ヒント
その晩、久美子は愛読書『アイアンナックル』は一ページも開かず、大量に購入したラノベを読み耽った。
(思った通りだ)
彼女の予想通り、どのタイトルの書籍にも、最初に物語の導き手(この世界では『主人公』とか『俺』とか言うらしい)が、どのようにして異世界に旅立ったか描かれている。
『地震』『飛行機事故』(飛行機……?鋼鉄の鷲の事か)『朝。眼が覚めたら……』『暗い穴に嵌まって落ちたら……』『バスでの事故』『交通事故』『トラックに跳ねられたら』『過労死』……
何かのアクシデントや衝撃がきっかけで『異世界』に送られる。そういう描写が殆どだった。更に読み進めると描かれている異世界は、久美子がエノクとして君臨していた世界とほとんど一緒だった。
『剣と魔法』『エルフの美少女』『ドラゴン』『ドワーフ』……アタシのいた世界と同じじゃないか。これ、『異世界に送られる=元の世界に戻れる』って事だわさ!
久美子は興奮し、ラノベを読み続けた。悪魔の登場シーンやエルフの女奴隷、ドワーフの剣闘士の決闘のシーンでは懐かしさで眼に涙が浮かんだ。
そして、怒りに震える描写も。この世界から異世界に送られた人間どもは、その際に強力な技能を授かったり、特殊なスキルを身につけることが出来るらしい。その能力で悪魔の支配を揺るがせ、上級悪魔を軽々と打ち倒すのだ。あの『神の使い』と言われる神獣ドラゴンですらも一撃で……能力名はすぐに分かった。どの書籍にも記載があったからだ。
『チート』
……この忌まわしき能力が、我が下僕の悪魔軍を滅ぼし、最強魔法テスラを跳ね返し、エノクを久美子に変え、この世界に送還したのだ。
(許さねぇ。タカシ……お前は絶対に死ね……憐れなオークのように命乞いをして泣き喚きながら死ね)
久美子は呪詛した。怒りの余り、手に持っていた発泡酒の缶を握りつぶした。
(……!?)
その時、握られた掌に懐かしい感覚が走る。それに連動するように体の芯にも青白い小さな炎が灯る感覚がした。
(マナだ……マナが復活し始めている……?)
魔法を発動させたり、忌まわしき生物を召喚したり、高度な呪文を詠唱する際に必要となる精神的な
小さな小さな……喫煙する際に使う100円ライターのような小さな炎の如きマナの煌めき。……久美子は、眼を閉じ静かに心を集中させながら、その火が消えないように念じた。
やがて、マナは安定して久美子の身体の中で燃え続けた。自分がエノクだったころでは信じられない位、小さなマナ。しかし久美子にとってはそれがひどく懐かしく嬉しい出来事だった。
彼女は考えた。(この世界から異世界……アタシが前にいた世界……これはもう間違いない……に送られた人間どもは、その際に皆が皆、『チート』という能力を獲得する。間違いなくタカシもそうだったんだ。そうでなきゃ、あんな無能そうなガキが上位魔法なんて操れるわけない。……だから当然アタシも、この世界から異世界に戻る際に『チート』の能力を獲得するだろう……アタシには下地がある。上級悪魔としての高い魔力が! 『チート』プラス『悪魔の魔力』イコール『絶対無敵の力』だ! そうだ!邪魔する奴らもタカシなんかも指先ひとつでダウンさ!)
久美子は一冊のラノベを手に取った。
(異世界に戻るには、アクシデント……きっかけが必要だ。一番多いのは交通事故……更には、トラックとかダンプと言われる、荒くれ者の御者が操る『鋼鉄の運搬牛」にぶつかるのが一番可能性が高そうだ。)
冷蔵庫から、新しい発泡酒を取り出すと口を付ける。腫れあがった頬と切れた口中に冷たい液体が酷く沁みる。ただ、今ではその痛みすら快感だった。
(あぁ痛い……でもこの痛みが生きている証拠だ……帰れる……帰れる)
(なるべく高速でトラックにぶつかるのが良いみたいだな。こちらも鉄の馬を使った方が良い。あとは……マナが復活した……どこまで回復するか分からない……送還魔法の呪文も思い出せない……でもこの二つを組み合わせれば……)
彼女は汚い畳の六畳間で一人、凄絶な笑みを浮かべた。
(アタシはきっと戻れる。震えて待て。タカシさんよぉ)
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