最終章 凍えた空に、願い事
第34話ネルの回想①
孤独の海の中にいる。
どうして私が『ここ』にいたのかは知らない。ただただ、無心に泳ぎ続ける。
大して冷たくもない流動する液体の中で、私は思った。
大切な人が、誰もいないのは、本当に寂しくてたまらないことなのだと。
ああいや。記憶はあるんだよ? ちゃんと。
辛い記憶ばっかだけどな。ハハハ(笑)
……。
もう、だいぶ前のことだ。
食わなくても、私は死にはしないんだけれど。どうしても。
どうしてもうらやましくて、食べ物を盗んだ。
パンを二つ、肉を数切れ。……美味かった。
そこに至るまでの経緯を話そう。
♦
のちの竜の町となる、レインケイブリッジ(雨の渓谷)という町があった場所の話。
街の郊外にある、そこそこ大きな家に、3人の家族がいた。
私には優しいお父さんに、起こると少し怖いお母さんがいて。
毎日やんちゃばかりして、二人から叱られていた。
「ネル!! あなたまた街で迷惑をかけたでしょう!?」
幼い少女を叱る女性の声が、小さな緑に包まれた丘に響いた。
うるさいな、と少女は想う。
「どうして、貴方にはわからないの!! あなたは他の子とは違うの!
自分でもわかってるでしょう!?」
「……どうでもいいじゃん。」
叱られたネルは、口うるさい母親に反抗するように、返事につけ加える。
「どうでもいい? どうでもいですって? 私はあなたのために、言ってあげているのに!」
うるさい。
家のドアが開いた。お父さんが帰ってきたみたいだ。
お仕事から帰ってきたのだ。お母さんはいつも家にいるから、
生活をさせてくれるのは、この人のおかげである。
「ああ、ねえ聞いてよ、この子ったらまた……」
「いいじゃないか」
こちらにあまり目を向けずに、お父さんの返事は早い。
「違うんだから。」
救いを彼に求めていた少女は、きゅ、と胸が締め付けられる思いがした。
お母さんの嘆息が聞こえる。
「もう少しあなたからも何かしてあげてよ! もう私も疲れてきたんだから。」
そういう話は私がいない場所でしてくれないかな?
だんだんとイライラが増してきた。
気に食わないや。
「いいじゃん。」
二人の視線が自分の娘に向けられた。
その年に似合わず、皮肉めいた風で少女は呟く。
「どうせ『駄目な子』だよ!!」
ネルは走って家を出て行った。
♦♦♦
繁華街の裏路地の暗がりをゆっくりと歩きながら、周りの気温の冷たさに体を震わせる。
その日は、強い雨が降っていた。
風が強くて、鬱陶しいくらいに伸びた青髪がしっちゃかめっちゃかになった。
ああもう。どうして私の髪の毛はこんな色なんだろう?
少女は考えた。
何故だか知らないけれども、お父さんたちは自分が街中に出ることを嫌っているようだし……
訳が分からないのだ。
「ああ、クソ!!」
少女は叫んだ。
すると、その声の大きさにびくっとしたのか、
誰かがこちらを見た。
「誰だ? あんた」
「こっちのセリフだよ!! あんまり大きな声出さないでくれよ、仕事の途中だったんだから!」
見ると、そいつは手元に編み物を持っていた。
「おまえ、しごとしてんの?」
彼女は尋ねる。
「……してるよ? それが何かおかしいかい?」
少年は少年で、汚い身なりとは裏腹に、言葉遣いは綺麗だった。
ふーん。
「親はいないの?」
「いない。」
「友達は? どうやって生活してんだ?」
「友人なんかいないほうがいいよ。どうせ、関わるだけ関わって、
お金だけとっていくだけだからね」
少年は、悲しそうに呟く。
……。ふん。
すると、彼のお腹の音が聞こえてきた。
かあっと顔を赤くした彼を見て、少女は、
「何か持ってきてやろうか?」
好意で言ったつもりだった。
だが。
「余計な世話を焼くな」
帰ってきたのは冷笑だった。
「俺は一人で生きていくんだから」
♦♢
その日の三日後の話。
そいつのところにまた遊びに行った。
「……」
「……」
「……ねえ」
「……」
「……はあ」
少年は嘆息した。
「いい加減にしてくれよ。集中できねえって言ってんだろ」
「関係ないでしょ。勝手にやってなよ。見てるんだから。」
「……ああもう」
そう言って、また毛糸を織っていく。
その次の日も次の日も次の日も、ネルは少年のところに行って気を紛らわせた。
「そんなに、裁縫が珍しいのかい?」
少年は尋ねる。
「おもしれー。あたしにはできない。ってーか……」
ネルは彼の首元にあったボロボロのマフラーに手を触れる。
「こういうの、あたしもほしい。」
「……じゃあ、作ってやろうか?」
「マジでか」
「500ノアで」
「金とんのかよ」
「とるよそりゃ」
そう言うとケラケラとそいつは笑った。
そんなある日のことだった。
いつも通り、裏路地を回って彼に会いに行こうとしていた時。
ドンドン! ドンドン! と音がした。
悲鳴も聞こえた。叫び声も聞こえた。
「何だ?」
ネルは音のする方へ走った。嫌な予感がする。
裏路地の角を一つ一つ曲がるたびに、不安は増していった。
体力的な辛さ以上に、動悸が激しい。
最後の路地。そこを曲がって、ネルは、見た。
「…………あ、あ」
彼が、身ぐるみをはがされているところだった。
「ケケケ」と気味悪く笑う男が彼の体をまさぐる。
肝心の彼の体には、生気が欠けているかのようにも感じられた。
「まだ他に何もねえか、、なっと、お?」
男は彼の上着のポケットから、一つの手編みのマフラー、の作りかけを取り出す。
すると、
「ま、、って」
彼の掌がかすかに動いて、男を止める。
「それ、は。だい、じな、もの、だか、ら」
「うるせえ、ぶっ殺すぞ!!」
無造作に蹴り飛ばされる。ただでさえボロボロな身なりだというのに。
これでは、あまりに。
「なあ、やめてやれ。」
「あん? お前誰だあ? ガキ」
私が、誰か?
「痛がっているじゃんか。頼むから、やめてやれ。」
「やめてやれ? ……本当に、お前、誰なんだあ?」
男の眼差しが怒りを伴って、ネルに刺さる。
「……誰ならいいっていうんだ?」
「ゴミ。」
男はまるで他人のことなどどうでもいいというようにそう言った。
「ゴミだったらいいんじゃねえか? ケケケ!!」
そうか。
ゴミか、あたしは。
あながち間違ってもいないのかもしれない。
けど。
お前の目には、そいつも。
その布切れも。
ゴミに見えるのだろう?
ぎりり、と歯ぎしりをした。
自分で自分の額に青筋が経っていることが分かった。
「ああ? なんだあ、ころされてーのか?」
意地の悪そうに悪意たっぷりの目で、男は懐からナイフを取り出した。
「じゃあ、遊んでやるぞ? その青い髪は高く売れそうだからなあ」
気色悪く笑ってゆっくりと近づいてくる男に。ネルは、思った。
ころしてやろう
壊して壊して壊しつくしてやろう。
もう、こいつに。こんな奴に、
生きる意味なんてないだろうから。
「けひひ」
自分の息の根を止めようと向かってくる男に対し、
ネルは右手を握った。
「----」
彼女の目には、闇がともっていた。
♦♢
ぼんやりとしていた脳がはっきりしてきて。
ネルは自分の周りを見回した。
原型が無い死体が、目の前に転がっていた。
ぐちゃぐちゃな『何かが』転がっている。
ゴミはお前じゃねえか。
「お、、ま、、、え、、、は」
近くで震える声がする。
彼の声だった。
「大丈夫か。まったく、こんなところにいっからこんな目に合うんだぜ?
これからは気を付けるといいよ。……どうしたの?」
これまでとは違う視線をネルに向けた少年は、まるで、
何か期待していたものに裏切られたかのような顔をしていた。
「ねえ? どうしたの。」
名前を呼ぼうと思ったが、彼の名前を知らないことに気が付いて、言うのをやめた。
血にまみれたネルを直視した、傷だらけの少年は、彼女に指をさして、
化け物だ。
そう言った。
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