#4 【掟上今日子の備忘録】今日子さんには今日しかないのに、なぜ推理ができるのか【記憶の種類】
今日子さんには今日しかない。最速の探偵。一日寝たら記憶がリセットされ、全てを忘れ去る機密保持レベル特Aの探偵。
西尾維新の小説『忘却探偵シリーズ』に登場する探偵役、掟上今日子さん(なぜかさんづけしたくなるこの感じ)は前向性健忘という特徴を持っています。彼女は眠ったが最後、それまでの出来事を一切忘れてしまい頭の中が忘却探偵を始めた当時に逆戻りしてしまうのです。
……あれ、ちょっと待てよ? 一日寝たら全て忘れるのに何で捜査ができるの? 日本語とか教養的な知識は忘れないの? どういうことなの?
今日子さんの状態を正確に把握するには、記憶喪失にはいろいろな種類があり、記憶そのものにもいろいろあるということを知らなければいけません。
まずは記憶喪失の種類から。記憶喪失には大きく分けて「前向性健忘」と「逆行性健忘」の2種類があります。
今日子さんのような前向性健忘はある地点から新しいことを覚えられないという状態を指します。一方、ニチアサとか韓流ドラマとかでありがちな「私はどこ、ここは誰」状態は逆行性健忘と呼ばれるものです。逆行性健忘は前向性健忘とは逆に過去のことをすっかり忘れてしまうという症状で、目撃者なのにその事件の記憶がない! みたいな火サス的展開もこれに当たるでしょう。
なお普通は脳の損傷などでどちらか一方が起こるというよりは両方起こり、前向性健忘が強い人とか逆行性健忘が強めの人がいるといった風に発症するようです。なので今日子さんも、もしかしたら記憶喪失になる直前の記憶は忘れてしまっているかもしれません。そういえばそれっぽい描写がドラマ版では挿入されてましたね。
そして人間の記憶にもいくつか種類があります。一番古典的な分類が「感覚記憶」、「短期記憶」、そして「長期記憶」の3つです。実は最新の知見では少し違うことも言われたりしているみたいなんですけど、これが一番わかりやすいのでこのまま説明します。
「感覚記憶」は極めて短い時間だけ脳の中に保持されるもので、極めて雑に撮った写真を想像してもらえると近いかもしれません。この写真の内容を覚えていられるのはわずか数秒の世界、なので人間はその中から自分にとって大事なものや興味のあるものだけをピックアップしてさらに長い時間(数分から数か月程度)保持します。これが「短期記憶」になります。
それがさらにリハーサルされたり詳しく把握されるというプロセスを経ると「長期記憶」になります。こうなるともう数年ではびくともしない強固な記憶になってきます。まぁ忘れるときは忘れますけど、かなり昔のことだって思い出すことができます。
わかりやすく例え話で説明しましょう。例えばあなたがこれから暮らす部屋に初めて入ったとします。家具付きのワンルームです。あなたはぱっと部屋を見てどんなところか、まず全体を把握するでしょう。これが「感覚記憶」です。むろん部屋の全てが重要というわけではないので、その中で重要そうな要素、照明のスイッチの位置とかリモコンをどこに置いたのかとかはさらにしっかり覚えて「短期記憶」に入れる一方で、排水溝の蓋に穴がいくつあるのかとかそういうどうでもいいことは捨て去るでしょう。こうして「短期記憶」に入る情報は絞られます。
そしてこの部屋で何年も暮らすうちに暗闇の中でも照明のスイッチを探り当てたり、あるいは一年くらい海外出張で留守にしても部屋の中身を忘れないということができるようになるでしょう。これが「長期記憶」に該当することになります。
そしてややこしいことに、この長期記憶にもいくつか種類があります。大きく分けて「エピソード記憶」「手続き記憶」「意味記憶」などに分けられます。もっと種類はあるのですが本当に話の複雑さがやばいことになるので今日はこの三つで勘弁してください。
今日子さんの記憶喪失最も関連するのが「エピソード記憶」と呼ばれるものです。これが自分がいつどんなことをしたという、いわゆる自分史のような記憶です。小学生のとき学芸会でこんな役をやったとか、中学生のときこんな部活に入っていたみたいな話を思い出すとき、人は「エピソード記憶」から情報を引っ張り出します。
一方、「手続き記憶」はいわゆる「体が覚えている」というやつです。自転車の乗り方からバットの振り方、はては歩き方とかも含まれます。これのおかげで我々は、いちいち頭で考えなくても車を乗り回したりできます。複雑なパスワードをキーボードではすらすら打てるのにスマホの画面とかタッチパネルだと「あれ? なんだっけ?」となるのも、パスワードの入力を「手続き記憶」に頼っているからです。
最後の「意味記憶」は要するに知識のことです。関ヶ原の戦いが西暦何年に起こったかとか、三角形の面積の公式とかがこれに当たります。
筆者は原作をすべて読んだわけではないのですが、そこで得られた情報では今日子さんが忘れるのは「その日に起きた出来事」と「その日に得た知識」の記憶であるようです。つまりある時点から後に得た「エピソード記憶」と「意味記憶」を眠ったときに忘れてしまうということです。クラウドについて知らない今日子さんとか出てきたストーリーもありましたね。
しかし、そんな今日子さんですが実は彼女だって厄介のことを覚えてくれる可能性は残ってたりします。これもドラマ版でオリジナルキャラの絆井法郎(演:及川光博。しかしすげぇ名前だ)がほのめかしていましたね。
今日子さんが忘れてしまうのはあくまで「エピソード記憶」と「意味記憶」。つまり「手続き記憶」などのほかの記憶は眠っても残り、新しく覚えることができるかもしれないのです。
心理学の世界で有名な記憶喪失者にHMという人がいます。彼は前向性健忘を有しており、その原因となる手術の時点から新しい「エピソード記憶」を長期記憶へ入れることができません。しかし「手続き記憶」は正常であり、新しく鏡映反転像を見て絵を描くという技術を身に着けることができました。
つまり厄介も、今日子さんと接し続けて「手続き記憶」その他に残るような記憶を彼女に与えれば覚えてもらえるかもしれないということになります。頑張れ厄介!
戯言だけどね。
【要約】
記憶喪失には大きく分けて前向性健忘と逆行性健忘がある。
記憶には感覚記憶、短期記憶、長期記憶の三種類があり、長期記憶にはさらにエピソード記憶、意味記憶、手続き記憶といった種類がある。
今日子さんが忘れるのは意味記憶とエピソード記憶だけかもしれない。
【元ネタ】
忘却探偵シリーズ:『掟上今日子の備忘録』から始まる西尾維新の小説シリーズ。実写ドラマ化の際の主演は新垣結衣。脚本は『アンナチュラル』『逃げるは恥だが役に立つ』が有名な野木亜紀子。
【参考文献】
森 敏昭・中条和光 (編) (2005). 認知心理学キーワード 有斐閣
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