#2 【ゴールデンカムイ】ラッコ鍋はなぜ杉元たちに相撲を取らせる結果になったのか【情動二要因理論】

 ラッコ鍋。それは『ゴールデンカムイ』に登場する料理であり、カオスの別名です。主人公の元軍人杉元の仲間であるマタギの谷垣は道中、アイヌの老人にラッコの肉をもらいます。普通ならばこれを鍋にでもして食べヒンナヒンナ(ヒンナはアイヌ語でおいしいの意味)で終わるところですが、ラッコに関しては勝手が違いました。


 鍋を作っているところに杉元のほか白石、尾形、キロランケの野郎衆が合流。そのまま鍋を煮るのですが、だんだんおかしな空気に。そこにいるのは全員野郎なのに互いに互いが色っぽく見える!?

「このマタギ……すけべ過ぎる!!」


 実はアイヌの伝承では(現在ラッコは絶滅危惧種なので実際にどうなるか試すことは困難)、ラッコの肉が煮える臭いには催淫作用のようなものがあり、要するに「性欲を持てあます」事態になってしまったのです。その後彼らがどうなったかは、有名なネタなのでもう知っている人も多いでしょうが、ここでの話題は「そもそも催淫ってなんだよ」ということです。


 催淫の正体というのは、まぁ薬によって詳細はよりけりでしょうが、おおむね「なんか体を熱くしたり心拍数を速くしたりすることで性欲が高まっているっぽい雰囲気を作る」という効果です。要するに盛り上がっているのは当人たちの勘違いという身も蓋もないものなのですが、なまじ心拍数をあげたりするので体の調子によってはそれが止めになることも。「腹上死なんて男の本望じゃないか!」と思うのは勝手ですが死なれる方の身にもなりましょう。変死は警察沙汰です。


 さて、不思議なのはなぜ体が熱くなったり心拍数が上がる程度のことで性的にも盛り上がれてしまうのかです。もしその程度のことでむらむらするのであれば、ちょっとそこら辺を走れば心拍数が上がり体温が上がりもうたまらないという状態になるはずで、皇居周りとかえらいことになっているはずです。不敬。


 しかしもちろん、実際にはそのようなことにはなっていません。これには人間の感情が生じるメカニズムにまつわる理由があります。


 心身相関などといって、人間の体の状態は感情に伴って変化することが昔から知られていました。怒ると胸がドキドキするし、落ち込むと体が重く感じるみたいな話です。

 こういう現象を目にすると、心理学者は悪いことを考え出します。それは「感情が先に起こって体の調子がそれに影響されるのか、それとも体の調子が変化することで感情が変化するのだろうか」ということです。


 勘のいい人なら察していると思いますが、卵が先か鶏が先かみたいな話ですよね。当然心理学業界を巻き込んだ大喧嘩になります。正直楽しそう。

 まず先陣を切ったのは「体の変化が先!」軍のジェームズとランゲ。これを2人の名前を取ってジェームズ=ランゲ説といいます。しかし「感情が先!」軍の心理学者であるキャノンたちも自説を支持する研究を示し、キャノン=バード説を唱えます。


 しかしそもそも、この論争には1つ大きな欠点がありました。それは「同じ生理反応なのに生じる感情が違う」という事例の存在です。先ほど怒ると胸がドキドキすると書きましたが、これは恋をしてもそうですよね。あるいは驚いても。感情のレパートリーの多さに比べて生理反応のパターンは極めて少なく、どちらかが先に起こると考えるだけでは説明が難しいのです。


 そこで満を持して登場したのがシャクター・シンガーその人。彼は「生理反応にその人が原因帰属することで感情が生じる」というようなことを主張し情動二要因理論を提唱しました。


 これは有名な「吊り橋効果」で説明するとわかりやすいでしょう。吊り橋効果というのは、ぐらぐら揺れる橋の上の方が相手が魅力的に見えるというものですが、これは吊り橋の不安定さによって生じている心拍数の増加を、相手が魅力的だからだと誤って認識することによって起こります。


 シャクターはこの理論を示すために、ある実験をしました。それは2つのグループに分けた実験参加者にそれぞれ心拍数の上がる薬を与え、一方のグループにはその薬の効果を正直に伝え、もう一方には効果を隠しでたらめを言いました。その後用意したサクラとともに作業をしてもらい、このサクラが無礼な態度を取ったときに彼をどう評価するかを尋ねます。するとでたらめを言われたグループはサクラを低く評価し、正直に説明された群はそれほど低くなりませんでした。


 これはでたらめを言われたグループが自分の心拍数の上昇を、相手の無礼のせいだと考えたために生じた効果です。正直に説明されたグループは心拍数が上がった理由を知っていたので、自分の体の変化はサクラと関係ないとわかっていて、それが評価に影響したのでしょう。


 さて、ラッコ鍋に話を戻しますが、肉を煮ていた杉元たちが変な気分になってしまったのも同じような理由によるものでしょう。ラッコ肉の効能なのか、バッタの大群から逃げるために走っていたためかはともかく、彼らは体温と心拍数が上がっていた状態です。そこに杉元が「どう見てもシライシが……色っぽい」などと気づいてしまったために変なスイッチが入り、集団心理もあって感情があらぬ方向へ行ってしまったのではないかと思われます。


 アイヌの伝承によれば、ラッコの肉は情欲を持て余すため1人では食べてはいけないものだそう。アイヌの老人が谷垣とインカラマッを夫婦と誤認して肉を渡しているあたりからも察せられるように、元々夫婦で食べるのがベターなものだったのでしょう。

 その思いをラッコの肉のせいにすることで、気兼ねなく夫婦の営みに移行できるという効果があると考えれば合理的ですし、アイヌのラッコの伝承にはそういった背景もあったかもしれません。


【要約】

 人は生理反応の原因を認識することで適切な感情を生じさせる。その認識が誤っていれば感情も頓珍漢なものになってしまう。吊り橋くらいならいいけれど、ラッコ鍋を食べるなら予め伝承を話して誤認が起きないようにするのが無難。夫婦でなければね。


【元ネタ】

ゴールデンカムイ:野田サトルの漫画。前回に引き続き。ラッコ鍋のあとは全裸で戦います。


【参考文献】

池田謙一・唐沢 穣・工藤恵理子・村本由紀子 (2010). 社会心理学 有斐閣

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