第二十九話 『暗闇の中へ』


 薄暗い路地裏に二人の男がいる。一方は、血まみれ傷だらけの姿で、もう一方は無傷。


 これは誰がどう見ても「戦い」じゃない。「一方的な暴力」である。


 しかし、何故か苦悶の表情を浮かべているのは、無傷であるはずの俺の方だった。




(こいつ......笑っていやがるッ......!!)




 俺の渾身の蹴りを食らい、ごみ溜めに突っ込んだウズは、笑顔で立ち上がった。




「ひどいねぇ〜弱者をここまで痛めつけるなんて、男のやる事じゃないよなぁ〜」




「何言ってんだ。てめぇが素直に降参すればいいだけの話なんだぜ!」




「それにしても、手加減するとかさぁ〜あるだろぉ?普通。ホント君ぃ、変わってるよなぁ〜」




(どの口が言ってんだ。ボコボコに殴られて笑っているなんて普通じゃねぇ)




 ウズは自分の体のいたる所を観察した。


 胸や腕を触って、血がたくさん出ている所とか、骨が折れている所とか、負傷している箇所を重点的に確認した。切れている口を手で擦って、わざと傷口を大きくしたり、四肢のあちこちを力なく叩いた。




「うーん......これじゃ駄目だ」




 俺にはその行為に何の意味があるのかさっぱり分からなかったが、この男が普通じゃないという事だけは十分にわかる。


 彼は、その眠そうな眼差しをこちらに向けた。




「こんな事は幾度となくやってきたんだ。これじゃ駄目だよ。初めに君と会った時は、ひょっとしたらとか思ったんだけどなぁ〜どうやら僕の勘違いだったらしい」




(初めに会った時?ーーそういやぁこいつ、俺にはしつこく構ってきたが、ゼロが姿を現したらそそくさと逃げて行きやがった......それに今だってそうだ)




 ゼロに攻撃を加える時には決して姿を現さなかったのに、俺の場合は違った。






「てめえ......もしかしてゼロが怖いのか?ーーゼロは体格も良いし、殴られたりしたらとっても痛そうだ。それが怖くて、あいつには近寄らないんだな?」




 ウズは不気味に笑った。




「ンフッ!あいつが怖いかって〜?まああながち間違ってないかもねぇ......あいつと仲良くしている所を見ると、君は知らないんだろうな〜」




「......何の事だ」




「あいつの事をよぉく知っている奴なら、誰だって僕のようにすると思うよ〜?ーー決して、奴には近づかない......この町の住民と同じようにね」




「!?」




(この町の住民......だって?)




 俺は耳を疑った。




「おい......それじゃあ、ここの住民が皆んなして留守のフリをしてるのは、あいつのせいだって言うのか?ーーどうしてそんな事が分かる......?」




「どうしてもこうしても......ここの奴らだけじゃない。あいつは誰もが知る『疫病神』なんだ。あいつと関われば、ろくな事にならない。それはもう、絶対の共通認識なんだよ。君も今はただ言いくるめられて、あいつの良いように利用されてるだけかもしれないけど、いつか分かる時が来るさ」




 この時のウズは、普段より少し真剣であるように見えた。




(ゼロが「疫病神」?どういう意味だ......?そもそもこの男の言っている事は本当なのか......?)






「そんなふざけた事言って、俺の動揺を誘ってるってんなら、そいつは無駄だぜ」




「......」




「俺はかなり冷静だ。ーー今そこのごみ溜めからカミソリを拾ったな?」




「!?」




 ウズは珍しく驚いた表情を見せた。


 どうやら俺は、随分と見くびられていたらしい。




「素手の戦闘じゃ勝ち目がないと思ったのかぁ?おい!ーーあんまり俺を舐めない方が良いぜ。何となく分かるんだ。今の俺は、さっきより確実に成長している。そして、てめぇに勝てねえとも全く思わねえ!」




 不思議だった。


 今の自分は、いつもよりもずっとクレバーでいる気がした。


 やはりこの男の行動には毎度のように驚くが、それはほんの一瞬焦りを生むだけで、これまでのようにパニック状態に陥る事はない。今は、心が研ぎ澄まされているというか、頭の中がすっきりとしている。


 そして、それと同時に「嬉しい」という気持ちがあった。


 ゼロの言った事ーー「賢い人間になれ」という言葉に一歩ずつ近づいているような気がしたからだ。




「俺はてめぇじゃなくゼロを信じる......俺は、俺の直感に従うぜ!ーー当たり前の事だがなぁ。てめぇのような人間の言葉を、誰が信じると思うんだ?」




「......ンフッ!!」




 ウズは気色の悪い笑い声をあげた。




「......何がおかしい?ーーてめぇ、今の状況理解してんのか?どう考えても笑える状況じゃーー」




「イイねェ!!」




「!!」




 突然大声を上げるウズに、俺は思わず驚いた。


 活力というのには程遠いが、少し明るい声に変わったような気がした。




「イイねぇ......こいつぁイイ!その目だよ!この前の感覚が、僕の勘違いだったかどうかーー君が僕の『救世主』かどうか、試してみてもいいかもしれない」




(何だ......こいつさっきよりも元気になってないか......?ーーそれに、「救世主」だって?何をまた訳の分からねえ事を......)




 ウズは拾ったカミソリを見ながら言った。




「でもねぇ......この僕に負けるようじゃあ『救世主』とは呼べないだろう。僕は今から、君を『本気』で殺しに行くからね。だから、君も『本気』で僕を殺しに来いよ」




「何?俺がお前に負けるだって......?そんな小さなカミソリを武器にしたくらいで、良い気になってんじゃねえぞ!」




 俺がそう言うと、ウズはカミソリをその場に捨てて、視線をこちらに向けた。




「!?」




「残念だけど......確かにこんな物を武器にしたくらいじゃあ君には勝てないだろうね。ーー君、思った以上に動けるんだねぇ〜」




 ウズはこちらへ一歩ずつ歩み寄りながら、背後に隠し持った物を取り出した。




「これはッ!?」






(ーー「酒瓶」!?)






 ウズは、その手に持った酒瓶を振りかざした。しかしーー




「遅え!」




 ーー俺はその攻撃をいとも容易く躱す事ができた。




(ッ!?何だ!?やはり遅いぞ!?さっきと何も変わっちゃいない!こんなの何回だって避けられる!ーーこれが......こいつの「本気」......なのか?)




 振り下ろされた酒瓶は、一升瓶ほどの大きさで十分な凶器になり得たが、ウズの動きは俺の反射神経で見切る事ができる程度だった。どれほど鋭い凶器でも当たらなければ意味はない。




 この男との肉弾戦では、決して負ける事はないだろうと思った。






「ーーパリンッ!」






 俺は壁に背を向けて立っていたので、ウズによって振り下ろされた酒瓶は、背後の壁に勢い良くぶち当たった。


 甲高い音を立てて割れた酒瓶は、綺麗なダイヤモンドダストのように粉々になって宙を舞う。


 ウズによる攻撃を、大きく体をずらして躱した俺には、幸運にもその破片が当たる事はなかった。


 しかし、俺の体に「何か」が降りかかった。




「......これは......血?......いやッ!?」




 ポトポトと液体の滴る音を聞きながら、俺は徐々に自分が追い詰められている事に気付いた。




「勿体無いねぇ〜こんな高そうな『ワイン』を飲み残すなんて......」




「ッ!?」




「......でも、丁度良かったよ」




「!!」




(まずいッ!!この事を考えていなかった!!)




 地面には先ほどの酒瓶から溢れ出た「ワイン」によって水溜まりができていた。


 そして、その「ワイン」は重力を無視したように空中へふわふわと浮き上がり、ウズは「それ」を手にとって眺めた。




「僕のはね......『水』を操る〈魔法〉なんだ。それが『ワイン』だって『スープ』だって関係ない。『液体』だったら良いんだ。でも......例えばそうだなぁ......『血』なんかはいけない。『血』は、すぐに固まる性質を持っているから操りにくい。もう少しサラサラしているのが良い」




(何を言っている......?そんな事を俺に説明したところで......いや、今はそんな事どうでもいい!!どうするんだこの状況......奴に「水」を与えてしまった。非常にまずい。こいつ......肉弾戦は弱いが、きっと〈魔法〉には自信があるはずだ......ゼロを襲った時に見たあの「威力」と「スピード」は凄まじいものだった。しかし、あの時見せたのがフルパワーなのか......?本当はもっと強いんじゃないのか?もっと速いんじゃ......ないのか?)




 先ほどまで有利だったかのように思えた形勢は見事に逆転。


 想定できなかった事態に焦っているのか、様々な事が脳裏に浮かんだ。






「ひょっとして君ぃ......今、冷静さを欠いているんじゃないか?ーー額に汗が浮かんできている」




(!!)




「......はぁ......はぁ......」




(駄目だ。汗もできるだけかいちゃいけないんだ......でも......)




 焦りを抑える事はできなかった。


 冷静になれと自分に言い聞かせるほど汗は出た。




(くっ......ちくしょう......どうする?何が出来るッ!?ここに来て逃げるのか......いや、でも......)




 考える事を整理しようと一旦距離を置こうとしたーーその時だった。




「!?」




 ウズの手の上でふわふわと浮いていた「ワイン」の塊は、チェーンソーのような音を立てて変形した。




(何だ......この音は!?)




「さっきカミソリを拾ったのはねぇ......武器にするつもりじゃなかったんだ。ーー『観察』......していたんだよねぇ。できればナイフとかの方が良かったんだけどーー」






「何を......言ってんだ......?」






「いやぁ〜物を切る物って、どうなってるんだろうと思ってねぇ〜『観察』してたんだよ。カミソリの『刃』の部分をねぇ」






 徐々にその形は現れた。


 先ほどまで、大きな水滴のように浮いていた「ワイン」は、高圧洗浄機から出る水のように勢い良く回転し、カミソリの刃のように鋭い形になった。




(何だ......これ......こんな事も出来るのか......!?)






「ンフフッ!」






 その笑顔は、これまで見た笑顔の中で最も怖かった。


 そして、それはこれからも俺の脳裏に永遠に焼付く事になるだろう。








 ーー次の瞬間、俺は「光」を失った。


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