第30話.下の名前

冷たい麦茶でもてなされた。


共通の動画を見ているということが幸いして、佐和田さんとの会話はそこまで苦痛には思わなかった。というのもなにか話題に困ったらとりあえずその実況者の動画の話をしておけばその場は凌げるからだ。


「井上くん今更だけどさ」

「うん」

「席、隣だったよね」

「そうだよ」


「やっぱり」 顔が少し綻んだように見えた。「それなら学校行ってればよかった」


「どっちででも」


「来れば」 喉元まで出かかったが必死に制した。本心で言っていないのが手に取るように分かったし、僕は佐和田さんが学校に来ない理由を、なんとなくだが分かっているような気がしていたから。


「でも、香山先生、良い人だね」

「そう?」

「毎日休む電話するけどさ、すっごい心配してくれるんだよ、昨日もわざわざプリントとか持ってきてくれたし、こんな良い先生いなかったよ」


不登校歴、というんだろうか。それが長いせいでなにやら変なところで先生を評価するようだ。


僕には悪手としか思えなかった昨日の行為もしっかりと好意として受け止めるあたりとても素直な子だ。いや、それだけ優しさに飢えているといえばそれまでだが。


「あと井上くん」

「あのさ」

「な、なに?」

「下の名前幸一って言うんだ、幸一でいいよ」

「えっ?」


突然の下の名前で呼んでいい宣言にかなり戸惑った様子で二、三度瞬きを繰り返した。


こんなことしても同情にすらならないのは分かっていたが、なんとなく、僕だけでもこの子に優しくしてあげたかった。・・・・この子がそれを求めているかはまた別の話だ。


「じゃあ・・・・幸一くん」

「はい」

「幸一くん」


「ふふ」 笑うと、可愛いんだよな。いや下心があるわけじゃないけど。


「じゃあ幸一くんも私のこと、りえって呼んでよ!」


それとこれとは別の話・・・・にはならないか。こういう流れになるのはよく考えると必然的だろう。なぜそこまで考えが及ばなかったんだ。


「それじゃあ、りえさん」

「はい」

「りえさん」


なんか、照れ臭いな。そういえば、女の子を下の名前で呼ぶなんて僕の人生で初の出来事かもしれない。

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