彼は、入院してから1か月後に退院した。


廊下ですれ違ったときに彼を盗み見ると、顔のアザはほとんど消えているようだった。

うっかり目があってしまっても、彼はあのときのように私を問い詰めたり非難したりすることはなく、少し顔を歪めるだけだった。


彼の記憶が戻っていないことは、それで十分すぎるほどに伝わった。


また、彼は、まわりの人に私に殴られたとは言っていないようだった。

そのことに心のどこかで安心している自分がとてつもなく嫌だった。

このような状況においても私は自分のことを心配してしまうのか、と。


彼が退院するまで、数回、ひそかに病院には行っていた。

もちろん、彼の前には姿を見せずに。

そのときに看護師が教えてくれたことには、やはり彼を殴った人は彼の父親で、彼は退院したら親戚の叔父一家に引き取られるとのことだった。


また、人づてに学校で聞いた話では、彼はすでに就職先が決まっていてそれなりの大企業だとのことだった。

就職する人がいることは非常に珍しいから、私の学年のなかで話題になっていた。


彼は仕事はできるだろうし、それによって出世も早いだろうし、なによりあの優しさの持ち主だ。

モテモテになるに違いない。

そうしたら、きっと会社で知り合った人と付き合って結婚してしまうんだろう。

もしかしたら、何かのタイミングで私のことも話すかもしれない。


元カノが最低だった、というのか、

あるいは知らない人に殴られたんだよ、というのか。


どちらにせよ最悪だ。


それに、あの笑顔と優しさが私に向けられなくなるばかりか他の女の人に向けられることになるなんて、想像しただけで涙が出そうになる。


そして、こんなことを考えている自分もとてつもなく嫌。




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冬休みも夏休みのときと同じくらい、あるいはそれ以上に気が抜けた状態で過ごし、あっという間に受験シーズンがやってきて、気づけば入試がすべて終わっていた。


入試は、さんざんの結果だった。

そりゃそうだ、勉強してなかったから。

それでも、なんとか滑り止めの滑り止めくらいのところには受かって、浪人する気にもなれず進学することにした。


彼の隣にいない私は、ぼろぼろの人間だった。

彼によって今まで、どれだけ私という人間がいきいきと生かされていたのかをこれでもかというほどこの半年くらいで思い知らされた。


彼のいない世界なんて、意味がなかった。

新しい人を探す気になんて、全くなれない。

彼以外の人を好きになれるはずがなかった。

あんなに深くて大きな優しさに包まれ甘え溺れた私が、他の人の優しさで満足できるわけがなかった。

それでなくても、彼と過ごす時間以上に穏やかで心地よい時間を提供してくれる人などいるはずがなかった。

彼は、どこまでも私の理想だった。



___秋川尊。


この名前に私が一生、縛られながら生きていくことなど容易に想像できた。

解放されることなんてない。

ずっと、いつまでも、私はあの甘美な記憶に固執し、束縛され続け、抜け出せないに違いない。

そうでない私は、私ではない。

彼との記憶に執着していない私など、もはや小川紗佳ではない。

私は、この儚くて美しい記憶とともに生き続ける。

あの、お互いの唇が触れる寸前までのわずかな記憶とともに。




___我思う、ゆえに我あり


なんて名言があるけれど、今の私の状態はそれによく似たようなものだった。


彼との記憶を辿ってはじめて、私という存在を認識できる、というように。

鏡に映った自分の姿も、あまり嬉しくない合格通知に無機質に書かれた小川紗佳という文字も、私という存在を十分には認識させてくれなかった。

ただ、彼との記憶のみが私を成り立たせていた。




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