星流夜
moga
星流夜
「あと一時間だよ、キョウくん」
れんげは妙に色鮮やかな風車を吹いた。がさがさと音を立てて回る風車は、持ち手の部分が歪んでしまっている。回って混ざった緑と青が、いやに目にしみてきた。
「もうそんな時間か」
ボロボロのソファの背もたれに身体をあずけ、空を眺める。三日前から僕らはこのゴミ捨て場で暮らし始めた。森の開けた場所にある、不法投棄された粗大ゴミのたまり場。辺りに灯りはひとつもないから、どんなにか弱い光も見える。普段は口を開かない星々が寄り添い合うように浮かんでいた。原初の人々はこの景色に愛情を学んだのだろうか、なんて他愛ない言葉が過ぎる。こんなに綺麗で寡黙な輝きに呑まれて終わるなら、それもいいと思えた。
れんげは風車を放り出し、僕の隣に腰掛け、言った。
「……後悔、してない?」
「何が?」
「私と一緒に来たこととか、他にもいろいろ」
「してないけど……れんげこそ、よかったの?」
「当たり前でしょ。好きな人の隣で世界の終わりを迎えられること程幸せなことは、そうないわ」
そう言って、彼女は空に目を向けた。小さく鼻歌を歌って、星を数えている。そこに正確さは必要ない。本当はひとつも数えていなかったとして、一億個数えたと騙っても、そこに大した違いはない。すでに数字に意味はないから、零も一も一億も等しく愛されるべきだ。
視線を落とした先に、大口を開けこちらを窺う怪物がいた。それは単なる冷蔵庫かもしれないし、瞬きの間に僕らを噛み砕く化け物かもしれない。
それよりも僕は、その手前に捨て置かれた赤い傘の方に目を惹かれた。近寄って、開いてみる。開くのにそこそこの労力を要するこの傘は所々穴があいていて、雨を防ぐことはできそうにない。
「小さい頃に見た映画でね、傘で空を飛ぶシーンがあるんだ」
「あぁ、それなら私も知ってるよ。結構有名なシーンだよね」
「うん。幼いながらに傘で空を飛ぶって言うのがやけにリアルに感じられたんだ」
「……どうして?」
「あの頃の僕は少しひねくれていたんだよ。翼を持った人間なんているわけない、ホウキで空を飛ぶなんてできっこない。そんなふうに考えていたんだ。今思えば、馬鹿馬鹿しいことだけどね」
「私は好きだよ、その考え方。君はちっとも変わらない。昔も今も、ずっとひねくれ者のままだ」
「そうかな?」
「そうだよ」
この世界によって、全てのものは停滞を禁じられている。暗い森に捨て置かれた風車の一本でさえ例外なく。だから、きっと僕もどこか変わった所はあるはずだ。誰も気づかない程小さなものが増えて、減って、すげ変えられているのだ。だとしたら、いつまでも変わらないでいたいなんて願うのは不幸でしかない。
慈しむような彼女の視線に耐えかねて、僕は再度傘に目を向けた。
「でも、どの道これじゃあ飛べないよ。穴が空いてる」
「うーん……そうだ、もう時間もあまりないけど傘を探さない? 無事なものを見つけたら、二人で一緒に空を飛ぼうよ」
「……できるかな」
「できるよ。こんな我儘も聞いてくれない神様ならきっと、君と私を出会わせてもくれなかった」
れんげは自信ありげな笑みを浮かべて勢いよく立ち上がり、手近なゴミの山へと歩き出す。僕は赤い傘をそっと足元に置いて、別の山へと向き合った。顔が熱い。あの傘が赤くてよかった。これこそが優しい神様の心遣いなのかもしれないなんてのは、我ながら情けなさすぎるだろうか。
* * *
「キョウくん! これどうかな?」
れんげは少し薄汚れたビニール傘をくるくると回している。今は煤けた、元は透明だったと思われるビニールの向こう側で彼女の得意げな顔が見えた。
「子供用でちょっと小さいけど、どこも壊れてないよ!」
僕はれんげから傘を受け取る。確かに小さい。雨の日に二人で差したら、どちらの肩も犠牲になってしまう程に。今は晴れているから、関係のないことだけれど。
僕は半歩避けてスペースを設けた。れんげはその空間に入り、僕の手を覆うように持ち手を掴む。二人の視線が絡んで、数分。二人は同時に大きく息をついた。
「……飛ばないね」
「……うん」
「はぁ……ダメかぁ」
なんだか、ずいぶん長い間こうしていたように思える。実際にはそんなに経っていないはずなのに、これまでの人生全てと比べても長く感じるような不思議な感覚だ。残念そうな顔をしたれんげを横目に見つつ、傘を閉じようとしたその時、辺りが不意に明るくなった。
空を見上げる。そして、言葉を失った。本当に星が残らず落ちているような、その暴力的なまでの光の奔流は夜の闇を裂いて進んでいく。目を逸らせない。僕は瞬きする時間すら惜しんで、それを眺めた。
「綺麗だね、キョウくん」
彼女は、いつの間にか落としていたらしい傘を拾い上げ、差し直す。僕の正面に向かい合うように立っているから、相合傘というよりは彼女がこちらに傘を差し出しているような構図だ。
未だほうけたような僕の意識はあの流れ星に囚われて、けれど静かな声音は確かに鼓膜を震わせている。歌うような彼女の声が僕を地上に連れ戻す。
「そう……だね。本当に綺麗だ」
何とか絞り出した返答は大した意味を持たなくて、それでも彼女は微笑んで歌い続ける。
「それにとっても素敵。ロマンチックだと思わない? 星の雨の中で、私たちは同じ傘をさして眠るの」
変わらないでいたいことを願うのは不幸でしかない。当たり前だ。
でも、変わらないでいて欲しいと願うことはどうだろう。こんな呪いのような言葉が、今の僕には本質的な愛の言葉に思えてしまう。
れんげはずっと変わらなくて、そしてこれからも変わって欲しくない。
嗚呼、だから……だから彼女はあんなことを言ったのか。好きな人の、愛する人の隣で世界の終わりを迎えられること程幸せなことはない。だってもうそこから先の道はないから、自分も相手も絶対に変わらないと確信できる。
彼女は傘を持っていない方の手を僕の右手に絡ませて、そのまま僕に寄りかかる。僕の胸に額を押し当て、動かない。先程の焼き直しのように、僕は傘を握る彼女の手を支えた。目の前にいるはずの彼女の姿が妙にぼやけて見える。
世界の終わりは一つの別れだ。それによって愛する人の全てを手に入れることができたとしても、二度と触れることはできない。それを永遠に愛することはできても、そのぬくもりを思い出すことしかできない。
だからこそ、最後の最後まで手を離してはいけない。互いの温度が混ざり合う程に強く握り締めて。色が分かれてしまうのは、世界が終わった後でいい。
れんげは顔を上げ、少し上ずった声で言う。
「バイバイ、キョウくん」
視界を塞ぐ悲しみがたった一度の瞬きで、頬を伝って流れ出す。拭おうにも拭えないから、不格好だけどこのままで。
「さよなら、れんげ」
空から落ちたひとつの星が、僕らの上で瞬いた。
星流夜 moga @fmogat
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