第3話 球体は喜ぶ

それは、ぶよぶよとした鈍い光を放つ球体に見えた。


「もう…ここでいい……」


荒川正喜あらかわ まさきは、獣道しかない山中で足を止めた。

杉を伐採したところどころ禿山の状態が気になったが、奥深く山中に足を踏み入れてしまえば、あたりは鬱蒼とした雑木林が茂っていた。


山林の手入れがされていないのだろう、木に蔦が絡まり、中にはその蔦からぶら下がった、あけびが口を開いていた。


正喜は幼い頃この町で育ち、高校卒業後、夢を胸に抱き上京した。

東京で芸能専門学校を卒業後いくつかの端役を貰い、俳優デビューした後、人気漫画を原作とした映画の主人公に抜擢された。


これからだ、これから俳優としてのスポットが当たる、今までの努力が報われる。


そう思っていたが現実は甘くは無かった。

人気女優の降板から映画の興行成績は想定を下回り、改悪した脚本の影響と原作のキャラと自分の演技が一致しなかったのか、原作ファンから強烈なバッシングを受けた。


極めつけはここで生きていくと決め借金をしてまで購入した持ち家に放火され、正喜はネット上でありもしない中傷誹謗と演技に対する細かい誹謗を受けつづけた。


放火犯は捕まらなかった。


炎上商法ならましだが、制作舞台まで怨恨で物理的に燃やされては堪らないと、続編では主役を外された。

端役すら貰えなくなった。


故郷に帰っても、実家には戻れなかった。

兄弟が既に家を継ぎ子供と共に母と同居していることも知っている。


弟夫婦の幸せそうな家庭を電話越しで聞くたび、正喜は思う事がある。


何故、結婚する必要があるのか。

何故、子供を作る必要があるのか

何故、人を愛する必要があるのか。


夢が打ち砕けてしまったときに思い知った。

他人を愛せない。自分も愛せない。自分には何も残っていない。


お前の演技には深みがないと監督から言われた事もあった。

人間を愛したことがない愛の演技はハリボテだ。


愛するという事な何なのか、正喜には理解出来ないままだった。

ファンは少なからずいたが、あのバッシング以来すべてが敵に思えた。

以前から自宅まで押しかけてくるファンなど、初対面でいきなり婚姻届に判を押させようとする人間だ。戦慄以外の感覚はなかった。


本当のファンなど居たのだろうか。

本当に自分を愛する人が居たのだろうか。


何よりも、度重なる中傷誹謗、帰る家もない、借金を返すあてもない正喜はもうどこに向かえば良いか分からなかった。


高校生の頃、親と喧嘩し家出をした時は、庇護してくれた祖母がいた。

五年前にもう亡くなっている。

そして、祖母の家は税金の問題と言う理由で、相続した母が取り壊し、祖母のいた町に土地を寄付した。

祖母の死に際には立ち会えなかった事を後悔していたため、父の死に際にはさすがに立ち会った。


間際の父親の言葉を思い出す。


自分で死ぬなら誰にも迷惑をかけるな。


列車に飛び込めば、電車を止めただけ家族が賠償金を支払う。

人を巻き添えにして死ねば、加害者の家族だと賠償金を支払う。

ビルから飛び降りれば、風評被害が起きる。

首をつれば、糞尿を垂れ流す。


だから自分で死ぬ位なら、動ける限り限界まで働け、と、父なりの天邪鬼な何をしてでも長生きしろと言う言葉だったのだろうが、今の正喜にはそのままの文言で受け止めるしか出来なかった。


ひときわ太い幹の木を触る。突き出た枝を握ろうとしたが手が届かない。

傍に大きいな岩がある、岩の上に立つと、枝に手が届いた。


「……もうここで良い、糞尿位は許してくれ。」


正喜は、鞄に入れていたロープを取り出そうとして座り込むと、目の前に小さな社がある事に気が付いた。


神様を祭る社だ。

昔、水神様を祀る社が、家の近所にあった事を思い出す。

それに似ているが、ずいぶんさびれている。


山奥だ、誰も来ない土地だと思ったが、社があるという事は、誰かが参拝するのかもしれない。こんな獣道でも、人工物があるという事はそういう事だ。

もっと山奥に足を踏み入れなければとロープを仕舞っていると、突然ズドンと地鳴りが響いた。


ぱらぱらと枝や落ち葉が落ちてくる。


地震か山鳴りかと正喜はとっさに岩にしがみつき、そして、我に返り自嘲する。

ついさっき自ら命を断とうとした癖に生にしがみついている自分に気が付いたからだ。


地鳴りは数秒で終わった。

先ほどと違うのは、社に差し込んでいた日の光が一切届かなくなったことだ。


何か太陽の光を遮る物があるのだろうかと、見上げる。


「なんだ…これ」


鬱蒼と茂っていた枝を書き分けるように、真っ黒い丸い球体が、挟まっている。

正喜は社の前まで歩き、それを見上げる。


球体は水風船のような物なのか、黒い雫がぽたぽたと落ち始めていた。

水ではない、コールタールのような物だ。粘り気のある何かが、木を伝ってじわじわと地面に落ちている。


正喜が球体から距離を置こうとした、その時だった。


球体から垂れ下がっていた粘り気のある液体が正喜めがけて伸びはじめた。

うねうねと迫る液体を見て、本能的に正喜は逃げ出そうとしたが、足場の悪い山中、木の根を踏み越えきれず転げた。

迫る液体の方が早く、正喜の体をくるんで引き戻し、そして、球体に正喜を飲み込んだ。


どぷんと音を立てて、水泡が球体の内側を泡立てたが、それもすぐに消えた。


三人を飲み込んだ球体だった物には無数の触手のような物が表面で蠢いている。

触手が社の方へと伸びる。

社の屋根を二度、叩くように触れると、社の古めかしい木の扉が、ゆっくりと開いた。


社の中から白い女の手が伸びた。


優美な手つきで女の手は触手を撫で、そして腕を球体に伸ばす。

どこまでも手は伸びて、高い枝に挟まっている球体に届いた。

壊れ物のように球体を撫で、果実をもぐように球体を枝から引き離し、社の前に球体をゆっくりと置いた。

弾力があるのか球体は少し跳ねた。

そして、自分でもう一度跳ねたように見えた。

まるで喜びを表現しているかのように。


女の白い手が、球体を抱きしめると一瞬まばゆい光が散った。

次の瞬間には社の扉は閉まり、元の寂れた社に戻っていた。


黒い球体も、白い女の手などはじめからなかったかのように。


社の前には正喜のバッグだけが残されていた。



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