一郎(かとう ゆういちろう)だ。」最後に、窓の外を見ていた、背が高くがっしりした体格の少年がそっけなく言う。

「さて、諸君。唱和してくれたまえ。いいかい、いくよ。」

小さな合図とともに、ナンバー1から4までが声を揃えた。

「我らまだら団は、この世界を完全に破壊し尽くすことを目的に結成された。我らは、今の此の世界を完全に無くし、全く新しい世界、我らの支配する世界を創世するために、ここに集った。この目的は必ず達成される。なぜならば、我々は此の世界に住まう彼らとは、完全に異なる者だからだ。なぜ、異なるのか?それは、我々が真理を知っているからだ。」

「真理を・・・なに?」

ナンバー1から3までの視線が、ナンバー4の加藤くんに突き刺さった。

「ごめん、文句を忘れた。」4は悪びれることもなく、さらりと言った。

「困るねえ、そういうことでは。」ナンバー3の草薙くんがわざとらしいため息を漏らす。「我がまだら団のメンバーたる者が、この程度のフレーズを軽く暗記できないようでは、しようがないじゃないか。」

「ナンバー4は創造力を重視する余り、暗記能力を軽視しているからな。だが、記憶は全ての思考の基本だよ。知識無しの思索は危険なだけだ。」とはナンバー2の工藤くん。

「そういうわけじゃない。ただ、真理なるものを本当に我々が知っているのか、ちょっと不安になったから。」四番目の加藤くんは曖昧な笑みを浮かべる。

「それは極めて危険な発想だよ。」極めて厳しい表情でナンバー1の藤原くんが言い出した。「そもそも我々まだら団の目的は何か?それは此の世界を打ち壊し、新たに我々の支配する世界を創り出すことだ。それがなぜ可能なのか?それは我々が此の世界の真理を知っているからだ。誰も知らない真理を知っているからだ。真理を知っていることが、我々の優越性の証明なのであり、世界を統べる正当性があることを示しているのだ。それを疑っては、自らの存在意義を疑うようなものだ。よろしくないね!」

四番目の加藤くんは目を閉じた。「では、君が知っているという、その真理とは何だ?」

「何度も同じことを言わせる。困った人だね。」ナンバー1の藤原くんはサラサラの髪を軽く撫で上げた。そしておもむろに立ち上がり、夕陽の射し込む方向をも計算に入れつつ、最も絵になる構図を意識した位置まで数歩移動して、ギャラリーに向かって宣した。

「真理とはつまり、「愛というものは此の世界に存在しない」ということさ。愛とは幻なんだ。いいかい、此の世界は数多くの社会で構成されている。そしてそれぞれの社会を成立させている基は、愛だとされている。家族には家族愛が、同郷者には郷土愛が、学校には愛校心が、会社には愛社精神が、国家には愛国心が、それぞれあるとされている。だがね、この愛とは実は嘘幻なのさ。だから、その秘密を暴いてしまえば、此の世界を構成する社会は崩壊する。そして社会が崩れれば、此の世界そのものも滅び去る。そうしてその無人の荒野に、新たに我々の世界を築くのさ。」ここまで一気に言って、ナンバー1は大きく両手を天に捧げて見栄を切った。

ナンバー2がそれを受けて胸を張って言う。「僕らの目標は二十六歳までに世界を制することなんだ。」

「その心は?」四番目の少年が素朴に問う。

「現代世界における統治者の最年少記録を狙うのさ。現在までのところ、リビアのカダフィ大佐がクーデターを成功させて二十七歳で政権を握ったのが最年少記録だからね。」

「ああ、そうか。」四番目は気のなさそうな頷きで答えた。そしてこの淡白な答えによって、会話が一時頓挫した。

「おお、そう言えばさ。」盛り上がりを欠き始めた流れをなんとかしようと、ナンバー2がわざとらしく陽気な声を上げた。

「さっきナンバー4にも話そうとしていた珍談なんだがねえ、ええ、ナンバー1の藤原さんよ。君はこともあろうに、女生徒から愛の告白を受けてしまったそうじゃないか。」

しかしこの発言は、座を陽気にするどころか、ナンバー3の露骨な不快感で迎えられてしまった。

「なんだ、だらしない。いつも、「女を近づけない光線」を放射しているから、愛なんぞは僕の身には降りかかってこない、と自慢していたくせに。」

ところが同志の難癖に、ナンバー1は余裕の笑みで以て応えた。そうして注目している他の三人を、いや、ぼんやりと外の景色に目をやっているナンバー4とそれ以外の二人を見下ろしながら、窓の前にまで進んでいった。そこでクルリと華麗なターンを一回して、同志達の前に悠然と身を構えた。ナンバー1は軽く息を漏らした。そして、話し始めた。

「今日集まってもらったのは、実はそのことなんだ。僕は素晴らしい実験を思い付いてね。愛を打ち砕くための実験さ。今ナンバー2が言ったように、僕は先ほど教室で隣のクラスの女の子から愛の告白を受けた。そこで彼女の愛なるものを利用して、愛を砕く実験をしようというのさ。」

「どういうことさ」とナンバー3。

「つまりね、僕に愛を告白した女の子を操作して、僕への愛の告白を取り消させるのさ。」

「なんだ、そんなこと。要するにナンバー1がその子に嫌われてしまえばいいだけのことじゃないか。」ナンバー3が呆れたように言う。

「そうじゃないんだ。僕を嫌いになるんじゃなくて、僕とは別の男を好きにさせるんだ。そしてその後で再び僕の方を愛していると告白させるんだ。これだけ節操なく愛しているを連発させれば、愛というものの不毛さを示すことができる。それに愛を操作できることにもなる。愛を操作できるとなれば、愛の至上性も完全に否定できる。更に決定的なことには、愛を操作する術を手に入れれば、此の世を操作できることにもなる!」

「なるほど、なるほど、なるほど!」ナンバー2と3は揃って大きく頷いた。ところがそこへまた、あの四番目が冷や水を浴びせ掛けた。

「それはしかし、その女の子が移り気な浮気性だということを示すだけに終わるんじゃないのか?」

だがナンバー1はこの疑問を、自信満々の不敵な笑みで迎え撃った。

「ところがそうじゃない。いいかい、自慢じゃないが、僕は中学時代には何度も女の子から告白されたことがある。勿論、いずれもお断りしたが、その時の反応と言ったら、泣くか落ち込むか無理して笑うか、そうして後で陰でコソコソ僕の悪口を言うか逆恨みに怒るか。マア、そんなところだった。ところがね、今度の子はそうじゃない。君達も知っての通り、僕は今は女の子に対して「告白するな」光線を出している。だから高校になってからは、愛の告白など一度も受けたことはなかった。しかしその光線をかいくぐって、今日の子は近づいてきたのだ。それだけでもたいしたものだが、その上更にだ、なんとその子は僕にハッキリと断られた後に大笑いをして、ファイトを燃やして再アタックすると宣言してきたんだ。これは浮気とは縁が無さそうじゃないか。彼女は逸材じゃないかね?愛に対する執念!まさしく願ってもない実験材料だよ!」話すうちに舌にこもってきた熱を冷まそうと、ナンバー1は緑茶のペットボトルをグッとあおった。

「そういう特殊な性質を持つ女を被験体にするというのはどうかな。実験結果を一般化できないだろう。」白衣に身を包んだナンバー3は眉間に皺を寄せた。「どうも、科学的ではないね。」

「そうじゃないさ。こういう極端な女の方が、実験には向いているんだ。例えは悪いが、医学実験をするのに遺伝子を改変された特殊なマウスが必要なのと一緒さ。」

このいっこうに悪びれたところもない理屈に、2も3も納得した。四番目は相変わらず気の無さそうなふうであった。

「それで、まず最初に君達にこの女の子の愛を奪い取って欲しいんだ。その後で僕が再び「愛している」と言わせる。これでどうだ?」

「なるほど。」

「これが成された時に、愛を自由自在に打ち砕き操作する方法の基礎が確立されるんだ。それはすなわち、我らまだら団が世界を統べる道が開ける時なんだ!」

「そいつは素晴らしい!」ナンバー2が素っ頓狂な声を上げた。

「それは最高だ。多少非科学的と思えるところもあるが、そこは僕の頭脳でカバーしよう。」ナンバー3も白衣を眼鏡を喜びに揺すりながら同意した。

「・・・どうも人の心を弄ぶようで気が乗らない。」四番目がそこに水を差した。

「そんなことはないぞ、ナンバー4。」ナンバー1はこの反応を予期していたかのごとく、すかさず反撃に出た。「すべからく、政策というものは人の心に働きかけて、心を動かすことを以て行動を変えていき、行動を変える結果として世の中の動きを変えていく。心を動かすことを嫌がっていては、何事も成すことはできないぞ。」

「そうかもしれないが・・・」四番目は目を伏せて言葉を切った。これを以て相手の降伏と見なしたナンバー1は、顏中の笑みを大きくして宣言する。

「では今日只今より作戦を開始することとしよう。まず、君達が彼女を籠絡してくれ。そのための方法は各自に任せる。この方法を探ること自体が、今回の主目的なのだからね。」

ナンバー2と3は大きく頷いた。そして再び窓の外に目をやっているナンバー4を除いて、「まだら団」が記すその大いなる第一歩を祝して、異様な哄笑を放っていくのだった。


  2 突撃!怪獣娘


「だからさあ、おかしいってえの。」

タマゴサンドにガブリとかぶりつきながらのもごもご声が、二人きりの放課後の教室に響いた。

「なんでまた藤原京也みたいなのを好きになっちゃったの?」

「顏がいいじゃん。」

ズバリと答えた。これが我等の鬼首久美(おにくび くみ)さんだ。彼女こそがあの「まだら団」のナンバー1である藤原京也くんに告白して見事玉砕したお方なのだ。

「確かに顔はいい。アイドル並か、もしかするとそれ以上。でもね、アイツさ、人を見下して威張りくさって、はっきり言って性格腐ってるよ。」とサンドイッチを呑み込むや否や、バッサリと切って捨てたのは、斉藤一子(さいとう いちこ)さん、この方は鬼首久美さんの大親友なのだ。

「頭がいいじゃん。」

久美ちゃんはまたもやあっさりと褒め讃える。

「確かに頭はいい。この前の全国模試ではブッチギリでトップだったし、IQ200以上という噂だし。でもね、あの頭の良さを以てしても、あの性格の悪さを救うことは到底できやしないよ。」

「スポーツ万能じゃん。」

「確かにバスケ部のエースだけど、でもウチのバスケ部なんて県大会ではいいとこまでいったけどインターハイクラスというわけじゃないし。それに、やっぱりあの運動神経を以てしても、あの性格の酷さを掻き消すことはできないよ。」

「まだ付き合ってないから性格のことは分からないよ。それでも好きなんだから、しようがないじゃん。」

鬼首久美サマはパッと椅子からハネ起きた。

「とにかくさ、好きになるには理屈じゃないんだから。好きになったら、一直線だよ!」

「でもさ、気を悪くしないでね、たまたま耳にしちゃったから聞くんだけど・・・アンタ、あっさりフラれちゃったって・・・」

「ま、ね。第一発目はね。でもさ、藤原くんも私のことを何も知らないんだし、これをキッカケに私を知ってくれたから、それだけでも進歩じゃん。一人で悩んでウジウジしているよりも、よっぽどいい状況だと思うよ。」

「でもさ、フラれたんでしょ。どうして可能性があると思うの?」

「フラれたんじゃないよ。嫌いだって言われたわけじゃないもん。興味がないって言われただけだもん。そら、そうよね。藤原くんにとっては、私は今まで全然知らない人だったんだから。だから、告白が第一歩になるわけよ。」

「呆れたねえ。どうしてフラれたっていう考えにならないのかねえ。もしかしたら、藤原の方はアンタのことを知っていたかもしれないじゃない。」

「それはないな。私、藤原くんと口をきいたことなかったもん。こっちが話したことがないってことは、藤原くんだって私と話したことがないってことでしょ。話は一人ではできないんだよ。」

「バカのくせに理屈こねるねえ。でもさ、もしかしたら藤原はアンタのことを噂で聞いているかもしれないじゃん。おバカで逆上しやすくて、やたら元気がいいだけの、しょーもない奴だってさ。」

「アンタ、親友だと思ってたのに、ヒドイこと言うねえ。今の今までそんなふうに思っていたの?」

「だって本当のことじゃない。どっか、違うところあんの?」

「う・・・そうはっきり言われると困るけど・・・」

「自覚あんの。よかったね、それならまだ救われる可能性はあるかもよ。」

「そりゃあさ、私は勉強はいまいち・いまに・いまさんだし、運動は得意だけどチビだからバレー部でもエースってわけじゃないし、顏も大美人ってわけじゃないけど、でもでも、だからって人を好きになっちゃいけないわけじゃないし、好きになった人から好きになられないわけでもないじゃん。やってみなきゃ、分からないでしょ。」

「だからやってみて、フラれちまったんでしょ。」

「だからもう一回やってみなきゃ、分からないでしょ!」

「なんじゃ、そりゃ。」

「だって、もしかしたら、藤原くんは私のことを知らなくて、それで興味がないって言っただけかもしれないし。それならこれからお近づきになって、私のことを教えてあげなきゃいけないし。もしかしたら、機嫌がたまたま悪かったとか、風水が悪かったとか、それならもっと縁起のいい日にもう一度告白すれば「うん、付き合おう」とか言ったかもしれないし。」

「アンタねえ、どう言うのか・・・前向きって言うのか、能天気って言うのか、おバカって言うのか、一遍死なないと治らないって言うのか・・・」

「そこまで言うか、親友が!」

「ほーんと、時々アンタの親友やっていく自信が無くなるわ。」

「勝手に言ってろ、親友のくせに!」

そう言うと、鬼首久美ちゃんは急にやたらとおかしくなって、笑い出した。笑って笑って、ついに椅子から転げ落ち、その様を見ていた斉藤一子ちゃんも引きずられて笑い転げてしまっていた。

 そうして二人はどちらからともなく、そろそろ帰りますかと言い出して、カバンを振り回しながら教室を出ていったのだった。


  3 愛についての考察


「いったいが、君の主張はどうかしているよ。愛が此の世に存在しないなんて、どこをどう引っ繰り返したら、そんな世迷い事が出てくるのかねえ。」

「世迷い事?とんでもない。此の世にこれほど確かなことはありませんよ。」

「何をバカなことを。いいかい、人間は愛で生きている。愛なくば、此の世は成り立たない。」

「そんなことはないでしょう。それは先生の気のせいですよ。」

「(なんという生意気な口のきき方!)ええとね、いいかね、昔の人も皆言っている。プラトンも、イエス・キリストも、ゲーテも、みんなそれぞれ少しずつ違ってはいるが、根本においては愛を讃えている。愛を大事だと思っているんだ。」

「それはプラトンもイエス・キリストもゲーテも分かっていないからですよ。」

「(なんと、人類の偉人達をバカにするとは!何様のつもりだ、このガキは!)ええとね、君ねえ、そういう言い方はどうかねえ。だいたいね、偉人達をけなすというのは良くないよ。まあ、それは置いておくとしてもだ、愛はどんな人の心にも宿っているものだよ。極端な話、どんな極悪非道の人間であっても、誰か一人くらいは愛するものだよ。自分の母親とか、妻とか子供とか。」

「例えば、女性を自分の玩具にすることが愛ですか?それは単なる所有欲ですよ。先生が愛とおっしゃるものの多くは、異性や同性を自分の意思の軛の下に押し込めようという所有欲を、いささか見栄えのいいように化粧しただけものに過ぎません。」

「(ムムム、小理屈こねおって!)まあ、なんだ、君はまだ人生経験が絶対的に不足しているからね。まだ愛というものがどういうものか分からないのさ。もしかしたら、初恋もまだなんじゃないのか?ワハハのハ。」

「いや、愛と呼ばれるものがどういうものかは、分かっていますよ。」

「あ、そう?」

「先生は分かっていらっしゃるんですか?できればここで愛とは何かを御説明願いたいのですが。」

「え・・・(いきなりそう来たか。どう言おうかな。愛とは人にとって最も大事なものと言っておくか。しかしその程度のことでこの理屈っぽいガキに通用するかな。どうしようか。そうだ、いっそのこと、コイツに説明させるか。それで説明の矛盾点を突きまくって慌てさせて、動揺したところで愛の素晴らしさを一気に叩き込んでやるんだ。それがいい。攻守逆転、今度はこちらが攻める番だ。)」

「先生、どうしました?」

「いや、まあ、なんだ。まず君から説明してみたまえ。」

「はい?」

「いや、何と言うか、教育はだな、上から一方的に知識を詰め込むだけではダメだというのが私の日頃からの信念でね。やはり学生諸君の自主性を重んじなくてはならない。つまり向学心の芽を摘むことのないように、自発的に起こしたアクションを大事にしなけりゃあならんのだよ、うん・・・」

「分かりました。では僕からご説明しましょう。」

「そうだね、そうしてくれ。」

「まず最初に論じたいのは、『自分』とは何か、ということです。普通、『自分』とは私の此の体、生物個体としての一個の肉体を以て『自分』だとされています。僕の体と先生の肉体は別だから、僕にとって先生は他人である、というふうに。しかし、本当にそうでしょうか?『自分』の根本とは肉体なのでしょうか?例えば、手足や内臓の一部を失っても生きていられるとしたら、それらは『自分』の根本ではない。では生きるのに必要不可欠な臓器の集合体こそが『自分』の根本なのでしょうか?しかしこれもおかしい。医療技術は日々進歩しており、機械で代替できたり培養や移植が可能な臓器は増えている。その時々の医療技術水準とそれを負担できる経済力如何で『自分』が変わるというのはおかしな話です。それに人間は自分の体だけで生きているわけではない。腸内細菌のように共生している生物もいます。その一方で癌化すれば自分の肉体であってもそれは排除すべき他者です。このように肉体を切り分けていっても『自分』の根本は見つからないし、そもそも此の肉体イコール『自分』ではないのです。」

「ふむふむ。」

「では、肉体以外にどのように『自分』を基礎付けるのか?それには例えば、デカルトの「我思う、故に我在り」というふうに思考を以て『自分』の根本とする見方があります。しかし、これにも欠点がある。思考はその人だけに完結するとは限らない。同じ思考を今この段階でしている人が私とは別にもいるかもしれない。また思考は継続するものではない。別の思考に移行することによって、同じ人間であっても今とは別の『自分』になってしまうかもしれない。」

「へえへえ(なんと、デカルトだと!生意気にもフランスの大学者を持ち出しやがって!)」

「これらを考え合わせて僕は次のように考えます。すなわち、『自分』とは無いのだと。」

「はあ?(『自分』は無いって・・・仏教の言う『無』のようなものか?困ったな、フランス哲学の次は東洋哲学か・・・)」

「より正確に言えば、『自分』とは肉体などの実体に基礎を置くものではない。実体などの物質的なものではなく、『意味的なもの』なのです。僕の肉体と他人の肉体とは全く別のモノかもしれませんが、僕の「存在」はそうではない。ここでいう「存在」とは、個別の肉体のことではない。「存在」とは、僕と他人を分ける皮膚の壁を乗り越えるものです。人は、生物学的な肉体によって自他の区別をつけられているわけではないのです。人の「自他の区別」は物理的なものではなく、『意味的』なものなのです。人は、或る一つの『意味』の中に居る。そして、その『意味』は多くの人を横断して存在するものなのです。その一方で、時が移ろうに従って変転していくものなのです。だから、こういうことになります。生物学的に他人であっても、その人が今の僕と同じ『意味』の中に居るのだとしたら、それは僕と同じ『自分』なのだ、と。逆に、同じ僕であっても、過去の僕が今の僕とは別の『意味』に居たのだとしたら、それは今の僕にとっては同じ『自分』ではないのです。つまり、『自分』とは僕一人の生物学的肉体ではなく、多くの人を横断する意味的存在、多くの人をその時点で含むものなのです。その一方で『自分』とは永続する主体ではなく、今此の時にだけ在る存在なのです。」

「むむむ(いかん、そろそろ分からなくなってきたぞ。教師のメンツが丸つぶれじゃないか。なんとかしなくちゃ!)」

「そうして、『自分』とは一つの『意味の流れ』なのです。『意味の流れ』とは「個別具体の行動態度等の基の型を規定する流れ」です。なぜなら、人の行動態度等は或る一つのもので固まっていたり同じ行動を繰り返すわけではないから、動的なものであり「流れ」なのです。そして、此の『意味の流れ』は一義的なのです。なぜなら或る行動態度等を採っているその時点ではただ一つの行動態度等だけですから、それを規定する『意味の流れ』も一義なのです。しかし「一義」であるということは、『意味の流れ』同士では両立しないことを意味します。」

「へええ、そうなの(って、なんて間抜けな言い方なんだ、俺は教師だぞ!)」

「『意味の流れ』は両立しないので、こうした『自分』は相互に隔絶した存在です。それどころか、接触すれば闘うしかないのです。互いに交流できない。或る人達が相互理解しているように見えるのは、次のような事情からです。すなわち、『自分』αにいるAさんと『自分』βにいるBさんでは、異なる『自分』に居るので闘うしかない。しかし闘ってαが勝ってβを呑み込んでしまえば、AさんもBさんも同じαの中に居ることになり同じ理解となる。相互理解とはこういうことなのです。」

「相互理解できないっていうのかね、そうかな・・・(そ、そうかしら・・・?)」

「そこで愛です。愛とは実は全くの他者を愛することではない。全くの他者とは交流できないのですから、愛することなどできないのです。つまり、愛とは、同じ『自分』の中に居る他人を愛すること、すなわち自分で自分を愛していることなのです。すべからく愛というものの本質は、自己愛なのです。ですから普通に言われるような意味での「愛」は存在しないのです。それゆえに、愛は否定されなくてはならない。そういうことです。」

「ええと、そうだね・・・(困った、どう言い返せばいいのか分からない。どうしよう、どうすれば・・・)」


「ヤマダせーんせッ!なーにしてんの!」

「おお?おおッ!鬼首じゃないか。ああ、いいところに来てくれた!」

「こっちこそ、いいところに居てくれました!中庭でバスケやってるんだけど、メンツが足んないの。ねえ、ちょっとやってかない?どうせヒマなんでしょ。」

「失礼な奴だなア、教師に向かって。マア、いいや。アッハッハ、やりましょう、バスケね。ハイハイ。こう見えても中学時代はバスケ部のエースだったんだぞ。という訳で、加藤、話の続きはまた今度な。」

「先生、これから大事なところです。バスケなんか・・・」

「ホーイ、ねえ、加藤も一緒にバスケやんない?」

「おいおい、鬼首!」

「ねえねえ、こんな暗い教室に籠って先生相手に質問だなんて、試験も終わったばっかりだっていうのに、優等生なんだから。さあ、お陽様の下で元気にバスケ!」

「いやあ、鬼首。加藤はまあ、忙しいんだろう。我々だけで行こう。では加藤、そういうことで。バスケ、バスケ、バ・ス・ケ。」

「あ、そう?じゃあ、加藤、ばいばい。ところでさあ、先生、バスケって、漢字で籠球って書くってホント?誰が決めたの?」

「そう決めたのは・・・福沢諭吉かな?いや、正岡子規かな?」

「・・・・」


  4 「経験」と「理性」は人類進歩の原動力である?


「それでナンバー2、君はいったいどうやってターゲットの愛を落とすつもりだい?」

ナンバー1は放課後の生徒会室で、最高級の紅茶を啜りながら優雅に尋ねた。

「それはね、まあ、まず第一は僕の豊富な経験に基づいて、さ。僕がこれまで数多く落としてきた女性たち、その経験から導き出されたエッセンスを使ってね。もし仮にそれでもうまくいかないなら、「啓蒙」してやるのさ。」ナンバー2はダイエットコーラをがぶりとあおってから、嫌らしいほどの白い歯を見せつけて笑った。

「啓蒙。」

「そう、ENLIGHTMENTだ。未開の暗闇に迷っている愚か者達に、進むべき道を灯りで照らし出してやる。迷信の中にうずくまっている連中に、理性の力で正しく物を見る方法を教えてやる。人類の進歩の快進撃は、まさに理性によって中世の迷妄を打ち破った時から始まったと言っても過言ではないのだから。」

「つまり、愛という迷妄の中に浸っている愚かな少女に、理性の名で引導を渡してやるということかい?」

「マアね。」

「ふふ、そうかい。期待しているよ。いつから掛かる?」

「これからすぐにでも。鬼首は今日は当番で少し遅くまで残っている。なるだけ誰もいない方が好都合だからね。」

「それはそうだ。楽しみだね。もしかしたら、今日のうちにも決着が着くかもしれないな。」

「話は変わるが、ナンバー1はいつまでナンバー4を放っておくつもりなんだ。」

「ナンバー4がどうかしたのかい。」

「どうかじゃない。あの協調性の無い態度はなんだ。我々が世界征服に向かって団結して進んでいこうという此の時に、何を言っても気のない態度でソッポを向いている。何様のつもりなんだ。我々と一緒にやっていく気がないんじゃないのか。ナンバー1、どう思う。僕はいっそのこと彼を除名した方がいいんじゃないかとまで思っているんだ。」

と、ナンバー1はニコリと笑い、宥めるようにナンバー2の手を撫でてやりながら言った。

「そう厳しいことを言い給うな。ナンバー4は極めて貴重な、得難い人材なんだ。我々の理論的支柱でもあるしね。」

「どうしてそこまでアイツのことを買っているんだ。あんな奴、たいしたことないじゃないか。」

「この前の全国模試では君よりも彼の方が成績は上だったよ。」

「あんなの、たまたまだ。今まではずっと僕の方が上だった。あの時はちょっと調子が悪かっただけさ。すぐに抜き返してみせる!」

「そんなにとんがるなよ。まあ、彼のことは僕に任せておいてくれ。それよりも、吉報を待っているよ。」

「ああ、見ていてくれ。」

ナンバー2は気を取り直して、お洒落に手を振りながら、生徒会室を出て行った。その後ろ姿を見送りながら、ナンバー1は紅茶のカップにミルクを少し足して、ほうっと安らかな息を漏らした。


 鬼首久美さんは今日は大忙しだった。日直当番の相方から試合が近いから休ませてくれと頼み込まれて、ようがす任しときと薄い胸を叩いてしまったのだ(誰かに「久美ちゃん頼む」と両手を合わされれば、たとえ火の中水の中という彼女としては、到底断れるはずもなかったのだ)。だがこういう日に限って、掃除が終わるのは遅れるわ、ごみ箱がどれも一杯で何度もゴミ捨て場と往復しなければならないわ、おまけに日誌を書くのが苦手なものだから時間が掛かるわで、ようやく一区切りして教室に戻ろうとした頃には、もう外も暗くなってきていた。

 久美ちゃんは暗いのなんて怖くはなかった。週に三日はバレー部の練習で学校の門限の七時まで残っていたし、お化けも幽霊もさほど恐れていないので、夜に一人でに鳴り出すというお化けピアノの噂がある音楽室だって怖くない。と言うわけで、もう誰もいなくなった夕暮れの教室に戻ってくることは何ともなかった。だが、そんな久美ちゃんも、いざ教室に足を踏み入れて、身が硬直した。そこはもはや、彼女が知っている場所ではなかったからだ。

 妖しい香り、甘酸っぱい濃厚な匂いが教壇の辺りからモヤヤンと漂ってくる。薄暗い中に、ピンク色の明かりがぽうっと灯って、教壇の真ん前の机を照らし出している。そしてこともあろうに、その机に突っ伏して、一人の少年がすすり泣いている。その涙にくれる顏の前には、一輪のユリの花と写真立てがある。

 余りにも露骨に怪し過ぎる。だが物事は常識の限界を突き抜け過ぎると、恐怖心や警戒心よりも好奇心をより強く引き出してしまう。それに鬼首久美さんは、好奇心が何か面白いことはないかと虫眼鏡片手に歩き回っているような人でもあった。おまけに爺ちゃん仕込みの古武道と幼少の頃から熱中したプロレスのおかげで、ちゃちい男を何度も叩きのめした経験を持っていた。そんなわけで、この場を避けようという頭の働きは、なんじゃこの変なアンチャンは!という心の素直な動きにあっさりと蹴り倒されてしまったのだ。

「ねえねえ、あんた、そこで何してるの?」

久美ちゃんは、ほいほいと半分スキップのような軽やかな足取りで、しくしく泣いている少年の側に寄っていった。

 少年は右手を眼の辺りにあてて、ゆっくりと顏を上げた。久美ちゃんはその少年を知っていた。隣のクラスの工藤順一くんだ。久美ちゃんが告白して玉砕しちゃったあの藤原くんと並んで、この学校でも有数のイイ男だ。そのアイドル系の色男ちゃんが涙で顏を曇らせて、久美ちゃんを無言で見上げているのだ。

 久美ちゃんが最初に思ったのは、これはお腹が痛くて泣いているのではないな、ということだ。いくら暢気者でも、この状況で腹痛とは思わない。実際工藤くんはこう言ったものだ。

「・・・胸が痛い。」

やっぱりな、と久美ちゃんは思う。腹痛くらいで大の男が泣いたりしない。やっぱりこれは・・・心臓病だ!

 そう判断するが早いか、久美ちゃんはスマホを取り出し、救急車!と叫んで119番を押そうとした。が、工藤順一くんが、ウワァと素っ頓狂な声を張り上げて、久美ちゃんのスマホにしがみついた。その拍子に、反射的に久美ちゃんは襲い掛かってきた工藤くんに見事な足払いをかましてしまった。工藤くんはド派手な音と共に椅子と机をなぎ倒しながら吹き飛んだ。

「大丈夫?でもアンタが悪いんだよ。急に襲ってくるから。」

久美ちゃんは冷静に、腰を抜かしたようにへたり込んでいる工藤くんに手を貸してやった。

「いや、そうじゃない・・・」工藤くんはようよう息切れしながら言った。「君がいきなり救急車なんか呼ぼうとするから。」

「でもほら、心臓病は危ないし・・・」

「心臓病?ああいや、胸が痛いって言っても病気じゃない。」

「じゃ、怪我?」

「そうじゃなくて、何と言うか、精神的なものだ。」

「じゃ、ストレス?」

「そうじゃなくて!」ここまで言って、いささか声と態度に品が無くなりつつあることに気が付いて、工藤くんは心の内で息を整えて、改めてか細い声で言った。

「・・・母を思い出していたんだ。」

「ああ、あんた、マザコンなんだ。」久美ちゃんはあっけらかんと言ってのけた。これには工藤くんは思わずこけそうになった。そしてようやくのこと、「亡くなった母を」という部分を言い損ねていたことに思い至った。

「違うんだ。母は僕が三歳の時に亡くなってしまって・・・」

「え、ごめん、知らなかったから・・・」

久美ちゃんも急に神妙な顔になった。それを見て、工藤くんは失地を回復し始めたなと算段した。そうして倒れた椅子を直してふらふらと腰を下ろし、頭を抱えるふうにして語り出した。

「・・・僕の母は祖母と折り合いが悪くてね、父も自分の母である祖母への気兼ねから余り味方になれなくて、それで気苦労が溜まったのか、四十歳前なのに癌で・・・」

「それはまたお気の毒に・・・」久美ちゃんはなんだか会ったこともない工藤くんのお母さんのことが、とてつもなく可哀相に思えてきた。そうなると、異様な雰囲気ではあるが、教室で花を供えて机に突っ伏しているという状況もありえないことではないように思えてきた。

「母は父と駆け落ちして結婚したのでね。母の両親からは離縁されたも同然だった。それで祖母のことで父とうまくいかなくなったからと言って実家に戻るわけにもいかず、進退極まってしまったんだね・・・」

「酷い話だね。」久美ちゃんは涙まで少しばかり浮かべ始めている。

「ありがとう、鬼首さん。君の瞳に浮かぶ涙が・・・僕を・・・」工藤くんは下から熱い視線で久美ちゃんの眼を見上げた。そうしてふいに手を伸ばして、久美ちゃんの指先に軽く触れようとした。

 これらは全てナンバー2たる工藤順一くんの計算によるものだった。完全な暗闇になりかかる薄暮の時間帯は、人間の心が最も揺れ動き易い頃合いだ。ピンクの灯りは無意識に対して性的な刺激を与える。花も雰囲気を揺り動かす。無味乾燥な日常から花一輪あるだけで浪漫の味付けがなされる。そして、今は亡き母の思い出。通常、母親の話は女性が最も忌み嫌うマザコンを連想させるため御法度なのだが、そこはそれ、死んでしまったというのがミソなのだ。幼くして死に別れた母の思い出は、むしろ母性本能に訴える方向へ働く。そしてトドメに瞳を見つめ、手を触れる。ふいの触覚は理性の働きをマヒさせる。これでおおむねドキドキ状態に持っていける。工藤順一くんの豊富な「経験」からしてそうなるはずだった。

「・・・悪い奴ね。」

ところが変な言葉が工藤くんの頭上に降ってきた。ナンバー2は思わず演技の表情を忘れて、半ばポカンとして久美ちゃんの顔を見つめてしまった。

「あんたには悪いけど、お父さんが悪いよ。だってさ、駆け落ちまでして一緒になってくれたお母さんの味方をせずに、結局体を壊すところまで追い詰めちゃってさ、それって男の風上にもおけないんじゃないの。許せない!」

久美ちゃんは決意の拳を振り上げていた。工藤くんは暢気に指を絡ませるタイミングなど完全に失っていた。

「うるさいお姑さんなんか、やっつけるべきだよ!だいたいさ、駆け落ちし合った仲のくせに、なんで男の方の母親と同居なのよ。おかしいじゃない!」

「ええと、それはまあ、最初は祖母も母のことを気に入っていたんだよ。でもさ、人間って一緒に暮らしてみないと分からないことってあるだろう?」ナンバー2は久美ちゃんの攻勢に押され始めた。

「それでも、おばあさんとお母さんの仲がうまくいかなくなった時点で、手に手を取って家出すればよかったじゃん!」

「いや、実は祖母はその頃は病気がちで、父としても見捨てていくことはできなかったんだと思う・・・」

作り話の辻褄が苦しくなってきた。工藤くんの母親が癌で亡くなっていることは事実だったが、祖母との喧嘩や駆け落ち云々は全て嘘っぱちだったので、その辺をあまりに詳しく突っ込まれると非常に不利になるのだった。

 だが、工藤くんもやられっぱなしではなかった。自分の「経験」に基づく手法だけではこの相手は落とせそうにないと判断すると、攻め口をガラリと変えることにした。すなわち、「理性」を全面に押し出してナンバー1への愛を断罪するという道である。その後で、改めて自分への愛について論じることにする・・・

「いいかい、君、鬼首くん。」工藤くんはそう言いながら、教室の蛍光灯の白い明かりを煌々と点け、ピンクの電気スタンドを消した。そして花も一輪挿しから引き抜くと、ポイとゴミ箱に投げ捨て、母の写真もカバンの中に仕舞込んだ。そうして浪漫の香りを全て拭き消してから、「理性」の光線を持ち出してくるつもりだった。

「このお話の教訓というのはね、目先の愛なんぞに流されて、盲目的に駆け落ちなんかしたから、後の人生において悲惨な目に会った、ということなんだ。つまり軽々しく愛なるものに惑わされることなく、将来を理性的に見据えていかなくてはならないということなんだ。愛なんぞに惑わされてはいけない、分かるね。」

言いながらもナンバー2は、これだけでは到底説得できまいと感じていた。実際、久美ちゃんは胡散臭そうな眼で見ている。

「いや、もう少し詳しく話そう。いいかい、愛とは本能に過ぎないんだ。動物としての人間が、その遺伝子を繋いでいこうとする欲望。人間の繫殖欲、言わば野生の部分さ。けれども人間が人間たる由縁は、本能じゃない。理性さ。本能を抑え込み、冷静な損得計算に基づいて適切な判断を下す。一時の感情の高ぶりに流されて身を滅ぼすような真似をしないように。分かるね、愛のような原始的な感情に入れ込んだから、母もあんな目に遭ってしまったんだよ。だから君もさ、藤原くんへの一時的な感情なんかにのめり込むのはマズイと思うよ。母の例がいい教訓だからね。そうしてさ、もっと君に合った人を探すべきじゃないかな。例えば僕のような・・・」

「あんた、何言ってるの?」久美ちゃんは呆れ顏で言った。「訳の分からないことを言って。だいたい、さっきはなんで泣いていたの。」

「いや、それはだね、そうは言っても母が不憫だから・・・」

「それって親子の情愛でしょ。その愛も駄目って言うの?」

久美ちゃんはズバリ斬り込んできた。ナンバー2はグッと言葉に詰まった。そこで何とか態勢を立て直そうと、最後の切り札を使うことを瞬間的に決意した。

 ナンバー2の工藤順一くんは、その端正な顔を久美ちゃんの眼の真ん前に持ってきた。そうして、じいっとその眼を見つめた。さすがの久美ちゃんも、余りにも間近で美少年に見つめられては、いささか心が動揺しないでもなかった。その様を目敏く見て取ったナンバー2は、優位に立ったと踏んだ。そして、この勢いのままに一気にトドメを刺すことにして、決定的な台詞を持ち出した。

「君って本当にかわいいね。僕は君のことが・・・」

甘い息が、久美ちゃんの耳元を襲ってきた。久美ちゃんは思わず眼をつぶった。

「だめだよ!」

力強い声が吐き出された。その余りのパワーに、ナンバー2は瞬間凍りついた。

「だめだめ、私は好きな人がいるんだから。誘惑になんか、負けないんだから!」

毅然と決意を表明した久美ちゃんには、もはや技は通用しない。むしろ、決定打を返されてしまう。すなわち、

「私は藤原くんが好きなの!藤原くんは、あんたなんかよりも数百倍もイイ男なんだから!」

これは工藤順一くんの急所をストレート過ぎるくらいに突いてしまった。常日頃から容姿や女の子からのモテ度やらで藤原くんに遅れをとりがちで、挙句に「まだら団」においてはナンバー2の位置に甘んじているのである。ナンバー1からこの鬼首久美ちゃんの恋心を横取りすることで、この劣勢を跳ね返す機会にしようと密かに狙っていた彼としては、余りにも正面切って藤原くんよりも劣っていると言ってのけられて、神経が吹き飛びそうになってしまった。

 だが、工藤くんのか細い神経が吹き飛ぶよりも前に、待ってという奇矯な叫びと共に人影が飛び込んできた。

「ナミちゃん!」

久美ちゃんは思わず眼を見張った。それは同じクラスの綿貫浪江(わたぬき なみえ)さんであった。彼女は「工藤順一ファンクラブ会長」だと公言している方で、どうも最近ではストーカーまがいの行為にまで及んでいるらしいとは久美ちゃんも噂で聞いていた。今日もどうやら工藤くんのことを物陰から見守っていたらしい。それが工藤くんが久美ちゃんに妖しいモーションを掛けているのをヤキモキしながら見ていた後で、トドメに久美ちゃんが工藤くんのことを藤原くん以下よとはっきり宣言してしまったものだから、我慢できなくなって飛び出してきたのだ。

「クミッペ、ひどい、ひど過ぎるよオ・・・」

勢いよく飛び出してきたものの、その勢いは長くは続かず、緊張の糸が切れてしまって、ナミちゃんは突然泣き出した。そうしてなにやら聞き取れないことをわんわん泣きの間にわめくばかりとなった。久美ちゃんはそんな友達の肩を抱いて、泣かないでと慰めていたが、そのうち自分もなんだか悲しくなってきて、涙がぽろぽろと零れ始めた。

 この予期せざる異様な事態に、ナンバー2は完全に呆然としてしまっていた。いったいどうやって収拾を着けたものか、全然思い付かなかった。それで抱き合って泣いている少女二人の傍らで、アホみたいに突っ立っているだけとなった。

 だが少女はいつまでも泣いているわけではない。いち早く、久美ちゃんが気を取り直した。そしてキッと工藤順一くんを睨みつけると、いきなり噛みついてきた。

「工藤、謝んなさいよ!」

「へ?」

「ナミちゃんに謝んなさい!ごめんなさい、すみませんでしたって、謝んなさい!」

そう言われて、工藤くんは頭の中の記憶をまさぐってみた。確か、綿貫浪江は鬼首久美のことを非難しながら乱入して来たはずだった。それなのに、どうしてここで自分が謝らねばならないのだろう・・・

「どうして僕が・・・」ところがそれだけ言い終わるのさえも、久美ちゃんは許さなかった。

「やかましい!」教室中のガラスを全て震わせる凄まじい叫びが起こった。「女の子を泣かせておいて、言い訳する気!」

「泣かせたって・・・泣かせたのは君だろう・・・」

「言い訳する気!謝りなさいよ!」久美ちゃんは怒りの大魔神顏をぐいっと押し出してきた。これにはナンバー2も完全に圧倒されてしまった。

「・・・いいのよ、もう。クミッペ、工藤くんを許してあげて・・・」どういうわけか、ナミちゃんまで久美ちゃんの文脈に乗ってきてしまった。事ここに至って、ナンバー2は撤退を画策し始めた。作戦想定外の第三者の乱入があったのだから失敗してもしようがないと自身のプライドには適当に折り合いをつけて、じゃあ僕は用事があるから、と下手な言い訳でこの場を逃れようとした。

 だが、その上着の襟をぐいっと久美ちゃんが掴んでいた。小柄の体からは考えられないような、古武術で鍛えた筋肉がナンバー2の動きをがっしりと止めてしまっていた。

「な、なにをするんだ?」既にナンバー2の声にも顏にも情けなさが露骨に表れていた。

「どこに逃げるのよ。」押し殺した凄味のある声が迫ってきた。

「いや、だって、ほら、もう下校時刻だよ。教室に残っていてはいけないんだよ。」ナンバー2はそう言いながらも、上着を久美ちゃんの手から解放しようともがいた。しかし余りにもしっかりと握られていて、どうにも振り切れない。

「一緒に帰ってあげなさい!」久美ちゃんは厳しく言った。「ナミちゃんを送っていくのよ!」

「なんで僕が・・・」

「なんでも、いいの!」久美ちゃんはそう叫んで、やたらに上着を振り回し始めた。これにはナンバー2も悲鳴を上げた。それで青息吐息で分かった、分かったから放してと言わざるをえなかった。

 久美ちゃんは、図らずも憧れの工藤くんと一緒に帰宅できることになったナミちゃんの幸福そうな後ろ姿を、至極満足して見送った。そうして、ここで初めて、日誌をまだ先生に出していなかったことを思い出し、慌てて職員室へと走っていった。


《敗因分析》

今回のナンバー2の敗因は、自分の経験を過度に一般化しすぎたこと、そして理性を信じすぎたことである。

 経験は、各々の『自分』にしか通用しない。他の『自分』には通用するわけではない。このことを忘れたのが敗因の一つだ。

 もう一つは、理性も普遍的ではないということを忘れたことだ。各々の『自分』をつなぐものとしての理性など存在しない。理性は近現代の欧米社会を中心に見られる、特殊な心性に過ぎない。それを過度に信頼し過ぎたことが大きな敗北に繋がった。


「いや、これはなかなか素晴らしいじゃないか。」ナンバー4による敗因分析を読み終わってナンバー1は妙に陽気な声を上げた。

「そうかい、僕には一人勝手な理屈にしか思えないがね。」ナンバー3は苦虫を噛み潰した顏で言った。「だいたい、仲間がやられたというのに、この報告の冷たさは何だ。こんなものに感心するなんて、ナンバー1、君もどうかしている。軽率な発言は控えて欲しいな。」

これにナンバー1は不思議な笑みで応え、そうしてナンバー2はどうしていると付け足しのように尋ねた。

「さあ?昨日と今日は学校を休んでいる。明日も休むようなら見舞いに行ってやろうかと思っている。」

「そうかい、その時は僕も誘ってくれたまえ。ところでナンバー3、次は君がやるんだろう。」

「そうだねえ。」ナンバー3は銀縁眼鏡を右手の中指でかけ直して、口の端を歪めた。

「どういうふうにやる?」

「マア、見ていてくれ。ナンバー2みたいに自分の経験に基づくような原始的な方法は採らない。僕は科学技術の信奉者だからね。」

「そうか、楽しみにしているよ。」ナンバー1はナンバー4の報告書を大事に仕舞いながら微笑んで言った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る