#13 【悪の教典】「頭の中の声が……」で刑罰を免れることはできるか【幻聴と精神鑑定】

 まず注意喚起を。

 この章には小説『悪の教典』のちょっとしたネタバレが含まれます。そこまで致命的ではないけど、ネタバレなのはその通りなので苦手な人は読まないでください。











 オーケー?

 じゃあ始めましょうか。


 『悪の教典』は超有能で生徒たちの人気者である教師蓮実聖司、通称ハスミンがなんやかんやあってクラスのみんなを殺そうと決意する物語です。ここから先なんやかんやが多いけどネタバレ防止のためなのでご了承ください。


 さて、このハスミンはなんやかんやあって大量の生徒を殺すものの、結局なんやかんやあって決定的な証拠を掴まれ警察のご厄介になることと相成りました。

 しかしこの男、結構頭が切れてめんどくさいやつでした。彼は逮捕された途端に態度をころりと変え、次のようなことを口走ります。


「これは全部神の意志なんだ。頭の中に響く声がした。4組の生徒は悪魔にとり憑かれていた」

「オーディンに伝えておいてくれ、ムニン」


 そして裁判はハスミンの心神喪失を争うことに。さあどうなるのかという結末です。


 しかしちょっと待ってほしい。こんな露骨に取ってつけたような「私狂ってますアピール」で果たして心神喪失が認められるのでしょうか。


 結論から言うと、ハスミンの責任能力はまず認められます。おめでとうハスミン。その理由は、彼が主張した幻聴と責任能力の関係にあります。


 「頭の中の声が」「声に命令されて」というのは創作に書かれるクソ雑心神喪失描写の堂々たる第1位といっても過言ではありませんが、残念ながら幻聴がある=責任能力がないということにはなりません。責任能力の有無はその被疑者の様態から総合的に判断されるものであり、この病気ならある、この病気ならないというようにはっきり線引きされるものではありません。


 幻聴でいえば、彼が幻聴に抗うだけの能力があるかどうかがポイントになってきます。

 かつてこういう事例がありました。ある男が自販機から金銭を盗み、幻聴がそうしろと命令したのだと主張しました。幻聴が聞こえるという症状に苦しんでいたことは通院歴などからわかっています。しかし責任能力は認められました。これは彼が、普段は幻聴の命令を無視して生活できていたからです。

 つまりお前が犯罪を犯したのは、幻聴のせいじゃないだろ? ということになったわけです。普段幻聴を無視できるのに、こんな場面だけ出来ませんでしたというのは筋が通りません。


 裏を返せば、普段の生活の様子から、あぁこの人は幻聴を無視する力がないんだなと判断されれば、責任能力はないという認定になるでしょう。


 さて、ハスミンの事例ですが、彼の過去の生活を見る限りでは、幻聴に逆らえないどころか、幻聴に苦しんでいた様子すら一切ないのでそもそも「お前幻聴聞こえてるのか?」という点を突かれること請け合いです。有能教師の仮面が裏目に出ますね、間違いなく。少なくとも幻聴の命令のために……というストーリーは採用されそうにありません。


 ちなみに、「精神鑑定って言っても本当に詐病を見抜けるの?」という人もいるかもしれません。そういう不信の原因は、「精神病ではない人をそうだと偽って精神病院へ送ったらまんまと精神病だと診断された」という昔の実験、いわゆるローゼンハン実験にあるかもしれません。


 しかし、本来精神病院の医者は「こいつ詐病じゃないか?」と疑ってかかって患者の話を聞くことはまずありません(いやでしょそんな病院)。しかも偽物の患者が演技をやめた途端にみんな退院をさせているので、あくまで訴えが真実であるという前提に立っていますが、きちんと症状を判断することはできているのです。ローゼンハン実験にはそもそも妥当性がありません。


 しかも精神鑑定では、鑑定人は詐病の可能性を最初から疑っています。そういう普段の治療とのスタンスの違いから、鑑定を拒む医者もいるようです。


 それでも、いい加減な鑑定で都合のいい結論を出す人はいるんでしょ? という人はいるかもしれません。残念ながら、探せばそういう鑑定人はいます。ですから、ハスミンが心神喪失で無罪になる可能性も0ではありません。


 ですが、無罪になれば晴れて自由かというと、そうは問屋が卸しません。日本には悪名高い心神喪失者等医療観察法があり、平たく言えば無罪でも精神病院へぶち込まれます。ハスミンレベルの大事件を起こした人を退院させる勇気は、ほとんどの医者にはないでしょうから、長期入院の可能性も出てきます。この長期入院には明確な期間の取り決めがないので、最悪の場合一生、ということになります。そこまで極端な事例も珍しいでしょうが。


 やっぱり、人殺しなんてしないで暮らすのが一番ですね。


【要約】

 ハスミンは日頃から幻聴に苦しんでいる様子もなく、幻聴の命令に逆らえないという状態でもないのでまず責任能力が認められる。仮に心神喪失となっても措置入院のために自由を得るには時間がかかるだろう。


【元ネタ】

悪の教典:貴志祐介による小説。映画版の主演は伊藤英明。へぇ、人間のクズ役なのに藤原竜也じゃないのかと普通に思った。


【参考文献】

中島 直 (2008). 犯罪と司法精神医学 批評社

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