第三十四話 『葦の海の奇跡』


 ーー開いた口が塞がらないとは、まさにこの事だ。


 俺は、信じられない光景を前に、ぼうっと突っ立っている事しかできなかった。


 大声を出し切ったばかりで、ほとんど動ける体力はなく、立っているだけでも褒めてもらいたいくらいだが、たとえ動けたとしても、もう何もする事はないだろう。


 俺なんて初めから必要なかったんだとさえ思った。




「これは......どこかで見た事がある」




 天にも届きそうなほど高くそびえ立つ大浪は、まるで、ある一点を避けるように裂けていた。


 波は、その男を怯え退いたのか。一方で、玉座を囲む兵士にも見えた。そのような「道」が、彼の前に地平線の彼方まで一直線に伸びていた。


 分かりやすく例えるなら、そうーー




「ーーモーセの......『海を割いた奇跡』」




 『旧約聖書』・「出エジプト記」に記されている「葦の海の奇跡」ーーイスラエルの民とファラオ率いるエジプト人の軍とが戦った際、主に言われモーセが起こしたという奇跡。イスラエルの民はその乾いた地を渡り、エジプト人はその海に投げ込まれたと言う。




 俺はどこかの聖堂でその絵画を見た事があった。


 そして、今目の前の光景は、その絵画と何ら遜色なく、むしろ体験した事のない迫力がそこにはあった。








 俺は、彼の方へ静かに歩み寄った。




「......」




 言葉にならない気持ちをどうやって伝えればいいのか。


 嬉しさや、恐ろしさや、驚きや、ありとあらゆる感情が溢れ返り、何を言っていいのか分からなかった。




 後ろ姿はまるで別人のようだったが、振り向くとやはり、それは紛れもなくノゾミの顔だった。






 彼はこんなに大きかっただろうか。




 彼はこんなに落ち着いた態度だっただろうか。




 かつて、彼にはこれほどまでに頼もしい顔ができただろうか。






 これらの疑問には、総じて「ない」と言い切れた。


 彼には、これまでのような趣は全く感じられなかった。


 もう過去の彼には会えないのだろうか。そんな悲しさが心のどこかにあったが、そんな俺の気も知らずに、彼は言った。




「ヒントは三つもいらなかったよ」




「......え?」




「お前が俺に言った事。あれはお前が〈能力〉に目覚めるまでに辿った経験だったんだろ?同じようにすれば、俺にもきっとできるってーー」彼は言った。「でも、その三つのヒントは、二つ聞くだけで事足りるものだったんだ」




 俺は確かにそんな事を言った。


 俺の志はこれまでずっとそうだったから。




「お前が一つ目に言った『賢い人間になれ』って言葉。あれには、自分一人で考え行動するって意味があった。聞く事ばかりで何も考えなかった俺は、その言葉に素直に従ったよ......そして、一人で考えたーー」彼は言葉を続けた。「それで、さっき言った二つ目の『諦めるな』って言葉。頑固で我儘で、そしてポジティヴなお前に似合った良い言葉だ。ーー自分が負ける運命なんてあり得ない。目の前の不都合なんて信じない......そして、俺は抗ったーー」




 彼は清々しい表情だった。


 これまでのような怯えた態度はなく、一切の迷いを断ち切ったような、そんな表情だった。




「三つ目は自分で導き出さなくちゃならなかったんだ。賢い人間ーーそれは、一を聞いて十を知るようになる事。二つ目を聞いた時点で、もう答えは出たんだ」




 俺は驚いた。


 なぜなら、自分が彼に言った事には「嘘」が混じっていたから。


 三つ目なんて考えちゃいなかった。


 だって、二つじゃ歯切りが悪いだろ?


 そんなくだらない理由で見栄を張った。




 三つ目なんて適当に言うつもりだった。それなのにーー




「ありがとう、ゼロ。俺はお前に十分すぎるくらい教わったよ。ーーこの『世界』の事。〈アルカナ〉という不思議な存在の事。そして、俺がこの『世界』に来た理由......」




 ーー彼は「答え」を導き出していた。






「一つ目のヒントは『自分を信じる』ということ」






「二つ目のヒントは『運命を信じる』ということ」






「そして、三つ目ーー〈アルカナ〉にとって最も重要なことーーそれは『神を信じる』ということ」






 その時の彼は、あまりにも頼もしくて、近くにいるだけでとても安心した。




「俺に足りなかったのは『これ』だったんだ。これまで、ずっとそうだった......どうしても自分には自信が持てなくて......それで、いつしか周りの世界がつまらなくなって......神様なんていないと思っていたーーでも、違ったよ」




「ああ......そうさ......」




 俺はいつの間にか涙ぐんでいた。


 何故なのかは、自分でも詳しく分からなかったけど、「とにかく感動してるんだな」とは思った。




 俺は涙を堪えながら彼の言葉を聴いた。






「ーーでも、大切なのは『自分』なんだ。『神様』がいるって思える人は、『自分』に自信がある人だ。『自分』に自信があるから、『自分』の『運命』も信じられる。『運命』を信じることができるなら、『神様』を信じることだって難しくないだろう?」






 ーーそこには、『奇跡』を起こした『救世主メシア』の姿があった。




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