第2話 緑色の髪の女
ドラゴンと言われて、その姿を想像できるだろうか。多くの人間が絵本やアニメで見たことがあるだろう。大きくて翼があって鋭い牙と爪を持つ、恐ろしい怪物。でも、現実にはいない。所詮フィクションの世界の生き物。現実の世界に生きる者は絶対に襲われたりしないそれに――私は遭遇した。
冷静になればこれが現実であり、ありえない状況であることは分かるだろうが、あの鋭い眼光に睨まれては頬をつねることさえできなかった。そこを動かず、息を吸って吐いているしかできなかった。
目の前の生き物は鋭い爪を持つ二本の脚を一歩ずつ前に出して、こっちへ近づいてくる。その度に小さく風が起こって、私のスカートをまくり上げる。私は尻餅をついた状態で地面に座っていたから、完全に恥ずかしい恰好をしていたのだが、そんなのを気にしているほど余裕はなかった。とにかく後ずさり、あの生き物から距離を置くことしか頭になかった。いや、そんなの考えるまでもなく体が勝手に動いていた。腰が引けて立てない。お尻をつけたまま動けばスカートか下着が汚れてしまうが、関係ない。とにかく離れなきゃ。
しかし、私の移動距離とあの生き物の一歩は明らかに差があった。勿論、一歩の方が大きい。つまり私の願いとは逆に距離は縮まっていくばかりだった。恐怖は積もっていく。どうしよう、火とか吐いたら死んじゃう。踏まれたら潰れちゃう。噛みつかれたら食べられちゃう。やばい。死んじゃう――
もうダメだ――と思ったそのときだった。また一陣の風が吹いた。今度はさっきのような強い風ではなく、不安を吹き飛ばすような優しさのある風だった。
「最悪。誰もいないと思って
声は前から聞こえていた。私は正面を見た。
緑色の髪が風になびいている。
「仕事の難易度上がっちゃったわ」
女がいた。後ろ姿と緑色の髪が心惹かせる女性――その人は私とあの生き物の間に立った。そして、それが当然の行動であるかのように颯爽と前に進んでいく。
「はああああああああっ!」
髪の美しさとは正反対な雄叫びを上げながら、武器――槍を振り回した。後ろからでは具体的にどんな風に動いているのか分かりづらいが、戦っているように見える。声を上げながら槍を振っているが、どれも当たらない。あの生き物は巨体ながら俊敏に動いているらしい。
やがて、そいつは翼を広げて空に飛んだ。女は下から槍を突き刺すように動かすが、やはり当たらない。
「もう、面倒くさいわね!」
女は赤い正方形の紙を取り出して、やつの体に放った。しかし、抵抗できたのはここまでで、あの生き物は翼をバサバサと動かして空高く飛んでしまった。ある一定のところまで行くと、壁に突き当たったように跳ね返されたが、それを破ってどこかへ行ってしまった。
女は槍を下ろして、こっちに来た。あまり気分のいい顔ではなかった。あの生き物をとり逃がしてしまったからだろう。
私は彼女が戦っている間、動くことができなかった。あの生き物に圧倒されてか、急激な状況の変化についていけなかったのか、今では分からない。戦っていた女が私に声をかけるまで、悪い夢でも見ていたかのような感覚に陥っていた。
「怪我はないかしら」
女は私に手を差し伸べた。
綺麗な緑色の髪。それと同じ色の澄んだ瞳。さっきまでの雄叫びが嘘のような美しさだった。しかし彼女の服装は鮮やかさとは縁遠い暗い配色の服だったが、露出している腕や脚は透き通るような色をしていた。
私は女の手を取った。一瞬ふらっとしたが、ちゃんと立つことができた。
「あ、ありがとうございます」
「驚いたわよね。でも大丈夫。近々終わるわ」
女は槍を背中にかけられたケースに収納して、さっきと同じような赤い紙を出すとたくさん空にばらまいた。そして、別れも告げずに私の家とは反対方向に歩き出した。
「ちょっと待って下さい!」
私は引き留めた。こんな状況で何か知っているであろうあの女と何もなかったようにお別れするなんて、普通はできないだろう。不可思議な今が一体どんなことになっているのか、少しでも知らないと気が済まない。やっと恐怖心が和らいで、引けた腰も治って、ようやく出た質問がこれだった。
「……あなた、誰ですか?」
そんなことが聞きたいんじゃない。今起こった出来事についての説明がほしいはずなのに、私の口はそんなことを言っていた。しかし、それを聞けば何かしら分かるだろうと後から思った。だから女が答えるのを待った。
「私はセリーヌ・クーヴレールだけど」
返ってきたのはそんな答えだった。
「が、外国の方?」
「うーん、まあ、あなたから見ればそうなるのかしらね」
「こ、これからどちらに? 観光ですか?」
「そんなわけないでしょ」
そんなわけない。この状況で観光だったら、めちゃくちゃ怖い。
女は言う。
「さっきのドラゴンを追うのよ」
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