カラオケスナック『なかよし』
送還魔法で跳ばされた先の異世界でのエノクの名前は、榎本久美子と言う名前になっていた。跳ばされた先の世界の人間に憑依したのか、自動的にその世界に嵌め込まれたのかは分からない。……ただ、この世界の仕組みや知識は最初から記憶として組み込まれていて、異世界での生活に困る事は無かった。
……ただ、自分が堕天使アゼザル様に仕える上級女悪魔エノクであることや、タカシとの戦いに敗れて異世界に跳ばされた記憶ははっきり残っていた。
……なによりもショックだったのが、美しい粟色の髪の毛と抜けるような白い肌を持ち、どんな男だろうが女性だろうが、その心を惑わす幻惑的な美貌が完全に失われていた事だった。
……そして、あの強力な魔力も魔法スキルも完全に失われていた。ただの醜い中年女。それが今のエノクだった。
彼女は、雑居ビルにある自分の勤務先であるバーに向かう前に、ゴミ溜めみたいな小汚い木造アパートで、出勤前のメイクをする為に鏡を覗き込んだ。
骸骨にビー玉をはめ込んだような、シワシワで痩せこけた肌のたるんだ中年女が自分を見返してくる。
自分だった。
(なんの呪いか……)彼女の心にどす黒い怒りが黒い炎となって燃え上がる。鏡の中の醜い中年女性が、怒りで顔を歪ませ白目が充血するのが分かった。
(落ち着け)
彼女は自制した。歯を食いしばる。
(タカシ……てめぇを絶対にぶち殺してやる)
彼に対する憎悪を胸に抱きつつ、ごってりとした厚化粧を施す。仕上げに悪趣味な真っ赤な口紅を引くと、馴染ませるために唇を動かし、最後に口を開けてみた。
悪魔だった頃は、口の中は綺麗なピンク色で貝殻のような白い歯が美しく並んでいた。
今は、赤黒くただれた少し腫れた汚い色の歯茎に、真っ黄色に変色した乱杭歯が並んでいる。
「フン」
久美子は自虐的な溜息を一つ付くと、鏡台に置いてあった煙草を一本引き抜き火をつけると胸いっぱいに煙を吸い込み
「ンフー」
鼻から煙を出した。気分爽快。前の世界には『煙草』なるものは存在しなかった。バーの同僚のホステスに「気分転換になる」と勧められてから手放せなくなってしまった。
壁に掛けてある時計に目をやると家を出る時間が迫っている。久美子は灰皿に煙草を押し付けると、ビニール製の安物のハンドバックを手に取りアパートを出た。
彼女が勤務しているバーは、繁華街の外れにある薄汚い路地の奥の雑居ビルの地下だった。名前は『カラオケスナック なかよし』というセンスの欠片もない酷いモノだった。
久美子は薄汚れた電飾掲示の看板を見つめる。『よ』の部分の固定が外れて半回転したまま放置されていて、『み』としか読めなかった。
『カラオケスナック なかみし』……冗談じゃない。マスターさっさと直せ。
合板の安物の扉を開けて中に入る。ボーイが愛想よく声を掛ける。
「あ、久美ちゃんおはようございます」彼はなかなかのイケメンだ。前の世界だったら『従徒』にしてやっても良い位の顔立ちだ。……だがこの世界でのエリク、いや久美子には、彼を惑わす美貌も魅力も魔力も無い。高嶺の花だった。
「あぁ田中くんおはよ」久美子は精一杯の笑顔を見せる。
「給料日明けの月末ですから、忙しくなりますね。久美ちゃんお願いします」
ボーイの田中は愛想よく答える。
「分かってるって」語尾にハートマークを付けんばかりの勢いで久美子は笑顔で答えた。
かつての居城、ヴォルキルハル城とは比べようも無い、狭く汚い『なかみし』。
思わず久美子は、城の壮麗さを思い出しそうになった。
(ダメだ。思い出したら怒りがこみあげてくる。今は忘れろ。思い出したらこれから接客する下卑た『リーマン族』の相手なんて出来っこない)
「おーい、もう営業してるかぁ?」入り口で声がする。
「はい!大丈夫ですよ!いらっしゃませ!何名様ですか?」田中くんが答える。
「二名だ」
「かしこまりました。奥にご案内しまーす! りんなちゃん、久美ちゃんお客様はいりまーす!」
「はぁい」久美子は作り声で答えると、奥のソファ席に向かった。
新しい戦場だ。前の世界とは比べようもないが。
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