わ た し が



か れ を な ぐ っ た ?




そ れ で


か れ は


き ぜ つ し た ?


違う違う違う、

あなたは何を勘違いしているの?


私じゃない、

私じゃないよ!


確かに私はあなたを守れなかったけれど、

私はあなたのことを殴るだなんて、

していない!


するわけない!!!




看護師は私を見て、

険しくて厳しい顔をして


「そうなんですか?」


威厳のある声で言い放った。


違う、違う、違います!!!


言おうと思っても声がでなくて

必死に首を横に振ることしかできなかった。


信じて、信じてください、

私じゃないんです!!!


しかし

看護師は意外にも、

あっさりと私の否定を受け入れた。


「ええ、大丈夫ですよ。


あなたは、本当にやっていないんでしょう。


なぜなら犯人はもう捕まっていますし容疑を認めていますから。


秋川くん、

あなたは混乱しています。


頭を打ったせいで記憶がごちゃごちゃになってしまっているんです。


もう少し寝ましょう。


この女性は無実ですからね。

怖がることはありません。


ああ、あなたは今日はもう帰ってください。

これから治療をしなければいけませんし彼を混乱させるでしょうから。

すみませんね、

毎日いらしてくれたのに。」




看護師に言われるままに病室を逃げるようにして出た。



背後で、


「いや、あの人が、


小川紗佳がやったんです!


本当です!


いきなり家に来て、

学校に今日来なかっただろとか言って、

僕のこと、僕のこと、」



「いいえ、違うんです。


もう寝ましょうね。」



胸が恐ろしいくらいに痛くなる言葉を聞きながら。


小川紗佳。


その響きが非常にモノクロで無機質で、

身震いしそうだった。

これほどまでに冷たい"紗佳"というのは彼の口から聞いたことがなかった。


そして、

彼の口から小川という単語を聞いたのはとても久しぶりだった。


付き合う前は小川さんと呼ばれていたけれど、

付き合ったあとは名前で呼ばれていたから。


その頃に呼ばれていた"小川さん"の響きよりも今の響きはキンキンに冷たくて。


あまりの衝撃の事件に

心が折れそうだった。


ふと思い出せば、

付き合う前は私も彼の名前を名字でだけれどちゃんと呼んでいた。


秋川くん、と。





病院からの帰り道、

家まではそれなりに距離はあるはずなのにあっという間に着いてしまった。


ぐるぐると

答えのない問いが私の頭の中で延々とループする。


彼の記憶はちゃんと、なおるのか。


彼を殴ったのは、誰だったのか。

あの声は彼の父親なのか。


彼は今、私に関してどのように思っているのか。

彼女で自分を殴った人

なのか

彼女じゃなくて自分を殴った人

なのか

知り合い未満で自分を殴った人なのか。



彼の中に、

私を想う気持ちは存在しているのか。




もし、もし、もし、

彼の記憶がこのままなおらなかったら?


私は彼の中で最低の女として認識されて終わる?


そして、

もうそれは私たちの破局を意味する。


いくらまわりが私は無実なんだと彼を説得しても、

彼は自分の記憶を信じるに決まっている。


人間の記憶なんて

本人が思っている以上に曖昧で脆いものだと理解はできても、

記憶として頭の中に残っていることはやはり信じずにはいられないものだから。


信じないようにしたってきっと、

彼の記憶にはおそらく私が彼を殴る光景が焼き付いたままなのだろうし。


真実がいくら確固としてそこにそびえ立っていても、

彼の記憶が真実を認識していないなら真実は私にとってはなんの意味も成さなくて。


彼の記憶が私にとってももちろん彼にとっても絶対になってしまうわけであって。


どうすれば彼の記憶をなおせるのかなんて私にわかるわけがないのに

必死に考えてしまうけれど、

答えなど出ない。


彼の前で私の無実をどんなに訴えても彼の記憶がそう簡単に変わるわけはない。


そんなことをしたら

むしろ、

彼特有の優しさによって

記憶がなおったフリをして自分の記憶を抑圧して私に謝ってしまうなんて

もっと悪いことになるかもしれない。


そんなのは逆効果であるし

なにより私が望まない。


彼の優しさにはすでに甘えすぎてしまったから。


彼は私に関することをどこまで正確に認識しているのかな。



私と花火大会まで付き合っていたことは覚えている?

私があの日、あなたに告白したことは?

私が初めてあなたを名前で呼んだことは?

抱き締めあったことは?

私に好きだと言ったことは?

もうすこしでキスをしそうになったことは?



私は今でも手に取るように鮮やかに

あのときの

私たちの息づかい、

あなたの温もり、

あなたの私を見る優しい眼、

柔らかくてふにゃっとした笑み、

手を握ったときの感触、

想像していたよりうんと男らしかったあなたの色っぽくて余裕がない表情、

低くて少し掠れた心地よい声、

全部全部、思い出せるのに。


あなたはなにも、覚えていないの?

せっかく、せっかく、好きだと伝えられたのに。

あなたに少し近づけたのに。

あなたを少し知れたのに。

とても幸せだったのに。


もうあのような瞬間は、

訪れないの?


私がもっと、はやく行動していれば。

あなたを気遣えていたら。


___あなたが殴られなければ。



今頃、今頃、

どんなに幸せだったことか。


あなたが死んだわけでもない、

あなたはちゃんとそこに生きているのに、

喧嘩をしたわけでも、

私たちのどちらかが他の人を好きになってしまったわけでもないのに。


苦しくて苦しくて、

胸がはち切れそうというより、

もうなんだか

はち切れるものすらない。


私はその1週間後に

再び病院に足を運んだ。


ただし、

彼に会う前に看護師に彼のことを確認する。


病院に行けばすぐにあの日の看護師に会えて

あちらも私を覚えていてくれたようで声をかけてくれた。


「あら、秋川くんに用かな?」


「はい、でも、彼の記憶はどうなっているのかと思って。」


看護師が目線を下に落としたことで

おのずと答えはわかった。


ああ。

だめか。


「それが、なおらないのよ。


喚いたりはしないんだけど、

誰に殴られたか覚えているかと聞くと、

あなただと言うの。

他のことに関する記憶はきちんとしているのに、なぜかそこだけがおかしくてね。」


はあーっと看護師がため息をつく。


「・・・そうなんですね。

ありがとうございました」


やるせない表情の看護師にお礼を言って、

急いで病院を出た。


歪んでいる表情を悟られないように。


なんとなく予想はできていたから

この前ほどのショックは受けなかったけれど、

家に帰って自室に入った瞬間

堰を切ったように涙が溢れた。




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