第14話 隣のオトコ
作戦会議室という名の天文部カオス部屋で、志戸がテスト対策をしてくれている。
身長143センチのちんちくりん女子が張り切っている隣で、背を丸めて唸っている身長185センチの男子の姿は、しっぽをパタパタしているこいぬの前でうなだれている秋田犬のような……。
机の上ではミミとファーファが興味深そうに教科書とノートを横から覗き込んでいる。
「えっと、えっとですね、ここでこの公式を使うんです」
「え。それ、どこから出てきた?」
「こ、これはここで、こういうときに出てくるんです」
志戸が凄まじく真剣な表情で教えてくれている。が、悲しいかな、俺には理解できない。
理解していることを理論的に伝えられない女子VS分からない所が分からない男子の戦いは、両者TKO負けで終わった。
「うぅ……ご、ごめんなさい……えらそうに教えてあげますって言ったのに、わたし……」
「うーん。俺、あったま悪いからなぁ……」
「今度は勉強を教えるための予習をしてきます……」
「いや、そこまでは……」
相変わらず自信のなさそうな小声でひたすら恐縮する志戸と、一生懸命頑張ってくれている姿に恐縮して背を丸めている俺に、風に揺れたカーテンがさわさわと撫でてくる。
「ちょっと自分でやってみるよ。志戸も自分の試験勉強してくれ」
ペコペコと頭を下げる志戸をなだめてから、俺は悪あがきを始めた。
※※※
だいぶと日が傾いてきた。本日の作戦会議はそろそろ終了しようか。もう既に作戦でも会議でもないが。
「とにかく、後はテスト中に襲撃が来ないことを祈るだけだな」
こればかりは運によるだろう。借りてきたノートを仲良く見ているミミとファーファを眺めながらつぶやく。
「わたし、お手伝いしますからなんでも言ってくださいっ!」 汚名返上とばかりに、志戸。
えーと、気持ちだけ受け取っておくよ。
「あ、あと……これをお願いできますか?」
白い封筒を手渡された。
宛名には「お隣さんへ」と書かれてある。裏には志戸の名前があった。
「お名前がわからなかったので……」
そういえば、知らないな。訳アリらしいから教えてくれるかなあ。
「秘密を守ってくれてありがとうって思いまして、お礼の手紙を書きました。あの……その……男子トイレには入れないのでご挨拶できなくって……」
ああ、今ここで書いていたのか。
それにしてもお前、白封筒とか便箋とかいつも持っているんだな……。
「あと、ミミも紹介してあげてほしいなって」
ファーファがノートをめくるのを正座して待っていたミミが、気が付いて志戸を見上げた。
「そうだな、明日早速会いにいってくる」
「ミミ、ちゃんとご挨拶するんですよ」
『しょうちしました』
志戸のお姉さん口調に思わず噴き出しそうになってしまった。
※※※
翌日昼休み。もう早飯してから男子トイレに籠もることが気にならなくなってきた。既に毎日のスケジュールのようなものだ。
「よぉ」
「……は、はははぃ」
隣人は相変わらずだなぁ。
「わけアリだから深くは聞かないけどさ、お前体調悪くないか? 大丈夫?」
「……」
「秘密仲間の女子がさ、お腹壊してるなら保健室行った方がいいよって」
「……」
「そいつからお前宛に手紙預かっているんだけど、そっち行っていいか?」
「……ごごご、ごめっん……なっさ……」
やっぱりダメか。
「実は宇宙人、ファーファだけでなく2人いてな。その女子と一緒に居るミミっていうのも連れてきた。挨拶してきなさいって言われてるんだ」
「!!」
「こいつらが行くのは構わんかな?」
「……はは、はぃ……っそっれなら……っだいっっぞうぶ……ごごごめっんなさ……」
両手にミミとファーファを乗せると、「お隣さんへ」と書かれた白封筒を抱えさせてトイレの壁の上に差し上げた。
ひょいと隣に飛び降りる宇宙人2人。
『わたしが、ミミです。はじめまして。おはつに、おめにかかります』
きっとぺこりと頭下げてるんだろうなあ。
「……ははははじ、めま……」
緊張してるな。俺は腰を抜かしたことを思えば立派なもんだ……って、あ。そうか、今まで全部会話を聞かれているしファーファも見てるんだった。
まもなく封筒を開けて読み始めた気配がしてきた。
何度も何度も便せんを捲る音が聞こえる。中身は便せん1、2枚程度だったと思ったが……。
やがて、
「……あああああ……あの……」
その声は、涙を纏っていた。
「ぼぼぼく、は……っううまくっ、さっべ、ささべれまっせ……ん」
※※※
隣人は、自らのことを話し始めた。
「む、むむかしから、おおおおんなみたいだと……いわ言われていま……した」
幼い頃から、姿も声も女だ女だと笑われていたそうだ。
「いいいいつも、いつっも、わらわわ笑われれまし……た」
潤んだ声は震えて、いつしか激しさを伴っていた。
「やややめ、て……言いいました……そ、それもオンナオンナ、っっって、わわ笑わわわ笑われまし……」
同世代の子供たちは、嫌がっても無理やり話しかけてきてはオンナ男だと面白がったそうだ。
返事をしないと声を出さなければ、殴ったり蹴ったりしてきた。
大人たちは、きょとんとした後、困ったような、もの珍しいような表情を浮かべる。
両親は気にするな、大丈夫だ大丈夫だと励ましてくれたらしい。
やがて、心配かけたくないと、相手の様子を伺っては喋らなくても済むよう、事前に先回りするような子供になっていったそうだ。
しかし、女の子のように見えることや反論しないことを弱々しく思われたのだろう、一方的に嫌がらせは続き、そして――
「ぼ、ぼぼぼく……は、ささっべれなくなりりりましたっ」
ある朝突然、声がちゃんと出せなくなったそうだ。
すると残酷なことに、今度は声を出せなくなったことも笑われ始めた――。
小学生の頃から周囲は全てニヤニヤ顔か哀れみの顔だった。
隣人のかわいらしい声は、さらに震え、大きく強くなっていく。
高校に入ったらやり直そうと頑張ったそうだ。中学の連中が殆どいないだろうと。
勉強して、この私立高校に合格した。
入学後は殆ど喋らず、大抵のことはウンとウウン。ポツリと喋り、ニコニコしていた。すると女みたいだと思われても、喋れないことはばれない。
しかし、その懸命の努力は1年生の3学期に無駄だったと知ってしまったそうだ。
「……がががっっこぅ、いいいいきたくないけど、いいいいきたくないけどっ」
涙で震えた声は、ついに苛烈な感情を叩きつけた叫びになった。
「ッッダだッて、おおとうさ、ん、おおおおッかあさ、んにはッ、シし心配かけられないかッらああ! タタたんとッがががッこう行くけど、みみッみんなにい、わッわ笑われれるッからああーーーーーッッ!!!!」
そして、感情の糸が切れたように呟いた。
「ぼぼぼぼくもも……ここっこここ、んな、すすがた、ここここえにに、ななりたくなかっったのに……」
そうか。
だから、トイレに籠もっていたのか。登校したらすぐに。ずっと。
放課後は隣が空いていたことも分かった。
そして、隣人は、
「……ぼぼぼっぼくは、ににっ2年になってかっら、っずずっとここここにいますっ……」
――先輩だった。
※※※
ノートの内容が微妙に違っていたことも、もうノートはいらないということも理由がわかった。隣人は2年生だったのだ。そして、もう授業も受けたくないのだろう。
封筒と便せんを握りしめるような音が聞こえる。
「……き、きみと……し、しどさんと、みミミたん、ハーハたんは……っなかまだって……」
嗚咽が漏れてくる。
「……ぃいいなぁ、なかま……っひひひみつっのなかまかぁ……ぃいなぁ…………ぃいいなぁ…………」
涙に溢れながらも、どこか吹っ切れたように明るい声で誰にともなく。
しばらく何も言えなかった。
「おい、ファーファ、ミミ。ちゃんと伝えろよ」
壁の向こうへ喉に貼りついたような声をかける。
『『しょうちしました』』
思わず俺自身が声をかけたくなったが、これは俺が言うべきではない。
『もし、よろしければ、わたしたちのおてつだいを、してもらえないでしょうか』
『みずから、ひみつをまもってくれている、あなたなら、だいじょうぶです。しかし、たいへんなことです。かってな、おねがいです。ごめんなさい』
そう。
志戸が、あなたたちの事をきちんと伝えてきなさいね、ちゃんと自分でお願いしないと、ですよ!
――と、託していたのだ。
そして、ミミたちの頭を優しく撫でながら、ダメならしかたないんだからね……と穏やかに、諭すように、声をかけていた。
「ぼぼぼくは、たんと……ささべれないし……なな、なにももできないし……」
隣人の声には戸惑いがにじみ出ていた。
なんと返したらよいかわからなかった俺だが、とにかく思ったことを思うまま、話し始めた。
「あの……ちゃんと喋れないのはツライすよね」
「……」
先輩と分かり、丁寧語に少し照れが入って中途半端に
「でも、おま――じゃないな。先輩、頭がいいのにもったいない」
「ででも……ば、ばばバカにされてっる……」
「俺、そっちから見えないでしょうけど身長185センチあるんですよ。なぜかそこそこ筋肉もあってガタイもでかくて」
「……」
突拍子もないとは思ったが、隣人に伝えたくなったのだ。いや、聞いて欲しかったのかもしれない。
「会う奴らすぐに、スポーツやってる? え? スポーツやれよ、お前絶対運動上手いからって言うんです。すごく期待してくれちゃって」
「……」
「先輩、キャッチボールできます?」
「……うん……」
「泳げます?」
「……すすうこしっなら……おお、よげるるるけど……」
「俺、キャッチボールすると簡単なフライ取るのに転けたり、バスケやると突き指したり、バレーボールやったら、足で蹴り飛ばしたりするんです」
嫌な記憶は次々と出てくる。そもそも、走るとドタドタって感じの有様だ。
「クロールしたら、のた打ちまわってるってね、やっぱり大爆笑ですよ」
「……」
「なんかね、思うように身体が動かないんでしょうかね。できないから緊張して余計でしょうかね」
「……き、緊張する……の……」
「面白いらしいですよ。オオウケです。図体でかいのがバタバタヘコヘコしてるのが。で、勝手なもんで、怒るんですよ。いいガタイしていて、なんでそこまで下手なのかって。知らんわ! って感じですよ。これから体育の時間がサッカーになるんで、もう、かったるくて。授業抜けたいんですけどね」
一気にまくし立ててしまった。
俺はこんな苦労している、声がうまく出せなくても大丈夫。というつもりは毛頭ない。俺のやるせない気持ちを分かって欲しいというわけでもない。
ただ、上手く言えないが元気を出して欲しい、という想いだけで必死に話を続けた。口下手はツライことだ。
想いを言葉に託す。俺にはそんな力は無い。
「ま、笑われるのはキツイすけど、サッカーも卒業するまでには走りながらパスできるくらいにはなりたいなーって感じですよ。別に選手になりたいわけでもないから、自分のレベルで無理しないのはそんなもんかって」
個室の中、壁に向かっているからだろう。思わず色々吐き出してしまった。ガラでもない。
「でも、できれば体育はやりたくないですけどね」
頭をかいているのは、隣には見えないだろうけど。
「大丈夫。先輩、ちゃんと話できてますよ。そりゃ、正直言えば聞き取りにくいです」
「……」
「だけど、内容は分かるし普通だし、おかしな事や恐ろしい事を言ってるわけじゃない。色々知識があるのはノート見たら分かったし」
「そそそれは……ほほ本がすすすきだからら……よよ読むっから……っささべらなくていいっから……」
声がおたおたしている。
「歌手でもないし、落語家でもないんだからいいんじゃないですか。それは歌が上手かったり、面白く話ができるヤツがやればいいだけで」
思っていることを相手に伝える。難しいことだ。ちゃんと伝わっているのだろうか。
最後に、昨日の帰宅中にみんなで相談した想いを俺からも伝えた。
「お願いせずとも秘密を守ってくれていた先輩です。しかもいろんなことを知っている。俺も志戸もファーファもミミも、先輩には色々相談に乗ってほしいです。助けてもらいたいと思ってます」
「すいません、自分のことばかりで」
「……っだだだいぞうぶ……いいい言ってくれないと、わわわからなかっった……から……」
戸惑いながらも照れくさそうな声が壁越しに聞こえる。
「きききみも、うう運動できなくても、ほほほかのことや……れば……べべ勉強とっっか……」
「勉強できるなら、テスト準備に苦しんでませんって」
「ぁ……」
そこで黙ってくれるな。分かってはいるけどちょっとクルものがあるから。
そして、隣人は何か気づいた風に、
「……そそそうか……お、おお思っているだけ……つつつ伝えないとわか…………」
そう呟いた。
「……あああありがと、みみみみなさん」
そして、ひときわ大きな声で、俺たちに話しかけてくれたのだ。
「ぼぼぼぼくも、ひひひみつの仲間に……いいい入れてくださいっっ!」
そう力強く。
※※※
『よろこばしいかぎりです。ありがとうございます』
『こんごともよろしくおねがいします』
きっとあいつら、壁の向こうでお辞儀してるんだろうな。
「よーし! これで秘密の仲間ですね、俺は見原礼人、アヤトって呼んでくれていいです。え……と、その、先輩?」
そういえば、名前は知らなかった。
「ああの……なな名前は……。っそそれと、ごごめなっさぃ……まだか顔をみみみせるのは……っゆゆ勇気がでででで出なくてっ……」
本名はまだ伝えたくないらしい。
この壁越しという仮面を通しての方が上手くしゃべれていること。そして、隠したいというよりもまだ本当の姿を見せる自信がないというニュアンスだった。
「ぺぺぺぺペルソナ……ととということで……」
――だそうな。なんだそれは。難しいこと言われてもわからないんだけど。
それにしても、名前が分からないとなると……なんて呼ぼう。隣人とかお前とかはさすがに先輩だし。
悩んでいるとノートをちぎる音が聞こえた。
しばし何かを書く様子の後、
「よよよよろしく……」という声が聞こえた。
ファーファとミミが戻ってくると、二人は志戸の渡した封筒を抱えていた。握り締めたしわくちゃの封筒は丁寧に延ばされている。
宛名が打ち消し線で書き換えられていた。
「お隣さん へ」が「志戸鈴実さん へ」に。
裏返すと「志戸鈴実 より」が打ち消されていて、
「音成 乙呼 より」と書き換えられていた。
「おとなり……おとこ?」
隣人……いや、音成先輩は可憐な声で、ふふっ……と笑った。
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