夢中にならないで

だめこ

全編

 隣の席の人間ほど、特殊な距離感の人間はいない。

 同性であればそこから発展する友人関係もあるだろうが、異性となればまた違う。

 友達というほど仲良くもないし、かといって知人と割り切れるほど他人でもない。

 恋をするにもあまりに微妙すぎてどうしようもないというのが本音だ。


 私、長田めぐみはそんな状態にあった。


 ─────────


 弊社は昨冬、なんらかの都合で─どういう都合なのかは、平社員である私には詳しく知らされなかったが─オフィスを引っ越すことになった。

 いままでよりも高層のビルで、しかも日当たりも良いというのだから、これはむしろランクアップといってもいいだろう。

 オフィスチェンジに伴って、席のレイアウトも変更することになったわけで、席順も変わるということである。

 当時ひとつ上ながら同期であり、それでいて特別会話もない、そんな存在の人物…東さんと隣席になったのはそこからだった。


 本名、東均(あずま ひとし)。姓名ともに1文字という特徴的な名前だったからか、名前を覚えるのは早かった。

 特別仕事が早いということもなく、かといって不良社員というほど遊んでいるわけでもない東さんが既婚者だと知ったのは、席替えから数ヶ月たった頃のことだった。


「…東さんって、そういえばお弁当なんですね」


 花の20代OLと巷では揶揄されるであろう私の昼食はいつもコンビニ弁当ばかりだ。

 仕方あるまい、母も驚くほどの包丁音痴である私にとって「弁当を作る」というのは「マッターホルンに登る」と同じくらい難易度が高いことになる。

 それゆえ、毎日彩り良い弁当を持参する彼の調理スキルはどうしても気になった。


「いえ、これは妻の手作りで」


「妻!?」


「…なにか」


「い、いや、別に、その、ちょっとびっくりしたというか」


 ちょっと、というにはあまりも大げさな驚きようだったが、気にしてはいなかったようでほっとした

 東さんの手をちらりと見やるが、どこにも指輪はない。

 私の目線に気づいたのだろう、左手をひらひらさせながら彼は笑って答えてくれた


「指輪があると、キーボードに当たるでしょう、私はあれが嫌なんですよ」


 だから、ほら、と首元からチェーンに通したエンゲージリングを見せてくれた。

 そんな人もいるんだな、と妙に関心したのを覚えている。私の友人の陽子とか蓮実とかは、某時代劇の印籠みたいに見せびらかしてくるのに。


「長田さんと話したのは、初めての気がしますね」


 そこから、彼と時々話すようになった。

 といっても、大した話をするわけじゃない。明日の天気がどうとか、晩御飯のメニューがどうとか、飼っている熱帯魚がどうとか(驚くことに、彼も私も熱帯魚飼育者だった)、そんなことばかりだ。そんな微妙に微妙を重ねたような状態が1年ほど続いていた。


 ─────────


 その日はめずらしく、東さんはお弁当ではなく、スーパーのサンドイッチだった。

 まぁ、そんなこともあるだろうと特別気には留めないつもりだったのだが、つい気になってしまった。


「…お弁当じゃないんですね」


 東さんは、ええ、まぁ、はい、となんとなく歯切れの悪い返事をするだけだった。

 まぁ、奥さんだって人間だ。弁当サボる日くらいあるだろうな、と私は勝手に納得した。

 ご家庭の都合に踏み込むのはご法度、それは私が自分に課した社会で生きていくルールのひとつだった。


 過去に何かしら揉め事があったとか、そういうわけじゃないが、そういうパターンはいくつも知っている。

 結果論として浮気だなんだということになったり、深入りしすぎて仕事を辞めざるを得なくなったり、なんともズブズブドロドロとしたものは友人知人周囲の人間でいくつも観察してきた。

 ゆえに、「恋をするなら本気でする」「本気でないなら好きにならない」と自分にきめ、この社会の荒波を生きてきたのである。


 だから、東さんから発される何か聞いてほしいオーラも、あえてスルーすることに決めたのだった。

 そうでなくても、ここのところ東さんは元気がない。覇気がない、という方が正しいだろうか。

 仕事はいつもどおりにこなしているため、そこまで影響があるというわけではないのかもしれないが、それでも隣の席の私は、なんとなくだがその雰囲気を感じ取らずにはいられないのだった。


 そんな調子が2~3日続けば、私はいよいよ耐えきれなくなるのだった。

 深入りしないと心にきめてはいるが、それはそれであり、なんせ私の仕事の能率が下がりそうなのだから対応せざるを得ない。

 そう、いうなれば自分のためである。


「あの…何かあったんですか、東さん」


 なるべく画面から目を離さず、あくまでも自然に、かつさりげなく聞く必要がある。

 そう、深入りしてはいけないからだ。


 ─────────


 東さんのことが気にならないといえば嘘になる。

 もちろん、それは男性として、ということだ。


 決して歌舞伎町のホストと見紛うほどにイケメンというわけでもないし、イギリスのキングスマンもかくやというほど紳士というわけでもない。

 ただ、この一年ちょっとの中で最も会話を含め話をする機会が多かったのが彼だったということからくる、いわば「結果論」だ。


 席が隣ということは、社内でのプロジェクト振り分けやチーム分けも一緒ということになる。

 ということは、打ち上げだの、ミーティングだの、打ち合わせの連絡だの、そういうことを一緒にする機会も多くなる。

 私的なLINEを送ったことがないわけではないが、相手は既婚者、私みたいな表示名が「めぐ」となっている人から会社連絡以外のLINEが届けば、よけいな火種になることは流石にわかる。

 それゆえに、「あくまで仕事上の関係」を頑なに貫いてきた。


 過去に「めぐってどんな人がタイプなの?」と聞かれたことがある。その時なんて答えたか、もうすっかり忘れてしまったけれど。

 今考えてみると、過去に好きになった人に共通点は特別思い浮かばない。

 高校生の頃は、私がマネージャー、相手が選手という典型的な部活恋愛だったし、大学生の頃はサークルの先輩だったりバイトの後輩だったりというありきたりな形のものばかりだ。


 だから多分、好きになった人がタイプというやつだろう。

 そういうことを言うと友人たちに「恋に恋する乙女ってやつ?」と揶揄されるからあまり言いたくないのだが、こうなってしまうと否定もできない。


 だが、今回は別だ。

 相手には愛する人がいて、家庭がある。私がそこまで踏み込んでないだけで、もしかしたら子供がいる可能性だってある。

 好きになったらマズい恋だからこそ、私は自分に言い聞かせるように線引きをしてきた。


 それでも心のどこかで「いいじゃん別に」とささやく自分がいた。好きになっちゃったんだからしょうがないよ、というのは、10歳年上の彼氏と駆け落ち同然に引っ越していった、大学の友人の言葉だ。

 なんでも起業するとかなんとか、そんなひたむきな姿勢に惹かれたとか、いろいろ理由を並べて説明してくれたが、結局のところ「好きだから」という理由が全てだったんだろうな、というのは、彼女の話し方からなんとなく察することができた。

 私も結局彼女と同じで、「好きになっちゃったんだからしょうがないよ」と言い切って、そのとおりに行動できればよかったのかもしれないけれど、世間体とか、相手の迷惑とか、そういうことを考えるとどうしても踏み切れない部分があった。


 だから、どちらかといえば「わかっていても煮え切らない」という、中途半端な態度と思われても仕方ない状況だった。


 ─────────


 それだけに、東さんが「いえ、なんでもないんです」と言ったときには、拍子抜けというか、怒りにも近い感情があった。

 ほんとうに?そんなに落ち込んだ雰囲気を出しておいて?


「そんなはずないですよ、だっていつもの東さんは…」


 そこまで言って、私は口をつぐんだ。いつもの東さん、を私はどれだけ知っているんだろう。

 ただ隣で時々会話するだけのことを「知っている」なんていうのはおこがましいじゃないのか?それは、相手のうわべしか見ていないということになるんじゃないのか?

 そう考えたら、いつもの東さんは、なんて軽々しく言えなくなってしまった。


 微妙な沈黙が流れる。なんとなく、東さんの顔を見ることができない。めちゃくちゃに歯切れの悪い、フォローにもなりきらないボールを投げただけの状況。やっちゃったなぁ、と思うけど、時すでになんとやら、だ。


「長田さん」


「ふぉ!」


 思わず変な声が出てしまった。なぜか気をつけの姿勢をして、私は東さんの方に向き直る。


「今夜、ちょっと時間ありますか?」


「こ、今夜ですか。まぁ、ええと、はい、まぁ」


 独身OLに大した用事などない。あるとすれば熱帯魚の餌やりとドラマ鑑賞くらいだ。前者はたいした用事になる可能性もあるけれど、昨日やったばかりだから今はその範疇に入らない。


「…ちょっと、お付き合い願えますか。」


 え?と思った。いや、今夜?私の考える東さんのイメージ的には明日以降で、とか聞きそうな感じがするけど、っていうか既婚者なわけで、私と一緒にご飯にいったらいろいろ怪しまれるのでは、というか、なんで私?もうちょっと人選はいろいろあるんじゃないの?

 数秒の間に、様々な考えが新幹線のように頭に浮かんでは駆け抜けていく。もはや半ばパニック状態だった。


 それなのに、自分でも不思議に思うより他ないのだけど、私は「わかりました」と答えていた。


 ─────────


 行き先がファミレスで、なんとなく安心したような、むしろがっかりしたような気持ちだった。

 これがどこかの高層レストランだったらプロレスラーばりに構えてしまうところだし、居酒屋だったらむこうずねを蹴っ飛ばして帰るところだった。

 いや、そういう意味ではぴったりなのかもしれない。

 ぱたん、とメニューを閉じ、東さんが呼び出しボタンを押す。


「オムライスひとつ」


「あ、え、あ、私も」


「オムライスふたつで」


 かしこまりましたー、と店員さんが頭をさげて戻っていく。

 水滴の浮いたコップをながめ、なんとか話題を絞り出そうと必死に考えるが、どうしても「なんで?」以外のことが浮かんでこない。

 当然といえば当然なのだが、それを自分から聞くのもなんだか野暮な気がしてならない。


「すみませんね、急に誘ってしまって」


 向かいに座った東さんが口を開く。私的には、いつもの東さんに見える。


「あ、いえ、全然だいじょうぶです。帰ってもネトフリとか見てるだけですし」


「何見るんですか?」


「友達が、『時代はあえての韓流!』っていうから、そういうのを…」


 とりとめのない会話が続く。それでも、胸の奥に、まるで小骨のように「なんで私とご飯を?」という質問が引っかかる。

 いっそ聞いてしまったほうが楽なんじゃないか、そうしないと、なんとなく有耶無耶に終わってしまうんじゃないか。そんなモヤモヤが胸の中に広がる。


「あ、あの!」


 ネトフリオリジナルが今意外に熱い、というのを熱弁する東さんの話を、まるで小学生が質問するかのように挙手して遮る。

 耳まで真っ赤になってるんじゃないかってくらい、なぜだか緊張する。


「その…なんでですか?」


 我ながら、主語も述語もない質問でアホらしいと思う。


「なんで、というのは?」


「一緒にご飯食べに行こうって…や、ほら!東さんご結婚されてるじゃないですか!だからほら、私とご飯たべにいっていいのかなーみたいな」


 ああ、と東さんが合点がいった顔をし、顎をなでる。顎を撫でるときは、どういったらいいか考えている時の仕草。

 うーん、とか、どうしたもんか、とか、ぶつぶついう彼の顔をじっと見つめて、私は次の言葉を待った。


「結論からいうと、私と一日だけ、夫婦になりませんか?」


「…は?」


 ─────────


 東さんのお嫁さんは、高校生の頃の同級生だという。

 高校を卒業し、お互いに違う大学と専門学校に進み、その間も連絡を取り合ったり一緒に遊びにいったりとしていたらしい。

 なにより、学校は違ったものの、いわゆる「近隣」で、お互いのアパートは2駅ほどしか離れていなかったそうだ。


 そうして、時期はずれるもののお互いに卒業し、就職し、いい加減結婚しようか、という具合で入籍して、と進んだとのことだ。

 まるでエスカレーターのようだな、と話を聞きながらぼんやり私は思った。


「…順風満帆じゃないんですか?」


「だった、という感じですね」


 同棲生活から入籍…挙式については聞かなかったからわからないけど、その後少し広いマンションに引っ越し、その頃に今の会社に転職したのだという。

 子供に関してはお互い特に考えていなかったそうで、ふたりとも働きに出ていたそうだ。

 だから暮らしに関しては特別困ることもなく、どちらかといえば裕福な方だった、という。


「でも、それだけだったんです」


 朝起きて、彼女はお弁当を詰め、彼は先に仕事に出て、彼が先に帰ってきて、彼女があとに帰ってくる。

 それを毎日繰り返して、彼はそれなりに幸せだったらしい。

 ただ、彼女は同じように思っていなかった、ということだそうだ。


『あなたは一度、私以外と暮らしたほうがいいかもね』


 彼女はそういって、しばらく離れるわ、と出ていったそうだ。

 別に離婚届を書いたわけでもないし、大喧嘩をしたわけでもない。ただしばらく別居、ということだそうで、お互いに合意の上だという。

 それはわかるけど…


「だからって…いや、それ以前に、なんで私なんですか?」


 そう、そこが謎だ。社内には私より綺麗どころは大勢いるし、部署内だけでも幾人か思い当たる。

 性格面を含めても人選にはだいぶ疑問が残るのが本音だ。奥さんがどんな人かしらないが、少なくとも私が代理人の座には至るまい。


「長田さん以外に頼めそうにないからですよ。というか、社内に私、長田さん以外の女性の知り合い、いませんからね」


 確かに、思い返してみればあまり女性と話している姿は思い出せない。

 というか、他人と喋っている姿があったかどうかが定かではない、という感じだ。社内ではいつも、一人もくもくと仕事をしている、という

 姿が思い浮かぶ。


「はぁ…」


 なるほど、人選の対象が、選択肢上そもそも私しかいなかった、ということはわかるが、それにしてもこんなこと頼むか?と思わざるを得ない。

 でも、それ以上に私としては、まんざらでもないか、という気持ちがあった。想い人と言い切れるかは微妙だが、気になる人に、一緒にいたいと言われて悪い気はしないからだ。


「いいですよ、一日だけ、夫婦になりましょう」


 それに、私もなんとなく、結婚生活というものに興味というか、憧れがあった。周りはどんどん結婚していくし、その話を聞いていると、どんな感じなのかな、という感覚は多少なりとも浮かぶものだ。

 浮気になるんじゃないのか、という正論は、この際見てみぬふりをすることに決めた。


 私は一旦家に帰って、簡単に旅行セットをつめて─明日も仕事だから、スーツがあればとりあえずなんとかなる─彼の家に向かったのだった


 ─────────


 さすがに抱かれることはなかったものの、なんとも寝苦しい夜をすごすことになった。

 よく考えてみれば相手は既婚者で、子供がいないとなれば、当然家にあるのはダブルベッドになる。


 誰かと同じベッドで一夜を過ごした経験がないわけではないが、状況が状況だけによく寝れなかったのは事実だ。

 おかげさまで寝覚めはあまり良くない。もっとも、普段からそう寝覚めが良いほうではないけれど。


「お、はよう…ございます…」


「おはようございます」


 東さんは先に起きていて、てきぱきと朝食を作っていた。

 食べながら話を聞いてみると、朝は東さん、夜はお弁当を詰めつつ奥さんが作っていたという。

 なので、先に断らせてもらっておいた。


「あの、私料理は壊滅的なので…夜と昼はちょっと…」


「まぁ、お惣菜でも買って帰りましょう」


 私の壊滅的調理エピソードは、かなり他人に話すには忍びない内容ばかりだ。東さんがあまりそこのところを根掘り葉掘り行くタイプじゃなくて、心底ほっとした。


 周りに勘ぐられても嫌なので、若干タイミングをずらして出社し、同様に若干タイミングをずらして退社。

 帰ったからといって何があるわけでもなく─私も彼も、帰ったら延々テレビがお友達タイプだった─そのまま約束の一日が過ぎていった。


 ただ、私も彼も、なんとなく…そう、なんとなく「一日経ちましたよ」と言いそびれ、そのまま二人で、寝苦しいキングサイズのベッドに潜り込んだ。


 そのまま2日目が過ぎ、3日目が過ぎ、週末まで経ってしまった。

 下着はそのへんでも調達できたが、さすがに週末までなってしまうと私服がなくて困ってしまう。

 奥さんのを貸してくれるといったが、それは流石に忍びない。もろもろ取りに戻ろうと、私は電車に乗った。


 ──取りに戻ろう?


 戻るもなにも、最初から一日だけって話のはずだった。それなのに、彼がなんとも言わないから、ここまでずるずると引っ張ってしまった

 いや、それは言い訳だ。誰かと過ごすことが居心地がよくて、しかもそれが気になる相手だったから、何も言わないのをいいことにここまで引っ張ってしまったのだ。


 あれほど深入りしてはいけないって、自分で言ってたのにこのザマ。自分でも笑ってしまう。

 やっぱり、こんなことダメだ。これ以上深入りしたら、ほんとになぁなぁのまま、ズブズブになってしまうから。


 ─────────


「っていうわけで、やっぱり私、そのまま帰りますね。カバン置いてきちゃったんで、週明けの出社のときに持ってきてくれますか?」


「は…?」


 アパートの最寄り駅で降りて、そのまま東さんに電話を入れた。

 顔は見えないが、電話の向こうで東さんは泡を食ったような顔をしているんだろうな、と想像はつく。


「もともと一日だけって話だったじゃないですか。いや、言わなかった私も悪いんですけど、一週間たっちゃうんで、いい機会だし、終わりにしましょう」


 不思議なほど、自分の声はけろりとしていた。ああ、こんなもんかぁ、と私は私自身の気持ちを推し量る。

 そして、意外にも東さんは食い下がってきた。


「いや…でも、結構うまくいってたじゃないですか」


「ですねぇ。私、東さんとの生活楽しかったですよ?」


「それなら…」


「だからですって。これ以上なあなあにできないですよ。だいいち東さんご結婚されてるじゃないですか」


 そうだ、相手は既婚者で、どういう事情があるにせよ、周りからみたらこれは『浮気』になる。

 私は後ろめたい気持ち山々、といった感じだったけれども、どうも東さんはそうは思ってないようだった。

 いろいろと苦しい理由を述べていたけど、想像以上に冷めてしまった私にはあいにく立て板に水、という感じだった。


「ともかく、私はこのまま帰りますんで、カバン!おねがいしますね」


 ぷつ、と画面上の赤いボタンを押す。車止めのポールに座り込み、ふぅっと大きく息を吐く。

 私以上に、彼のほうがのめり込んでいたみたいだった。無理もない、奥さんと私は正反対の人間のように思えたからこそ、彼にとっては刺激的だったのだろう。

 今まで暮らしたことのない人との生活は、彼にとって新しいことの連続で、そういえば彼の笑顔をたくさん見たような気がする。


 それでも一度として手を出されなかったのは、幸いなのかどうなのか。いや、出されてたらこれで済まなかったかもしれない。むしろ、出されなかったからこそこの程度で終わったというか。


 とにかく帰ろう。いくつかのドラマは見逃したから、その録画消化もしたい。

 熱帯魚の水槽も気になるところだ。5日程度なら大丈夫だと思いたいが、果たしてどうだろう。


 嫌になるほど晴天の冬空を眺めながら、彼に言いそびれた言葉を思い出す。


「夢中にならないでください、か」


 どちらの方が夢中になっていたのか、私はあえて気にしないことにした。

 気にしたら、余計に『夢中になって』しまうからだ。


 <了>

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