「渡り鳥の恋」より

1

 私の名前はマガ子。去年の夏に生まれたばかりの、マガモ一年目生殖羽♀。

 越冬のためにシベリアから東京まで渡ってきて、この二月で三ヶ月目。最初はビルディングや人工物ばかりの景色や、人間の多さに戸惑うことが多かったけど、最近はもう慣れっこ。日々寒さは厳しくなってくるけど、夜になってもにぎやかだし、何より、沢山の仲間がいる!

「こんにちは、マガモのお嬢さん」

「こんにちは、アオサギのおじさん! 今日も良い天気ね!」

「こんにちは、マガモのお姉ちゃん」

「こんにちは、カイツブリの坊や。漁にもせいが出るわね!」

 池を泳いでいると、あちらこちらから声をかけられる。

「こんにちは、マガモちゃん」

「こんにちは、オオバンさん!」

 この全身シックな黒に、真っ白な額が特徴的なダンディーは、オオバンさん。私たちカモ類と同じ水鳥で、水の深くに潜るのが得意だから、池の底や川底まで沈んで水草をくわえて浮上してきて、それを私たちに分けてくれることもある、気前の良い鳥だ。

「おや、いつも一緒の彼は今日はいないのかい?」

「えっ? べ、別に、いつも一緒ってわけじゃないもの!」

「おやおや、喧嘩かい? いいねぇ、若いのは」

「そんなんじゃないってば!」

 オオバンさんに反論しながら、私は昨日のことを思い出していた。

 カルガモのカル郎さんとは、東京にやってきてすぐ、この池で出会って、ずっと仲良しだった。

 なのにどうしてあんなことになったんだろう……。


 いつもみたいに、池の中をのんびりふたりで泳いでいたとき、私はふと湧いた疑問を、カル郎さんにぶつけたのだった。

「ねえ、カル郎さんは、どうして真冬になっても姿が変わらないの?」

 隣にいたカル郎さんが、私を振り返った。カルガモのカル郎さんは、私たちマガモととても似ているけど、全体的に色白で、濃いめの過眼線と頬線がはっきりとしている。目が丸く大きくて、チャーミングだ。

「え? どういうこと?」

「だって、マガ助兄さんや、他のマガモのオスたちは、冬になったら頭が緑色になるのに、カル郎さんは、出会った時からずっと同じ姿だから、不思議だなあと思って」

「マガ子……」

 戸惑ったように、カル郎さんが言った。

「それは、僕が、カルガモだからだよ」

「? それは、わかっているわ」

 私たちマガモに、コガモ、ヒドリガモ、オナガガモ、オカヨシガモ……冬の日本列島で見かけるカモ類のほとんどのオスが、真冬になると鮮やかに羽装を変える。なのに、どうしてカルガモだけはずっとオスもメスも同じ姿なんだろう。

 単純な、種に関する疑問のつもりだったのだけど、カル郎さんは何故か、とても深刻な、そして不機嫌な表情になった。

「マガ子は、僕が、マガモみたいに艶やかな生殖羽にならないことが不満かい」

「そういうんじゃないわ」

「マガ子、僕はカルガモで、君はマガモなんだ」

「わかっているわ?」

「そのことを、君はもっと、真剣に考えてくれているんだと思っていたよ」

「どういうこと?」

「君は一体、どういうつもりで僕と一緒にいるんだい」

「え……」

 私は、カル郎さんの、問いかけの意味も、苛々の理由もよくわからなくて、戸惑った。何も答えられないでいる間に、カル郎さんは突然翼をはためかせて、どこかへ飛んで言ってしまった。

 彼の焦げ茶の羽毛が一枚、はらりと目の前に落ちた。


「……まあまあ、元気を出しなって!」

 オオバンさんの声で、私は我に返った。

「今日は人間たちが祭を開いているよ。気晴らしに近づいてみな!」

「まつり?」

 そういえば、今日は陸の上が騒がしい。見たことのない背の低い建物がいつの間にか立ち並んでいて、もくもくと煙のような物があちこちからでている。そして、人間の数もいつもより一段と多い。

「人間が一カ所に集まってどんちゃん騒ぎをするんだ。俺たちも、ご馳走に預かれるぜ……ほら!」

 オオバンさんの示した先を見ると、人間が何かを池に向かって投げていた。

「パンだ! 行かなくちゃ!」

 人間が池に捲くパンは、東京にやってきて初めて知った食べ物だ。冬になると苔や草が少なくなるから、手軽に食べれる栄養価の高いパンは貴重。ただ、人間の気まぐれで撒かれるからいつでも手に入るわけじゃないのと、水鳥たちの間で激しい争奪戦が起こるのが、大変。

 そう、カル郎さんと初めて出会ったのは、私が、初めてパンの争奪戦に参加したときのことだった。手荒なカモと押し合いへし合いになって危うく怪我をしそうだった私を、見かねたカル郎さんが助けてくれて――

「もう! 私ったら!」

 私は水の上で全身をぶるぶるドリルのように震わせた。頭をしゃきっとさせて、気持ちを入れ替える。

 何が気に入らなかったのか知らないけど、カル郎さんはどこかへ行ってしまったのだ。彼のこと考えるのは、止め、止め! 今は私は、カル郎さんがいなくったって、ひとりでパンの争奪戦に飛び込めるのだ。

 人間の足下で、カモやオオバンたちが群れている中に、私も飛び込んだ。水しぶきが上がり、あちこちでグワグワピッピと怒号が飛び交う。何度目かの戦いの末、私は人間が投げ込んだひとかけらを口にすることができた。他の鳥に盗られないよう、羽ばたいて群から離れる。

「何これ……いつものパンと違う……甘い?!」

「ふふふ、そうだろう?」

 オオバンさんがにやりと笑った。

「それは食パンじゃない。ベビーカステラという、祭の日にしか人間が池に投げ込まない魔法の食べ物なのさ」

「もっと食べたい……あ、でももう、人間、行っちゃった……」

「ひとかけらでも食べられたのは、ラッキーだったね」

 人間がいなくなると、群がっていた水鳥たちもあっという間に散らばって、静かになった。静かになると同時に、私の嘴の中に残っていたベビーカステラの後味もなくなって、急に寂しさがこみ上げてくる。

 カル郎さんは、どこへ行ってしまったんだろう。


 それからぼんやりと、水の上を泳いでいるうちに、いつの間にか暗くなっていた。

 祭ってやつのせいだろうか。日は落ちたのに、陸の上はいつも以上にずっと明るい。眩しいライトがあちこちで光っているのだ。それに、人も全然いなくならない。

 日が完全に落ちた頃、そろそろ、ねぐらに戻ろうかと思った、そのときだった。

 背後から、ひゅー、と言う音がした。トビの鳴き声にも少し似ているだろうか。なんだろう、と思って振り返るよりも先に、突然、心臓がつぶれそうなぐらいの、爆音が響いた。


 ――ドン!


 頭で何かを考えるよりも先に、私は翼を広げて羽ばたいていた。上昇する。冬の冷たい風が全身に吹き付ける。

 心臓がばくばく言っていた。どうしよう、どうしよう、どうしよう。

 シベリアにいた頃、ママに何度も言い聞かされた言葉が蘇る。

 ――人間には、気をつけなさい。あなたのお父さんは、人間に、銃で撃たれて死んでしまったのよ。

 あんなに何度も言われていたのに。私、どうして、こんなに人間が多いところで安心し切っていたのだろう。あれは火薬が爆発する音だ。怖い、怖い、怖い!

 私は必死に翼を何度も上下して、風を切った。喧噪から離れ、段々暗い場所へと進んでいく。どん、どん、という音は、不規則に、何度か背後から聞こえてきた。逃げなくちゃ、逃げなくちゃ。

 ようやく、音が遠くに聞こえてくるようになっただろうか、眼下に広い水面が見えたので、私はそこへ着水した。

 あたりには、何の気配もしない。ぐわ、ぐわ、と控えめに鳴いてみたけど、何の反応もなかった。

 どうしよう、ここはどこなんだろう。何も考えずにひたすら飛んだから、自分がいる場所の検討もつかない。

 心細くて、震えた。ママ、マガ助兄さん、カル郎さん――カル郎さん!

 目をきゅっと閉じると、浮かぶのはカル郎さんの姿だった。でも、カル郎さんが、助けに来てくれるはずない。

 そう思った、そのときだった。

「マガ子ー!」

 グワグワ、という声が聞こえて、暗闇の中に鳥の影が現れた。着水の音が辺りに響く。

「カル郎さん?!」

「マガ子、大丈夫か!」

「カル郎さん、どうして……」

「マガ子が飛んでいく姿が見えたから、慌てて追いかけたんだ。大丈夫か?」

「私……怖くて、怖くて……」

 涙ぐみそうになってうつむいていると、カル郎さんがそっとこちらに近寄ってくるのが、わかった。お腹に水の波紋を感じる。

「マガ子、大丈夫だよ、あれは銃の音じゃない。ここは禁猟区だから」

「――えっ?」

「あれは、花火の音なんだ。ほら、見てごらん」

 カル郎さんの言うとおり、顔を上げて、自分が飛んできた方向に視線をやった。

 夜空に、見たことのないものが浮かんでいた。

 爆音とほぼ同時に、色とりどりの、発光する点や線が、何か幾何学的な模様を描いて、それが、一瞬で散って消える。

「綺麗だろう?」

 カル郎さんは、そう言うけど、私にはわからなかった。大丈夫と言われても、やっぱり、あの音はどうしても怖い。

 でも。

「わかんない、けど、よかった。カル郎さんが、隣にいてくれて……」

「マガ子……」

 カル郎さんが、花火から私に視線を戻す。

「昨日は、ごめんよ、マガ子。僕は、君とずっと一緒にいたいって、ただそう思っていただけなんだ」

 私はその言葉の意味について考えた。この三ヶ月、カル郎さんとはずっと一緒にいたけれど、この先の、もっと先のことについて、考えたことも、話したこともなかった。

 でも、今日、怖い思いをして、自分がカル郎さんをどれほど求めているかわかった。そして、カル郎さんからその言葉を聞いて、胸ときめいている自分が、いる。

「カル郎さん、私……私も……カル郎さんとずっと一緒にいたい……!」

「マガ子、君はわかっているかい。カルガモの生殖羽のことも知らなかった君に。種の違う僕たちが一緒にいるって、どういうことか……」

「ごめんなさい、カル郎さん、遠い未来のことも、私たちの種のことも、考えたことがなかったの。でも今、はっきりとわかった。私、カル郎さんがいないと、だめなの。カル郎さんと、ずっと、一緒にいたい」

「マガ子、でも……。いや、今はいいか……春までまだ時間はある。難しいことは考えずに今はただ……」

 そう言うと、カル郎さんは暗がりの中で、軽く首をリズミカルに上下に動かした。それが何なのかはっきりとはわからないけれど、つられて私もそれを真似した。

 花火の音はまだ聞こえてきたけど、段々と怖くなくなった。それをBGMにして、私たちはずっと首を動かしていた。


(完)


※この物語はフィクションです。野鳥に餌を与えないでください。

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「渡り鳥の恋」より @madokanana

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