第9話 新しい専門家、登場
セリーヌ・クーヴレールという女と別れて、翌朝。結局、あまり眠れなくて生まれて初めて遅刻した。学校に着いた頃にはすでに二時間目の途中で、教室に入るとクラス中の視線が集中した。こんなに見られたのは初めてだった。私はなるべく目を伏せて、座席に着いた。先生は出席簿に何かを書いた後、何もなかったかのように授業を再開した。
ほら。誰も見てない。さっきは私を見たけれど、ちょっと気になっただけで、数秒後にはもう授業に戻っている。
私は誰にも見られていない。
教科書とノートを広げ、筆記用具を用意した。授業に集中した。どんな生徒でも高校生には授業を受けるという義務がある。この時間はその義務に勤しむことにしよう。
「ではこの大問は……①の問題を九番の
ほら、私が飛んでいる。私を挟んで二人指されたのに、それに気付かない、先生と生徒。まあ、いい。珍しいことではない。さて、そろそろ手を挙げて……
「先生」
チョークの音が響く教室で誰か手を上げて発言した。後ろの方だ。振り返ると、男子生徒が手を上げていた。
「
「一人、飛ばしています。十番の桐生陽菜さんを飛ばしています」
私が飛ばされていることに――気付いた?
そんな人が私のクラスにいたのか?
私は彼を凝視する。あの席は出席番号三十三番の――そこで私は気付く。
このクラスは、三十三人クラスだったか?
確認する方法が私にはあった。大掃除の分担表だ。幸いなことに私はクラス名簿のコピーを使って分担を考えていた。その名簿は一番の
じゃあ。
じゃあじゃあ。
あれは――誰なんだ?
もう一度彼をよく見てみる。伸び放題な髪の毛。そう高くはない身長。少し小さめな顔。細すぎない体。少し大きめな制服。学ランの首元は少し開いている。少し見える白いシャツ。黒縁で四角いめのメガネ。その奥の真っ直ぐな瞳――私を見た。
「あ、ごめんなさい。えっと、桐生さん。もう書いてもらっているので、次の問題でいいですか?」
「はい」
次の問題……ペラペラと教科書をめくってみるが、次に黒板に書く機会はもう少し先になりそうだった。そんなことをしているうちに指された二人が席に戻っていた。先生が彼らの板書を説明していくが、私には一言も届かなかった。
授業が終わった。始めの号令は副委員長がかけたんだろうが、最後はちゃんと私が委員長の仕事として号令をかけた。余計な仕事をさせてしまった。あとでお礼をしに行こう――と思ったが、それよりも優先すべき興味があった。
若月とかいう男子生徒。いるはずのない三十三人目。見たことのない同級生。名簿にはなかった名前――謎のクラスメイト。
二時間目の授業の用意を片付け、三時間目の準備をしてから彼の座っていた席を確認した。いなかった。準備にはある程度時間がかかるから、どこかに行っていても不思議じゃない。少し廊下に出て探してみようか、と思ったそのとき。
「俺はここだよ」
そんな声が聞こえた。驚いて後ろを見てみると、若月くんと呼ばれていた男子生徒がそこに立っていた。
「ちょっと来てくれるかな。君とお話したいんだけど」
……ウィンクした。
突然現れて、ひと声かけてウィンクとか。どこかのアイドルか。まあ、そう言ってもよさそうな顔立ちだけれど、どうも
「いいですよ。私もお話があります」
「じゃあ、行こうか」
私は彼に手を引かれて教室を出た。手はすぐに振り払ったが。
連れてこられたのは屋上だった。立ち入り禁止の区域だがお構いなしだった。冬の屋上は制服で上がるには寒いところで、足元が一瞬で冷えるのが分かった。何もしなくても体は震えるし、両手は自然と二の腕を掴んだ。袖はめいいっぱい伸ばした。それでも気休めにしかならない。こうなれば早く帰るしかない。
「お話があるんでしょ。早くして下さい」
「何? 寒いの?」
彼は笑う。こんな寒さが全くの嘘のように満面の笑みだ。そして歩いてくる。
「だったら、俺が暖めてあげる」
彼は私を背中から抱きしめた。バックハグというやつだ。暖かい――でも!
「やめなさい!」
素直に嫌だった。
頑張って体を揺らして離れようとするが、私のお腹の前で固く結ばれた両手は全く離れない。
……諦めた。
「もういいです。このままでお話ししましょう」
「案外、お堅い子かと思ったけど、そうでもないね」
「真面目だとはよく言われます」
「そっか。そういう子と仲良くなるのはレベル高いから結構萌えるだけどね」
「……話ってなんですか。早くしないと授業が始まっちゃいます」
「真面目だね。ま、いいや。本題に行こう――君、桐生陽菜って子、知ってる?」
桐生陽菜――私? 私を探しているのか?
「桐生陽菜は私です」
「ほう、君が陽菜ちゃんだったのか」
「で、何ですか。私に用があるんじゃないんですか?」
「用、ね」
彼はそっと私を離した。温もりが背中に残っている。
「いやあ、近々君とお出かけでもしたいかなあって思ってね。真面目だけど可愛い子がいるって噂になってたから」
「嘘です。私の噂が立つはずがありません」
「ありゃ。女子高生はだいたいこういうと喜ぶんだけどね」
そういうのは、ちゃんと誰かに見られている普通の高校生だったら、の話だ。私は誰にも見られていない。
「さて、君にも用があるんだったよね。聞こうか」
ようやく向かい合った。また笑っている。こうもずっと笑っているのを見ると、怖くなってくる。だが、私はじっと目を見る。
「あなた、私のクラスの出席番号三十三番の席に座っていましたよね。私のクラスは三十二人クラスのはずなんですけど。あなたは一体誰なんですか?」
「――若月
今日から……? つまり転校生なのか? しかしなぜこんな中途半端な時期に? しかも、しばらくって?
「あ、君には言っていいんだった。俺、怪異管理局の怪異
怪異――密偵師? セリーヌさんは確か、怪異討伐師で退治がお仕事だった。密偵ということは調べるのがお仕事なのだろうか。そうだとしら、術を使ってもおかしくない。
「昨日で三回目だっけ、ドラゴンと遭ったの。三回は多いね。君、あのドラゴンが現れる心当たりは本当にないの?」
「ありません」
「ふうん。それが一番面倒なんだよね。怪異は目撃できるものじゃないから。それができるってことは何らかの理由がないとおかしいんだよ」
「分かってますよ。セリーヌさんにも言われましたし。でも、ないものはないんですよ。何度考えても、それらしい理由が浮かびません」
「分かった分かった。ま、それを調べるのが俺の仕事だからね。もうちょっと協力してもらうかもしれないけど、迷惑に思わないでね。全部終わったらデートでもしてあげるから」
「しません」
「嘘だよ。記憶消すから」
「あなたも魔法陣か何かを?」
「術なら使えるけど、俺はお札。あれは血が必要だけど、札は貼るだけで発動する。君の記憶も僕が消してあげるから。とりあえず――」
風助さんがまた私に触れる。今度はキスをするように顎に。しかし、そういうわけではなかった。
「俺が全てを解き明かしてやる」
風助さんはまたウィンクした。
怪異密偵師、若月風助――新しい専門家がやってきたらしい。
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