右腕ガァル

沃懸濾過

右腕ガァル

「よし、コンビニに行こう」


 マンションで一人暮らしを始めて一日目の昼、私はそう決意する。


 口に出したことでその意思はより強固なものとなるのだ。わざわざ不足人フソクジン住まうこの広い九洲キュウシュウの中で、仕事探しの場に大分縣オオイタケンを選んだ理由の大部分はこのケンにはコンビニがあるからであった。


 私の生まれである鹿児島縣カゴシマケンは珪砂の大地に岩石が乱立し廃油の海を囲む命の気配無い殺風景な場所だった。それに対して大分縣には水が流れ木々が生え家屋が建ちコンビニがある。


 まだ仕事は見つけていないが私の手元にはお金はある。今後の生活のモチベーションの為にも噂のコンビニに行く価値は十分に感じられるのだ。


 目的は、そう、カルボナーラ。

 私はカルボナーラが食べたい。無性にカルボナーラが食べたい。


 私が最初に食べたそれは父が四國シコクの土産に買ってきたもので最後。だがこの辺鄙へんぴな田舎には無欠人ムケツジンどもが住む本洲ホンシュウや四國のようにイタリアンを提供してくれるようなレストランは存在しないという。


 だが名高きコンビニエンスストアはある。なにも問題はない。


 人は食べなければ生きていけない以上、私はコンビニへ行かなければ死ぬことになるのだ。料理? 左腕が無いというのに出来るものか。



 私が生まれた時に足りなかったのは左腕だった。片腕での生活は下着一つ身に付けるだけでも大変な苦労で、周囲の多くが両腕は無事なまま生まれてきていたことに多少の嫉妬を覚えもしたが、片足の無い奴らが不恰好に歩く間に私は走れるし、片目の無い奴らよりカルボナーラはおいしそうに見える、と思う。


 誰かが人生はプラスマイナスゼロだと言っていた。本当だろうか?


 そうである場合もあるし、そうでない場合もある。全ては状況と状況の組み合わせであるのだから結果だけで言うことはできないけれど、私の感覚では少なくとも誰しも自分のできないことができる奴らに劣等感、自分のできることができない奴らに優越感を覚えている。

 その優越感が劣等感に勝っているとき、人はプラスマイナスゼロであれるのだろう。


 私たちのような不足人は皆、無欠人どもに対して劣等コンプレックスを感じていると思われがちだがそれはあり得ない。

 寧ろ奴らは私たち以上に足りてないし欠けている。一日三食かける三六五日食わなきゃ死ぬ軟弱な奴らに、ちょっとの怪我で大騒ぎしてすぐ死ぬような奴らに感じる劣等感なんてあるものか。


 私がうらやむとすれば不足人の中で私よりも優秀か恵まれている者に対してだけなのだ。


 そして私が優越感を感じるのも不足人の中でより不幸な境遇にいる者に対してぐらいだ。

 例えば味覚。私は唇や舌や歯や味覚野が無い奴らと違って存分にカルボナーラを楽しめる。奴らは本当の麺の食感もクリームソースの滑らかな舌触りも知らないんだろう?


 あぁ、よだれが出る。他人の不幸は蜜の味だの鴨の味だのと言われているがカルボナーラには及ぶまい。兎にも角にも目的は一つだ。想像するだけではお腹は膨れない。速やかに行動に移そう。


 箪笥たんすの引き出しから一万円札を取り出すと私はそれを財布に入れてさらにポケットに押し込む。何と言っても町に一つのコンビニ、輸入品のカルボナーラ一つに四千九百五十円もする。

 一人暮らしでまだ仕事先すらも見つけていないのだから食費への支出は抑えるべきだが……食い溜めは数週間は持つはずだし、我慢は体に良くないと母が……父だったかな、よく言っていたような……いないような。


 どうだったっけ。


 カルボナーラが私を呼んでいるような気がしてマンションの窓から身を乗り出してコンビニを眺める。五階建てで四、五階は立体駐車場。屋上駐車場さえも停める場所を求めて車がうようよしている。


 体は乗り出したまま右手を壁面の塩ビ管に伸ばして掴むと両足も投げ出して全体重を委ねる。

 両腕が無事な奴はサルのように器用に壁を伝って移動するそうだ。サルというものを見たことがない私は壁を伝うというワードからアシダカグモを想像するがあれはないだろう。手の平より大きくて毛むくじゃらで器用。しかしそれはサルにも言えることだと聞いた。ヒトの祖先で霊長類で、毛むくじゃらで尻尾が生えててその癖に顔は毛がなくて皺々の醜い婆の姿に似てるらしい。


 なんだそれ、気持ち悪い。


 私の中の評価が不足人、無欠人、サルのランク付けになった。可哀想にサル、愚かな無欠人にも劣る評価だなんて。


 そうする間に体重がそう重い方ではない私は腕力には自信があるもののずるずる地球に重力で引っ張られて靴の裏が地面にタッチする。


 さあここがスタート地点。待ってろよ愛しのカルボナーラ。


 しかし私の浮かれた気分は道程を半分もいかない内に途切れさせられてしまう。私の通るべき道に臓物をぶち撒けたおじさん、つまり私よりも年上で若いとは言えない風貌の男性が倒れており、五人の子供達がそのおじさんの腹に目掛けて蹴りを入れているではないか。


 子供達はラメ入りのキラキラなスニーカーが空気に触れ赤黒く酸化した血液で汚れることも気にせず、暴力を止める様子はない。


 ……なんということだ。これは許し難い事態だ。この平和な九洲にこんな酷いことがあっていい筈がない。道が塞がれてしまってはコンビニに行けないではないか。やるなら私の見ていないところでやってくれ。


 引き返そうとも考えた。だが出来ない。

 コンビニへ向かう道はこれ一つ。川を渡ることは出来なくはないが服は汚したくない。引き返せばこの場に来るまでにかけた時間が全て無駄になる。


 それに私は前向きに生きていきたいのだ。一度でも引き返せば私は以降選択肢に引き返すことばかりが浮かぶようになるだろう。それを恐れて今まで私は前を向いて進み続けてきたのだ。何よりカルボナーラは私を待っている。


 勇気を持って私は一人と五人へ近付く。地面に内臓が散らばり、おじさんの体表面は青紫色に変色し始めているが少年達は蹴るのを止める気はやはり無いようだ。

 五人の中には私と同じように左腕の足りない少年がいた。不思議と親近感を覚えたので、彼に話し掛けることに決める。


「やめなよ。おじさんはサッカーボールじゃないんだよ」


 彼らは一旦蹴るのを止めると口を揃えて言う。

「「「「「知ってるよ。おじさんはサッカーボールじゃなくて人間だよ。ぼくらとおんなじ人間だよ」」」」」


 そして再び蹴り始める。律儀な子達だ。話す時には全員目を見て話してくれた。

 同じ人間。同じ人間?

 おじさんの様子に私は違和感を覚えた。同じ人間を理由無く蹴ることがあるだろうか。


「ねぇ、きみ達はなんでおじさんを蹴るの?」

「おじさんがお金を渡さないからだよ」


 今度は五人のうち右目の足りない子だけが答えた。


「ぼくらはお金が必要なんだ」


 鼻の足りない子が答える。


「自転車を買うにはお金が要るんだ」


 頭皮の足りない子が答える。


「五人だから五千円必要なんだ」


 一見どこも足りなくない子が答える。


「だからおじさんを蹴るんだ」


 最後に左腕の足りない子が答えた。


 見ると鬱血した顔のおじさんは大事そうに青紫の手で茶封筒を握っている。内臓の八割が体外に出ているというのに大した執念だ。その執念もさることながら少年達の目的の為の協力意識もなかなかである。


 自転車が必要ということはきっと長崎縣ナガサキケンへと向かうのだろう。にしてもお金が無ければ奪えばいいという考えは危険だ。ひょっとしたら頼めばもらえる可能性もあるのだし、時間をかければ自転車は無くとも己の足で行けるのだから。


 彼らの目的は自転車を得ること。私の目的は彼らに道を空けてもらいカルボナーラを買いに行くこと。そのために私は多少の出費を覚悟した。


「じゃあ、お姉さんが五千円あげたらきみ達は蹴るのをやめてくれる?」


 財布を私は片手で開けると一時的に置く場所が無いことに困ったが、唇を使って一万円札を取り出して少年達に見せることができた。


「「「「「うん!」」」」」


 私は一万円札を半分に切ると片方を少年達に渡す。彼らはそれを器用に一センチ六ミリずつに分割すると顔を見合わせて笑った。


「「「「「ありがとう‼」」」」」


 その無邪気な笑顔に、この世で二番目に大切なものは笑顔であり、三番目に大切なものこそがお金なのだと実感させられたのだった。

 そして今から私は三番目に大切なものを使って一番大切なものを買わなくてはならない。

 一万円の半分があればカルボナーラは買えるのだ。


「あぁ、待ってくれお嬢ちゃん」


 前へと踏み出した足首を掴んだのはおじさんの手であった。チアノーゼを起こしていたからとっくにくたばったと思っていたが、どうやらしぶとく生きていたらしい。


 生きていたことでカルボナーラを食べ終えてから葬儀屋に電話をする手間と死なせてしまった罪悪感が減ったのはありがたいことだが話をする手間は増えた。

 私からどんどんカルボナーラが遠ざかるように感じるがこれもきっと気の所為のプラスマイナスゼロ。


「お嬢ちゃん、さっきはありがとう」

「はあ、はい」


 おじさんはふう、と息を一つついてから私の足首から手を放す。

「いやいや本当にありがとうおかげで助かった。おれはこういう者で怪しい者じゃない。良ければ内臓を入れるのを手伝ってくれないか。一人でやるのは大変なんだ」


 おじさんは地面に這い蹲りながら手を向ける。

 差し出しされた名刺を見てみると木材加工工芸技師とある。私に交換すべき名刺が無いのは哀れなものだ。例え私が名刺を持っていたとして何を書こう? 無職! より哀れだ。

 しかしこのおじさんは木材加工工芸技師。工芸技師、かっこいいではないか。


「おじさん、バイトの募集とかしてる?」

「? そんなにしてるわけじゃない。人手はそれなりに足りてるからな」

「良ければ私を雇ってくれませんか?」

「ふむ……お嬢ちゃんならいいだろう。ただし、内臓戻すのを手伝ってくれたらね」


 勿論快く引き受けた。


 おじさんは心臓と右肺以外の内臓が全て飛び出している。これを戻すにはそれなりのパズル力が必要そうだ。

 大事な右手を汚すのは気が引けたため、近くに落ちていた木の枝を二本、箸の代わりに使おうと手に持つ。


「駄目だ駄目だ。そんな出来の悪い箸で内臓を掴んだら傷が付くし泥まで付いちまう」

「じゃあどうしろって言うんですか」

「お嬢ちゃんには右腕があるだろう」


 おじさんは紫の手で私の大事な大事な右腕を指差した。


「……素手ですか」


 気持ち悪いとは思ったがカルボナーラとバイトのため、私はぬめりとした感触に甘んじた。

 左肺をはめ込み、胃を繋げ、十二指腸、肝臓、膵臓……はて、どういうことだろう。


 見かけ上、おじさんの顔に足りないのはイケメン性しかない。四肢はある。顔面のパーツも整ってはいないが揃っている。

 ならば内臓器官がどれか一部足りないものとばかり思い込んでいたが私の内臓との違いは子宮や卵巣が無いくらいで人間としての内臓は全て足りている。これじゃあまるで無欠人じゃないか。


「ひょっとしてあなたは無欠人ですか?」


 自分の言葉の中に若干の嫌悪感が混じるのを感じた。


「そんなわけがないだろう。無欠人だったらとっくのとうにくたばってる。この通りおれは生きてるじゃないか」

「じゃあなんでどこも足りてなくないんですか?」

「足りないよ」


 おじさんは自分の手で腹膜を張り合わせ、腹部の肉を寄せ集める間にみるみる顔色が良くなっていく。紫だった手はいつの間にか血色良い肌色に戻っていた。


「おれには腹が足りないんだ」


 言われてやっと気が付いた。

 おじさんには腹部の臍より上の肉が丸っきり足りていない。

 驚いた。私のような腕や足ならまだしも、頭部や胸部、生命維持に重要な部分が足りないまま生まれてきた子供はケーキに蠟燭ろうそくを一本も刺さないままさよならをすることがほとんどのため今までに会ったことはなかったが、どうやら無事に大人にまでなる人も少ないながらいるようであった。


 そりゃあ自分から死にたい死にたい言うような奴はそうそういないだろうが人間の生への執着は凄まじい。


「お嬢ちゃんありがとうな。これはほんのお礼の気持ちだ」


 そう言っておじさんは大事そうに握っていた茶封筒を渡す。反射的に受け取ってしまうと、それなりの重さと厚みが私の手に乗る。


「いいんですか?」


 今頃私に渡すくらいなら、最初から少年達に渡しておけば良かったものを。


「いいんだよ。これはおれの気持ちなんだ。これで何かうまいものでも食ってくれ」


 勿論そうさせてもらおう。なんという藁蕊わらしべ長者、否、助けたのだから浦島太郎か? ああそれは最後にお爺さんになるんだっけ私はお婆さんにはなりたくないなとかそんなのは実際どうでもよくって。

 この厚みと重み……おそらく五十万は下らない。カルボナーラ換算ならば百カルボナーラは優に確保したことになるではないか。


 なんという太っ腹。内臓が出ても尚の太っ腹!


「どうもありがとうございます。絶対にこれでおいしいものを食べます」

「いいって。お礼を言うのはこっちなんだ。それじゃあ、面接は明後日の昼頃にでもしよう。町役場は分かるか? その隣の工場に来てくれ」


 おじさんは立ち上がって埃を払うと私が歩いてきた道を進んでいった。私はおじさんを助ける気なんてなくてただ自分のカルボナーラのために行動をしたのだというのに、なんという幸運。

 おじさんは私を心優しい人間だと思っているのだろうか。きっとそうに違いない。だから私を雇ってくれるかもしれないのだ。

 だとすれば事実を伝えるわけにはいかない。もしそれが知れて面接で落とされでもしたら、私の安定したカルボナーラ生活が遠退いてしまう。


 罪悪感や反省や後悔は今どうでもいい。私はカルボナーラを買わねばならないのだ。橋を渡り、二人の警備員と八台の監視カメラに見守られた入口を抜けてコンビニへと入ると思ったよりも人は多い。


 けれど私のようにカルボナーラを目的としている人は少ないようで棚には十分な量が陳列されていた。対照的に近くの棚にある自転車は十台分のスペースに五台しか置かれておらず、先客の少年達が買っていった姿が思い浮かんだ。


 レジで片耳の無い店員にカルボナーラを渡すとレンジで温めてくれる。

 その間に会計を済ませがてらに財布と茶封筒の二つを持つのも億劫だと思い、まとめようと開いてみれば中から現れたのは薄い桐箱であった。

 その中に収められていたのはなんと、漆塗りに金箔が押され、螺鈿らでん細工の施された豪華な装飾ばしであった。……きっと五十万は下らないだろう。


 レンジがチンと気味の良い音を立てた合図で思い出したかのように店員が聞く。


「お箸にしますか? フォークにしますか?」


 私は答える。


「どっちも要りません」


 耳が足りなくてよく聞こえなかったのか、バイト店員は私の右腕を凝視してから首を傾げ、お手拭きを十枚、袋の中に入れていた。


 素手で食べる気は無いからな?

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